言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2007/8/28
サ・左
19・8・28
昨夜は、一晩中、言葉の世界のエネルギーが掛かって来て、殆ど熟睡出来なかった。
明け方に成って、漸くまどろみ掛けると、三つの世界に、二項目ずつ、大事な事が書いて有る短い文章が、横書きで現れた。
そして、其の真ん中に有った、二項目を切り取って、一番下に貼り付ける作業が行なわれ、中央に有った項目は、後廻しに成ったのである。
そして、片仮名の「サ」の文字が一字だけ現れた。
今朝のメッセージで、私に理解出来る事は、中央が「ス」で「スメミマ(素目美身・すめらのみこと)」を意味し、上が左大臣の「サ」で、下が右大臣の「ウ」ではないかと言う事である。
其れは、先ず「スメミマ」を後に下げて、左大臣の行為から、開始せよとの事ではないだろうか。
其れは、「ス・主・天の御中主」の働きを殿・しんがりとして後に下げ、先ず、智慧の働きの役割である「サテ・左手」を、トップに上げろとの事だろう。
そして、新しい未来社会創造の企画書が出来上がれば、「ウテ・右手」の活動に移り、其の後、殿・しんがりである「ス・主」が中央に立つと言う事である。
聖書にも、「神の 右に座す者が現れたら 其れが始まる。」と有る。
其の神とは、「ス・主」の働きで、神の右に座す者とは、人間世界から見れば、神の左側に座し、此方を向いている者の事だから、其の働きは右大臣の戦いの役割ではなく、左大臣の智慧の働きである事に成る。
そうであれば、先ず、左手の役割を、トップに持って来て、大事な事柄を、項目的に表せとの事ではないだろうか。
今日は、皆既月食が有る。
皆既月食は、太陽・地球・月が一直線に並ぶ日である。
今日は、屋久島も快晴なので、其の月食が見られるだろう。
今日は、一湊の白川山の「やまびこ館」で、山尾三省の七回忌の催しが有るので、泊り込みの宴会に成る。
だから、今夜は、白川山での月見と成る。
山尾三省は、詩人だから、どちらかと言えば、左大臣側の働きをした事に成るであろう。
私は、昨日午後から、世界自然遺産地域である西部林道に出掛け、二つの滝の写真撮影を行い、其の滝壺で泳いできた。
其れが、禊ぎの儀式の代わりに成って、昨夜は、言葉に関して働いている霊魂が、沢山集まって来て、私の意識の中で、動き回ったのではないだろうか。
昨日は、旧暦の7月15日で、本来のお盆の精霊流しの日である。
其の精霊達が、行き先の「先島・ニライカナイ」に帰らずに、屋久島に集まって来ての、現象だったのではないだろうか。
一昨日は、和歌山に住む「井畑さん」の文章を、改めて出雲の安部忠宏氏にFAXして貰い、読んで見ると、8月に入って、夢に鳥が出たり、右足が現れたりし、昼間起きて居ても、お坊さんの姿が見えたりもするとの事である。
其の内容は、私への是までのメッセージが、纏めて締められ、伝えられている様に、見受けられるものである。
どうやら、私に告げられて来た「其れは 末端からはじまる」のメッセージが、現実的に成って来そうな気がする。
今日は、静岡県袋井市に有る野草社の「石垣雅設氏」も、三省忌に参加するであろう。
石垣雅設氏とは、マヤ暦の元旦の1985年7月26日に、奈良の「大倭あじさい邑」で、始めて出合ってからの付き合いだから、もう22年の付き合いに成る。彼の活動は、平和運動であるので、左大臣の役割に当て嵌まるだろう。
昨夜の霊界人の騒ぎは、本日、白川山に集まる人達の守護霊が、皆、私の思考を通過しての、現象だったのではないだろうか。
そうであれば、今夜は、何かと、話の展開が有るのかも知れない。
「山尾三省を偲ぶ」http://moon.ap.teacup.com/20060830/
今朝のメッセージには、最後に「E」のアルファベッド文字が一字現れた。
其のEの文字の意味や、「サ」との関係性は未だ解らないが、何等かの繋がりが有るのだろう。
いま私に感じられる事は、Eは「恵比寿・Ebisu」のEではないかと言うことである。
恵比寿・Ebisuは、イビスで、エジプトの太陽の船の舳先に立つ、朱鷺の頭を持つ水先案内の女神である。
其の太陽の船の、中央に乗って居るのは、頭に鏡を付けた「イシス女神・天照大神」である。
愈々、アマテラス神を乗せた船が、動き始めるのであろうか。
平成19年8月28日
礒邉自適
2007/8/27
色が毒
19・8・27
今朝のメッセージの映像は、私の意識が誰かに案内されて、古墳の数多く点在する土地を通って、ある山の麓に着いた。
すると、小川で鳥篭を洗っている、高齢の男性が居た。そして、其の男性に付いて、自宅の有る方に向かって行くと、幾つかの鳥篭が、木の枝に掛けられており、其の籠の中で小鳥が動いていた。
そして、自宅近くに近着くと、小路の右側脇に、看板らしき板が無造作に置かれている。私が、其の看板らしき板を手にして、汚れを拭いて見ると、大きな文字に見える筆字は、小さな文字の寄せ集めで書かれている事が判った。
其の小さな文字には、其の男性の誕生日等も含まれていた。
そして、其の文字群は、離れて見ると、大きな文字の看板に見えるのである。其の文字は、「色は毒」との内容である事が読み取れた。
「色が毒」とは、どの様な意味であろうか。
漢語林で「色・シキ・いろ」を調べると「人+巴」の組み合わせで、巴はひざまづく人の象形。ひざまづく人の上に人があるさまから、男女の情愛の意味をあらわす。転じて顔色・いろどりの意味を表す。
【字義】@いろ。㋐顔色。表情。㋑いろどり。色彩。㋒おもむき。様子。㋓男女間の情欲。㋔たぐい。種類。㋕形に表れたすべてのもの。形相。Aいろどる。かざる。B顔色が変わる。㋐けしきばむ。怒りの表情を見せる。むっとする。㋑勢いづく。生気づく。㋒驚く。驚きのあまり顔色を変える。Cおだやか。おだやかな顔色になる。
「国語」いろ。㋐恋人。情人。愛人。㋑なさけ。愛情。㋒調子。ひびき。㋓遊女。
「毒・ドク」は「草+乱れた人」の組み合わせで、毒は、人がみだらになるの意。人をみだらにする草、どくの意味を表す。
【字義】@ドク。㋐人の生命や健康を害するもの。㋑わざわい。害悪。Aドクする。㋐殺す。㋑そこなう。いためる。くるしめる。㋒毒を入れる。Bにくむ。うらむ。Cいきどおる。Dあらあらしい。乱暴。Eおさめる。Fそだてる。やしなう。Gやすらか。
此れで、「色は毒」との言葉を短く解すと「色々な類(たぐい)の物事は 人を損なう。」との意味に成る。
其の、山に住む高齢の男性は、世間の物事が毒だと考えて、其れを、自分のアイデンティティ・価値観として、一人で暮らしているらしい。
しかし、文字を書く事には長けているので、若い時は、世間に身を置いて居た事もあるのだろう。
其れに、小鳥を飼うと言う事は、鳥篭を、買うにしても、自分で作るにしても、お金や道具が必要なので、全く、人間社会から切れているわけではない。
そして、小鳥は、一日餌を与えないと死んでしまう生き物だから、毎日、餌と水を与えなければ成らないし、水浴びをさせたり、糞の始末をしなければ成らないので、毎日の世話が必要なのである。
其れは、其の男性が、毎日じっとしている分けでは無い事を意味している。
其れと、私も子供の頃、沢山のメジロを飼っていた事があるので、能く解っているが、小鳥は一時も休まないで、籠の中を動き回って居るので、見て居ても飽きが来ないし、能く囀るので耳も退屈しないのである。
其れは、妻や、子供が居なくても、自分の寂しさを紛らす力を、持っている事に成る。
しかし、其の事を良く考えて見ると、看板に書いてあった内容の「色は毒」との内容とは、少し食い違いが有る様な気がする。
其れは、小鳥を飼って、世話を毎日欠かさずにする事は、色の世界に触れて居る事に成るのではないだろうか。
其れに、小鳥を籠の中に閉じ込める事は、小鳥の色(繁殖・生態)を、邪魔している事にも成るのである。
今朝のメッセージは、私に、何を、考えろとの事であろうか。
其れとも、私に、思考の罠を仕掛けて来ているのだろうか。
山に住んで、小鳥でも飼って、静かに老後を過ごせと言う事なのか、そんな老後を、迎えてはいけないとの理・ことなのか、サッパリ解らない。
確かに、人間社会から離れ、山里に住んで、小鳥でも飼って居れば、其の小鳥の世話が気に成るので、気が紛れる事は間違いないのである。
しかし、其の事を考えるなら、私は、毎日、霊界のメッセージを受けて、こうして其れをパソコンで打って、ITにアップして居るので、小鳥は飼わなくても、霊魂の世話を毎日している事に成る。
だとすれば、私の毎日の此の作業は、霊界人の世話をしていると考えれば良いのだろうか。
そう考えれば、今朝、山に案内される途中には、古墳が沢山在った事の意味も理解できるし、小鳥を飼っている鳥篭が、高い木の枝に、下げられていた事の意味も、理解出来る。
其れは、霊魂が、高い樹木の枝に依り付いているとの理・ことを、知らせて来ているのではないだろうか。其れは、神籬(ひもろぎ)や、神社の御神木の存在が、必要である事を意味している。
其れに符合する事として、1987年(S62)8月6日の出来事がある。
其れは、8月6日の午前2時頃、ビジョンで私に付いて居た霊魂が、光の球・タマに成って、私の身体から遊離して、空中にふわり・ふわりと次々に浮き上がり出したのである。
私は、其の数を、最初は数えて居たのだが、数が余りにも多いので、面倒に成り、何体在るのかを訊ねると、4311体である事が判った。
そして、其の朝、高知に住む井上佳子から、当時奈良市に住んで居た私の所に電話が有り、「今朝2時ごろ 急に目が覚めて 外が気に成るので 寝室の窓を開けて 外を見ると 真っ白い小鳥が 何千羽も 窓の外を飛び回って居た。」と云うのである。
それで、私から光に成って離れた霊魂が、井上佳子の所に、白い小鳥として姿を現した事が判ったのである。
其の出来事を参考にすれば、小鳥や、霊魂は、色の毒ではなく「楽の種」である事に成る。
聖書のイエスの言葉にも「小鳥を見よ。小鳥は日常の事などに煩ってはいない。」とある。其れは、「色の毒に触れるな」との意味にも受け取れる。
今朝は、その高齢の男性の自宅に上がり込んで、対話する所までは、映像は無かった。私が、看板を拭いて、文字を読んだ処で、其の場面は終わったのである。
今朝のメッセージで判明した事は、文字が在ればこそ、霊界との意志の疎通が可能だと言う事である。もし、文字がなければ、看板も無いし、其の文字を、私が読み取る事も出来ない事に成る。
其れを考えると、文字の無い社会に暮らした、釈迦の苦悩が理解出来るし、文盲の弟子を相手にしたイエスも、奇跡を起こして他人を驚かすしか、他に方法が無かったのも可哀そうな気がする。
其の様に考えると、正しい解釈の含まれた文字を伝え残す事は、非常に大事な事であると考えられる。
今朝のメッセージの解釈は、是くらいで良いだろうか。
今日は、旧暦の7月15日で、お盆の精霊流し・送りの日である。
しかし、其れは、仏教の風習である。
今朝のメッセージからすると、精霊は、村の近くに在る山里の木々が繁る所に、何時も居る事に成る。
そうであれば、特別にわざわざ船に乗せて、川に流す必要もないのではないだろうか。
人間は、自分で困った時にだけ、「困った時の神頼み」で霊魂を呼びはするが、日常何も無い時は「供養・ねぎらい」が面倒なので、何処かへ追い出すのである。
其れに、命日は、年に一度の「彼の世」と「此の世」の魂の連絡を取り合う約束事の日である。
其の命日に、古代に業績があった人の徳を授かろうとするのが、神社や寺院の大祭である。其の大祭を、人間の都合で、休日に振り替えたりするのは、仁義に外れた行為だと言えるだろう。
明日は、皆既月食が有るが、詩人の山尾三省の7回忌が、白川山の公民館で行なわれる。
私は、5年前の4月24日に、島に帰る事に成って、宮之浦港に着いたら、同行していた「白土雅一君」が、「白川山に行きたい」と云うので、自宅には向かわずに、一湊の白川山に真っ直ぐに向かう事に成り、山中に有る三省の墓の前に立つと、「礎・いしずえ」との言葉が告げられて来た。
「彼の世と此の世の境目」http://moon.ap.teacup.com/20060830/24.html
其れは、山尾三省も詩人として、言葉の礎を勤めたとの意味であったのだろう。
其の、山尾三省の霊魂が、私の意識に作用しているのであれば、今朝表れた看板の文字にも、関係があるのかも知れない。
今日は、此の作業が終ったら、屋久島の西部側に、滝の写真を撮りに行こうと考えている。
私も、何かを頭に擱いて措かないと、思考が不安定に成るので、「屋久島の滝88ヶ所巡り」のマップ創りをする事にした。
既に、屋久島中の神社の写真は撮ってあり、「屋久島の神社」のブログマップは出来ている。
「屋久島の滝88ヶ所巡り」http://moon.ap.teacup.com/20070822/
「屋久島の神社」http://moon.ap.teacup.com/20070607/
人間は、色が害に成ると言われても、色が無ければ、思考も生まれないのだから、色から逃げて、山の中だけに篭っていても仕方がない。
其れは、老齢に成ったらそうすれば良いのだ。
私は未だ、全面的に、色の世界から逃れるわけにはいかないのである。
平成19年8月27日
礒邉自適
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