言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2007/9/16
神の栄光を待つ
19・9・16
今朝のメッセージの映像は、昨日の第五チャクラの位置を意味する咽仏(のどぼとけ)が、言葉に関係が有り、創造性の原因が言葉から齎されるとの解釈が当たっていたらしく、神の栄光を齎すものは、新しい言葉である事が示されて来た。
其れは、私に2000年7月22日に告げられて来た「讜 逓 聖・とうていせい(真理に当たっている価値観を 次から次に伝える ひじりの意味)」の言葉が、実行される時節を迎えた事が感じられるものである。
気付いて見れば、「咽」の漢字は「口+因」の組み合わせで、言葉の原因が咽に有るとの意味であり、咽仏の形だけを表す文字が「亢・こう」で、別にある事も今朝調べて判明した。
今朝のメッセージは、先ず「トラ」との言葉が聞こえて来た。
そして映像が現われ、私の意識は2・5m位の高さが有る、有刺鉄線が張って有る塀垣の前に在った。
其の塀垣は、無線塔の周囲を四角に囲っている物で、其の塀垣を、手前と奥の二箇所超えなければ、向こう側に行けないらしい。私は、其の塀垣の周りを見回って見たが、其処を超えて行くしか、他にルートが無いのが解った。
私一人なら、よじ登って簡単に超えて行けるのだが、超えなければ成らない人の中に、女性が含まれているらしいので、私はアルミ製の梯子を、登り用と降り用の二つを手配した。
そして、向こう側に渡した人間は、白い現代風の洋服を着た女性一人と、其れを護衛する男性五名であった。其の六名は、緩やかな傾斜の道を、山の方に向かって登って行った。
私は、其の役目を終えて、其の人達が向かって行った方向に、何があるのかと想い、右側の方の、山が見通せる草原に移動して行った。
そして、風雨に晒されながら、草原に立って居ると、山の左側の上空から、神の栄光の光が差して来るのが見えたので、私は、其の人達が無事に目的の地に至った事を感じ、安心して自分の車に帰って、車に乗り込む処で、今朝の映像は終わった。
今朝のメッセージは、先ず「トラ」との音声が有ったので、其の意味を考えると、インドの「マントラ」のトラのことで、思考の容器の意味を示しているのだろう。
マントラは、「真言」と訳されているが、インドの言葉の概念では、「マン」は「悶・モン」で、自問するの意味であり、「トラ」は「皿・サラ」で容器の意味である。
だから「トラ」とは・人間が思考する為の、道具である言葉を意味していることになる。
次の、有刺鉄線が張り巡らされている壁塀の意味は、新しい場に移動する為には、ある程度危険な塀を、無理にでも乗り越えて行かなければならない理・ことを意味し、無線電信塔は、現在の人間社会の情報通信を意味しているのだろう。
そして、其の無線塔が頑丈に防護されているとの事は、現在の情報は、体制側がガッチリ護っていて、容易には変化しないと言う意味を、示しているのではないだろうか。
そして、其の垣根を無理にでも越えて行かなければ、新しい世界が開けないとの意味ではないだろうか。
そして、私が塀垣を越えさせて、先の世界に送った女性一名と、男性五名は、人間の生命遺伝子のプログラムを意味し、卵子一個には、異なる遺伝子が五系統必要だとの理・ことなのかも知れない。
其れは、約700万年前、中央アフリカで、類人猿から突然変異で、一人の人間雌(エバ・イブ)が産まれ、其の雌の遺伝子が現在まで伝えられ、67億人まで分裂している事に関係が有るのだろう。
生命のシステムは、ライオンや、猿や、蜜蜂まで、個の遺伝子を確立しながら固定し、しかも遺伝子が偏らない様に、雄を入れ替えながら、多様性が消えない様に配慮を続けて、現代に至っている。
だから、今朝の一団は、雌・女性一人に、五人の雄・男性が着いていたのであろう。
其れは、蜜蜂の女王蜂が五回以上交尾して、雄の精子を複数確保して、卵を産み分けながら、また複数系統の分巣をして行く事と、同じ生命プログラムを暗示している。
其の蜜蜂と同じシステムが、我々人間にも働いており、人間の男性も「旅好き」が本能に組み込まれている。
日本に渡って来て、国津神(原住民)である大山祇神の娘達と結婚して、新しき村を創ったのが「須佐之男尊」や「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」であり、神武天皇も旅をして、「長髄彦・ながすねひこ」一族の婿養子となって、国を治めている。
其れも、本能から来る無意識の成せる技であろう。
そして、其の遺伝子の掛け合わせの副産物として、言葉の混血が有るのだ。
他国に渡って混血すると言う事は、自分の文化と、相手の持つ文化が混合する事に成る。
其処に、新しき文化や、概念や、言葉が発生するのである。
と言う事は、未来とは、新しい文化を創造する事であり、其れに因って、新しい価値観や概念が生まれ、其れが、新しい言葉を生み出す事に成り、其の言葉は、儀式や、物品の名前や、地名に付記されて、後世に伝え残されるのである。
其の結果として、現在の生活風習や、宗教儀式などが、伝統文化として伝え残されているのである。
其の結果の悪い面として、現在の、宗教価値観やイデオロギーの違いに因る、戦争が起こされているのである。
だから、其れ等の悪循環を断ち切る為には、新しい価値観を創造しなければ成らない理・ことになる。
今朝のメッセージは、新しき価値観を創り出し、其れを言葉にして送り出せば、神の栄光が再び齎らされるとの事ではないだろうか。
其れには、世間の冷たい風雨に晒されながらも、荒野に立ち尽くして、神の栄光を待ち続けなければ成らないとの事であろう。
今朝の、神の栄光を待って居る私の身体には、冷たい風雨が右側(北西の方角)から吹いて来たので、私は南向きに立って居る事になり、神の光は聳える山の左側から差して来たので、其れが朝日であれば、私は北の土地に立って居る事になる。
其れは、屋久島の土地で言えば、矢筈岬の位置に成る。
其れは、日本語の「左・ひだり」の意味の、「日足りる・ひたり」の言葉を体感する事でもある。
「ひたり」とは、北を背景にして、左側から登る朝日を、見る事を意味している。其れは、「神の救いは 東方から」との概念を、裏付けする事でもある。
何故、神の救いは東方からとの概念が有るのか、其れは、新しい一日が、東方の空に昇って来る、太陽に拠って始まるからであろう。
其の感情的情緒から、新しい物事は、東の朝日と共に始まるとの、概念を生み出したのではないだろうか。
だから、朝日は、元気や勇気を齎すものであり、夕日は、一日の終わりで、安らぎを齎すものとなっているのである。
今朝のメッセージは、昨日のメッセージで、下の方から上を見上げ、何かを必死に訴えていた女神が、私の協力で、厳しい塀垣を越え、無事に目的の山の方に上って行く事が、出来た事を意味している。
其れは、生命に付いての基本概念が、昨日のメッセージで、私に根付いた事を意味しているのではないだろうか。
そうであれば、私は是から、遺伝子学の世界に興味を持って、生命の存続に関する情報を、構築して行かなければ成らない事になってくる。
其れが、新しい生命哲学を構築する為の役に立つのかも知れない。
「宗教」の単語の意味は、「大本の教え」の意味であり、其れは、人間の生命の源の原理を知り、其の原理に基づきながら「神・宇宙」の法則に則り、永遠に生命・いのちを存続するとの理である。
其の為に、私は、新しい価値観を持つ言葉を、創造しなければ成らないのだ。其れが1994年3月22日に告げられて来た、「風 麦東 陶・ふうれんとう(風習を練り鍛えて人を導き訓える)」の言葉の意味であろう。
今朝は、26日の日付も示されて来た。
其れは、今回の旅の出発が26日であるとの事であろう。
東京での講演会が29日なので、帰りに、静岡県袋井市の「石垣雅設氏」の事務所を訪ね、今後の活動に付いて話し合いをしたいと考えている。
石垣雅設氏は、北海道の根室生まれなので、屋久島の私とは違い、日本列島を北から眺めて育った事に成るので、東京に上る事は、南に下る事に成る。
だから、私とは、社会(都会)に対する方向感覚が、逆に成っていることになる。
其の、石垣雅設氏と会って話しをする事で、違う意識が、私に生まれて来るかも知れない。
10月15日には、出雲の安部忠宏氏と、「五十猛命・いそたけるのみこと」の終焉の地とされている、和歌山の伊太祁曽神社に行き、皆と話し合いをする事に成っているので、今回の旅も長旅に成りそうである。
平成19年9月16日
礒邉自適
2007/9/15
観極める
19・9・15
昨日の、女神の言葉で「何も無い」と有ったが、其れは、外側には何もなく、一切が自分の内側に起きている現象に過ぎないとの理・ことを、知らせるものであったらしい。
今朝のメッセージは、宇宙のシステムが、全部、人間の肉体の中に在り、其のシステムが人間の思考を管理し、人間社会の全てを創造しているとの理・ことである。其れは、エジプト文化の考えと同じものがある。
今朝のメッセージの映像は、人間の五体や、五臓六腑に、全ての宇宙の働きが秘められている事を、順を追って示して来ている。
「人体図」http://www.3bs.jp/index.htm
今朝の映像には、先ず、裸の男女の胴体だけが出て来て、女性の身体は頭を右にして、お尻が左側に有り、其の屈んだ女性の後ろに、男性が乗っ掛かっている場面が映し出されて来た。
其れは、漢字の「色」の象形其のままの形である。
次に、漢字の、画数の少ない文字から、順番に大きな画数へと、横に沢山並んでいるのが映し出されて来た。
そして、「愛」は、「エロス」が根源エネルギーになっていて、「アガペ」は、神の側の意志である事が強く示された。
其れから、淡い紅色の服を着た女性が、下から上を見上げて、盛んに手振りをしながら、言・ものを云って、何かを盛んに訴えて居る映像が現れた。
其の場面で、私の意識が、其れを上から眺めているのが、不思議に思われると、其れは、人間の身体の構造に関係している事が理解されて来た。
其れは、女性の意識の本体が、肉体の下側の生殖器に在り、肉体の上位に有る脳・情報部に、生きる為の生存条件を早く整えろと、告げて来ているのである。其の様子を、脳の立場から見れば、女性が下の方から訴えて居る様に見えるのである。
其の、上に存在する情報部の本体が、大脳の指令室なのであろう。
其れは、身体全体の情報管理を大脳が行なっていて、生殖器の情報も管理していると言う事になる。
其の脳意識・情報部が、情報整理の為に考えだしたのが、記号絵文字であり、其れが発達して来たのが中国の漢字である。
だから、今朝は、其の漢字が順番に並べられていたのである。
其の漢字は、全部男性が考え出したものであろう。
何故なら、女編の漢字が144も当用漢字に有り、中国では1000文字も有ると言う。
処が、男編の文字は無く、男が旁に使われている「甥」の文字くらいしか無い。
其れは、漢字は、全部男性が創った事を意味し、女編の文字が多いのは、男性が女性の動きを見て創り出した事を、意味している。
そして、其れは、「大脳」を進化させて来たのは、男性の方である事を意味している。
だから、男性は理屈ぽいのである。其の事を「男は頭で考え 女は子宮でモノを考える」と、表現するのだろう。
其れは、男性の意識が、時間的に浅い事を意味し、女性の意識の方が、時間的に古く、本能的であり、根源的である事を意味している。
だから、人間の本質や、生命の根源を知る為には、雌の立場に立って、物事を考えなければ成らないのだ。
其れは、人間の一番古い記憶が「蜥蜴・とかげ」の脳に有る事になる。
人間の脊髄の上に乗っている脳幹は、古皮質と言って蛇と同じ脳である。
其の古皮質が、自立神経をコントロールして、心臓や肺の動きを管理し、ホルモン分泌を促して、身体のバランスを司っているのである。
だから、中国の「タオ・道」のシンボルマークは、雌雄の蛇(蜥蜴)なのである。
其れに、エジプトのラーの神官が手にするヘルメスの杖にも、陰陽・雌雄の蛇が巻き付いている。其れ等は、神の世界の入り口には「雌雄・陰陽」の蛇が、門番をしていると考えられていたからであろう。
其の蛇こそ、人間の身体の中に潜んでいる、意識の元の「DNA・遺伝子」の二重螺旋構造の情報なのである。
其の、二重螺旋の記憶である情報が、全ての生命の道案内をしているのである。だからこそ、ラーの神官の杖には、陰陽の蛇が巻き付いているのである。
其の杖の把手は、鷹である。
其のシンボルの杖は、マヤ文化では羽根の生えた蛇として、空間に飛び出してしまい、太陽の使いとされたのである。其の蛇が、管理する物が、人間の心臓なのである。
マヤの人達には、心臓の心拍が時刻を刻むモノであり、其の心臓の生命力が、太陽と繋がっていると考えられたのである。
だから、マヤ文化の神は、時間を司る神とされ、トキを刻む生きた心臓が、太陽に捧げられたのである。
其れは、人間の古皮質が、蛇の脳と同じであり、自律神経を司っている事を、無意識で感じとっていたからであろう。
だから、心臓は、時間を司っている物と考えて良いだろう。
其れは、2年間しか生きない鼠も、50年間生きる象も、一生の内、同じ回数の15億回しか、心臓が脈を打たない事で証明されている。
人間が長生きなのは、鼠パターンではなく、象のパターンだからである。
そして、「人生50年」との言葉が有っても、健康で長生き(緩やかな呼吸をする者)」は、120歳近くまで生きる者も居るのである。
だから、心臓の心拍数こそが、真実の生物の時間であり、生活に使っている時計は、本当の生命時間ではないのである。
しかし、人間が創った時計も、人間の心臓の心拍数60回を1分間とし、呼吸が自然で静かである時の12回を、1分間としているのである。
だから、人間が健康で、瞑想状態のときの時間は、心拍数が60で、呼吸が12回なのである。
其れを、確認する意味の漢字が「寺」で、寺は「止+寸」の組み合わせで、意味は「歩き出す前に 右手の脈を 左手の親指で 計る」である。
其れに、太陽の意味の日を付して、時間の「時」としたのである。
そして、「寺・てら」の漢字の意味は、其の様に、自分の心臓の脈と肺の呼吸の安定を計りながら、宇宙と共鳴して物事を考える人の書いた文章を、置く建物の意味である。
其の意味から、釈迦の教えを書いたお巻物・経典を置く建物の意味から、寺が寺院のテラに使われる様になっているのだ。
因みに、人間は、話し始めたり、歩き始めたりすると、心臓の心拍数は上がり、呼吸も速く成る。
だから、長生きする人は「長い呼吸をする」の意味で「長息・ながいき」なのである。
心臓は、単に、血液のポンプだけの役割を担っているのではなく、時間を刻んでいるのである。
そして肺は、ガス交換をしながら、宇宙空間の中に、自分の存在を確保しているのである。
だから、「生きる」とは「息をしている」との意味で、呼吸・ガス交換をしている事が、生きている意味で「呼吸・ガス交換」が止まった時が「死・枯れ」である。
だから、どんな生物も、ガス交換・呼吸をしている間が、生きて居ると言えるのである。
他にも、胃は、酸を分泌し食物を溶かす働きの他に「意識・イメージ」を生み出し、12指腸は、胆嚢から送られて来る胆汁・アルカリを分泌する働きの他に、思索を促し、肝臓は、グリコーゲンの合成・貯蔵・分解、血糖分泌、血漿蛋白などの合成・解毒、胆汁生成と分泌などの、毒素分解の働きの他に、勇気を管理し、腎臓は、水分や窒素代謝産物の濾過分離排泄の働きの他に、生殖を管理しているのである。
他にも、様々の人体の働きがある。
今朝のメッセージは、其れ等の働きを、これから見詰めて解読して行けとの事であろう。
昨日は、臍から生まれたブラフマンが、創造を司るビジョンが伝えられて来たが、今朝のメッセージは、新しき世界を創造する為には、生命の本質を把握する為に、人間社会の構築に目を向けるのではなく、自分の内側に意識を向けて行き、人間の本質・原質を見極めろとの事らしい。
是は、私にも、思い掛けない方向性である。
私は、世間の中に、出て行かされるのかと想って居たのだが、どうやらそうではなく、新しい人間社会を構築するのには、人間の本質を先ず見極めてから、地球全体の生き物の事を把握し、その調和を、先ず計る事が、未来創造に繋がるとの事であろう。
そう成って来ると、釈迦の謂う「衆生一切我が子」との言葉を、もう一回考え直さなければ成らない事になる。
釈迦の意識の中で、九十九折に成って居た大蛇が、私の中でも、眠りから目を覚ましたのであろうか。
そうだとすれば、蛇は古語ではエラブで「選択・えらぶ」の意味であるから。其のエラブの働きが、自分の腸・はらわたの中を、右往左往し始めるのであろうか。
そして、一番下の「ムラダーラ・チャクラ」クンダリーニの雌蛇が、上の6つのチャクラに、早くしろと叫んで来ているのである。
其れを、観て居た私の意識は、其の何番目の意識なのであろうか。
一番上の、第七チャクラは「百合・ヒャクエ・頭頂・サハスラーラで、第六がアジナー・チャクラで、第五番目の「ビシュダ・チャクラ」が咽仏の位置で、創造を意味しているらしい。
其れだと、咽仏が大きいのが男性の特徴で、大きく成るのは声変わりのトキだから、言葉に関係している事になる。
参考 チャクラの図http://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/a2a958285a835722069dfa000d3a935d
其れだと、言葉はマントラ・真言で、マントラの意味は「言葉を使って考える」のだから、咽の奥に有る声帯が、創造を司る器官であるとの事は、意味が合っている事になる。
今朝の映像で、下から上を見上げて、何かを伝え様として居た女性の叫びは、言葉としては聞こえなかった。
其れは、女性は、言葉を司っていないとの意味ではないのだろうか。
そうであれば、言葉は、雄が雌を口説いたり、縄張りを主張する為に、鳴き声・言葉を開発して来た事になる。
其の為に、声帯が変化して、咽仏が大きく発達して来たのではないだろうか。
そうであれば、今朝の女性は、早く、新しい「言葉・マントラ・真言」の世界を創れと、上のチャクラに、声無き声で叫んでいた事に成るのだ。
だとすれば、是から、私の意識には、様々な人体の器官から、御呼びが掛かって来るのかも知れない。
そうであれば、私の是からの活動は、五感や六識、其れに、体内の五臓六腑の働きなどの、解明に向かうのかも知れない。
そうなれば、現在の世相のスローフードや、食育の関係者の興味を引く事に成るのではないだろうか。
平成19年9月15日
礒邉自適
2007/9/14
山を下る(2)
19・9・13
そして、最後に残った靴を見ると、白い新しい靴で、其の靴を手に取って見ると、足の甲の所に名前を書く様に成っていて、其処に「名越克彦」と書いて有った。そして、其れが、私の名前であるとの意味が伝えられて来た。
「克」の漢字を、漢語林で調べると、重いかぶとを身に着けた人の形にかたどり、重きに耐える、うちかつの意味を表す。
【字義】は、@よくする。㋐できる。能力がある。㋑しとげる。㋒たえる(耐)。㋓おさめる(治)。整える。Aよく。十分に。「克明」Bかつ。㋐争いに勝つ。㋑勝ちたがる。㋒私欲に勝つ。「克己」㋓せめる。C定める。きめる。と載っている。
「彦」は、才徳のすぐれた男子の意味であるので、「名越克彦」は「今の 名を越えて 能力を発揮して 打ち勝つ 才徳の有る男子」との意味に成る。
だとすると、私は、今の名前の「自適(何者にも束縛されず 心のままに楽しむこと)を越えて、社会・世間に打って出て、勝たなければならない事になる。
今朝の映像で、人が集まる建物の中で行なわれていた事は、インターネットを使った、経済の組織造りの事業の説明会で、其れが大きな経済を生み出し、社会を変革するとの内容であり、其の事業には、私が参加しなければならない仕組みに成っている事が解った。
そして、其の事業で、一番大事なテーマとして、「小畑勝」との文字が現れた。其れは、人名ではなく其のまま「小さな畑が勝つ」の意味で、広大な農地で、化学肥料や農薬を使い、大型機械を使用している農業は、負けるとの意味であろう。
其れは、アメリカ型の農業は立ち行かなくなり、自然農法か、有機農業の世界が生き残ると言うことである。
何故かと言えば、石油が段々少なく成るし、土地は痩せていき、神・天が、雨も制限するとの意味ではないだろうか。
(此処で左手の親指にカモ・神の電気信号が有る)
新しく始まる未来社会は、食料を、エネルギーを大量に使って生産し、遠くまで運ぶのではなく、皆が自給自足型の生活に返り、インターネットで連絡を取りながら情報を交換し、「創造的・瞑想的」に生きる社会に、成るとの事ではないだろうか。其れが、本来の人間の生き方なのである。
今朝は、其の後に「爺婆・じじばば」の「じじ」が「し」に点々ではなく、「ち」に点々の「ぢぢ・ヂヂ」である事が示されて来た。
其れは、爺が「父・ちち」に濁点が付けられたものであり「婆・ばば」は、「母・はは」に濁点が付いたものであることになる。
何故、わざわざ「爺婆・ジジババ」が「ヂヂババ」であると、訂正されて来なければ成らないのか。
其れは「命・いのち」の「ち」が、「父・乳」のちちであり、「霊」の「ち」であるコトを、示唆して来ているのであろう。
屋久島では、動物の種付け(受精)の事を「ちちを付ける」と言う。
其れは、たんに種付けが子種の為だけではなく、交尾の行為には、モノの霊魂が宿っていると考えられていたからである。
日本語の「ひと」は、単なる漢字の歩いている「人」の姿の象形ではなく、「霊留・ひと」で、其れは「霊魂が 留まっているとの意味」である。
だから、「爺」は「じじ」ではなく、「ちち」に濁点を付けなければ、間違いだと言う事に成るのだ。
其れは、更に「命・いのち」の「ち」が、霊魂の意味であり、「いのち」とは「胃の霊・血」で、胃の細胞に生命の源が有るとの概念が、古代に有った事になる。
其の証明が、漢字の「謂」であり、謂の文字は「言+肉+米」の組み合わせで、「人間の 意識・言葉は 胃袋の中の 穀物から生じる。」との意味である。
其れが、日本の天皇家に伝わる「新嘗祭・大嘗祭」の「御餉殿・みけどの」の、儀式の根本概念と成っているのである。
其の延長線上に、外宮の「豊受(豊かに受ける 食べ物の氣)」や「保食神・うけもちのかみ」の概念が有るのである。
其の「胃の霊・いのち」の概念は、現在の臨床医学の世界で、明らかに成って来ており、人間の体の中で、一番古い細胞は、胃腸の細胞であり、約6億年以上前に出来たと考えられている。
其れは、38億年前に、最初に地球に発生した微生物が、酸を出して、岩(鉱物・ミネラル)を溶かし、自分の生命・いのちを確保した事が、源に在り、其の微生物が進化して、単細胞から多細胞へと変化して、現在の地球上の全生物と成っている理・ことを示している。
人間の肉体の中で一番古い細胞が、胃の細胞であり、今でも、食べ物を酸で溶かす役目を持っているのである。
だから、胃の細胞は、自分の管理する工場に入って来た材料を検査して、其れに見合う酸の出し方を決めているのである。
其の、胃の細胞を土台にして、60兆個の細胞が一蓮托生に成って、人体を操り、小腸に住む微生物の餌を、確保しているのである。
だから、我々の此の肉体は、小腸の中に住む微生物の存続システムの、堆肥工場の材料を集める為に、活躍している事になる。
変な話ではあるが、其のシステムは、既に、白蟻の生体研究で明らかにされている。
其の理・ことわりを、古代の人たちは潜在意識で捉えていて、「謂」の文字を創ったり、御餉殿の神を祀り、直会い・なおらいの儀式を受け継いで来たのである。
インドの、偉大なブッダである釈迦は、其の原理に気付いたからこそ、精進の世界を説いたのである。
人間は、自分の胸に手を当てて祷たり、胸にハートが有ると考えるのは、其の胃の細胞に、無意識に問うているのである。
だから、人間にとって、一番大事なことは、自分が胃腸に取り込む、食べ物や水の選択に真剣になる事なのである。其れが、「身土不二・しんどふじ」の考えの、原則であらなければ成らないのだ。
今朝のメッセージの「小畑勝」とは、其の原理原則を護る為には、小さな畑に栽培した食べ物を食べる人間が、是から始まるサバイバルに打ち勝って、「いのち」を継続する事が出来るとの理・ことではないだろうか。
其の原理原則に則ったライフスタイルの構築に、是から私は乗り出さなければ成らないとの事であろう。
現在、世界中に日本食ブームが起きているが、其の流れを作り出した元は、日本の「桜澤如一」である。
其の桜澤如一が、私に起きた4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」で、一番先に顔を出した人物である。
平成三年に、佐賀のスローフードで有名に成った武富勝彦氏と、東京に有る桜澤如一が創設した「オーサワジャパン株式会社」を訪れたら、事務所の応接間で「此処が お前の仕事場だ」と告げられた事が有った。
其れは、桜澤如一の声であり、私に、自分の意志を継いで欲しいとの事であったのだろう。
桜澤如一は、生前、自分の謂う事を誰も理解しないと、ぼやいて居たらしいから、其の残念は、空海や、釈迦や、私の師や、父と、同じものであるのだろう。其れが、幾ら遣っても、悲しみだけが積み重なるとの意味の、「慈悲」の単語なのである。
彼らの、慈悲の残念を消去する為にも、私は、今朝の「名越克彦」を実行しなければ成らないのだろう。
しかし、私の「自適」の名は本名で、母の話では、私が自分で持って来た名であるとの事なので、其れを捨てて、逆の世界の「克彦」に成ると言う事は、自分の過去世の憶いを、捨てなければ成らない事になる。
其れを考えれば、自分こそが、4311体の神霊の思頼の、中心的人物の霊魂である事に成る。
であるなら、全てが、自分の自己責任であるとの事になり、悠々自適にとか、呑気な事を言っている場合ではないと言う事に成って来る。
是は、豪い事に成って来てしまった。
今朝のビジョンで、山から下らなければ良かったのだ。
しかし、眠りの中では、自我意識が埋没しているのだから、其れは不可能である。やはり、是は、運命として運ばれて行くしか、他に道はないのであろう。
平成19年9月13日
礒邉自適
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