言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2007/11/9
地上をたちもとおる御魂
「躊・たちもとおる」
羽の生えた 小さな天使達が 真っ白い姿で 100体ほど集まり 地上を舞っている姿を 天上から眺め
白い衣装に身を包んだ 聖者達が 御岳に集うのに参加し
山の上に在る村の 始発のバス停から 制服を来た女学生や 織工さんが朝出発するのを 畑で 薬草を手にして眺め
たまには 街に下りて行き 明るい店内に 美しい履物が並んでいるのを眺めて通り過ぎ
帰り道では 黄色く完熟したバナナが 木に着いている姿や 赤く咲き誇る美しい花を眺め 伸びやかに蔓を伸ばして行く植物の側を通り 人間の乗った車が スピードを出して通るのを 遣り過ごしてから道路を渡り 山に還って来る
其の私は 足が無いので 履物は入らないし
肉体を持たないので 美味しそうなバナナを捥ぎ取る必要もなく
花瓶が無いので 花を手折る必要も無い
全てが調和して 永遠の時間を醸し出しているのを 時々 観て廻るだけ
する事が無いので ただ 山の彼方此方に 人間にとって必要な 薬草の種を撒いて育てている
其れが 私の正体である。
他の人達は 肉体を継続する為に「69・陰陽」の世界に 性活動に出かけている
私は 其の役割を終えてから どれだけの月日が過ぎ去ったのであろうか
其れも 私の住処には 時計や カレンダが無いので 判らない
ただ 私に理解出来ている事は 私の此の霊魂を育てたのは 地上の力であると 言うことだけである。
平成19年11月9日
礒邉自適
「昨日の神社の様子」http://moon.ap.teacup.com/20070607/51.html
私の解釈
昨日夕方から、安房の「粟穂神社」の秋期大祭に参加して、神様に御供えを運んだからかも知れないが、今朝は、自分の意識が人間界から外れて、神界側に存在していて、山から地上に「たちもとおる(立ち徘徊る)」映像を見せられた。
其れで、一番強く感じたのは、人間は「生殖・セックス」の為に、地上に降ろされていると言う理・ことである。
其れは、人間だけではなく、地上に生育するあらゆる生物は、其の為に、天界から地上にプログラムとして、映されていると言う事である。
其れが「タオ・道」として、陰陽の「マーク・69」の「蜥蜴・蛇」として表わされているのである。其れが、本当の密教の教えなのである。
其れが、本能(本当の能力)だからこそ、人間の意識を占有するので、イエスは「女の事を 想ってはならない。」と謂ったのであろう。
しかし、其のイエスの言葉の為に、イエスの訓えを信じる人達は、女性は卑しい者とされ、男性も自分の性に苦しんでいるのである。
其の点では、インド国のヒンドゥー教の訓えのタントラは、男女のセックスを一番崇高な悟りの舞台として捉えている。
タントラ教(タントラきょう、Tantrism、タントリズム)とは、バラモン教(ヒンドゥー教)・仏教(密教)を問わず、タントラと呼ばれる経典を奉じる、インドの神秘主義的教団の、欧米における総称。
「タントラ教」
ウィキペディア辞典 現在記載
其れは、ギリシア文化の「ヘルメースの杖」の雌雄の蛇や、日本の天皇家の儀式である大嘗祭の「あめの御伏す間」の儀式にも、影響を与えている。
与えていると言うか、其の文化の源流・みなもとが、其処にあるのではないだろうか。
・・ケーリュケイオン(古希: κηρύκειον, kērukeion)は、ギリシア神話における神々の伝令であるヘルメースの持物である。柄に2匹の蛇が巻きついている杖であり、その頭にはしばしばヘルメースの翼が飾られる。長母音を省略してケリュケイオンとも表記される。カードゥーケウス(ラテン語: caduceus, cādūceus、長母音を省略してカドゥケウス、伝令使の杖の意)ともいう。以下、カドゥケウスと表記する。
ウィキペディア辞典 現在記載
今朝のビジョンは、密教の経典に著されている「生命の神髄」を、短編映画で見せられた様なものであろう。
其れは、中国の老子も、ビジョンで観ていた世界なのかも知れない。
今朝の映像を、一々詳しく 言葉に変換して解釈を加えると、私の概念が作用して、有り難味が消えてしまうと想うので、解釈を加える事は止めて措く事にする。
皆 其々が、此の「色・シキ」の世界を、自分の眼でしっかり見詰めて、自分自身の認識を、深めて行くしかないのであろう。
其の為に「密教」との単語の概念が有るのだと考えられる。
此の世界は、空海ではないが、あまりくどくど謂っては成らない世界なのだ。
平成19年11月9日
礒邉自適
2007/11/1
日を興し・水を輝かす
19・11・1
今朝のメッセージの映像は、私が是から、全力で、未来社会の構築に邁進しなければ成らない事に成りそうな、感じを受けるものであった。
其れは、トキが満ちて来た証しであろう。
本日は11月1日で、この日付は、是までにも、四国から九州に引っ越しをしたり、京都から出雲に引越しした日なので、節目に成る日である。
今朝のメッセージからすると、私は、過去の出来事には触れず、真っ直ぐに未来を見詰めて、前進しなければ成らない様である。
また、其の様にしなければ、人類の未来もないし、是までの神々の努力も、水の泡に成ってしまうと言う事ではないだろうか。
今朝のメッセージの映像には、二つの光の世界が現われ、其の世界には、二つとも文字が一字だけ有った。
初めの映像には、上方向に「日興」の漢字が一字現れ、次は、下方向に「洸」の漢字が一字現れた。其の文字は、両方とも大きな文字で光輝いていた。
しかし、「洸」の漢字は実在するが、「日+興」の漢字は、辞書を検索しても出て来ないので、実在はしないのだろう。
其の意味は、「天の働き・霊界・四次元」と「水の惑星地球の存在・生命世界・三次元」の働きの、区分を意味しているのではないだろうか。
「日」偏と、旁の「興」の組み合わせは、日が「天津日嗣・あまつひつぎ」の日を意味していて、其れを、新しく興せとの意味ではないだろうか。
次の、「洸」の三水偏に、光が旁に使われている「水+光」組み合わせの文字は、命の基である水を守って、生命の維持を図れとの事ではないだろうか。
其れと、何故か「洸」は、水が光るの意味の他に、「怒る」との意味が有り、「おこる」の言葉が「興る」と掛け合わせにも成っている。
其れは、たった二文字で、此の世界を、端的に理論付けするものである。
其れは、人類史の最高傑作である、老子の道徳経の5000字の技よりも凄いものがある。
其れは、私自身の、意識外の世界から、齎されたモノ・現象であるから、私の実力ではないのは明らかであるし、其の文字を、「日興」と新しく組み合わせて、私に告げてくる存在は、一体全体何物であろうか。
其れは、文字の意味と、私の現在の意識レベルとを、両方把握していなければ出来ない作業である。
そんな作業が出来る者は、神霊と呼ぶしか、他に無いのではないだろうか。そうであれば、私は確かに、神の守護を受けている事に成るのだ。
其の事を自覚すれば、今朝のメッセージに映し出されて来た事を、実行に移して行かざるをえない。
其の映像とは、食のイベントの開催や、食生活の指導である。しかし、私は其の場に在っても、実際に指導する事は、出来なかった。
私の役割は、其のイベントを仕掛けて行くだけなのである。
其の仕掛けのヒントとしては、昨年の9月12日に「豆料理 石松」との暖簾が出て来ており、一週間後の9月19日には、メッセージが有ったので、其の事を「天国のレストラン」として、文章に書いてブログに載せて有る。
「天国のレストラン」http://green.ap.teacup.com/20060818/28.html
私が23年前、禊をして此の世界に入り、4311体の精霊の「神霊の思頼・みたまのふゆ」を受け時、其の精霊の中で、一番先に私の肉体を使用し始めたのが、現在、誰でも耳にする様に成った「マクロビオティック」を世界に広める事に成った、故桜沢如一である。
其れに、佐賀県のスローフードの世界で有名に成った「竹富勝彦氏」と、東京の「桜沢ジャパン」の会社に行った時に、桜沢如一の御影が飾られている応接間で、「此処が お前の仕事場だ」と、桜沢如一の霊魂に告げられた事が有る。
今朝のメッセージは、其の原点に、私に立ち戻れとの事かも知れない。
何故なら、天皇家の伝統でも、一番大事な儀式は、台所の神「御饌殿・竈の神・荒神様」を祀る事だからである。其処に立ち返って、物事を考えろとの事であろう。
今回の旅では、本を二冊買って来た。
あまり本を買わない私だが、養老孟司先生の「超バカの壁」と、家森幸男先生の「脳と心で楽しむ食生活」の単行本二冊である。
昨夜は、其の、家森幸男先生の本を読み終えたのである。
其の本の内容は、日本人の女性が、何故、世界一の長寿なのかについて触れており、其の要因は、豆腐や納豆などの豆類の食品と、魚を合わせて食べる事である。と 書いてある。
そして、世界中の人が、日本の伝統食を学べば、地球環境にも良いし、現在一番問題に成っている医療費も、何分の一かは減少すると述べてある。
其の本の内容から、「豆料理 石松」のメッセージの意味も理解されて来た。
他の作物が、栽培できない岩山でも、マメ科の作物は栽培出来るとの事である。
マメ科の植物は、空気中の窒素を根粒菌の働きで固定化するので、作物を栽培する事で、地力が落ちる処か、肥沃に成って来るのである。
其れ等の事を考えると、やはり「豆料理 石松」の暖簾は、天国への入り口だと考えても良いだろう。
人類の未来と、地球環境を守る施策は、以外に手短な処にあるのである。
今朝のメッセージは、其の事を急げとの事ではないだろうか。
其の動きを興す為に、私の、此の24年間の修行があったのだろう。
ようやく、私も、在るべき処に、治まって来た様である。
無庵師匠が、食事の後に、毎日納戸からピーナッツを出して来て、薄皮ごと食べさして「豆を毎日食べれば マメに成るから」と云っていたのには、深い意味が有ったようである。
しかし、私には、無庵師匠の様な実力は無い。
何故かと言うと、師は食事が済んだ後、私の身体が、どう変化したかを計りながら、其の日のピーナッツの数を変えていたからである。
私には、未だ、相手の身体の情報を、瞬時に読み込んで行く力は無いのである。だから、皆が、自分自身の判断で、此の事に取り組んで行かなければ成らないのである。
私がアドバイス出来る範囲は、此処までである。
24年前と比べると、食の情報は、随分と明らかにされて来ているので、其の気になれば、学習は幾らでも出来るのである。
後は、「豆料理 石松」の暖簾が、現実世界に早く下がる事を願うだけである。
其れは、また、日本の善き伝統が、世界に認められる事でもあるのだ。
「日本CI協会東京」 http://www.ci-kyokai.jp/c000008/archives/cat42.html
「正食協会大阪」HP http://www.macrobiotic.gr.jp/cooking/top/index.html
平成19年11月1日
礒邉自適
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