言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2007/12/30
言葉が大事
19・12・30
今年も残り後一日と成り、漢字の「冬」の意味である「縒り糸の結び目」の締め括りの日と成りました。
今朝のメッセージは、其の日に相応しく、是までの、私の旅の締め括りの様な言葉が届きました。
しかし、其れは、来年から始めなければ成らない、大きな出来事の前触れでもあります。
其の、来春から始まる、人類の新しい御世の幕開けが、私の思考に掛かっている事も、告げられて来たのです。
其れは男性の声で、一言「言葉が大事」と告げられて来ました。
是までに、ハッキリとした男性の声で、意味の有る力強い言葉が、音で伝えられて来た事は、あまり記憶に有りません。
今朝の声が、力強く命令的であったのは、神の世界が、是まで不安定であったのが、安定して来て「力・エネルギー」を得たからだと想われる。
旧約聖書には、「始めに言葉ありき言葉は神なりき。」と有ります。
其れは「ロゴス」の世界である。
ロゴス【logos】とは、 大辞泉
1 ギリシア語で、言葉・理性の意。2 古代ギリシア哲学・スコラ哲学で、世界万物を支配する理法・宇宙理性。3 言葉を通じて表される理性的活動。言語・思想・教説など。4 キリスト教で、神の言葉の人格化とし
[さらに]
1 ギリシア語で、言葉・理性の意。
2 古代ギリシア哲学・スコラ哲学で、世界万物を支配する理法・宇宙理性。
3 言葉を通じて表される理性的活動。言語・思想・教説など。
4 キリスト教で、神の言葉の人格化としての神の子イエス=キリスト
と、説明されています。
其れに、弘法大師空海が興した密教の真言宗でも、言葉(マントラ・真言)が一番大事であり、言葉その物が、宇宙の真理であることが説かれています。
そして言葉の力で、宇宙の森羅万象のエネルギーを操れるとされている。
それは、日本の古神道の「ふとまに」の世界にも、繋がる世界である。
そして、神社の出入り口である鳥居の前にも、「あ・始まり」「うん・完了・終結」の、高麗獅子の像が置かれている。
其れ等の事から、宗教以前に、生活の中で一番大事なものが、言葉である事が認識されていたのである。
言葉とは、自分の意思を音信号に換えて、口から発する動物の鳴き声の一種である。
だから、基本的には、本能的に自分の「憶いの猛・思いの丈」を、全身全霊で言葉に変換するものでなければ成らないのだ。
其れが、現在では、社会のシステム上「本音」と「建前」を使い分けなければ、生活出来ない世の中に成ってしまっている。
其れが、社会の中で成長する子供達にとって、人間不信の元と成り、社会が混乱している原因であろう。
其の点に於いては、私の両親は誠実な人間であり、祖父母の関わりもなく、屋久島の大自然の中の、一軒家に生まれ育った私は、言葉の悪い汚染を受ける事無く、順調に、意識を積み上げる事が出来たのだと想われる。
しかし或る段階から、周りの人間は真実ではなくなり、私は、孤独な世界に落ち込んで行き、土壇場の処で無庵師匠に捜し出されて、救われている。
しかし現在の世の中は、90%は不真実のまやかしの中に在る。
其れは、社会全体が商業システムに置き換わり、全てがコマーシャル-ベースで「流行化・ファッション」されているので、人間の意識は、真実の処に立ち返れなく成っているのである。
其れは、今流行りの神社廻りの傾向も、同じ様相を示しており、御陰さま参りの再現の様である。
其れは、明後日の元旦に、一番の盛り上がりを見せる。
其れが、釈迦牟尼佛の謂う「無明の時代」の意味であろう。
其の無明の世の中に、明かりを灯して、人民を救うと伝えられているのが「弥勒菩薩・マイトレイヤー」であるが、マイトレイヤーとは「有情」との意味なので、情報を持って人民の進む方向を換える人の意味である。
其の働きを、漢字に置き換えたのが「弥・彌勒・みろく」で、「彌」は「あまねく満ちる・花が咲き誇る。」の意味で、「勒」は馬のくつわの意味で「力を加えて方向を変える。」の意味である。
だから弥勒菩薩下生とは、「正しい言葉で人々を導き 真理の花が咲き乱れる世の中を 創る人が現れる。」との意味に成る。
其の、釈迦牟尼佛の預言が現実と成るのなら、真実の言葉をもって、情報を広める男性が、現れなければ成らないと言う事になる。
其の意味では、今朝の声で「言葉が大事」と告げて来た男性は、弥勒菩薩に関係が有るのだろう。
(此処で左腕全体にカモ(神の電気信号)が有る)
どうやら言葉の神は、「打て・右手」ではなく「さて・左手」の方に関係しており、左大臣の役割の様である。
来年は、右手の軍隊や葬式屋の方ではなく、左手の文学部か、理学部や芸能部が、力を発揮して来るのではないだろうか。
昨日大阪から、知人が帰って来て会った所為か、人間社会の「カルマ・業」が伝わり、メッセージの映像は俗世界其の物の内容であった。
大阪は、昔から港町で、俗世界の権化の様な場所である。
其の証拠に、挨拶までもが「儲かりまっか」であり、其の応えは「ボチボチでんな」である。
そんな所に祭られる神は、煩悩色の赤い鳥居の中に祀られる「狐神・いなり」である。
其の女狐の旦那様は、政治家の「狸親父」である。
現在の、大きな宗教団体の代表者は、其の狸親父と同じく政治的であり、大事な言葉を、金と信者集めに使用している。
今朝のメッセージは、其の世界の崩壊を告げて来たものである。
其の世界は、動物的な「食欲」と「性欲」と「ボス趣向」の本能的世界である。其れ等は、動物であれば、わざわざ教育をしなくても、本能で出来る事である。
そして、動物は、群れで動く事で勢力を拡大して行く。
其の、動物的カルマ・業から脱皮出来ない人達が、現在の社会システムを構築しているのである。
老子や、釈迦や、イエスは、其の社会システムから、脱出する事を勧めているのだが、其れは現代人のハートには響かなくなり、宗教もビジネスだと割り切って、金儲けの為に「イエスキリスト」の名を使用する御仁まで、大手を振って大道を歩いている始末である。
今朝の映像では、公園の様に新しく整備された所に展望台が造られていたが、大雨が降って地盤が緩み、土砂崩れと成って、地面がソックリ流されて行くのが映り、「言葉が大事」と告げられて来た。
其の意味する処は、基礎と成る土台の言葉を、しっかりと組み上げなければ、舞台が出来上がっても、イザ大雨が降れば、崩れ落ちてしまうと言うことである。
其れは、先ず、正しい言葉を組み上げなければ、何をしても、無駄に成るとの事であろう。
其れは、宇佐八幡の祭神である女神が、言葉が正しく成らなければ立ち上がらないとのメッセージが有った事と繋がっている。
「節名・せつな」http://wave.ap.teacup.com/20060106/268.html
今朝のメッセージには「貴方は 仲間を裏切るのか」と、声の荒い女性の声も有った。
其の声に、私が「私は 孤独を護っているので 仲間は居ない」と応えると、其の声は「貴方は 凄いわね」と云って、頭から消えた。
其れは、私への女神の最後の試しだったのであろう。
言葉とは、単独で生きて居る者には、必要ないものである。
だから動物でも、森林に単独で生活する虎や、ジャガーには、言葉は必要ないだろう。
智慧の神とされている梟も、単独で深い森に住んで居る。
しかし、人間は、もう森林で暮らせる動物ではない。
だから、どうしても、言葉や文字に頼らずには、生きて行けないのである。
其の為には、嘘偽りの無い言葉の世界を、構築しなければ成らないのだ。
そして、其の社会を組み立てる為に、現在のIT社会が、与えられているのである。
それも、中国の漢字文化と、老子の智慧や、釈迦牟尼佛の悟りの言葉を、上手に取り込み、更に、西洋の近代科学を取り入れて、文化を築き上げて来た日本の役割は、大きいのである。
昨日は、ネットワークとバーコードの件に付いてメッセージが有ったが、今朝は、其の中身を占める言葉に付いて、指示が有った事に成る。
どうやら来年に向かって、具体的な指示が降り始めている。
其れは、人間が神の力を頼みにする事ではなく、神の方が、人間に頼み事をして来ている証である。
人間社会には、教会などに、悩み事を聞く窓口が用意されているが、神様の悩み事を聞いて遣る窓口が無い。其の為に、私は、神の悩みを受け取る役割をやらされている事に成るのだ。
清水の流れる森の中に在る神社の社とは、本来はそう言う施設であったのだ。其れが、現在では、人間が頼み事をする所に、変わってしまっているのである。
我々は、神社の鳥居の前に有る御手洗い水で、自分の欲望を禊ぎ祓って、神の知らせを受け取る、本来の立場に返るべき時節を、迎えているのである。
我々は、正しい「言の葉風」の世界を、取り戻さなければ成らないのだ。
平成19年12月30日
礒邉自適
2007/12/28
脳を超える
19・12・28
昨夕、家主の西川氏の自宅に呼ばれ、夕食で「海鼠・なまこ」の刺身を食べた所為か、今朝は「蜥蜴・とかげ」の脳(古皮質)を超え、「蛞蝓・なめくじ」か「粘菌・ねんきん」の様な物が、ビジョンの中に現れた。
其れは、薄い水色に輝く光の世界に、白い形の蛞蝓か、固まって移動を始めた粘菌の様な動きの物体が現れ、其の物体がくねくねと動いて、ひっくり返ったりしながら、右側の方から中央の方に進んで来た。
そして其れは、段々と透明に成りながら、終には消えてしまった。
今朝のメッセージは其れだけである。
其れだけだから、メッセージと云える様なものではなく、私の体内のDNAが、生命の一番始まりの記憶に辿り着いたと、言った方が良いのではないだろうか。
蛞蝓の体は、殆んどが水分であり、塩を身体に掛けると、塩に水分を取られて縮んで行く生き物である。
だから、身体が動いている間に、DNAを構成している分子構造が外れてしまえば、水分子だけに成って消えて行くイメージは、満更でたらめだとは云えないのかも知れない。
其して、今朝の水色の世界は本当の水ではなく、水色の光の舞台だったので、水の記憶と言うか、水の情報の中に、其の蛞蝓が解け消えて行ったと言う風に、説明した方が良いだろう。
其の様に捉えて行けば、私の意識は最早、生き物の記憶ではなく、水の記憶の中に自分を持ち込んだ事に成る。
其の意識のレベルを考えれば、もう私の「霊魂・たましい」の中には、三途の川も無い事になり、死んでも、自分の動物的遺伝子の情報である血筋の家族とは、三途の川で会う事もない次元に、進んでいる事に成る。
何故、其処までの、純粋意識に達したかと言うと、今年は年賀状も書く気がしなかったので気持ちが楽であるし、クリスマスも一人で過ごしたし、正月にも母親や兄弟や子供達とも会う事も無い。
其れに、しなければ成らない事も、会わなければ成らない人間も居ないのである。だから、全く意識に拘りや「業・カルマ」が無いからであろう。
其れは、私の意識の中に、自分の行動意識や、霊魂の残念もない、無の状態であるからだと言えるのではないだろうか。
この様な意識の状態は、私も初めてである。
24年前、家族と離別し仕事も止めて、無庵師匠の指導の下、心臓が止まるまでの修行をして、神の世界に入った時にも、自由に成ったが、其の時は、自由に成った意識の中に、4311体もの霊魂が侵入して来て、地球の全生命を救わなければ成らないと言う、神界のプログラムに汚染されたのである。
其れが、クリスマスの日に全部消化され、昨日は、蜥蜴の意識まで帰り着いて、壁を這い上がって行った。
そして、這い上がって行った其の先は、身体がヒルコに成って手足が消え、最後には、長細い身体のウネリまで消えてしまい、水色の光の中に解け消えてしまったのである。
この様なビジョンは、釈迦や老子の言葉にも見当たらない。
しかし、日本語の中には、漢字の実写的な象形の姿としてではなく「うねる」とか、「ひるこ」とか、「なめくじ」とか、「なまこ」とかの名詞として、何かの生態を表現する言葉がある。
其れ等は、人間が文字を持たない時代に、自分の感覚や肌触りから、音色として、名詞に変換して来た「言の葉」であり、現代人には、其の語源の意味は能く解からない。
其れ等の、「言の音」の源流・みなもとに遡って行けば、「あー」の発音と、「うん」と頷く時の、首の動きだけが残る。
そして、其の先に進めば、古事記に有る、最初に生まれた「ヒルコ」に辿り着き、其処には「視覚」も「聴覚」も「手足の触覚」も無い、無音の世界が在る事に成る。
其れは、イザナギ(時間性)と、イザナミ(空間性)が交わって生まれたヒルコが、水に返された事へと繋がっている。
其処まで、意識が辿り着けば、日本の神話だけではなく、旧約聖書の物語や、ギリシャ神話まで、全部、人間の脳が創作した物であり、かぐや姫や、浦島太郎や、桃太郎などの物語と同じで、現実の物ではない事が、理解されて来る。
其れは、其の物語さえ存在しなければ、人間社会には、宗教と言う様な物は一切無く、其れが無ければ、人間には迷いなど生まれなかった事になる。
其れが、釈迦牟尼佛が説明したかった世界(真理・悟り)であろう。
後3日で、其の煩悩を消す除夜の鐘が成る。
其の除夜の鐘は108回鳴らされるが、108の数は12x9=108である。其れは、幾つもの云われが有るが、確かな物は無いので、私には12ヶ月に「苦・く」を掛けているのだと想われて来る。
除夜の鐘を突いたり、聞いたりしても「業・カルマ」が外れる訳でもないし、悟れる訳でもない。
其れは、気分的な幻覚・まやかしの世界である。
釈迦の訓えの中には、其の様なものは何も無い。
他にも、「8万4千の法燈」との文句も有るが、其れは12x7=84の数字であり、其れは「12ヶ月x七光り」の意味を、現しているものであろう。
私の今朝のビジョンは、その「苦・」と「法燈・すくい」の両方の世界が、イメージから消されている事も、感じとれるものである。
何故、今朝、其の様なビジョンが送られて来たのだろうか。
其れは、胃袋に入って溶かされた「海鼠・なまこ」の生体情報なのか、昨日文字化した「ピタゴラス」の霊魂でも、反応しての事であろうか。
何れにしても、何故、私が「孤独」と「自由」を与えられているのかの理由は、解かって来ている。
今年も 私の認識は、随分と変化して来たものである事よ。
既に、60歳の齢・よわいを超えているのに・・・・。
平成19年12月28日7時26分
礒邉自適
2007/12/11
和歌(こたうるうた)
19・12・11
今朝のメッセージには、「和歌山」の名が出て来て、出版会社「野草社」と「新泉社」の社長である「石垣雅設氏」の姿が現れ、私の文章の整理が始まる様子が映されて来た。
そして、「いま4日目」との日数が、告げられて来た。
本日11日から、4日前は12月8日で、其の日のメッセージの内容は、私が、新しい道の開拓に歩き出す場面で、新しいブログ「精神画像(イメージング-ストリー)を開設した日である。
今朝のメッセージは、其の事が、既に動き出している事を示して来たのだろう。
そして、其の世界は「和歌山」の名に関係があり、言葉や文字の世界に関係が有るとの事らしい。
早速パソコンで、「和歌山」の名の由来を調べると、和歌山県の「玉津島神社」がある「和歌浦」が、和歌山の名の元で、もともと和歌浦は「弱浜(わかのはま)」と呼ばれていたらしい。そして、玉津島神社の祭神は、「衣通姫・そとおしひめ」または「そとおりひめ」)と言う名で、和歌の神様と言う事である。
参考HP http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/hime/sodousi.htm
どうやら、私が新しく踏み込んだ世界は、和歌の世界に関係が有る様だ。
其れは、「言葉」と「文字」の世界であり、9日の「全てが言の葉風(ことのはかぜ)」のメッセージが、ポイントに成っている様である。
不思議な事に、私が「ジョンレノン神社」を建てたらどうかと、冗談みたいに書いたら、読者から投稿が有り、小野ヨーコさんが既に、青一色の塔を建てており、世界中で祈りの短冊を集めて、其のタワーに集めているらしい事が判った。
其れは、私がイメージした事は、一部は既に、此の世で始まっている事であるのが理解できて来た。
私は、全国の神社や、お寺を回って来たが、未だ一度も、絵馬に願いを書いた事も無いし、七夕の短冊に願い事を書いた記憶も、子供の頃の淡い思い出を除くと一度も無い。其れは、私に特別な欲望が無いからであろう。
そんな私には、逆に4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」が起きて、神界からの願い短冊や、絵馬が伝えられて来るのである。
其れは、天智天皇の「神籬の 代よの乱れを盃に 菊一輪と まわし飲み」や、昭和天皇からの「わが身 既に遠く よき世を 願い奉る」などである。
他にも、23年前、屋久島の石塚山に登った時に、「石塚の 四方(よも)の山に尋ねても 答え返らじ 我が身に聞けよ」等もある。
私は、其れ等の言葉が伝えられて来なければ、今日まで、此の世界に付き合ってはいなかったかも知れない。
其れと、自分の内側に巣くう何者かの声で、「葦原の カラカラ鳴るは わが心 枯れてこそ なお美しきかな」と、口をついて和歌が出て来たのは、21年前39歳時の初冬、四国高知県の葦が生えている川原での事であった。
其の様な出来事を考えれば、私は、和歌を通して、古代人の霊魂を道連れに、旅を続けて来た事になる。
其れは、天智天皇霊と昭和天皇霊の和歌は、政(まつりごと)の願いであり、石塚山の和歌は神霊からのものであり、四国の高知県の川原で口を付いて出て来た和歌は、松尾芭蕉の様な、禅宗の歌人の物の様である。
其れ等は、私の意識が、多面的に接続・チャンネルしている事を示している。
しかし、今朝のメッセージでは、既に私は、彼等が通過していない世界に、足を踏み入れ様としている事を、知らせて来ている。
其れは、彼等の思考を借りるのではなく、私自身の意識が、新しき「敷島の道」を開拓しなければ成らない事を、意味している。
其れは、もう神前に額ずいて、神様の「和歌・言葉」を待つのではなく、私自身の言葉で、四次元と三次元世界を、引っ張って行かなければ成らない事を、意味している。
其れは、神様に祈りを捧げるのではなく、此の宇宙の最前線に立つ我々人間が、未来を創造する為に、新しい和歌を詠んで行かなければ成らない事に成るのだ。
其れが、皇帝の歌詠みの世界であり、神霊の思頼を引き受ける事でもあるのだ。
其の世界こそ「治ろしめし」の世界であり、「詔・みことのり」の世界であろう。
日本には「言霊幸合う州・ことたまさきあうくに」との言葉が在り、神社で唱える大祓詞には「・・・国津神は 高山の末低山の末に登り坐て 高山の伊褒理 低山の伊褒理を掻き別けて聞食さむ 此く聞食してば罪と言ふ罪は有らじと・・・」と在り、神様の言葉は、自然の中に籠っている理・ことを詩っている。
其の、大自然の中に籠っている「言葉・ことのは」を読み込むのが「皇帝・スメラノミコト」の役割であり、其れを、民に伝えるのが、般若波羅密の智慧の世界なのである。
昨日は、其の智慧の働きの基に、三匹の蛇・エラブが住んでいる事が映し出されて来て、私の意識は一番細身のカラス蛇を救った。
其れは、自分の中に住む逃避癖や、邪悪性を、整理できた事を意味しているのだろう。
自分の内側には、もう真実の蛇・エラブだけが残ったのであれば、私の意識から生まれる言葉は、スメラノミコトの言葉であるとの事だろうか。
そうであれば、其れこそが「真言・マントラ」の世界であり、弘法大師空海が命を堵して、護り続けている世界である。
其の事を考えれば、私の脳裏に棲んで居て、私の意識として行動して居る者は、弘法大師空海の意識と言う事に成る。
私は23年前に、高野山の山院に参詣に行くと、敷地の中に入る前に「穢れているから 入るな。」との、男性の言葉が有ったので、未だ一度も高野山寺の中には足を踏み込んではいない。
其の弘法大師空海は、京都の嵐山に有る虚空蔵菩薩を祀る「法輪寺」で出て来て、「未だ 我が弟子 我を超えず。」と云って来た。
其れは、弘法大師空海が中国の「恵果和尚」から引き継いだ密儀が、未だ誰にも正しく伝わっていない事を意味している。
私が、出雲の安部忠宏氏の所で、初めてセミナーを始めたのは1997年3月21日である。
其の日は、弘法大師空海の1212回目の命日であり、其れからも、毎月の21日の月命日は空海が重点的に私の身体を使っている様である。
しかし、其の弘法大師空海も、此処から先の未知の世界には、踏み込めないとの事であろうか。
若しそうであれば、此処から先は、未だ未来世界が、出来ていないとの事なのかも知れない。若し既に未来世界が存在するのであれば、彼等が先に調査をして、道案内をすれば良い事だからである。
そう考えると、もう此処から先は、道祖神の「猿田彦神」も、道案内が出来ない事に成る。其の様に考えると、自分の身体を貸してさえいれば良いと、気楽に考えて居て私の考えは、今後通用しない事に成る。
(此処で 左手親指の指紋の所にカモ・神の電気信号が起きて来た)
さて、此処から先を、どう考えるかが問題である。
私は昨日、今日から魚釣りでも始めて見ようかと考え、買い物の帰りに魚釣りの餌を、買って帰る心算だったのに、何故か、近くまで来てから忘れてしまい、買って来なかった。
若し、餌を買って来ていれば、今頃は、釣りの事に、頭が占領されていたかも知れないのである。
今朝のメッセージの様子からすると、どうやら魚釣りに頭を使う事は、未だ出来ない様である。
では、是から何を考えて行けば良いのか、其の答えは、石垣雅設氏が持っている様である。
石垣雅設氏には、「世界の三千・四千と 対立しているどの宗教も、どれ一つ傷つける事の無い大真理を、日本から出すのが お前の使命である。」と伝えられている。
だから石垣雅設氏が、私の言葉の整理に掛かる映像は、私の今後の動きに石垣雅設氏が絡んで来るとの事ではないだろうか。
私は既に、20年前の1987年6月9日に、奈良市の「大倭あじさい邑」に在る大倭神社の会館で、山尾三省氏と石垣雅設氏と私の会談が行なわれ、其の録音テープは起されて、野草社発行の「80年代・新しい旅のはじまり」NO41号に載せられている。其の時に、既に、石垣雅設氏には安心して言葉を預けられる事を宣言してある。
今、其のページを開いて、私自身が驚いている。
其れは、日付が6月9日だからである。6月9日は「タオ・道」のマークの日であり、岡山のスーリアさんが、屋久島でスーリアサロンを2002年6月8日に開催し、翌日9日の11時11分に「矢筈岬」で岩戸開きの儀式をした日でもあるのだ。
矢筈岬は「東経130度30分」の線上に有り、山尾三省氏の墓も、其の線上の山奥に在る。
何故か、私は、8年振りに屋久島に帰った時に、港から自宅には向かわずに、山尾三省氏の墓に直接向う事に成り、墓の前で手を合わすと「礎・いしずえ」との言葉が一言伝えられて来た。
其れは、山尾三省氏が詩人であり、言葉と、詩の世界に触れていたからであろう。其の「礎」の言葉は、「自分も詩霊の礎に成ったのだから、お前も同じく言葉の礎に成れ。」との意味に、受け取られたのである。
「山尾三省を偲ぶ」http://moon.ap.teacup.com/20060830/
何故、山尾三省氏と、初めて合うのが地元屋久島ではなく、奈良の大倭あじさい邑でなければならなかったのか、そして其の日が、何故6月9日でならなければならないのか。
更に、私が初めて大倭あじさい邑に、石垣雅設氏を訪ねたのは1985年7月26日で、其の日はマヤ暦の元旦なのである。
其れに、私は、屋久島に帰って来たのは4月24日であるが、23日の早朝港に向かっていたら車がパンクして、其の日のフエリーに乗る事が出来ずに、次の日の船に乗ったのである。
そして、24日に宮之浦の港で出会った人が、山尾三省氏の墓にお参りしたいと云うので、墓参をする事に成ったのである。
前日に、私の車がパンクしなければ、墓に参る事にも成らなかったのである。
其れ等の事柄を考える時、全てを管理している神様は「トキ」の神様である事に気付く。
何故、マヤの文化では、時間の操縦士を神として、其の神様に、生きた人間の心臓を捧げなければならなかったのか、其の秘密は、未だ明らかにされていないが、心臓がリズムを刻んでいて、其のリズムが停止する事と、死が重なっているからであろう。
心臓に付いて、明らかに成って来た事は、時間が先にあって、其の時間の中で心臓がリズムを刻んでいるのではなく、心臓のリズムが、生命の時間を決めている事である。
動物は、凡そ15億回心臓が脈を打てば、死を迎える様に成っているらしい。
「鼠」は、心拍が早いので、約2年間で15億回打って寿命を向え、「像」はゆっくり打つので50年間生きるらしいのだ。
若しかしたら、マヤ人は其の理・ことを、既に知っていたのかもしれない。
弘法大師空海は、「真言・マントラ」の世界には秀でていても、身体の内面にまでは踏み込んで行っていないのかも知れない。
私の意識が、是からマクロの世界に別け入るのか、ミクロの世界に侵入する事に成るのかは分らないが、何等かの方向に、思考を進めて行かなければ成らない事だけは確かである。
平成19年12月11日
礒邉自適
2007/12/10
三匹の蛇(スリースネークス)
19・12・10
昨夕は、18時半より、原地区に有るNPO法人「緑の風」の事務所で、忘年会を兼ねた、来年の屋久島ツアーの打ち合わせが有り、私は其のまま、近くに建築されたばかりのゲストハウスに泊まった。

私は是まで、原地区に泊まった事が一度も無い。
いま、屋久島の地図を広げて、ゲストハウスの位置を確認すると、ネマチ岳を中心として「142度」の角度に位置し、辰巳・たつみ(135度)と、巳・み(150度)の丁度中間に当る。
それだと、今朝のメッセージに三匹の「蛇・巳・エラブ」が出て来たのにも、意味が有る事に成る。(真南・180度は朱雀)
今朝のメッセージの映像は、私が大事業家の自宅に招かれ、家の間取りや、物品を置く場所等を、アドバイスしている場面から始まった。
そして、次に、大きなイベントが開催される会場に案内され、私はゲストの部屋に居て、其の様子を見護って居た。
其れから暫らくして、退屈して来たので、其の会場を見周りに、少し動き始めると、大きな青灰色の「青大将・蛇」が居て、私が近付くと、直ぐ頭を擡げて逃げて行った。
次に角を曲がると、右側の台の上に、黒くて大きなコブラが何かを狙っている。私は、其の「コブラ・毒蛇」が、何を狙っているのだろうかと想い、其方の方を見ると、細い「カラス蛇」が一匹いるのである。
今朝の映像に現れた三匹の蛇は、自分の中に住んでいる「三つの性質」を意味しており、人間の意識の選択には、三つのパターン(三つのエラブ・選択)があり、人間の「選択・えらぶ」作業は「善悪」とか「損得」の二元論だけではなく、もう一つ、答えを出さずに「逃げる・避ける」行為の、蛇の存在が在ると言う理・ことを、示しているのではないだろうか。
其れが、身体は大きいが、無害で逃避癖の有る青大将なのである。
屋久島では、カラス蛇の事を「助け蛇」と呼ぶ。其の分けは、カラス蛇は、人間には何の害も無く、マムシを食べて、人間を助けてくれるとの理由からである。
屋久島にはマムシは居るが、コブラやハブ等の強烈な毒を持つ蛇はいない。
其の、屋久島に居ないコブラが、とても大きく凶暴な姿で現れたのは、何かを象徴しているのであろう。
私が、其れは、何を象徴しているのかと考えれば、今朝のビジョンに現れた資産家や、大きなイベントの場面に関係が有り、其れ等の世界には、巨大な毒牙を持ったコブラが、獲物を狙って、待ち構えている理・ことを示しているのであろう。
そして、狙われていたカラス蛇は、人間の内に存在する「真実」を意味しているのではないだろうか。
何故、大きなコブラが、其れを狙っているのに、襲って飲み込むのを躊躇していたかと云うと、其の細い身体のカラス蛇には、後ろの方から、青色に光る糸が伸びて来て、巻き付いているので、其の青白いレーザー光線の様な糸が怖くて、襲えなかったらしいのである。
其れは、どんなに凶暴な毒蛇でも、神の光・情報に身を護られている「真実・まこと」には、おいそれと、立ち向かえない理・ことを、示しているのではないだろうか。
今朝は、其の大きなコブラを眺めて居ると、イベント会場の管理をして居る女性が見回りに来て、其のコブラに気付き、慌てて、槍の様な棒を持って来て頭を刺した。
すると、其のコブラが、のたうち回って、どうしようも無くなって困っている。
私は、其の女性に代わって、槍を持つ事にした。
其れは、槍先が、台から外れてコブラが逃げ出し、会場に侵入すれば、大変な事態に陥るからである。
私は、どうしたら、其のコブラを退治する事が出来るかと考え、女性に熱いお湯を持って来て、蛇の体に掛ける様に指示すると、其の女性が、熱湯が入ったヤカンを持って来て、頭から体に掛けた。すると、直ぐに其のコブラは動かなくなった。
今朝の映像は、此処までである。
そして「この度は・・・云々」との、挨拶文の書き出しの部分のフレーズが、脳裏を流れた。其れは、年賀状の書き出しの部分ではなく、何かの挨拶文の書き出し部分である。
其の挨拶文が、何に関係が有るのかの示唆は、未だ無い。
現在・いま、私に起きている出来事は、NPO法人「緑の風」の理事に成ってくれないかとの話だけである。
私は未だ、其の事に対する答えは明確にはしていない。
若しかしたら、今朝のメッセージは、其の事に対して、私が、答えを決めかねているから、潜在意識の中の「蛇・エラブ」が、顕在意識に浮かび上がって来たのかも知れない。
其れは、私の意識の中に、逃げようと言う、弱虫の「青大将」が棲んでいるからではないだろうか。
しかし、私には、もう、大きな欲望のコブラを飼う気持ちは無い。
残されている選択は、神様の情報である「青色の糸」を、防御の為に、身体に巻き着けて、毒蛇と向かい合う、細身の小さなカラス蛇の立場に、身を置く覚悟が有るか、無いかであろう。
其の「選択・エラブ」は、私自身の、顕在意識で決めなければならないのだろう。其の決心が決まれば、「この度・・・云々」の文章の続きが、映し出されて来るのかも知れない。
今朝は、ゲストハウスから出て、モッチョモ岳を眺めると、雲一つ無い青空に、モッチョモ岳の岩場が、大きな人物が座っている姿に見えた。
其れは、未だ自分の内側に、大人物に育ちたいとの、男の願望が残っている所為だろうか。
今朝のメッセージで、一つ気付いた事は、女性が困っている時に力を貸し、智慧を使って、女性に「安心感」と「男性に対する信頼感」を、与えられた事である。
若しかしたら、今朝のテーマは、「男の役割は、女性が男性に対して、信頼感を抱かせる事に有るので、其れを回復せよ。」との事ではないだろうか。
其れが、当っていれば、私も自分の中から、青大将を追い出さなければ成らない。
何故、私の意識の中に「青大将」が巣くう事に成ったのか、其れは、私が学校で一番体が小さく、虐めの対象にされて居たので、気持ちは大きくても、肉体が小さい為に、何時も逃げ出せる体制で、生きて来たからなのかも知れない。
其の癖が、なかなか取れないのであれば、「若大将」の加山雄三にでも弟子入りして、勇気を学ばなければ成らないのではないだろうか。
私は近頃、NHKの番組「ちりとてちん」を観て居るので、テレビの影響を受け過ぎているのだろうか。
平成19年12月10日
礒邉自適
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