言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2008/4/27
死の川を流れる
20・4・27
今朝のメッセージは、此の世から、自分の意識が離れて行くビジョンだった。
其れは、昨日の、人間の感情のテーマの続きであり、人間が、此の世を離れる時の感情を、最後にくっ付ける必要がある事を、告げて来たのだろう。
其の映像とは、私の意識は、肉体の形のエネルギー体に在るのだが、骨格や肉体が伴っていないのである。
そして、生暖かい、マルーン色(赤系統)の血液の流れの中を、流れる様な感覚で、右側の方に移動して行った。
すると、其れに上から重なる様に、光の女神が、笑顔でもって、優しく私のエネルギー体の身体を包み込んで来た。
しかし、私は、未だ体の中に食べた物が残っていて、完全な浄化が済んでいない事を知らせた。
其れでも、其の女神は、私の身体を離さないで、不純物が完全に排出されるまで、其の流れの中を、私を抱きしめたまま、一緒に流れてくれるのである。
私の意識は、其の状態が気持ち良いものであり、安心出来るものなので、其のまま、流れに身を委ねて意識が遠のいて行った。
其のビジョンの意味は、人間の意識は、或る情報(プログラム)に因って、人間の肉体に住んでいるモノであって、肉体から意識が離れる時は、完全にカルマ・業が浄化されていなければ成らないと言う事である。
だからこそ、密教の行者は、即身成仏を願って断食を続け、身体が完全に衰弱してから木漆を飲んで、肉体をミイラ状態にしてしまうのであろう。
其れを考えると、今朝の私の意識は、普通の状態で在りながら、其れを体験していた事になる。
其れは、人間が「人・霊宿・ひと」として、此の世に存在し、最後に体験する感情であると言えるだろう。
私は以前、其れとは逆に、此の世に生まれて来て、初めて産湯に浸かって手足をバタ付かせながら、長い間「オギャ オギャ」と泣き続けている自分の魂しいを、全身全霊で、強烈に感じる体験をした事が有る。
其れは、私が阿蘇に有る「日の宮弊立神宮」の近くに、住んで居た時の出来事である。
抜粋・・私は、京都ドレミ村の天波博文氏が、初めて阿蘇の私の自宅に訪ねて来て知り合った日(1992年11月7日)の未明の霊夢で、私の意識は生まれたばかりの赤子姿で、タライの産湯の中で一時間程、泣き続けて居る体験をした。・・・
「森森」http://green.ap.teacup.com/20060818/252.html
其の時は、其のビジョンを深く洞察する能力は、私には未だ無かったのである。
しかし、今朝のビジョンと、其れを合わして考えると、其れは、非常に大事な事であり、今後の精神世界や、哲学・文化面に於いて、基本的な柱と成る理に成るものではないだろうか。
其れは、日本語の「ひと・人」が、「霊が留まる・ひがとどまる」との意味の「霊宿」である事が、新しい形で再認識される事でもある。
だから、昨日のメッセージに有った、人間の感情の在り様に付いての内容に続いて、今朝、其の「始まりと終わり・誕生と臨終」の魂しいの状態が、追加されて来たのである。
「臨終」の単語の意味は、─引用開始─
臨終(りんじゅう)とは、死を迎える直前の時期をいう。臨命終時(りんみょうしゅうじ)の略語。古来より、この危機的な時期を巡って、死の受入れと死の看取りに関する様々な慣習と文化が生み出されてきた。
死を迎えることの意味を説いた古い文献としては、エジプトやチベットで作られた『死者の書』が知られているが、それは必ずしも臨終時の問題に焦点を合わせたものではない。これに対して西ヨーロッパでは、中世末期に『往生術』として知られる文献が書かれ、臨終を迎える者のための心得が説かれた。この文献によると、死の床には必ず悪魔が介入し、良心の錯乱と種々の苦しみを引き起こす。しかしこのような誘惑に対抗するため、神は死にゆく者のためにあらかじめ天国を経験させ、罪の償いを約束するものとした。この悪魔の襲撃については多くの図が描かれ、民間に流布した。また往生術に関する多くの手引書では、死の看取り手は臨終者に対して、回復するかも知れないという幻想を与えるべきではないとし、臨終者が死を自然に受け入れることができるよう、できるだけの手助けをすべきであると説いている。
インドの仏教では、古く祇園精舎で北西の一角に無常院を作って病者や死を迎える者を入れたという。・・・
─引用終了─ ウィキペディア辞典 現在記載
「臨・リン」の漢字は、上か下を覗きこむの意味で、多くの物を覗き込む・のぞむの意味を表わす。と有り、臨終とは、其の事が終るとの意味に成る。
其の意味からすると、今朝、私が体験した世界は、太陽の様な暖かいエネルギー体が、顔だけ美しい女神の形で現れ、私の身を優しく包み込みながら、一体化して来た事に成る。
そして、其の宇宙の女神である意識から、分離されて居た私の意識(霊宿)の本体が降臨して、地上に降ろされていた分身を、自分の身に回収したとの事に、成るのではないだろうか。
其の様に考えると、「臨終」とは反対側に位置する「誕生」の意味も、相対的に認識されそうな気がして来る。
私が16年前に体験した、生まれたばかり赤子の状態は、未だ、自分に起きている現象が何なのかが、何も分からず、ただ手足をバタ付かせて、激しく泣いているばかりであった。
其れは、私の意識が、45年前の誕生時の産湯の場面まで、記憶が返った事を意味する。
そして今朝は、其の誕生時から61年経っている私の意識が、まだ迎えてはいない「湯灌・ゆかん」の場を体験し、其の臨終を迎える為の、心構えを示唆されて来た事に成るのだ。
其れが、暖かい液体の様な流れの中であり、身体の中から一切の食べ物・糞尿が、排出されていなければ成らない理を示している。
参考HP 湯灌の儀 http://www.dreamer-net.co.jp/sougi/yukan.html
其の理を考えると、「事故死」や「自殺死」は、其の準備が出来ないから、臨命終時(りんみょうしゅうじ)の儀式が、正しく行なわれていないので、不成仏とのことに成ってしまう。
だから、自分が死ぬ感情を体験しない侭、交通事故死等をすると、自分の死が自覚出来ないので「浮幽霊」と成ってしまうのだろう。
今朝は最後に、大きな鍋に、七草粥の様な、緑色の葉の薬草らしき物が入った、食べ物が煮られていた。
其れは、人生の最期を迎える為に準備された建物で、多数の人が成仏を願って身体を浄化する為に、集団生活をする、台所の様子なのかもしれない。
若しそうであれば、先に引用した文章に有る「無常院」らしき物を、準備する事が必要だとの事ではないだろうか。
現在の学校教育は、日教組運動に政府が妥協する形で、神や霊魂などの存在に触れる事はない。
其の結果、人心は荒廃し、漸く此処に来て、道徳教育が見直されて来ている。
本来の、民主主義の概念は「神の下に 民衆はみな平等の権利を有する。」との理であるから、神や霊魂の存在を否定する考えは、本来の民主主義の概念からは外れているのである。
其れに、マルクスは真実の神の存在を理解して居たからこそ、既存の宗教体制を批判したのであって、神の存在を、否定しているわけではないのである。
昨日と、今朝のメッセージの内容は、神の存在が、人類全体に対して、送って来た指示であろう。
其れを考えれば、是から、築いて行かなければ成らない未来社会にとって、人間の感情のテーマは一番大事な理であり、其れを、基本としなければ成らないとの事ではないだろうか。
人間はどんな人でも、自分の顔を持っており、其の顔は「一日に 何万回も変化しているのだ。」と、釈迦牟尼佛は謂っているし、アメリカの16代大統領であるリンカーンも「男は40歳に成ったら 自分の顔に責任を持たなければ成らない。」と謂っている。
彼等の言葉からも解かる様に、人間は、自分の顔の表情を一番大事・重要に考えなければ成らないのである。
其の理を、昨日と今日で、伝えて来たのであろう。
何故か、西洋の風習はイエスの誕生日や、ワシントンやリンカーンの誕生日を祝う祭りが行なわれる。
其れは、日本の神社の大祭が「命日」である事とは反対である。
其れは、イエスやリンカーンが、大往生を向える事が出来ずに、殺された為であり、死の状況が、目出度いものとは成っていないからなのかもしれない。
平成20年4月27日
礒邉自適
2008/4/6
収穫される最後の二つのモノ
20・4・6
明後日の4月8日は、釈迦が仏陀として目覚めた日とされている。
其の日を控えて、今朝のメッセージは、意識の本質の処が、開かれて来た様な感じである。
今朝のビジョンは、神の光の世界で、私の意識の在る方に向かって、天から見えない両手が下って来て、最後に残されていた二つのモノを、収穫する様な場面であった。
しかし、其れは、目に見える物や、言葉としての音色も無いので、何なのかは定かではない。
私は、其れから瞑想をして、其の二つの物が、何なのかを探っていた。
そして、其の手掛かりとして、昨日の「大物主」と「大己貴・おおなむち」の言葉が浮かんで来た。
「おおなむち」の「なむち」は「汝・なんじ」が語源であり、現代用語では「貴方・あなた・君・you」である。
其れは、大物主の「主・御主・おぬし・主さん」と同語であるので、「大物主(大人物)」と「大己貴(尊敬するに値いする貴人)」は、同じ、他者を対象としている言葉である事が理解できる。
其れは、自分自身を云う言葉ではなく、相手の存在を呼ぶ・表現する言葉である。
其れは、自分が、相対的に相手を見て発する言葉だから、自分自身を表現する言葉ではないのは明らかである。
其れを考えると、神社や寺院に祭られている神仏は、自分自身ではなく、対象物である事に成る。
是は、非常に大事な「理・コト」である。
人間にとって、神仏とは、自分自身の事ではなく、全て対象物なのである。
だから、其の対象物に祈りを唱えたり、願い事をしたりしている間は、自分自身が、神の創造物として生きて居る事には成らないのである。
私は、こうして、25年間、此の世界に身心を捧げて来たが、其れは、私に何かの願い事や、欲望が有ったからではなく、4311体の霊魂の「神霊の思頼・みたまのふゆ」に協力して来ただけであって、自分自身の為ではない。
だから、私は、神仏に対して、何等かの頼み事はしていない。
何故なら、自分に頼み事をして来る相手に対して、自分の出来ない事を、頼む程、馬鹿な事は無いからである。
其れを逆に考えれば、神仏に願い事をする人間に対して、神仏が頼る事が出来ないのと同じ事である。
私は、此の世界に入るまでは、無宗教であって、神社や寺院に願い事に出掛けた事は無かった。
其れは、自分の育った家に、仏壇や神棚が無く、両親が、神社や寺院に、願い事に出掛けた事も無かったからである。
だから、私にとって、大物主とか「大己貴」とかの、対象物である「なむち」「お主し」は、無かったのである。
其れが、無庵師匠に捜し出されて、三ヶ月の精進の結果、4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ(日蓮の謂う諸天善神皆加護に付く)」が起きて、現在に至っているのである。
其れが、今朝の状況は、最後に残されている二つのモノが、神の手に回収されるビジョンが映されて来たのである。
其の、最後の二つとは、「なむち」の存在と、「なむち」を対象としている、「吾・われ・I・アイ」の意識ではないだろうか。
そうであれば、「私・吾・あ」と、4311体の「なむち・汝」の対象が消え去り、全てが「神の光・アミダ・ビルシャナ」に、溶け入ったとの事なのかもしれない。
其れは、私の意識が、いよいよブッダの実質・真実・本体に、入ったとの事なのかもしれない。
24年前に起きた現象は、私に、其れが、訪れたモノであって、今朝の場面は、「其れ」が、私の中で消化されて、消えた事を、意味しているのではないだろうか。
そうであれば、私に起きた現象は、全部消化され、私は25年前の自分自身に、返ったと言う事に成る。
しかし、そうであっても、現在の私は25年前の私ではない。
私には、25年間の旅の思い出が残っているし、意識の状態も昔とは違っているし、屋久島の現状も、昔の環境は既に、私の身の周りには無いのである。
其れは、浦島太郎現象と同じである。
私は、他人の知らない次元の旅をして、故郷に帰って来ているのである。
しかし、私がどんな旅をして来たのかは、屋久島の人間は、誰も理解しないのである。
其れは、釈迦牟尼佛がブッダと成って帰って来た事を、誰も、理解しないのと同じ事である。
釈迦は、ブッダと成り、三千世界を認識の中に納め、「過去・現在・未来」を自分の物とし、衆生一切を自分の子としたのである。
そして、自分の一念が、三千世界を変える事を認識し、其れを実行したのである。
其の結果が、現在の御代であり、私の存在と、私の環境なのである。
今朝は、其の私と、対象である「なむち」と「主・大物主・天御中主・」が、光の源へ回収されてしまったのである。
其れは、釈迦の謂う「久遠元初・くおんがんしょ」の世界に、私の我が消えたコトを意味し、老子の謂う「タオ」が回収されて、玄の内に還ったと言う事である。
其れは、宇宙意識の中に、汚染物質として漂っていた、人間の想念や概念・欲望が浄化され、本来の光の状態に、返ったとの事ではないだろうか。
そうであれば、人間が、是からどんな想念を、神界に送り込んでも、其れに共鳴して、反応を起す対象「なむち・主」が居ないと言う事である。
そうであれば、是から、神社や寺院に出掛けて願い事をしても、何にも成らないと言う事である。
若し、其れに反応するモノが有れば、其れは低級霊であると言う事である。
と言う事は、人間は皆、対象を求めてウロウロするのではなく、自分自身が相対世界に、目を向けるのではなく、瞑想をして絶対世界に繋がり、本来の「意識・命・みこと」に、目覚めるしか、他に「道・タオ」は無いと言う事である。
其れが、本来の釈迦の訓えであり、日本の古神道の世界なのである。
釈迦牟尼佛の訓えは、インドには残っていないとの事である。
其れに、日本の現在の神社は、本来の機能を失って、人間の欲望を助長する存在へと成り下がっている。
其れ等の事を改善して、本来の日本の文化を、世界に示すトキが来ているのである。
其の為にこそ、此の日本国の自然の美しさや、国土の鉱物・ミネラルが存在するのである。
意識は、物質に因って発生しているのである。
だから、物質の無い無の空間では、意識は生まれないのである。
其れが、「大日如来・ビルシャナ」の法則であり、其れを生み出している働きが、光の世界である「阿弥陀・アミダ」である。
今朝のビジョンは、大日如来の働きを生み出している、阿弥陀の世界に、私の意識が在ったのだろう。
と言う事は、私の意識が、阿弥陀の世界を、内臓したと言う事にも成る。
そうであれば、私にはもう、手足を使う必要はなく、ヒルコの姿として、ダルマと成って、ダンゴ虫の様に、唯、座っているだけで良いのだろうか。
そうであれば、誰も私の事を、大物主とか「大己貴」とか呼んで、余計な事を頼みに来ないかもしれない。
私は、中学校時代から他人の頼み事を聞いて、其れに対応して生きて来た。
其のトドのつまりが、4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」だったのである。
今朝は、其の事も全部解決し、私の意識からは「対象」と「対象を視る」意識体が、両方回収されたとの事であろう。
そうであれば、私の中に、ようやく静寂が訪れ、老子の謂う道・タオの生き方である「愚」を、実行出来ると言う事なのかもしれない。
其れは、自分の手の置き場として、大日如来や、阿弥陀や、釈迦や、観音様の手印を、組む必要が無いと言う事でもある。
そうであれば、私の杖を突いた姿の看板も、必要ないと言う事ではないだろうか。
其れは、タオのシンボルである陰陽の蛇が、大地から這い上がって来る為の、柱が必要無く成った事を意味し、天から下りて来る金鳶の止まり木も、必要無いと言う事である。
其れは又、漢字の「自分」の意味である、「自分を 刀で左右に切り分けて 自分の本質を知る。」が、私には理解されたとの事ではないだろうか。
其れは、自分のDNA・遺伝子の蛇糸が、もう鎌首を持ち上げる事は、無いと言う事なのかもしれない。
一昨日、次の氷河期に対応するメッセージが映し出されて来たが、其れは、釈迦が霊視した576千万年の未来社会が、延長されたと言う事ではないだろうか。
そうであれば、私は人類に対して、或る貢献が、出来たと言う事である。
是で、無庵師匠や、父親や、釈迦の供養が、出来たと言う事に、成るのではないだろうか。
平成20年4月6日
礒邉自適
2008/4/5
生命の象徴
20・4・5
昨日のメッセージには、未だ深い意味が有った様である。
今朝は、其れを紐解くヒントが示されて来た感がある。
其れは「生命の真実」と言う事であり、人間が頭で考える「宗教」や「イデオロギー」等の深部に潜む、生命の源の意識と言うべきモノであろう。
今朝は、流れて行く文章の中に「・・・芽が出・・・」との文字が、含まれているのが確認出来た。
そして、其の後の映像で、私の意識が何処かの役所に出掛けて行くと、其の係りの机に、妻の弟が座って居て、目的を話す事を躊躇している場面だった。
今朝は、其の二つのメッセージの意味を解釈していると、昨日のメッセージに関係している事が解かって来た。
其れは「実生・みしょう」の植物に関係があり「大田田根子・おおたたねこ・意富多多泥古」の「たね」と関係していると言う事である。
「おおたたねこ」は男性で、三輪神社の御祭神である「大物主・おおものぬし」の子孫である事に成っている。
そして、其の大物主の正体は「三輪山(三室山・みむろやま)」に住む蛇と成っている。
其の大物主の別名が「大己貴・おおなむち」で「おおなむち」とは「なむち」が賢い人を意味しているので、「賢い大人物」を意味している事に成り、「誰もが尊敬出来る立派な人物。」との意味なので、一昨日の「大人・大学」のメッセージの続きである事が解かる。
其れだと、「大物主」の文字の意味の「大きな者で主である」との意味と、「大己貴」の「賢い大人物」とは同じ意味であり、どちらも人物名ではなく、他人を評価して言う「敬称」である事に成る。
だから、其の言葉には、どちらも固定された人物像は無い事になる。
其の両方の言葉と、同人物とされているのが「大国主命」とされており、大国主命が其の言葉の対象人物とされているのである。
其れは、日本の国造りをしたのが「大きな国の主」の意味の大国主命であり、其の国を譲り受けたのが、天津系の「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと・ニギハヤヒ)」であり、国譲りの条件は、大国主命の霊魂を祭る社を建てて、斎祈する事だったので、出雲大社(杵築社)が建てられ、其れが、現在まで続けられているのである。
其の流れとして、饒速日命が奈良に国を造る時に、三輪山に「大国主命」と「少彦名神」をお祭りしたのではないだろうか。
しかし「なむち」は「なむし」「まむし」などの言葉に通じ、「三輪山・三室山」に住む蛇に関係が有るとすれば、三輪山の祭神は3000年前より更に古代の、縄文時代の神であるのかもしれない。
今朝、私が感じたのは、其れ等の神を祭る、人間の深層心理である。
其れは、自分の生命の記憶の中に、種の起源を探る働きがあり、其の働きが在るからこそ、自己治癒力が働き、免疫反応が起こるのではないだろうか。
其れは、細胞が損傷を受けても、元の遺伝プログラム状態に修正すれば、体勢を整えられるからである。
だからこそ、切り傷の細胞が、元の状態に復元されて行くのである。
しかし、其れは、環境が安定している時の場合であり、環境が変化していれば、元の状態に還ろうとしても、還れないと言う事である。
だから、昨日の文章に書いた様に、「受粉システム」または「生殖行動」を失った生物は、環境に対応したDNA細胞を創出して、生き残る事が出来ないと言う事である。
其の理は、古代人の方が、純粋意識で把握していた事柄なのかもしれない。
其の事を考えると、神話を無下に否定する事は出来ないだろう。
アステカの、カレンダーの北の位置には、葦の芽がシンボルとして措かれてあり、其の意味は、始まりであり、進むの意味であるらしい。
其れは、パスカルの「人間は考える葦である。」との言葉に、比喩されているのと同じく、日本の神話にも造化三神の次に、四番目の「神・はたらき」として、「可美葦牙彦舅尊・うましあしかびひこじのみこと(日本神話で、国土が油のように漂っていたとき、アシがもえ出るように生じた神。生命力の神格化。宇摩志阿斯訶備比古遅神。) 」が在る。
其れは、生命の象徴として「葦の芽」が、人間の意識の対象として、考えられていたからであろう。
そして、其の文化・考え方の始まりの処に、雄牛を神の働きの象徴として捉えた「バール信仰」のシュメール文化が存在するのであろう。
仏教の戒律を受ける「得度式・受戒式」と天皇家で行われる「大嘗祭」の儀式も、元はシュメール文化の儀式を模したモノであるとの事。
其れは、天皇が古代では「スメラのみこと」と呼ばれていた事で明らかである。「スメラ」とは「葦の生える地を治める者。」の意味で、「シュメール」が訛ったものであるとの事である。
其のシュメール文化は、エジプトに大きな影響を与えている。
旧約聖書に登場する「モーゼ」が、エジプトを脱出する時に、其のシュメール文化の神である「バール・雄牛」の信仰を払拭しようとしたが、其れが、新しい契約では払拭出来ないで、今日まで其の影響は続いているのである。
其れに、アルファベットの「A」は、牛頭の象形で、「B」は其の神を、跽いて祈る人の象形である。
そして、命の漢字の「口+令」の「令」は、其のAとBの組み合わせで、告げられた神からの命令が「命」の漢字の意味である。
京都の祇園祭の「牛頭大王」は、雄牛の頭を持つ素戔鳴尊である。
其れは、シュメール文化の流れが、日本まで流れ着いている事を示している。
何故、雄牛の角が、人間の文化から消え去らないのか。
其れは、人間の男性に生命遺伝子を残すと言う戦いが、本能として占められているからである。
其の本能は、人間や動物だけではなく、単細胞以外の地球生命には、本能として全生命の基本情報に、組み込まれているのである。
其れが、消滅すると言う事は、其れ等の生物の自滅を意味するのである。
其の理を考えれば、昨日、実生のみかんが現れた事と、今朝、文章の中に「芽が出・・・」との言葉を確認出来た事は、非常に大事であると、受け取らなければ成らないであろう。
其の事を考えていると、宮崎県の児湯郡都農町に在る「都濃神社・つのじんじゃ」の名が気に成る。
其れは、都濃は当て字で、本当は「角・つの」を当てるべきではないかと言う事である。其れは、牛が農作業にとって大事な物であるので、「農が栄えて都が出来る。」との意味を含んでいるのかもしれない。
都濃神社の祭神も、何故か大国主命・大物主である。
しかし、神武天皇が出発の祭に祈願したとの事なので、元の祭神が何なのかは定かではない。
今朝のメッセージには、其れとは、テーマが異なる場面がある。
其れは、私の意識が役所に出向くと、其処に、妻の弟が係りとして机に座って居り、話す事を躊躇していた映像である。
其れは、薩摩藩主が、幕府の徳川家から妻を貰って居て、攘夷の計画を届けに行ったら、其処に徳川幕府の殿様の息子が、係りとして座って居たと言う状況である。
其の意味は、新しい改革の計画を、既存の体制に持ち込んでも、受理されないと言う事である。
現代社会の日本政府は、幕藩体制ではなく、民主主義の体制だから、書類で提出すれば一応受理はされるであろう。
しかし、其の内容が、政府の要職を占める官僚が、失職するものであれば、採りあげられる事はないだろう。
其の事は、新しい芽が出る事と関係がある。
植物の芽は、太陽が当らなければ、丈夫な物には育たない。
太陽光線が届かない場所で、芽を出した植物は、太陽光線が当る所まで伸びて行くが、種子や芋が蓄えているエネルギーが底を突いてしまえば、其の時点で枯れてしまうのである。
と言う事は、太陽光線を遮る物が無い所で、芽を出す必要があると言う事である。
其れは、既存の政府や、宗教や、イデオロギーの下では、新しい計画は芽を出さないと言う意味に成る。
其の為に、私の存在が必要とされているのであろう。
私は是まで、体制の中で、頭を抑えられて生活をして来てはいない。
だから、自分の事の為に、他人に頭を下げる事は嫌いである。其れは、自分の生命の象徴である「角」を外した事が、無いと言う事である。
だから私の離婚の原因も、妻の背景に有る宗教組織に、頭を下げなかったからである。
日本の結婚式の花嫁衣裳は、真っ白の角隠しである。
其の出で立ちの意味は、「嫁ぐ時 自分の角を隠して マッサラの気持ちで 相手の家に嫁ぎ 相手の家の家風に 染まって行く。」である。
だから、自分の宗教を嫁ぎ先に持ち込んで、角を出して争う事は、幸には繋がらないと言う事なのである。
其れが、結婚にとって、一番大事な条件なのであったのだ。其の意味が、大学まで卒業しても学べないのが、現代の教育なのである。
今朝のメッセージは、新しい政(まつりごと)の基本概念に、生命の基本原理を立てろとの事ではないだろうか。
其れは、現代社会の教育が、子供達の芽を摘んでいる事を意味し、生命の進化が阻害されている事を、示唆して来ているのであろう。
其れは、現代教育の在り様では、神武天皇や、崇神天皇や、天智天皇等の様に政(まつりごと)を開始する様な人物が、育たない事を意味している。
更に、今朝の映像は、スメラミコトの政(まつりごと)に、嫁の実家の圧力が掛かってはいけないと言う事である。
其れは、藤原鎌足や、平清盛の様に、妻の実家が横暴な権力を行使しては、「天津日嗣」の体制が機能しないと言う事でもある。
地球全体の環境バランスや、生命の存続を考えれば、新しい概念の構築が必要であり、其の為には、現在・いまの政治体制では、先行きが危ないと言う事である。
そして、新しい動きの芽が、私の言動に、関係が有るとの事ではないだろうか。
其の為に、世界自然遺産に登録された此の屋久島で、私が生まれ育ったのであろう。
其の事を考えると、私の人生や、意識は、私個人の物ではなく、地球生命全体の新しい芽であると言えるモノなのかもしれない。
そうであるなら、私は「自分に考えがある」とは云えない事に成り、「ミカド・御門・(帝・台を設えて神の言葉を受け取るとの意)」の云う「朕おもうに」との言葉の意味が、理解されて来そうな気がしてくる。
其れは、ブッダの心境である「三千世界に吾れが在り 衆生一切 吾が子。」の言葉の世界を生きる事である。
其れは、自分自身の意識が、全生命の最前線に立っていると言う感覚である。
自分の自我意識が消滅して、内側から潜在意識に浮かび上がって来るモノ、其れが真実の「生命プログラム・いのち」の風景なのであろう。
其の為に、昨日は、自分の母親と弟が現れ、今朝は、妻の存在と妻の弟が現れたのではないだろうか。其れは、遺伝子の血縁である家族関係を意味している。
昨日の「太田清蔵」の名の「清蔵」は本名ではなく「屋号」であり、現在の太田清蔵は6代目である。
其れは、男性の家の「家訓」や「伝統」を継続する手法であり、男系の社会組織の形態を意味している。
そして「清蔵」とは「清い蔵」だから「正しい 生命情報を 蓄える蔵」を意味しているのではないだろうか。
其の意味を考えると、自分の遺伝情報を、如何に優秀な物にするかが、男性の役割の様な気に成って来る。
其れは、日本語の「女性は畑で、男性は種子」との比喩が、的を射ていると言えるであろう。
そして、畑から、種子が角の様に芽をだして来るので、「芽」と「角」は、生命の象徴なのである。
だからこそ、綺麗・きれいの「麗」の漢字は、左右のバランスが揃った、立派な鹿の角の意味なのである。
そして「生命」の「生」は、地面に出た芽が、木として枝葉を伸ばして行く姿の象形なのである。
其の生命が、昨日から、私の中で、次の時代の危機を感じて、動き出しているのだ。
其の現象が、古代の人々に解かって居たからこそ、忌部の手に拠って、秋(禾(稲)+火+亀の組み合わせ)の儀式が行なわれ、亀の甲羅が焼かれ亀甲占いが行われていたのである。
そして、其の亀甲のひび割れと、人間の視覚と、脳のイメージが重ねられ、甲骨文字が生まれて来たのであろう。
私は、其れ等の意識の元へ、帰りつつあるのだ。
其れが、「帰命・祷り」の原点なのであろう。
平成20年4月5日
礒邉自適
2008/4/3
大学の必要性
20・4・3
本日4月3日は、現在の日本の歴史の元に成っている、天皇家の始まりである「神武天皇」の大祭の日である。
日本の天皇家の歴史は、666年を節目として変革を遂げて来たが、今回のサイクル「666年x4回=2664年」の周期を、既に4年過ぎて、皇紀2668年と成っている。
しかし、未だ、天皇家自体では、其の変革の動きは起きてはいない。
其れにも関わらず、世界が新しい流れに向かって、動いている事は間違いない。間も無く、大変革の嵐が、吹き始めると言う事である。
4年前と言えば、私は57歳である。
其の年齢から、私個人の人生を振り返れば、7歳から文字を覚え、17歳で父親が亡くなり、27歳で結婚し、37歳で無庵師匠に出会って離婚し、47歳で漢字の意味に目覚め、57歳で本格的にメッセージが始まっている。
此の、10年毎のサイクルで進めば、67歳で、何等かの節目を迎える事に成る。私は現在61歳なので、67歳に成るのは6年後である。
6年後は、西暦2014年・和暦平成26年・神武暦2674年である。
其の時点で、私の人生がどう成っているかは分らないが、今朝のビジョンからすれば「大人」の世界に居る事は、間違いない様である。
現在、日本語で「大人」と漢字で書いて、「おとな」と読んでいるが、「大人」とは、漢字の意味では「大きな人」の意味で、「小人・しょうじん」と対の言葉であり、成人に成っているからと言って、皆が「大人・たいじん」と言う分けではなく、現在の人々は殆どが「小人」である。
「大人」とは、立派な人を呼ぶ言葉であり、「立派」とは、自分の派を起して、維持して行ける事を意味しているのである。
其の意味では、立派な人として「西郷隆盛」や「福沢諭吉」其れに「頭山満」、近い処では、松下政経塾を起した「松下幸之助」等が其れに当るだろうか。
日本語の「おとな」とは、「翁・おきな」が「おてな」となり、「おとな」と変化して来たものである。
そして、男性の「翁」に対して、「媼・おうな」が有り、「おうな」が「おんな」に変化して、「女」の漢字が当てられているのである。
其の「翁」に当る者こそ、中国の老子や、インドの「釈迦」や、イタリアの「レオナルド・ダ・ヴィンチ」や、日本の「一休禅師」などであろう。
特に、其の中でも老子は、自分の力量を測れる者が存在しないので、弟子を取ったりしてはいない。
其れは、文字が無かった社会に生まれた釈迦とは違い、表意文字である漢字が存在したからであろう。
今朝のメッセージのビジョンは、先ず私の意識が、優秀な男の子を三名預かって育て、高等学校まで出していた。
処が、高等学校を卒業して、大学校に進学させようとしても、大学校には進学しないと云うのである。
其の理由は、学問がつまらないからとの事である。
其れは、私が中学校で感じた気持ちであり、学校の教員のレベルに、興味を持てなかった様子と同じである。
次の映像は、私の知り合いである70歳台の男性が現れて、友人の所に出掛けて行き、二人で話す場面であった。
其の対話の内容は、他人の持ち物を褒める場面であった。
其れは、褒められる相手が「それ程でもないですよ」と、照れて謙遜する言葉が出るまで、褒め称えるのである。
其の男性は、西郷隆盛のファンであり、玄洋社の元と成った「頭山満翁」の弟子の方である。
其の男性は、現在でも、頭山満翁のお孫さんや、曾孫の方との交流が深い。
其の場面は、本日が神武天皇祭である事と、関係が有るのではないだろうか。
そうであれば、今朝のメッセージは、西郷隆盛の様に、新しい御代を開く為に、大人物を創出する大学校を開く必要が有る事を、示して来ているのかもしれない。
そして、其の大学校が出来れば、優秀な男性が、集まって来るとの事ではないだろうか。
一昨日は、其の男性から電話が有り、3年前の3月20日に大地震にみまわれた玄海島で、4月6日に復興を祝う桜の記念植樹祭が行われるので、良かったら出て来ないかとの事であった。
其の男性は、玄洋社の神髄を継いでいる最後の人間との評価が高いが、其の方の跡を継ぐ男性は、未だ現れて来てはいない。
今朝のメッセージは、日本人が、日本人としてのアイデンティティを失わない為にも、早く大きな学問が出来る体制を、整える必要が有る事を、示して来ているのではないだろうか。
老子より、次元が低いと評価されている「孔子」の言葉にさえ、「女子と小人は養い難し。」と有る。
其れに、有名な作家の遠藤周作氏の言葉にも、「私は 小説家なので 大説は 書けない。」と有るので、本来の大きな学問の意味である「大学」のレベルや、「大人・たいじん」と呼ばれる者の器量とは、窺い知れないものが有るようだ。
私は、「土光敏夫・明治29年(1896年)9月15日〜昭和63年(1988年)8月4日」が、其の大人と呼ぶに相応しい人物であったのではないかと想っている。
土光敏夫翁は、自分の給料や、私財を、母親が創設した学校に全部寄付して、学校の維持を援けていたと聞く。
其の事を考えると、今朝のメッセージには、其の土光敏夫翁や頭山満翁の、日本国を想う気持ちが、込められているのかもしれない。
今朝のメッセージは、男性の役割とは、現代人の様に、私心の為に邁進するのではなく、人類全体の進化や、政(まつりごと)の為に、全身全霊を持って取り組む事であると、告げて来たものではないだろうか。
其れが、立ち上がらない限りに於いて、現代社会の混迷は救われないとの事ではないだろうか。
其れを考えると、私の知る処では、未だ其の体制は、整ってはいないと想われる。
現在、ようやく政府の方針として、学校に道徳の時間が組まれる様に成って来たが、其の道徳を教えられる教師が育っていないのだから、どうしようもないのが現状である。
道徳とは、理屈だけで学べるモノではない。
其れは、徳を備えた者が、人の生きる道を説いてこそ、効果が有るのである。
其れは、即席漬け・にわかづけの職人では、真面な味着けが出来ないのと同じ理・ことである。
今朝のメッセージは、先ず、其の教師・導師を育てる事から、始めろとの事ではないだろうか。
岡本天命氏の日月神事には、「老子だけを中に祭り 他の神は外に祭れ。」と有り、日本から神一厘の仕組みが起きると有る。
そして「5人あるぞ 中2人 外3人 錦の御旗・ひみつの経綸」とも有る。
今朝は、翁が二人で、大学を求めている青年が三人現れた。
其れも、是からの事を、暗示しているのかもしれない。
神武天皇祭 平成20年4月3日
礒邉自適
2008/4/1
しいる
20・4・1
今日から、日の本国では、新年度である。
其の日の、未明のビジョンは、私へのメセッージと言うモノ・現象ではなく、人類全体の無意識界に、「神(宇宙の情報・森羅万象の流転プログラム)」が流れ出して行ったと、説明した方が良いだろう。
そして、昨日「・・・、している。」と現された様に、今朝も、最後に「しいる」との平仮名の音色と言うべき、言葉が示されて来た。
しかし、其れは、私自身に、何かを「強いる」との意味ではなく、神の意志・プログラムが、人間の潜在意識に「仕入る」との意味の様であった。
其れは、日本語の「みこともち(命もち・御事持ち・使命)」が、其々に与えられるとの事であり、天のプログラムに因って、此の現象世界に生じて居る者達が、是から、其のプログラムに沿って、本格的に動き出すとの事・意味ではないだろうか。
其れは、全部が、晴れ晴れしく生きる様に成るとの意味だけではなく、役割を終えた者は、無に回収される事も意味しているのだろう。
そうでなければ、人間だけが、此の侭増殖を続けて行くと、地球全体の生命バランスが崩れ去り、人間自身も生きて行けなく成るからである。
今朝のビジョンの様子で、私が感じられる事は、既に私の脳力では、対処出来ないと言う事であり、カバー出来ない私の認識力は、ただ其の情報を、素通りさせているだけである事を示している。
だから、現実として、私が自分で、其の情報を汲み取り、自己分析出来る範囲を、既に超えてしまっていると言う事である。
其れこそが、「みいつ・御稜威」の役割と言うか、働きなのであろう。
3月に入ってからのメッセージは、確かに、新しい段階に突入しており、私への「メッセージ・告」や「神霊の思頼・みたまのふゆ」ではなく、「神・天帝」の「意志・おもわく」が直接、人間の無意識界に流れ出していると言えるモノ・現象である。
其れは、私の25年間の修行(おさめる行)が、上手く行った事を意味し、私の役割が順調に進んでいると言う事でもある。
其れこそが、ブッダの役割であり、老子の謂う「道・タオ」の世界を実行するとの事であろう。
そして、其の役割を果たす人間に名付けた名が「すめらのみこと」であり、その人物が行じるオコナイが「スメル」であり、起きる事が「みいつ」なのである。
其の働きが、「日本・ひのもと・霊元」から起きる事が、日月神事に書かれてある「日本から起きる 神一厘の仕組み。」の言葉の意味なのであろう。
だからと言って、私が、是までの様な帝位に着くと言うのではなく、私は此の侭、好きな様に「悠々自適・サマーディ」の生活を続けながら、パソコンに向かって居れば良いのである。
其れが、2000年12月6日から立ち上げた、「森の木」のHPの役割であり、新しき「みいつの世」であり「治らしめる・しらしめる」と言う働きなのである。
其の事を考えれば、「神・天」の働きは、無事に「目的・くわだて」を果たしている事に成り、今度こそ、人類の「アセンション・次元上昇」が、成功する可能性が高まったと言うことでもあろう。
其れは、是まで八回失敗したトンネル潜りが、九回目でようやく成功するとの事でもある。
2008/6/3「定着した画像」http://green.ap.teacup.com/20060818/770.html
ようやく、無庵師匠が生命を賭して挑んだ、未来の扉を開く事業が、私の「身心・魂魄・みたま」を使う事で、現実と成ったのである。
私は、是だけ、写真を撮映して残し続けているが、無庵師匠の写真は一枚も所持してはいない。
だから、無庵師匠の写真を載せたくとも、載せられないのである。
何故、私が無庵師匠の写真を一枚も載せないのか。
其の理由は、私が自分の師の写真を載せてしまえば、皆が、私の存在の背景に、其の師の姿を顕在意識に入力してしまうからであろう。
そして、其の無庵師匠の実像の姿形が邪魔をして、其々の血筋に繋がる「御祖神・みおやかみ」が、顕在意識に浮かび上がれない状態に、成ってしまうからである。
其れと、私の姿は24年前から、世界中の人の夢の中に現れてもいる。
其れは、神にとって、必要な姿は、比類なき師の姿ではなく、百姓姿の私でないと、庶民から、神が遠のいてしまうからであろう。
神にとって必要な事は、神の存在が明らかにされる事であり、人間の欲望が波及する事ではないのである。
過去に「アセンション・次元上昇」が八回失敗した原因は、力を与えた人間が、自分の権力を誇示する為に、バベルの塔の様に、大きくて高い建築物を建てたり、多くの人間を支配する為の社会機構を創り出し、神の存在を、自我欲の為に利用する様に成ってしまったからである。
其れなのに、現在の、政治の世界である東京都の都庁ビルや、芸術世界のイタリヤのガウディの塔や、宗教世界の大きな建物と教団の存在で明らかな様に、人間は、いまだに過去の失敗に懲りず、其の二の舞を続けているのである。
其の、人間の意識改革の為に、今回、私が油を注がれた者として、使わされて来たのである。
其の名前が、自分で持って来た、「自適・サマーディ・三昧」なのである。
私の「命・みこと・さだめ」は、悠々自適に生き抜く事にあるのである。
だから、過去の失敗作の教訓を生かして、過去と同じ間違いを、犯しては成らないのだ。
其れは、古代エジプトの王や、ジンギス-ハン等の様に生きる事ではなく、逆にイエス-キリストの様に磔に成って死んだり、釈迦の様に食中毒で行き倒れに成ったり、老子の様に行くえ知れずに成ってもいけないのである。
私は、皆が、神に楽に仕えられる事を、証明しなければ成らないのである。
其れは、「大往生・だいおうじょう」の言葉が、皆に改めて自覚される事であり、政府の手で、二年先に「讜逓聖・とうていせい」の「逓(つぎからつぎに伝える)」の漢字が、常用漢字から消される事を、止めさせる事にも成るのである。
是は、天神(てんのはたらき)や私が、人間に何かを「強いる」事ではなく、其々が自分自身で「仕いる」本来の自分の「使命・みこと」に目覚める事や、本来の自分「御祖神・みおやかみ(血筋・DNA・遺伝特質)」に気付く事なのである。
私も、ただ自分の其の遺伝子の「特質・あまつひつぎ」に、目覚めた一人なのである。
其れは、此の137億年の宇宙の事象の中で、36億歳の「いのち・生命」の記憶を、取り戻す作業の一部なのである。
其れこそが、人間にとって、一番大事な「祷り・帰命・ナーム・リリジョン・religion」なのである。
そして、其れに成功した者が「壽」の漢字の意味を、理解出来るのである。
昨日と、今日は、「している」と「しいる」との、簡単な平仮名の日本語の単語一つである。
其れは、日本語の48音の言葉の言霊が「マントラ・真言」として本格的に発動して来ている事を示している。
其れはまた、「大日如来・ビルシャナ」の働きが、本格的に始まると言う事であるのだ。
2000年12月6日から始まった、私のITの世界への取り組みは、ようやく其の成果を観る処と成り、観自在菩薩の働きが動いていると言う事なのである。
平成20年4月1日
礒邉自適
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