言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2008/6/22
七回半の螺旋は時間
20・6・22
昨日は「夏至」であり、今日から太陽は南に下って行く。
今朝のメッセージは、其の事に関係が有り、昨日からのメッセージに続いている事が解かった。
昨日のメッセージの、「鮫島」と「鳥嶋」には、私が考えたより、もっと深い意味が有ったらしい。
其れは、鳥は「鳥目・夜目」で、太陽の光が無いと、目が見えない動物である事である。
だから、鳥類は太陽の使いとされ、瞳は、太陽の光を全部吸収するので黒目である。
処が、「鮫・白目・サメ」は、別名「フカ」で、深い海底に棲んでいるので、太陽光線を利用した視覚を使うのではなく、鼻の器官である臭覚を使っていて、目は光を反射するので、白目に見える生き物である。
其の理・ことを考えると、昨日の高橋伸氏のビジョンで、私が、海原の高い岩山に居たのは、鳥目の世界に居る事を示している。
そして、其の岩山の上から七回半回転して、水面まで落ちたのは、生命システムの進化の時間割りを、螺旋の時間の壁を抜けて、飛び魚やシーラ等の様な、水面で生きている、光を使う「視覚神経」の魚の次元まで、降りた事を意味しているのだろう。
そして、其の水面下の深い所には、「臭覚」で生きて居る「鮫・フカ・白目」が存在するのである。
其れは、人間を含む生き物の意識が、どの様に働いているかを、認識させるものである。
今朝のメッセージは、其の理・ことを土台にして、示されて来たモノの様である。
今朝の映像には、先ず、光輝く女性の姿が現れた。
其の女性は裸であり、頭には王妃の様な飾り付けがされており、頭は左側に有って、両手を大地に着けて、背中で天空を支えて居た。
其れは、エジプト文化の、天空を背中で支える、女神「ヌト」の存在を示している様である。
次の映像は、地上に、大きな右手が広げられており、大地が大きな物を受け止めている事が示された。
其れは、天空の女神「ヌト」と向き合う、大地の神である「ゲブ」の存在を現しているのだろう。
そして、次の映像は、其の天空の女神ヌトと、大地の神「ゲブ・手」の間に、幾つもの階層が有り、其の階層毎に、神の収穫が始まる事が示された。
其れは、洗濯機の、手回しローラー式搾り機の様なロールが、人間を男女別に搾って行くのである。
そして、其のローラーに掛けられた者の中で、命(みこと・神の使命)を持たない者は、紙の様な平面体に成ってしまい、二次元世界に閉じ込められるので、三次元の立体世界に、形を現す事が出来なく成ると言う事である。
其れは、新しい地獄の概念を創出して来ている。
是までの「地獄」の概念は、地底に地獄が存在して、悪い行いをした者は、其の無限地獄に落ちると、説明されて来た。
しかし、近代科学の力で判明したのは、地球の核は鉄やニッケルが溶けたマグマであり、地獄等は存在しないとの理・ことである。
今朝のメッセージは、宇宙意識・神の意志を受けた「命持ち・御こともち」の人間は、三次元世界に姿形を現す事が出来るが、自分の自我意識だけで動いた者は、平面の二次元に圧縮されてしまい、此の三次元世界に、神の働きとして姿を現す事が、出来ないと言う理・ことである。
今朝のメッセージの映像で面白いのは、馬糞でさえ、自然法則に従った物であるなら、排出されたまま時間通りに、三次元に積み重なって行くのである。
其れに比べて、人間の存在は、人間が創出した文化の中で生きて居るので、自然から遠のいてしまっているから、三次元世界には復帰できないのである。
其れは、此の世界が、水素原子の振動に因る、影法師の世界である事を示しており、素(もと)の水素原子の振動に因る情報に、そぐわない情報は、天幕には映らないので、三次元世界である現実世界に、姿を現す事が出来ないと言うことである。
其の原因が、どう成っているのかの説明として、七回半の螺旋の姿をした「大山祇神」の大蛇としての綱が、存在するのである。
だから、七回半の螺旋は、此の三次元世界を投影している、「トキ・時間」のスクリーンの働きを現しているのである。
だから、時間・トキは、七回半回転する渦巻きで、人間の住む此の三次元世界に、関わりを持って来ているのだ。
其れが、大山祇神の正体であり綱引きの綱なのである。
そして、其の大山祇神の働きが、世界各地で姿を現したのが、釈迦牟尼佛やイエスキリストの誕生なのである。
私が驚くのは、其の理・ことわりを、古代の人達が知っていた事である。
何故、古代の人達が、其の理を知っていたのかを考えると、其れは、生命の情報を繋いでいる「遺伝子・DNA」が、其の螺旋機能を有しており、記憶情報を蓄えているので、潜在意識が表に現れてくれば、其れが其の侭、此の次元に復元されて来るからである。
其れが、釈迦牟尼佛の謂う「覚醒・解脱・帰命」の意味であり、英語の「リリジョン・religion」の概念や、日本語の「いのり・祷り・帰命・ナーム」の言葉の意味なのである。
今朝の映像では、其の道に入る為には、自分自身が、其の入り口を捜さなければ成らない理が示された。
其の映像の場面は、同じ両親を持ち、同じ環境の中で育った兄弟でも、入り口の段階が異なるし、私が一段下を歩いて居る弟の手を引いて、上の道に引き上げる事も出来ないし、途中から、上の段に上がる梯子も無いのである。
唯一、下の道を歩いている弟に告げられる事は、「一番の元・始まり・源の所に引き返して、自分の力で入り口を捜せ。」と、教えて遣る事だけである。
其れは、同じ、両親や環境から生まれ育った者でも、生まれた時間が違うので、宇宙的条件が異なると言う事である。
だから、どんな人間でも、他人の遣り方を真似ては、自分の覚醒への道は探せないとの理である。
今朝のメッセージで、私が理解出来て来た理・ことは、釈迦牟尼佛の言葉である「唯一 頼れるモノは 此の自分の肉体である。」の真意に付いてである。
其の、釈迦牟尼佛の言葉の背景にこそ、約40億年前に、粘土の海で組み上がったDNAの記憶が有るのである。
其の記憶は、今でも、人間の体内に60兆個も存在するのである。
其れ等の元は、生命の始まりに誕生したシステムである、鉄を利用し、酸化を起した働きに、全ての原因がある。
其のシステムは、今でも、人間の胃の細胞や、草木の毛細根の働きとして、其のまま活き続けているのである。
其の、酸を出して物を溶かす胃の細胞や、毛細根の働きにこそ「時間・トキ」の最先端が存在するのである。
私達地球生命の、時間的・空間的な最先端に、其の、酸を利用する働きが存在するのである。
そして、其の働きこそが、此の地球を素晴らしい生命の舞台として、創造して来ているのである。
そして、其の最先端の働きが、太陽の光を必要とする鳥目や、臭覚を必要とする「鮫・白目・サメ」の感覚器官を、生み出して来たのだ。
其の働きは、他にも、「蛇」の舌先の臭い感覚や赤外線の目や、「蝙蝠・コウモリ」のレーダーシステムや、「蝶」の目の紫外線キャッチシステムや、「狼・犬」の鼻の臭いシステムを創り上げて来ているのである。
其の、働きの進化の最先端に、人間の大脳システムが存在するのである。
しかし、残念な事に、人間は大自然を相手に、其の能力を良い方向に発揮するのではなく、其の能力を、自然環境破壊の為に使い、今では、人間の大脳が創出した人工物の文化文明の巣窟の中に、其の感覚を、埋没させてしまったのである。
今では、私でさえ、たった一人の自分の弟を、其の世界から救い上げる事も出来ないし、創価学会に拉致されている三人の子供達を、救出する事も出来ないのである。
皮肉な事に、釈迦牟尼佛の謂った事が、其の世界を、創出した原因と成っているのである。
釈迦牟尼佛が悟った事は、現在・いま私が謂っている理なのである。
其れが、歪められて、無明を明ける処か、無明を深める為に、使われているのである。
其れは、人間の意識が、鳥目や白目よりも、低い次元に落ちている事を示している。
是から、老子の謂う「嗇」の世界や、イエスの謂う「其のトキ」が始まれば、ローラーで絞られた人間の意識は、殆んどが、二次元である平面の世界に閉じ込められ、二度と、此の神の世界である三次元世界に、姿形を持って復活する事は出来なく成るであろう。
そして、其の者達の意識は、平面の磁気テープの中から、此の三次元世界を羨みながら、生き続けなければならないのだ。
其れは、脱ぎ捨てられた蝉の抜け殻や、見捨てられたデンデン虫の住居と、同じ様な物であり、二度と生体を持つ事が出来なく成るのである。
其の闇は、其の抜け殻が原子として崩壊し、やがて新しい銀河星雲の中で、光粒子として再生するまでは、続くのである。
其れが、親鸞の概念である「阿弥陀仏」の世界であろう。
しかし、其の世界は、今から、人間社会に現実として始まる事である。
人間は、肉体を有しているからこそ、未だ、此の三次元世界に存在して居るのである。
其の事を考えれば、明日死ぬ者意外は、未だ、覚醒のチャンスを有しているのである。
何故なら、其の救いの入り口と成る、七回半の時間の螺旋は、自分の肉体に渦巻いているからである。
其の七段階の螺旋の表れこそ、人体の七つのチャクラの存在なのである。
だから、人間は誰でも、其の七つのチャクラの螺旋に意識を向ければ、イエスの謂う「永遠の魂」の世界や、老子の謂う「道・タオ」の世界や、釈迦の謂う「法・ダルマ」の世界に、侵入する事が出来るのである。
道の入り口は、自分自身の一番間近に存在するのだ。
其の、一番身近で、簡単な理が、私の弟や、子供達には、理解されていないのである。
其の理を説いてある、釈迦の教えの法華経を、毎日、目の前にしながら・・・・。
其れこそが、鳥目であり、猫に小判の世界であろう。
平成20年6月22日
礒邉自適
2008/6/12
俺に帰れ
20・6・12
今朝のメッセージは、「俺に帰れ」との言葉が有り、幾つかの数学の計算が出て来たので、私の意識は、其の計算の数字をしばらく見ていた。
そして場面が変わり、私がオートバイを運転して、道路を走って居ると、他の男性が現われて、「俺の道路を 無断で通るな」と文句を云って来たので、「此の道路は 個人の持ち物ではなく 公道だろう。」と私が云うと、其の男性は黙った。
今朝のメッセージは、漢字の「俺」にポイントが有る様である。
漢語林で「俺」を調べると、@おれ。われ・我。おのれ。Aおおきい。大。
【解字】は、「人+奄」の組み合わせで「奄」は、大きいの意味。また、北方の俗語で、第一人称の「おれ」の意味を表す。と 載っている。
此の意味からすると、「俺に帰れ」とは「我に帰る」とか、「大きな人間に帰れ」との意味に成る。
そして、其れは、集団で居るのではなく、己一人でいる事にも繋がっているようである。
其の、自分の本心に帰って、自分で計算をし、自分で運転をして、公道を走ると言う事である。
其れは、是まで私が、24年間続けて来た「神霊の思頼・みたまのふゆ」に身体を任しているのではなく、元の自分の意識に、立ち返る事を意味している。
其れは、物事の「計算・はかり・儀」を、霊界人の思惑に従って行う事ではなく、自分の「心算・こころづもり」で、行なわなければ成らない事を意味している。
しかし、其れは、自分の意志で物事を行う事に繋がるので、天意に従うのではなく、人為で物事を行うと言う事に成るので、是までとは、心構えを変えなければ成らないと言う事に成る。
其の意味を良く考えると、是からの私の意識の使い方は、神霊の思頼に従うのではなく、自分で考え、自分成りに、行動をして行かなければ成らないと言う事である。
其れは、是から先は、私の考えや、行動が、其のまま天意の代わりに、成ると言う事ではないだろうか。
其の意味を考えると、中国の「天に 天を治める天帝が存在し、其の天意に従って 皇帝が此の地を治める。」との文言を思い出す。
其れは、地上に実在する人間が「天帝(神・父・天意)」に代わり、此の地上世界を治めるとの意味である。
其の理こそ、中国の政治の根本的な考えであり、旧約聖書のメシア・王の概念ではないのだろうか。
今朝、何故、其の事が示されて来たのかは解らないが、私の24年間の心の旅の決着と、今月19日に行なわれる、大山祇神の「紀(トキ)の祭り」に対しての、心構えを示して来ているのかもしれない。
そうであれば、今朝のメッセージは、私が一個人の立場に帰るのではなく、本来の人間の立場である「おれ」に立ち戻る事を、意味しているのではないだろうか。
其れは、人類が集団生活をする様に成った為に、忘れてしまっている、生物としての本来の気持ちの在り様を、気付かせるモノが有る。
其れは、アフリカの草原に暮らすボスライオンや、森の中で暮らすキングコング等の心境に、帰還する事である。
其処には、他人に対しての、何の「衒い・てらい」もなく、神仏の存在に対して、畏敬の念を抱く事も無い。
其れが、本来の私の本名である、「自適」の言葉の意味なのではないだろうか。そして、其の概念に沿って生きる者の姿こそ、「サマディ・三昧」と言う事なのではないだろうか。
私は、此の神の世界に入って、24年の節目の日「6月8日(旧暦5月5日)」に、自分の意識の中に「般若波羅蜜の智慧」と「虚空蔵菩薩求問持法・こくうぞうぼさつぐもんじほう」の真髄が、安らかに納まった感じがした。
其れは、人間の様々な憶いが一つに成り、龍神が手にする時空の球の中に、納まった様な感じのモノである。
其れは、誰かが、誰かの事を、如何こう云う次元ではなく、本来の統合意識(人類の潜在意識が発生する源)に意識が統一されて、再びの「久遠元始・くおんがんじょ」が完成したとの事である。
其の魂の完成こそが、4311体の霊魂の「神霊の思頼(みたまのふゆ)」の目的だったのではないだろうか。
そして、其れこそが「宗教」と訳した単語の元である、「リリジョン・religion」の語源の、本来の意味なのではないだろうか。
其の様に考えれば、ようやく私は、自分の役割を果たした事に成る。
其の事が、是からの世の中に、どう役に立つのかは未だ分からないが、其れは、やはり天意に任せるしかないのであろう。
其れが、「御陵威・みいつ」の本来の意味なのかもしれない。
私には、ようやく是から、本来の安らぎが訪れるのかもしれない。
そして、其れは、此の大宇宙の大周期の中での、一輪の花の開花として、ほんの僅かの間、人間の意識に認識される物事・現象なのである。
其の体験こそが、「転輪聖王・チヤクラブルティン」の言葉の概念を生み出したのであろう。
其れは、また、次の大周期のトキの節目までは、体験出来る者は居ない出来事なのである。
今朝は、思い掛けない言葉の概念を、また認識した。
其れは「私・我・吾・僕・巳」に次ぐ、自分を認識する言葉の「俺」である。
しかし、其れ等の文字が抱えている心象風景は、全部男性のモノである。
其れを考えると、女性の心象風景を描いている文字を、探し出さなければならない。
其れが無いのなら、女性陣に問うて、新しい文字を、創出しなければ成らないだろう。
当用漢字には、女編が143字有るが、「男」は甥の旁に使われているだけで、男編は何も無い。
其れは、漢字は全部、男性が、女性の立ち振る舞いを観ながら、創出したものである事を示している。
其の事を考えると、是からは、女性が男性の立ち振る舞いを観察して、文字を創出する必要があると云えるだろう。
今朝のメッセージが、何処に存在する、何者から送られて来た物なのかは判らない。
其のメッセージの出所こそ、自分の「ち・霊・血・豸・知」の世界なのであろう。
其れこそが、人間の胸の中心・センターに位置する「文・あや」の世界であり、人間の本質を表明しているのである。
其れが、宗像大社の御祭神である「胸形・胸象・むなかた」の語源であるのだろう。
其の語源を支えている物こそ、「真言・マントラ」の本尊の「ビルシャナ・大日如来」の身体である、物質の存在である。
そして、其の品物(品々・くさぐさ)の数と、其れを扱う手(人間)の働きを増やしているのが、千手観音菩薩の働きなのである。
今朝は、「われに返れ」と告げずに「俺に帰る」と告げて来た処に、神の世界の妙が有る。
もう「フトわれに返る」との言葉は、私には、無用と成ったとの事であろうか。
平成20年6月12日
礒邉自適
2008/6/4
太陽の船
20・6・4
今日は、新暦の6月4日で、旧暦は5月1日である。
私は24年前の今日、此の世界に入った。
其の日は、旧暦の5月5日であったので、旧暦での24年目は残り4日有る。今年も子年なので、始まりの年だから、今日から三回目の12年が始まる事に成り、12年後の私は73歳である。
其れと、本日6月4日は「伝教大師最澄」の1186回目の命日で、モラロジー創設者の「廣池千九朗」の70回目の命日でもある。
今朝は、題を何にしようかと意っていると、「太陽の船」との言葉が頭に浮かんで来たので、其のままタイトルとした。
「太陽の船」とは、エジプト文化の太陽神「女神イシス」が乗る船の事で、舳先の案内神は、朱鷺の頭を持つ「イビス・Ebisu・えびす」である。
其の太陽の船は、人間界の太陽の神官であるファラオ・王と、太陽の間の連絡を司るイシス神の乗り物として、象徴化された儀式用の船で、ピラミッドの近くに納められている物である。
其の、太陽神の使いを果たす、女神イシスの頭には、鏡が付いているので、日本の天照大神の概念と、根拠を同じくする物であろう。
日本で天照が「天津神」とされているのは、其のエジプト文化がシルクロードを経由して、日本に伝えられて来たものであろう。其の証拠に、日本には居ないライオンが、鳥居の前に守り神として置かれている。
しかし、ピラミッド建設の目的は、日本の御岳信仰と同じものであり、山岳の存在が、神の働きと関係が有ると、考えられていたのだから、エジプト文化より古い文化が、世界に在った理・ことになる。
其れが、「大山祇神・おおやまつみかみ」や「海神・わたつみ」の概念であり、アステカ文化の「ククルカーン」や、日本の「白山菊理姫」の価値観と成っているのだ。
今朝は、屋久島の「仲間集落」の、角度の線が示された。
其れは、210度で「未・ひつじ」の方角で、其処の山は「後岳・424m」で、仲間神社の御祭神は大山祇神である。
昨日は、寅の方角の「椨川集落」だったので、今朝は、其れより上の「丑・うし・30度」が示されるかと想って居たのだが、其の「丑・うし」の反対側である「未・ひつじ」の方角が示されて来た。
其の意味は、私にも良く解からないが、本日は、私の母親の88歳の誕生日である。
母親が存在しなければ、此の私は生まれてはいないし、母親の育て方が違っていれば、現在の私の精神状態も無いと言う事になる。
其の事を考えると、今朝の「PC前」での「太陽の船」との言葉は、私の母親に関係があり、真実の太陽の船とは、母親の肉体に在ると言う事なのかもしれない。
其れだと、女神イシスとは、自分の母親の働きの事であり、母親の肉体こそ「太陽の船」である事になる。其の様に考えると、何だか意味が繋がって来た。
さて、今朝のメッセージの映像は、横書きの数字だけが、縦に並んでいるページが示され、全てが数字で表記される事が示唆された。
其れは、漢字や、平仮名や、アルファベット等の表記ではなく、全てがアラビア数字で表記されているのである。
そして、其の数字と記号が組み合わされて、△の図式が示されて来た。
其れは、たった三文字の記号と数字で、是から、情報が整理される事を意味していた。
其れは、数字や記号で書かれている、岡本天命の日月神事のお筆先や、岡山市の居酒屋「番町文庫」の女将さんの、宇宙文字とも関係が有るのかもしれない。
其の、三文字の組み合わせで、私が感じたのは、脳の仕組みである「三点認識法」である。
仏教の世界でも、物事の認識は「観る者と、見られる物と 其の関係性」の三つで行われると有る。
【(此処で 左手の人差し指に 強力なカモ(神の電気信号)が来る。)どうやら、此の事がとても大事な理・ことであるらしい。】
其の三点認識法は、人間の「視覚」や「聴覚」に関係しており、其の三点認識法が、動物の体内に組み込まれていなければ、動物は行動が出来なくなるのである。
其れと、人間が何故、三角のピラミッド型の山岳に興味を抱くのかも、不思議であるし、古代から、山岳だけではなく、海に三角に突き出した岬も、「御先・みさき」として信仰の対象にもされて来ている。
だから、三角の図形は、無意識に、人間の思考に意味を齎しているのである。
其れに、距離を測ったり、図面を引いたり、面積を出したりするのも、三角を基本とするし、空間を埋めて行くのも三角形を使うのである。
参考HP 創造における三視点論
http://homepage2.nifty.com/yarudea/souzou-3shitenron.html
其れ等の事柄を考えると、今朝のメッセージは「科学的・数学的」に、物の分析が行われる事が必要である事を、示唆して来ている。
これは、一昨日の「陵威割り・いつわり」のテーマとは、反対の世界を意味している。
是は、三次元(現象世界)と、四次元(絶対世界)の間に横たわる、思考の川の渡し舟が、数学の世界である理・ことを、示して来ているのではないだろうか。
其れは、太陽の船を創った人間の意識は、子供的発想であり、大人の世界は数学や物理学に在るとの事かもしれない。
しかし、「スメラの命」の役割を果たすべき人間が、数学や物理の世界に嵌って良いのだろうか。其処がまた、意外な展開である。
地球での哲学は、地球上でのみ通用するモノであり、他の星に行くと、状況が違うので全く合わないが、数学は宇宙全体に通じるモノであるとの事だから、今朝のビジョンの映像は、是から、物理的・数学的に、神の領域が明かされるとの事ではないだろうか。
今朝は、何故、東の「青龍」から、北の「玄武」の方・時計針の反対回りに、ブロック割りが行われず、「丑・うし・30度」の反対方向の「未・ひつじ・210度」に、思考が移動したのであろうか。
其れは、何等かの数学的な三角法に関係が有るのか、其れとも、其の位置に存在する「後岳」の山に関係があるのだろうか。
今朝は、聖徳太子の思念が届いた。
聖徳太子は、釈迦仏教に興味持ち、瞑想をして居たらしい。其の聖徳太子を祀るのが、有名な法隆寺の「夢殿・八角堂」である。
聖徳太子の思考パターンなら、屋久島を八方位に分割して、物ごとを考えるのは当然の事かもしれない。
其れに、私は平成元年9月3日の午前3時33分に、阿蘇の「日宮弊立神宮」の境内に有る「平和道場」に宿泊していて、聖徳太子のメッセージを受けた事がある。
其れは、「われ 高天原に達した」「臨済から始める」との二言である。
若し、聖徳太子が「高天原・宇宙意識」に達したのであれば、全ての宇宙に通用・クシする、概念を持ち込んで来るのは、当然の事と言えるのかもしれない。
「動き出した聖徳太子」http://star.ap.teacup.com/170606/772.html
昨日は、東京から到着した藤原氏を、大山祇神の祠に案内すると、「ホテルあかつき」の玄関ドアに、張り紙をしている男性三人が居た。
其の人達は「鹿児島地方裁判所」の執行官で、ホテルの閉鎖に出向いて来た人達であった。
私は5年前、此のホテルのオープンを見に行って、此のホテルは自分の道場であると感じたのである。
そして3年前の4月に、其の裏山に「大山祇神」の祠が存在する事が判り、其の祠から、世界救済の為の「紀・トキの祭り」が始まる事を、告げられたのである。
其れが、私の24年目の締め括りの日に、ホテル営業が閉鎖されたのである。是も、ククルカーンの働きの一部なのであろう。
「ホテルあかつき閉鎖」http://wave.ap.teacup.com/894019/797.html
いよいよ「つ巳神」の働きが、本番を迎える様である。
平成20年6月4日
礒邉自適
2008/6/2
陵威割・いつわり
20・6・2
今朝のメッセージの映像は、「スメラノミコト・天皇」の立場に付いて、示して来た様である。
そう想う、根拠と成る映像は、丸い花崗岩の塊が、ケーキをブロックに切り分けた様な形で、一個現れたからである。
其れは、全島が花崗岩の塊である此の屋久島を、寝待岳を中心として、18のブロックに切り分けた中の、一ブロックで、其の形の向きからすると、70度と90度の間に位置するブロックの所に当たる。
90度は「真東」で、田代川の位置であり、四方神の「青龍」が守護する場所である。そして、山岳の位置としては「中島権現山」と「愛子岳」の間に位置する。
何故、其の位置のブロックが、今朝現れたのかは、私にも能く解らないが、青龍に関係が有れば、青龍は「水」と「智慧」を司っている事に成っているので、私の意識の中の智慧の部分が、完成したとの事を、示して来ているのかもしれない。
昨日の夕方、客人が、宮之浦に買い物に行きたいと云うので車で案内し、帰りに、宮之浦の岳参りの入り口である「牛床詣所」に参詣して来た。
其の「牛床詣所・うしどこもうしょ」は、45度の位置に有り、ウシトラの方角で「鬼門」に当たるのである。若しかしたら、其の行為で鬼門が開かれ、卯の方位・90度の中身が晒されたとの事なのかもしれない。
何故、其の様な映像が、私のビジョンに現れるかと謂うと、私は6年前に屋久島に帰って来てから、24年前に、私の身に起きた事を分析しながら、島を16分割して、其々の場所で起きた事を、振り分けて見たのである。
そして、此の丸い花崗岩の島が、石英の結晶構造が其の侭、形に現れて出来ている事を理解したのである。
私は、其の事を生かしながら、16のテーマを設け、其れを、其の角度の位置に存在する宿に振り分けて、行者宿に指定したいと考えていたのである。
其の、準備を続けて来た効果が、現れて来たと言う事ではないだろうか。
此の三遊亭歌之介師匠の別荘は、其の中でも、一番大事な位置の建物で、180度の位置に在り、方位は「午・うま・南」である。
私は、平成15年4月に、いま来て居る客人と、此の建物で、午の刻に、花崗岩の球石を使って儀式を執り行っている。其の儀式も、今に成って考えて見れば、役に立っていたのかもしれない。
今朝は、其の花崗岩のブロックの他にも、映像が映し出されて来た。
其の映像は、同じ小船の中に、腹違いの、王の子供が三人乗っていて、其の子供は皆男子であり、どの子も皆、王位継承の資格を有していた。
そして、其の王位を争う為に、取り巻きの戦いが始まり、その戦いで船が沈んでしまい、結局は、付き人を含め、子供全員が死んでしまうのである。
そして、もう一つの場面は、正当な王位継承者である子供が誕生し、其の男の子を、何処かの秘密の場所に隠して、大切に育てる事に成る場面であった。
其の二つの映像は、王に選ばれるのには、ある血筋が必要であり、其の血筋には霊系が伴っていると言う理・ことである。
だからこそ、聖書に出て来るアブラハムの子孫は、印である杖に、血筋の代々の名が刻まれていたのであろう。
其れは、王の血筋には、其の先祖代々の霊魂の守護が、有ると言う事である。そして、其れと同じ事が、日本の天皇家の伝統と成っているのであろう。
しかし、現在の天皇家の其れは、日本国内の事であって、今までの体制が、是から、世界全体に通用すると言う事ではないであろう
日本の日本書記(西暦720年)は、持統天皇の指示に拠って編纂された物である。
其れが、編纂された理由は、持統天皇の夫「天武天皇」と、甥「大友皇子(弘文天皇)」の間での、権力闘争に因る骨肉の争いが有ったからであろう。
其の頃は、18の異なる部族が存在して、其々自分の部族には、自分達の政・まつりごとが伝わっていたのである。其れを統一して、一本化したのが持統天皇であり、その統一の為に編纂されたのが、日本書記である。
【古事記(西暦712年)天武天皇・元明天皇の勅にて作成。】
其の事を、逆に考えれば、18部族の特徴が失われた事に成るのだ。
そして、一本化された儀式も、其の霊力を失い、霊的な政・まつりごとが行なわれなく成ってしまったのである。
現在、伝えられている儀式は、形だけのものであり、本来の霊魂の働きが伴っていないのである。
だからこそ、私に、白羽の矢が立って、此の様な出来事が、起きて来たのであろう。
今朝は、其れ等の事柄を想っていて、「スメラのミコト」や「偽り」の言葉の意味が解けて来た。
漢字の「偽」は「人+成」の組み合わせで、字義は、「人為を働かすこと」を意味しており、人が作為を持って成す事は、天意に背く事であり、偽りであるとの意味である。
日本語の「いつわり」とは、「理・ことわり」の言葉と同じ様な意味の、「陵威割り」で「イツを割る・イツを分割」するとの意味であろう。
「御陵威・みいつ」とは、天皇のご威光の意味であり、天皇がスメラノミコトとして「みいつ」のエネルギーを発信して、国民の統一を図る事である。
其れは、天皇・スメラの命とは「和魂・にぎみたま」を持って、民の上に立つ事を意味している。
だから、天皇とは、聖徳太子が謂う様に、「和」の中心的働きをしなければ成らないのである。
其れは、「大日如来」の化身として、人間としての作為を全部捨てて、中心に座する理を意味しているのである。
其の理を考えると、スメラノミコトとは、本来の「統べる・すめる・スメラ」立場に、復権しなければ成らないと言う事に成る。
其れは、現在の天皇陛下が行なっている世間的な行為を、全て止めなければ成らないとの事でもある。
本来のスメラノミコトとは、神の意向を、此の現世に「発する・みいつ」する立場であるから、神の代理であるので、神の存在に向かって、頭を下げるのではなく、国民に向かって、目を向けていなければ成らないのである。
だから、天皇が、直々に神に頭を下げる事は、神意には適っていない事に成るのである。
国民に代わり、神に仕えているのだと示す事は、神の御心に反する行為であり、国民の目を、欺く行為と言えるだろう。
天皇・スメラノミコトの行為は、唯、神の取次ぎ役であるのだから、勝手に自我意識を働かせて、物事を分析したり、判断を下したりしては成らないのである。
若し、天皇が、自分の判断で事を成せば、其れは天意に背く事であり、人為に落ちる事を意味している。
しかし、其れはまた、大臣の言葉に従い、政治に協力する事でもない。
本来の天皇・スメラノミコトの立場とは、天意を受けて、自らが「詔・みことのり」を発する事である。
其れは、天智天皇の御代の後から、既に正しくは行なわれてはいない。
「後醍醐天皇」のミコトノリは、足利幕府に因って潰されているし、「明治天皇」の即位も、薩長連合政府の傀儡に因るもので、本来の遷都は行なわれていないのである。
明治帝は、江戸視察に行幸した侭、都に帰ってはいないのである。
だから、現在・いまでも、京都の人達は、天皇が御所に帰って来るのを、待っているのである。
今朝のメッセージは、其れ等の事を踏まえて、新しい神仕組みを、整えろとの事であろう。いま来ている客人は、ケルト族の末裔で、日本の雅楽を習いに来ている男性と、11月には入籍するとの事である。
今朝は、其の客人と、私が考えている東経130度30分の線上に位置する、鳥居門を建てる場所を見に行って来た。
其の場所と、私の考えを知って、其の客人も大変喜んでいる。
いま、岡山の伊丹由香さんに電話を掛けると、先月26日に出雲に呼ばれ、出雲大社の奥に在る、「須佐之男尊」を祭る社の裏の「磐座・いわくら」に行くと、強いエネルギーを感じたとの事である。
やはり、「スサノヲ・海神」の三女神の働きは、確かに始まっている様である。
残りの一女神が、何処の誰かは未だ解らないが、もう観音様の手中に入っている事は間違いないだろう。
私の役割は、此の丸い花崗岩の島を、新たに18分割して、18部門の「大臣・おうみたから」を、認定しなければ成らないのであろう。
3日には、客人のスタッフが、屋久島入りする事に成っている。其の男性も、一部門を担う事に成るのかも知れない。
其れに、160度の位置に存在する「ルーアン」の道筋は、既に動き出しているのである。其の160度の位置の海辺に有る、シドッチ上陸記念碑の近くに建っている教会には、誰が入ったら良いのかも、考えなければならないだろう。
段々と、世界中から、古代の霊魂を抱えた血筋の人達が、屋久島に集結しつつある。其れは、確かに「神霊の思頼・みたまのふゆ」が、地球規模で働いている事の、証と成るモノ・現象である。
明日6月3日は、私が旅に出て、「倭姫命・やまとひめのみこと」の霊魂を宿していた「井上佳子」と、1986年に初めて高知県土佐市で出会った日である。其れから、既に22年が経過するのだ。
其の井上佳子は、既に、彼の世に還り1998年の4月29日が命日と成っている。其の井上佳子とは、12年間神行を共にした事に成る。
そして、其の命日から、既に10年が経過した事に成る。
其の佳子とは、1987年5月3日から5日に掛けて、当時、奈良に住んで居た、野草社の石垣雅設氏や、自然農法家の川口由一氏と、「奈良に帰りたい」と云う「倭姫命」の霊魂を、2000年前に倭姫命が伊勢に行った道を、逆に辿って、奈良に連れ帰った事がある。
其の時、御杖の身体として使われたのが、井上佳子の肉体であった。
其の時、伊勢神宮に参詣し神宮会館に宿泊したのが、5月3日の夜であり、其の二年後の1989年5月3日(憲法記念日)には、長男「井上嵩靖」が誕生している。
神宮会館に3日の夜宿泊し、次の日4日の明け方に、女性の声で「赤と黒」との言葉が告げられて来て、其れは、倭姫命の御言葉の一部である事が判明した。其の御言葉の内容は、人間が「政・まつりごと」に対応する、心構えに付いて示されているものである。
其の内容は、是から政・まつりごとに関わる人間にとって、一番基本的な心構えと成るであろう。私も、是から、其の倭姫命の御言葉の真意から、外れない様に、気を付けて、物事に、対処して行かなければ成らないのだろう。
「倭姫命のおことば」
黒(きたなき)心 なくして
丹(あか)き 心をもちて
清く潔(いさぎよ)く 斎(ゆまわ)り 慎(つつし)み
左の物を右に移さず
右の物を左に移さずして
左を左とし 右を右として
左に帰り 右に廻る事も
万事 違(たが)う 事なくして
大神に仕え奉れ
元(はじめ)を元とし
本(もと)を本とする故なり
「倭姫のおことば」http://star.ap.teacup.com/170606/573.html
平成20年6月2日
礒邉自適
2008/6/1
スサノヲの言葉の意味
20・6・1
昨夜から、今朝に掛けてのメッセージは、「スサノヲの尊」の名前の「スサ」の意味に付いて、知らせて来たモノ・現象の様である。
今朝の映像は、次ぎから次に、様々な物が、複数有る場面が映し出されて来た。
始めの映像は、花畑に咲いている様々な草花。
次は、自然の草原の様々な草草。
次は、丈の低い木や蔓が生い茂っている場所。
次は、大きな木々が様々に繁る森。
次は、家族構成が整っている人間界の姿。
次は、ホームセンターの工具売り場の様な店舗に、様々な工具が沢山壁に下げられている場面。
次は、7色の色紙らしき物。
次は、薄紫やオレンジ色の鮮やかな布。
次は、人間の手に因って耕され、様々な作物が栽培されている畑。
等が 次々に映されて来たのである。
そして、私の意識が、其れ等の映像が、何を意味しているのかを思索していると、長い文章が映されて来た。
そして、其の文章の中程に、「スサ」との単語だけが「」で囲まれているのが見せられた。
そして、更に、文章が現れたが、其の文章は途切れ途切れに成っている、幾つかの文章で、其の文章は、繋ぎ合わせ様としても、上手く文言・文意が繋がらないので、意味が繋がる様に、あれこれ苦労する場面であった。
今朝は、此の文章を書いていると、埼玉の高橋直厚氏より携帯電話に連絡が有り、昨日と、今朝、見せられたビジョンを知らせて来た。
昨日のビジョンは、高橋氏と私が、モーターボートで海原に出て行く映像で、海の色が「白から青」「青から白」に変化する場面であり、今朝のビジョンは、女性がゴール寸前で倒れ込んでいるので、助け起こしてゴールインすると、三番目の女性だったとの事である。
此の、高橋直厚氏の連絡で、今朝のメッセージや、今の状況がスッキリと理解出来て来た。
海原は「スサノヲ尊」が治める世界であり、三人の女性は「スサノヲの尊(海神・わたつみ)の娘」とされている、宗像三女神の事であろう。
私が、此処数日ガイドをしている女性は、其の女神の働きなのであろう。
そうであれば、私は、此の女性がゴールに達するまで、しっかりと応援しなければ成らないと言う事に成る。
其れと、海の水の色が変化したのは、海の深さを意味しているのであろう。
其れは、住吉三神の「表筒男神」「中筒男神」「底筒男神」の世界を示唆するものである。
私は是まで、「須佐之男尊・すさのおのみこと・スサノヲ」の「スサ」とは、神社の神殿に祓いの為に置かれている紙を刻んだ「ヌサ」や、壁土がひび割れしない様に、土に混ぜる藁を刻んだ「スサ」を意味し、生命の遺伝子拡散・生命樹の意味合いだと考えていたのだが、今朝のメッセージは、もっと具体的に「スサ」の意味が示されて来たモノの様である。
先ず、文章の繋がりが上手く行かない場面は、物ごとの「結び・関係性」を意味している様である。
其の、物事の関係性を、具体的に示して来たのが、様々な映像の場面である。
今朝の映像の場面は、様々な方向から、物ごとの関係性を、見詰めろとの事ではないだろうか。
其れは、大自然のシステムの関係性が示されているもので、大自然と人間の関わりに付いても示されている。
其れは、先ず、其々の草木の姿と、其の営みの繋がりである。
其れと、光りの色の仕組みと自然との関係性。更に、
布織物の、糸や染料や織り方の技術。
人間の暮らしや、遺伝子存続の繋がり。
様々な道具の必要性と、其の使い方の分野。
畑に栽培する様々な作物と、人間の結びつき。
其れ等の事を上げて行けば、もっと沢山挙げられるであろう。
其れ等の、様々な繋がりや、情報が、「苆・スサ」の言葉が意味する世界ではないだろうか。
須佐之男尊の働きは、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」が禊ぎをした時に、鼻から誕生したとされ、その前に「調読みの命・つきよみのみこと」と「天照大神」が誕生したと、古事記には記されている。
其の「天照大神」とは、太陽の働きで、昼の世界を治める事に成っている。
其れは、現代風に言うと、太陽光線に照らされている昼間の世界であり、物が見える世界である。
其の、物の世界が在るから、人間は物に名前を与え、其の、物に与えた言葉で思索する事が出来て、意識を発達させて来たのである。
そして「月読命・調読みの命・つきよみのみこと」は、夜の世界を治める事に成っている。
其れは、海の潮の満ち干きや、女性の生理周期など人体のリズムや、子供が産まれて来る事や、夢を見る脳のシステム等を、意味しているのだろう。
其れと、今朝示されて来た、苆・スサの働きである。
スサノヲ尊の働きとは、全ての繋がりや、結びを意味し、其れがなければ、自然の営みや、人間の思索が出来ないと、言う事ではないだろうか。
其の様に考えれば、出雲の熊野大社の祭神である、スサノヲ尊の名が「神祖熊乃大神櫛御氣の命・かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと」で、其の名の意味が、「くしき(通す。通じる。の意味)である事とも繋がって来る。
其の様に考えて行けば、天照大神と、月読命と、須佐之男尊の働きとは、人間が存在している原因を、大きく三つに別けて、表現している事に成る。
つまり、これ等の言い伝え・神話は、現在の学校の教材に当たる物で、古代人が、子供達の思考の手掛かりとして考え出した、説明・理論の一端である事に成る。
其れを、地位も、立場もある大人が、然も真実の様に奉って居るので、衆生が皆、無意識の罠に掛かっているのである。
これ等の事から理解出来る事は、高橋氏には「海幸彦」の世界が映し出され、私には「山幸彦」の世界が、映し出されている事に成る。
其れに、一昨日に続き、宗像三女神も、島々に配置されている神であり、海神(わだつみ)の思考のルーツが見られる物語りである。
大祓い祝詞の文句には、「・・・海原に船を解き放つがごとく・・・」と有る。其の事を考える時、日本の神話のルーツは、海渡族の思考パターンに、拠を発している事が見えてくる。
其れを考えると、私が24年前此の世界に入った時に、無意識でメモ用紙に書いていた、「海渡族の謎を追え」の言葉の意味が、ようやく解けて来たと言う事になる。
其れだと、24年前から、私が、此処のところの思考に達する事は、神の御心の内であった事に成って来る。
たった是だけの事に、24年間もの歳月が掛かったのかと思うと、少しガックリしないでもないが、神々の計画が一部分でも、適ったのであれば、良しとしなければ成らないだろう。
今朝、高橋直厚氏と電話で話して居て、会話に上って来た課題は、人間が何時頃、神話を考え出したかである。
人間は、700万年前に、アフリカ大陸の地形の変化が原因で、中央部に雨が降らなく成り、木々が生い茂っていた森林が、草原へと変わって行く段階で、木の上から、地上に下りた類人猿が、食料を捜す為に、立ち上がった物であると考えられている。
其の人類が、進化して海上に乗り出し、風向きや、潮の流れや、星の位置などの、複雑な情報を管理する事が必要に成り、能力が着いて来たのではないかと言う事である。
其の様に考えれば、ヨーロッパの貴族は、殆どが海賊の子孫であるし、イギリス国を始め、世界の歴史を変えて来た人種は、皆、船で他国に侵略を繰り返した人々である。
日本に遣って来た、天津族の「須佐之男尊」や「饒速日命」や「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」も、皆、海を渡って来た人々である。
其の人々が、長い航海の末に、新しい島を発見し、島々は、神が生んだ物と考えるのは当然の事だったのかもしれない。
若し、人類が海に乗り出さなければ、神話も違った物と、成っていたのかもしれないのである。
こうして、神話の謎を解いて行けば、過去の神話を全部、現実社会から切り離し、人間の思考の基盤から排斥して、新しき概念と、入れ替えをする必要があるのだろう。
其の、新しい概念が出来上がった時に、現在の宗教は、全て、地上から消えてしまうのではないだろうか。
其れが、人類全体の「禊ぎ祓い」と言う事に成るのではないだろうか。
そして、人間社会から迷信は消え去り、真理に適った社会が、完成するのである。
其の世界こそ、神の意思に適った世界であり、人間が幸福に満ちて生活出来る社会の実現である。
現代社会は、宗教ばかりではなく、財欲信仰が余りにも拡大し、散々な社会状況である。
私は25年前、其の世界から足を洗って、此の世界を24年間歩いて来た。
ようやく此の世界で、何人かの人達と、ゴールイン出来る時節を向かえる事に成るのではないだろうか。
其れも、今月中に、結果が見えて来るのだろう。
平成20年6月1日
礒邉自適
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