言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2008/8/30
バットを置く
20・8・30
昨夜は、28日と29日の写真の整理や、「山尾三省さんを偲ぶ」のブログに写真をアップしたりして居たので、宿舎に帰ってベッドに入ったのは、午前2時頃であった。
だから、是と言ったビジョンは、脳裏には残っていないのだが、感じる事は、言葉の世界に執着して居た霊魂達が、成仏したのではないかと言う事である。
「山尾三省さんを偲ぶ」http://moon.ap.teacup.com/20060830/
「いのちのアルバム」http://green.ap.teacup.com/20060812/
28日までに、山尾三省の命日に合わせ、其の日に開く、霊界の言葉に関する扉から、此の世界に渡ろうとして居た霊魂達は、私が昨日、朝から永田川の川原で禊ぎをして、永田岳(1886m)を背景に、ハイビスカスの蜜を吸う為に舞うアゲハ蝶を、カメラに収める為に長い時間を掛けたので、言葉の世界に対する執着が離れたのかもしれない。
何故なら、其れこそが、日本の古神道の世界であり、釈迦牟尼佛の訓えの真髄であるからである。
「法華経十二縁起」http://wave.ap.teacup.com/20060106/332.html
今朝は、メッセージらしき雰囲気の無い侭、明け方に「バットを置く」との言葉が告げられて来た。
「バットを置く」とは、野球の世界の言葉であり、ユニホームを脱ぐとかの言葉と同じく、野球選手が引退する時に使う言葉で、手にする道具を手放す事で、自分の行為を止める事を意味する。
何故、スポーツに全く縁の無い私に、其の世界の言葉を、告げて来たのだろうか。
私が、其の言葉で頭に浮かぶ事は、漢字の「知・チ」の文字の意味である。
漢字の「知」は「矢+口」の組み合わせで、「手にしている 矢を神に預けて 無為で神の言葉を受ける。知らせを待つ。」の意味である。
其れは、ヤクザ言葉で「足を洗う」と言う言葉と同じ意味であり、釈迦牟尼佛の謂う「出家・シュッケ(入寺ではない)」とも同じ意味を持っている。
つまり、自分の全行為を止めて、神の言葉に従うとの意味である。
そして漢字の「神・シン」は、古事記では、日本語の「はたらき」の意味に使用されているが、神の字義は「示+申」の組み合わせで、「祭壇の前で 神の情報(磁気信号)を神経に受け取る。」との意味合いである。
そして、知らされた事を、皆に知らせるのが、智慧の「智・チ」であり、知の下に使われている「日」は太陽ではなく、「曰く」の曰であり、「智」の字義は「歯が覗ける様に口を開けて 神から知らされた事を人に知らせる。」の意味である。
其れが、本来の智慧の意味なのである。
だから、金儲けの方法論等は、智慧と呼べないのである。
本来の神・働きは、代々の調和と安定を図るものである。
其れこそが、言葉の本来の働きであるスメラミコトが「治ろしめす」との意味なのである。
其の意味を考えると、正に、詩人であった「山尾三省」は、其の「智」の行為を行って居た人物と言えるであろう。
しかし、今朝のメッセージは「バット」を置けとの事なので、其の行為も止めろとの事であろうか。
そうであれば、「筆を折る」との言葉の方が、合っている事になる。
其れを使わずに、「バットを置け」と告げて来たのには、其れなりの理由が、有るのではないだろうか。
バットとは、球を打ち返す為の道具である。
其れを止めると言う事は、打撃を止める事を意味し、自分が壁に向い、球を投げてキャッチボールをする事は、構わないとの理・ことではないだろうか。
其れも駄目なら、ボールとかグローブを置けと、告げて来るだろう。
其れは、自分が、言葉に付いて筆を進める事は良いが、他人に向けて、其れを打ち放つ事が、いけない行為であるとの理・ことかもしれない。
イエスは「自分の訓えを 拡大しなさい。」と謂って居るが、中国の老子は、其れとは全く反対で、「精神的な理を 他人に話してはいけない。」と謂っている。
其れが、イエスの訓えと、老子の訓えの大きな違いである。
日本には「理屈を云うな」との諺が有る。
其れは、老子の訓えの方に合っている。
だから、日本の古神道では、自分が受けている、人間社会の情報を消す為に、禊ぎ祓いを行うのである。
其の事を考えると、日本の古神道の考えが、世界で最も優秀なものである事に成る。
何故、イエスは「私の訓えを 広めなさい。」と謂い、老子は「他人に 話すな。」と、全然違うことを謂ったのであろうか。
其れは、「文盲・もんもう」の弟子しか居なかったイエスと、王様の図書館に働いていた老子の世界の違いからである。
老子は、自分が給料を貰いながら、生活に心配する事無く、毎日図書館の中に居て、自由に学問が出来て、其の集大成を言葉にして残せたのである。
其れが、イエスや、釈迦牟尼佛は文字が無いので、言葉で伝えるしか、他に方法が無かったのである。
だから、イエスの訓えは「例え話し」にしか過ぎず、釈迦の訓えは「方便・ほうべん」でしかないのである。
処が、現代社会は大変恵まれていて、PCとITさえあれば、皆が老子の様に自由に勉強が出来て、自分で、文字にて考えを纏める事が出来るのである。
オマケに、家から一歩も出なくても、世界中の人間が、其れを読んでくれるのである。
其れは、書き手にも、読み手にも一切負担が掛からず、責任も掛からない世界である。
其れは、今までに無かった世界(社会条件)である。
其の事を考えると、現代・いまは一番良い世の中と言えるであろう。
其の様に受け取れば、神の計画は、完璧に完成しつつあると言う事に、成るのである。
今朝は、PC前に座ると「名前の無い物達」との言葉が来たので、「命を探せと云った人の名は」のブログを開くと、次の様なメッセージが届いた。
「名前の無い物達」http://moon.ap.teacup.com/20060103/202.html
其れは、「神前・板前・人前・PC前・名前」に続く「前」を意識する世界である。
其れは、自然を相手にする立場であるから、「植物前」と成るだろうか。
其の言葉なら「相対」との言葉が既に有る。
相対の「相」とは「木+目」の組みわせで、字義は「木を観る目」の意味で、自然を見る意識を意味している。
人間の意識は、何かの対象に向う時に、五感が働いて生まれるモノである。
だから「何かの前」と言う意識の立場が、一番大事なのである。
自分の意識が、何かを前にした時に、どう反応するかを確かめるのが、老子や釈迦が、最も気にしていた世界である。
其れは、イエスが磔に成って殺される時に、天に向かって「天の父よ 此の者達を許して下さい。此の者達は 自分が何をして居るのかも 自覚が無いのですから。」と云っている事からも、普通の人間は、自分自身の行為が見えていないと言うことである。
だからこそ、日本語には「有り難い(有る事は難しい)」との言葉が有り、人の前に、自分が在る事が、果たして善い結果を生み出しているのか、其れとも、悪い結果を生み出しているのかが判らないので、人前に立つ事には、充分注意しなさいとの理である。
其の確認を取る為にこそ、祭壇を設けて、其の祭壇に、自分の行動・行為を縛っている道具を、一度天に預けて、神の指示を受ける事が重要なのである。
現在の神社で行われている神事は、其れとは全く反対で、「商売繁盛・学力向上・交通安全・家内安全・恋愛成就」等、自分の願望達成を、神に押し付ける行為である。
其れを、祓う役目である神主が、其れを煽る様な行為を行い、宮司はテレビ宣伝で客を呼び込み、祭神の命日である大祭日を、土曜・日曜に合わせてしまっているのである。
神社の祭日とは、其の霊魂の命日であり、其の命日の約束事に於いて、霊界の御魂が、此の世に出入りをするのである。
其の約束日が外されてしまえば、神霊界との大事な絆は、切れてしまうのである。
其の絆が切れた祭壇では、神の「知」の働き様が無いのである。
だからこそ、此の世から「智」が失われてしまったのである。
今朝のメッセージから、私が考える事は、未だ「子前・親前・師前・老人前・食品前・テレビ前・環境前」等、色々な物前の世界を、表わす言葉を創り出して、自分の意識の立場を明確にする事の、自覚を持つ必要があると言う事である。
其の究極の世界が、神社の祭壇に設置されている神具の「鏡前」の場であるのだ。
そして、其の神社こそ、磐座が有り、樹木が鬱蒼と茂り、清水が流れている、自然の豊かな場所に在るべき物なのである。
其れが、周囲が都市化されて森が無く成り、騒音の中で、排気ガスが流れて来て、「御手洗いの水」が水洗便所の排水を再利用した物で、塩素が大量に投入されていれば、其処に神霊が降って来る分けが無いのである。
そんな場所には、神の使いである小鳥が、水を飲みに遣って来る分けが無い。其れは、鳥の止まり木である鳥居が、幾等大きくて立派な物であっても、無用の長物であると言う事に成るのである。
そんな神社に住んで、金儲けに明け暮れている、宮司や神官は一日も早く、手にする神具の杓・しゃくは置いて貰い、ユニホームも脱いで貰わなければならない。
何故なら、一番大事な神聖な場が、嘘で固められていれば、国民・衆生が救われ様が無いからである。
こんな単純明解な事を、私が書かされて居る事こそ、世の中が乱れていて、無明の世である事の証明であろう。
私に、神が「マウスを置け」と云って来るまでは、此の作業は、止まらないのかもしれない。
今年は、私が、此の世界に入って三回目の「マウス・鼠年」である。
次のマウス年まで、此の作業を続けなければ成らないのだろうか。
平成20年8月30日
礒邉自適
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