言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2009/6/18
詔・みことのり
21・6・18
言葉に関するメッセージは、今日で4日目である。
今日のメッセージの映像は、若芽を天麩羅にして食べる「タラの木」の、盛んに生長する梢の部分が現れて、其の生長部分に、教会の「神父・牧師」が首から両肩に下げている、布の様な物が、下げられている映像が映されて来た。
そして、其の映像の意味は、人間は言葉に拠って、意識が成長していると言う理・ことであった。
いま、PCで其の布の事を検索すると、「ストール(ストラ)、カズラ(チャジブルともいう)」と、載っている。
「ストール」ストールは、カトリックの神父が着用する細長い布の「ストラ」を起源とする説と、古代ローマの既婚女性が着用した「ストラ」という衣装を由来とするという説があります。神父のストラが主に装飾用のものであるのに対し、古代ローマのストラは防寒の意味もあり、現在のストールに近いものであるといえるかもしれません。
ショールとストールの違いは非常にあいまいで、日本ではどちらも、「肩掛け」と訳されています。しかし、カシミールという寒い土地で生まれたショールと、ローマやヨーロッパで生まれたとされるストールでは、防寒の効率が違うといえるでしょう。
シルクやコットン製のもののほか、最近では竹繊維のものなど、さまざまな製品が開発されています。
【参照記事】 http://shawl-fashion.net/cate02/p10/
此の記事で面白いのは、今朝の映像には、タラの木に掛かっていた「布・ストール」の名に「カズラ」の名が有る事である。
「カズラ」の日本語は「蔓・葛・かずら」で、木に巻き付く「つる・蔓」の事である。
何故、木に巻き付く「蔓」と、人間が身体に巻き付ける「ストール・ストラ・カズラ・チャジブル」が、同じ呼び名であるのだろうか。
其の、言葉の共通点は「巻き付く物」である。
其の「巻き付く物・巻き付ける物」の意味を考えると、今朝の映像で、ダラの木の生長部分・首に掛けられていた「ストラ・カズラ」は、特別な意味を含んでいる様である。
「カズラ」に付いては、次の様に説明されている。
カズラも古代ローマ時代に由来する古い物です。ローマの貴族や高級官僚は自らの権威の象徴として、こういったマント状の服を身に付けて外出したそうです。
写真でご覧になって分かる通り、カズラのデザインには大きく分けて2種類あり、写真左側のような四角いものは「ローマンカズラ」、右側のポンチョ状のものは「ゴシック・カズラ」と呼ばれます。現在の日本のミサでは使われないか、またはゴシック・カズラを使うのが主流のようです。
左の写真は聖ピオ神父が使われていたカズラです。
カズラは豪華な刺繍やデザインのものが多く、その美しさや華麗さはキリストの代理者である司祭の権威を表していました。
また多くの司祭であった聖人もこの祭服に誇りを持っておりました。ある聖人は死の直前に自分のカズラを床に広げ、その上に跪いて天に向かって祈りながら帰天されたそうです。 参考HP
「聖カタリナ教会」http://www.geocities.jp/benedict_loire/Sacri/Sacri.html
此の文章を読むと、「カズラ」は「司祭の命」とも謂える様な物であるらしい。其のカズラが、ダラの木の若々しくて瑞瑞しい「梢・首」の所に、何故掛けられていたのであろうか。
其れは、カズラが生命の生長部分に、大事な関係が有ると言う事なのであろう。其れが、神父・牧師が身に着けるカズラではなく、木に巻き付く蔓であれば、其の巻き付かれた部分は、絞められて息が止まると言うか、死んでしまう事に成る。
神父・牧師の職務は、神・天に奉仕をする役割である。
其の役割で一番大事な事は、イエスキリストの言葉を綴った聖書に従がって、言葉に拠って神・天に仕える事である。
其の神父・牧師の言葉が、生命が生長している、柔らかくて弱い部分に絡みつき、其の生長部分を絞めてしまえば、其の生命は生長が止まってしまい、死んでしまうのである。
本来の「ストール・ストラ・カズラ・チャジブル」は、悪い霊魂や、寒さから身を護る為に、身体に巻き付けられた物であろう。
其の「ストラ・カズラ」が、権威を象徴する物と成り、若い人々の、魂しいの成長を妨害するモノと成っているのなら、其れは、権力や教会の威信を護る為の行為であり、神・天に奉仕する行為ではない事に成る。
今朝の映像の意味は、真の言葉とは、どう言うモノなのかを考えろと、示唆して来ているのではないだろうか。
昨夜は、NHKテレビ番組で「太宰治・だざいおさむ」に付いて放送されていた。
太宰治は「人間失格」の著作を最後に、愛人と多摩川上水にて入水自殺をしてしまっている。そして、明日6月19日が命日とされている。
昨夜の番組では、太宰治は人間の罪に付いて、深く悩んで居たらしい事が放送されていた。
私は、其の番組を観終ってから宿舎に帰り、シャワーを浴びてベッドに入って、太宰治の事を想って居て、人間の言葉には、正義がなければ成らないと考えた。
其れは、何故かと言えば、正義心がなければ、神社で祝詞を上げたり、寺院でお経を唱えたり、大学で法律用語を勉強しても、何にも成らないからである。
言葉とは、真理を求める人だけに、神が与えたモノであり、其の言葉を悪用する者は、天・神の意志に反している事に成るのである。
其の理・ことに触れているのが、弘法大師空海の密教の世界であり、「真言・マントラ」の意味なのである。
そして、其の真言の最先端であるべき存在が、天津日嗣の「すめらみこと・天皇」なのである。
其の「すめらみこと・大王」の言葉・真言が、「詔・勅・みことのり」なのである。
「詔・勅」の「詔・ショウ」は、「言+召」の組み合わせで、招ねき寄せて言う。告げる。みことのりの意味を表わす。と 載っており、
「勅・チョク」は、元字は「柬+攴」の組み合わせで、「柬」は木に固く結び付けられた袋の象形。「攴」はむちうつの形にかたどる。で、後に「力」に変形した。「勅」の意味は、まっすぐになるように固くしめつける。いましめるの意味を表わす。と 載っている。 漢語林より
是だと、「勅・チョク」の漢字の意味は、今朝のメッセージの映像に有った、「ストラ・カズラ・蔓」を締め付けるとの意味に成り、あまり善くない言葉であることになる。
一方「詔・ショウ」の方は、招いて伝えるの意味なので、善いのではないだろうか。
其の「詔・みこのり」も、PCやITが完備された現代社会では、招き入れる必要が無く、其の儘、全世界に「詔・みことのり」が可能である。
現在では、世界全体がグローバル化され、国家や言語も、自分の都合だけで、単独にて護り切る事は不可能に成って来ている。
特に、環境問題は、自分の国が幾等努力しても、解決出来ない状態に陥っている。
其の事を考えても、全世界に通用する「詔・みことのり」が必要である。
其れは、日本の総理大臣では不可能であるし、アメリカ国やロシア国の大統領でも、中国の首相でも無理である。
其れに、日本の天皇陛下や、ローマ法王や、ダライラマでも不可能であろう。
何故かと謂えば、彼等の言葉は、過去の時代の受け売りであり、遺産的モノであるから、地球全体の未来創造には、役に立たないのである。
過去の概念で、未来社会を担う若者の意識を縛る事は、遺物で「勅・チョク(しばるもの)」に成ってしまうからである。
「真言・マントラ」とは、宇宙の日々変化する、森羅万象の流転に、良い影響を与えるモノでなければ成らないのである。
其の真言・マントラが、過去の遺物のままであれば、未来を創造するどころか、停滞を生み出す原因に成るのである。
其の問題を解決する為に、此処数日のメッセージは、新しい言葉に付いて触れて来ているのであろう。
「司・シ(つかさ)」の漢字は、「言葉+幟」の組み合わせで、神・天から伝えられた言葉を、幟旗に書いて立て、運動を興の意味である。
其の、「司・幟旗」に書くべき言葉が、勅の漢字の象形である、木に固く巻き付けられた袋の意味ではないだろうか。
其の袋の中身は、竹札に書かれた祷りの「言葉・文字」なのであろう。
現在、私に示されて来ているメッセージは、其の竹製の札に、どんな言葉・文字を書けば良いのかを、考えろとの事ではないだろうか。
そして、其れは、生長を遂げている梢の部分を、締め付ける「物・カズラ」であっては成らないと、言う理・ことである。
其れを考えると、煌びやかな「ストラ・カズラ」を身に付けている「法王」や「神父」や「牧師」や「坊主」は、神・天に仕えている事には成らないのである。
其れ等の人々は、「イエスキリスト」や「釈迦牟尼佛」の訓えに、背いているのである。
今朝のメッセージの内容を考えると、「カズラ」との言葉が有る事を、タラの木にストールが掛けられている映像で、示して来た者の存在が、在る事が不思議である。
其の存在は、私の日々の行動と、使っている言葉の全てを、管理しているのであろう。
其の存在が、何者であるのかは、私にも良くは解からないが、確かに「神」と呼ばれて来た物が、存在する事は明らかである。
其の、何者かの存在・はたらきを助ける為にも、人間の言葉を、本来の処に返さなければ成らないのである。
其れは、教育界や宗教界の本来の役割なのであるが、其の一番大事な事が、現代社会から失われてしまっているのである。
其れを、どの様に立て直して行けば良いのか、まだまだ、私の人生は終わりが見えない。
だからこそ、此の世界は、イエスキリストが謂う「永遠の命の世界」なのかも知れない。
平成21年6月18日10時44分
礒邉自適
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