言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2012/1/1
ご飯ですよ
24・1・1
今日から2012年が始まり、マヤ文化の神である「時間の操縦士」の概念が正しいモノであるかの是非が、はっきりするであろう。
今朝のメッセージの映像には、5の数字が映し出されてから、60歳くらいの身体がガッシリして、髭の濃い男性の姿が映し出されて来た。其の男性は、是から人間社会に必要な情報を本にして、世に出す役割である事が示された。
そして、明け方に「ご飯ですよ」との言葉が聞こえて来た。
今年最初のメッセージは、人間社会に必要な文章を残す男性の姿と、「ご飯ですよ」の言葉である。其のメッセージの関連を考えると、人間社会には音声言葉と、文字言葉による情報が必要であるとの理・ことだろう。
現代社会では、新年元旦に最初に交わされる言葉は「明けましておめでとう・ハッピーニューイヤー」である。其れが、今朝、元旦に「ご飯ですよ」との言葉が先ず発せられたとの事は、「明けましておめでとう」より「ご飯ですよ」の言葉の方が大事であるとの事だろう。
其の理由を考えると、「明けましておめでとう」とは、暦・カレンダーが出来て日付けを刻み始めてから、新しい年の最初の日が決まって、生まれた言葉であると言うか、概念である。だから、「明けましておめでとう」との言葉は、暦・カレンダーがなければ言えない言葉であるので、文明が築かれてから使われている言葉である。
一方「ご飯ですよ」とは、世界中で母親が子供に対して、食事の準備が出来た時に使う言葉であり、其の言葉は人類だけではなく、動物の豹や鶏の母親などが、餌が有る時に、子供を呼ぶ時に使うので、動物の次元から使われている言葉・合図である。
其れを考えると「ご飯ですよ」の言葉は、生命に直結した「一次元的」言葉であると言えるであろう。
「ご飯ですよ」の言葉は、動物が生きて行く為に、一番必要な本能である「食欲」に直結する言葉であり、二番目の本能である「性・ラブ・愛」よりも、先に有る言葉である。
其の証拠が、中国や英語・スペイン語で母親の事を「ママ・マミー」と呼ぶし、イタリア語「マンマ」日本では「母親=まんま・飯」であり、幼児にとっては母親は乳房と同じ意識の対象物であり、古代社会では世界中で乳房が「マ
」であるらしい。
・・・ 古今、どこの国でも幼児たちはお母さんを「ママ、マンマ、ママン、マミ」などと呼ぶ。ママは外来語で、日本の昔の赤ちゃんはそうは呼ばなかったと、思われるかもしれないが、赤ちゃんの最初に覚える言葉はご承知の通り「んまんま」であり、「まんま」である。「まんま」は飯の意味であるが、嬰児にとっては、それは「おっぱい」すなわち母乳である。
そのことは『源氏物語』の「蓬生」や『枕草子』にも「乳母(まま)」として言及されている。ラテン語でもマンマは「胸、乳房」を意味し、「哺乳類(英語のマンマル)」の語源となっている。
古代メソポタミアでは「お母さん」はシュメル語で「アマ」といい、アッカド語では「ウンム」といった。古代エジプトでは、ヒエログリフの「子供を抱く女性」は「メナト」(育児の女、乳母の意)と読み、半円形の「乳房」は「メネジュ」と読むという。(『古代メソポタミアの神々:世界最古の「王と神との饗宴」』p.36-37)・・・ ~引用終了~
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/ma.html
此の世界中で、幼児の発する言葉が「ママ・マンマ・マミ」であり、其れが母親の「乳房・母乳・食べ物」を意味する事を考えると、聖書に出て来る「マナ」が食べ物の意味であり、「まないの井戸」や「まな板」の「ま」も食べ物の事であると言う事に成る。
其の、幼児が最初に使う「ママ・マンマ」が「一次元的言葉」であるとすれば、「ラブ・愛」や「嫌い・ノー」などの感情を伴う言葉は、二次元的言葉であると言えるのではないだろうか。其れに、集団生活の為の掛け声や、合図などの言葉が有り、技術や文化を伝える言葉などが有る。
そして、5次元の所に、音声の言葉を使わずに、文字だけで文章を書き残す世界が有るとの事が、今朝のメッセージに有った5の数字と、文章を書く男性の姿なのではないだろうか。
今朝のメッセージは、私の是からの行動と言うか、意識活動を何処に向けたら良いかを、示唆して来ているのかも知れない。
今朝私が感じた事は、今朝のメッセージは四次元世界・神霊界からの「神霊の思頼・みたまのふゆ」ではなく、私自身が顕在意識で何をすれば良いかを指示して来ている事に成り、神のお告げに従うのではなく、私の考えに神の世界と言うか、神霊界の人々が付いて来る事を意味しているのではないだろうか。
其の様に考えると、今年の私の行動は、是までとは違ったものに成るのかも知れない。
平成24年1月1日
礒邉自適
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