源・まる・ゼロ
24・9・23
本日9月23日は、私の父方の祖父の66回忌であり、屋久島では岳参りの行事が朝から行われる日である。
其れ等の事に関係が有るのか、今朝のメッセージの映像には、山岳の岩場から私が下って行く場面が現れ、其れを小学生の男子と、祖父らしき男性が見ていた。
其の映像は、私が高い岩場の上から、1本足のジャンピング道具を着けて、着地点を定めながら跳び下りて行った。何カ所かは、ポイントを少し外れたが、何とか合格点で麓の岩場まで到着出来た。其の麓の到達地点には、数人の男性が居て、私の他にも試験に挑んだ男性が居たらしい。
そして、其の試験が終わって皆が去った後、岩の上に一冊の本が有った。
私は、誰かが忘れ物をしたのだと想って、其の本の近くに行って本の表紙を見ると、其の本の表紙には「源」との文字が1字大きく書かれていて、其の源の文字は「まる」と「ゼロ」と読む事が示された。
次の映像は、強い暴風が左側から吹いて来て、私は空手の構えを採って気合を入れ、其の強風を2度防御した。しかし、3度目の風は強すぎて防御できないのであきらめてしまった。
其の映像の意味は、私が2度の結婚生活では、自分の自我を護る事に成功したが、3度目は我を張る事が不可能である理・ことを、示唆しているのかも知れない。其れは、私の年齢が65歳を過ぎている事と、もう 自分の自我を張って防御しなければ成らない時節を、通り越した事を意味しているのではないだろうか。
今朝のメッセージの映像の意味は、男性には、山岳に棲む神の意識が必要であり、其の神意識が人間社会に正しく降る為には、幾つかのポイントを辿る必要が有る事を示しているのであろう。
そして、其のテーマは「源・みなもと」であり、其の源には「○・まる・丸」と「0・ゼロ」の概念が含まれていると言うか、其れが基本であるとの理・ことではないだろうか。
其れに、山の上に、小学生の男子と祖父・老人が立って、私が山から下る様子を見て居たのは、男子は、成人に達したら、其の試験を受けなければ成らない理・ことを意味し、祖父の様な老人は、其の事に成功して、隠居している身分を意味しているのであろう。
其れは、男性の一生には、幼年期と、活動期と、老年期の三段階が有る理・ことを意味し、どの時代も完璧に生きなければ一人前ではなく、人生の完成者とは言われない理・ことを示しているのであろう。
其れは、簡単な見本であるが、実に多くの意味を示しており、現代社会では忘れられている、大きな価値観を示して来ている。
今朝のメッセージに現れた、一冊の本の表紙に書かれていた「源」の文字は、水源の意味であり、物事のみなもと・はじまり・根本を意味している。
そして、其れは、人間の「祷り・帰命・ナーム」の対象でもある。
其れを考えると、今朝の映像で、私が下って行った岩場のポイントは、「天御中主神」の立場から、「伊邪那美命・いざなみのみこと」の立場までの、17段の階梯を意味し、日本の神社の「神の社」から拝殿までの、16段の階段と同じ物を意味しているのではないだろうか。
しかし、今朝のメッセージの映像では、私は一番下の「磯の段(白洲・狭庭・白砂)」の場から、上に向かって階段を登るのではなく、上から下に降りて行った。其れは、私の意識が、既に神霊の領域に達している理・ことを、示唆して来ているのではないだろうか。
今朝の「男の子」と「老人」と「私の意識」の関係を考えると、私の父親の姿が無いので、私自身の意識が父親の念い其の儘であるのかも知れない。
何故なら、私の父親は満州に暮らしている時に、厳島神社の宮司か神主の息子さんと神様の話ばかりしていたとの事である。其の父親は、私が17歳の秋に49歳で亡くなっている。
私には、2人の息子が居るが、其の息子達は父親にとっては孫である。其れを考えると、今朝のメッセージは4代に亘る男子系の御魂の在り方を、考える必要があるのかも知れない。
其れは、人間の霊魂の在り方を探る手掛かりであり、天皇家の今後の在り方を考える1つの手立てと成るのではないだろうか。
平成24年9月23日
礒邉自適