言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2013/6/2
たしかめる
25・6・2
私が、1984年6月4日(旧暦5月5日)に此の神の世界に入ってから、明後日4日で丸29年が経過し、30年目が始まる事に成る。
30年は、漢字の「世」の意味なので、私は残り一年間この様な暮らしを続ければ、一世を神に捧げる事と成る。
今朝のメッセージは、幾つかの映像が映し出されて来た後、小学校の国語の勉強の様に、紙に四角なマス目が有って、其のマス目の中に平仮名文字で「たしかめる」と書かれているのが映し出されて来た。
そして、朝方「たかまがはら」との言葉が告げられて来たので、起きて時計を見ると、6時2分であり、其の数字は本日の日付と同じである。
確かに「たかまがらはら」との言葉を聞いても、其の言葉の本当の意味は、直ぐには頭に浮かんでは来ない。いまこうして、PCに向かって「たかまがはら」との言葉を打てば、其れは現代語では「宇宙」の意味である事が判る。
其れは、科学が進んで、宇宙の成り立ちや構造が学問的に認識され、全ての人々が共通認識を持っており、間違いだと言う人間が居ないので、自分も正しいと確信しているからであろう。
しかし、全ての事象や、言葉の世界が、其の様に確信されているわけではない。
例えば、男子と女子の言葉は、「男・ダン」は「田+力」の組み合わせで、「力・リキ」は男子の力瘤の有る腕の象形であり、「田・デン」は区画された土地の象形であるので、男とは土地を耕す力の有る人物の意味である理・ことが解る。
其れに「女・ニョ」の漢字は、跽いて仕える女性の姿を、横から見た象形であるので、誰でも理解する事ができる。
しかし、日本語の「おとこ」と「おんな」の言葉は、解っている様だが、改めて其の言葉を考えると、どの様な意味から発生したものなのかが良く解らない。
其れは、朝の漢字が「艸+日+月」の組み合わせで、草原に昇る太陽と、朝潮が満ちて来る状況から、潮流を司る月を加えているものであり、其れは自然の情景を知っている者であれば、誰でも理解出来る。だが、日本語の「あさ」の意味は良く判らない事と同じである。
古語辞典で「あさ」を調べても、「夜が明けて しばらくの時間帯」との事しか載っていないので、「あさ」自体の言葉の意味は判らないのである。私に、感じられるのは、「あさ」は「明け・あけ」に関係が有りそうな事ぐらいである。
其の様に考えると、全てに物の形が実在し、写真で撮る事ができる象形文字の漢字の世界は、理解し易いが、「やまとことば・日本語」は漠然としたままであり、古代社会でどの様な意味が込められていたのが、既に忘れ去れているのである。
其れを考えると、弘法大師空海の「真言宗」の「真言・マントラ」の世界もぼやけて来る。
今朝のメッセージは、一昨日の「山の神・海の神」との祝詞の言葉と関係が有り、祝詞を唱える時、神主の頭に、言葉が意味する物事の実在が、イメージされているかどうかが問題と成って来る。
其れは、私がスプーン曲げの超能力を持っている清田益章氏と会った時に、清田氏が「曲がれ」と念じている内は曲がらないが、脳裏にスプーンが曲がった映像が映し出された時に、スプーンは曲がっている。と話していた事と関係が有り、人間の脳は映像がイメージ出来た時に、其れが現象化する理・ことが解る。
其れを考えると、祝詞を唱える神主・神官は、理屈ではなくイメージ力がなければ成らないと言う事に成る。だとすれば、祝詞の言葉が、全て脳内で映像化される人間でなければ、神主や神官・宮司は務まらないと言う事に成るであろう。
そうすると、実際に体験を積んだ者でなければ、其の役割は務められない理・ことに成り、修験道の「みち・手法」の厳しさが能く理解できる。
徒・ただ、大学を卒業して儀式をマスターした人間では、真実の神主は務められないのである。其れは、イエスキリストの神官に対する言動からも明らかな事である。
昨日は、福岡県古賀市小山田に有る「斎宮・いつきのみや」の宮司さんに連絡を執って、東経130度30分・御稜威ラインの石碑「夢と志の有る国 日本」の建立の件を相談したら、敷地が市の所有であり無理であるとの事であった。
其の事と、今朝の「たしかめる」と「たかまがはら」のメッセージは関係が有り、宇宙意志が何処に有るのかを、確かめなければ成らないのかも知れない。
東経130度30分のラインには、屋久島から宗像市の沖に有る地の島の「慈島神社」まで40社余りの神社が存在する。其の中の「宗像大社」と「太宰府天満宮」の敷地は、文化庁の所有に成っているので、石碑の建立は出来ない。
其れ等の現実を考えると、有名で人気の有る神社ではなくとも、東経130度30分の線上に限りなく近くて、私の肉体に直接「カモ・(神の電気信号)」の反応が有った神社に建立して行く事が、天・神の意志に適っているのであろう。
そして、其れも「たしかめる」との言葉の一つでもあるのだろう。
先程、PC作業を中断して、縁側の椅子に座ってお茶を飲み始めると、「いま こうしている自分」との言葉が、心の内側から浮かび上がって来たので、手帳を開くと続きの言葉が出て来た。
いま こうして居る 自分
其れは 何物でもない おのれ
だが 探している 自分は
おのれ ではなく 天地の 在り様である
平成25年6月2日7時40分
「虹色のマスター」http://sun.ap.teacup.com/20061030/267.html
其れは、自分自身の事を確かめる内容であり、森羅万象の在り様も確かめる事を示唆している。
これ等の言葉・言霊の世界が、どの様な仕組みで起きて来るのであろうか。
私は、29年前の6月4日・母親の64歳の誕生日に、自宅前を流れる安房川の岸辺で、無庵師匠が見守る中、禊ぎ祓いの儀式を行って此の世界に入り、4311体の神霊・精霊に満たされて、自分の顕在意識に拠る生き方が出来なく成って、神の声に従って此処まで生きて来た。
だが、今朝の言葉は、女神や神霊の言葉ではなく、自分の内側から自分の言葉として湧き上がって来たモノである。其れは、2002年6月に18年振りに屋久島に帰島し、新たな自分にて島の暮らしを始めた時と、同じ精神状態のモノ・状況である。
本日の「6月2日」の日付と、「たかまがはら」との言葉が告げられて来た「6時2分」の時間のタイミングは、此の私が、森羅万象の働きと同化していると言うか「高間が原・腹」に存在する事実を、現しているのではないだろうか。
其れが、日本の伝統である「現人神・あらひとかみ」の「すがた・素形」なのかも知れない。
今朝のメッセージの一場面では、私が魚の新鮮度を見分けてから、選んだ魚を解体して、どの様な量の塩を振るかの目踏みをしていた。其れは、「鰓・えら」や腸や「鱗・うろこ」や「鰭・ひれ」などを取り除いて、頭と胴体を幾つかに切り分けて、干し物にする作業であった。
其れも、魚の新鮮度や、各部分を確認する行為である。
其れに、一匹の魚を各部分に解体する事は、分ける行為であるので、今朝の詩の言葉に有った「自分」の単語に関係が有る様である。
・・・「自分」との単語の意味は、「自」が鼻の象形であり、「分」は「八+刀」の組み合わせで、「自分を 刀で左右に切り分けて 自分の存在理由を知る」との意味である。其の「自分」との言葉を考えると、私は、新たな自己分析を迫られているのかも知れない。
今朝、私が気に成るのは日本語の「慎み・つつしみ」に使う「慎・シン」の漢字である。慎の漢字は「忄(心)+真(眞)」の組み合わせで、音符の眞は、つめこむの意味。心をすみずみにまでつめこむ、注意深くしてつつしむの意味を表す。【字義】1つつしむ。アおろそかにしない。注意深くする。気をつける。イ重んずる。大切にする。2まこと。まことにする。
其の「慎」の意味からも、私は、是から自分の意識中に、どの様な情報を取り込むかを真剣に考えなければ成らない様である。・・・
「自分」http://wave.ap.teacup.com/20060106/477.html
本日6月2日は、私が二年前の今日、午後1時30分宮之浦港出港のフェリーに乗る予定が、8時20分発の別会社のフェリーに乗ってしまうハプニングが起きた日でもある。其の出来事を考えると、私は確かに「現人神・あらひとかみ(現御神、現神、明神)」の役割を果たしているのかも知れない。
・・・そして、9時頃に眠く成って来たので、部屋に帰ってベッドに就いた。すると、一眠りした後、目が覚めたので起きて時計を見ると、1時23分であった。其れから旅立ちの荷物の準備を済ませ、もう一眠りした後、5時51分に起きて荷物を車に全部積み込み、朝食を済ませた後、PCを使う為にドコモの電波が届く所までと想って、6時53分には宿舎を出発した。
途中、安房に有る父親の墓にお参りして走って居ると、気持ち良さそうな場所が無いので走り続け、宮之浦港に着いてしまった。
そして、何時も乗る船は午後1時30分発なのだが、別の船が接岸して車が下船中であり、8時20分に出港すると言うので、待つのも大変なので、切符を買って其の船に乗る事にした。
すると、別に1台だけ乗り込んで来た、豚を積んだトラックのナンバーが「 1・23」である。其のトラックのナンバーと、朝起こされた時間が同じなので、此れは何か意味が有るのだろうと考えて居ると、江藤敬介氏から電話が有って話が有ると言うので、今日はうきは市まで行く事に決めた。
・・・其れを考えると、今朝の映像で地上に並べられていた人材や物は、「八百萬神々・やおよろずのかみがみ」を意味し、地球に新しい神仕組みが整いつつある事を示して来ているのではないだろうか。
そして、其の事が皆の認識に上る為に、是からの私の動きが関係あり、岡本天明の「日月神示」「一二三神事」の「神一厘の仕組みが 此の日本から始まる」との事が、今朝1時23分から動き出したのかも知れない。・・・
「神々」http://green.ap.teacup.com/20060818/1947.html
此の二年前の6月2日のメッセージの内容からも、「たかまがらはら」の新しい事象が動いている事は明らかである。
其の事を考えると、私は是からも、森羅万象の流転の中で起きている、あらゆる現象を確かめて行く必要があるのだろう。そして、其の行為が、自分自身の存在が何物であるかを、確かめて行く作業にも繋がるのであろう。
平成25年6月2日
礒邉自適
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