言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2015/7/18
臣勿 と ナム
27・7・18
今朝のメッセージの映像は、幾つもの場面が映し出されて来たが、其の場面は、是までとは少し異なるテーマを、示唆して来ている様である。
先ず、最初に、私の意識は、屋久島に帰って居り、兄弟が三人揃って居た。
其れから、魚釣りに行こうかと意って、釣竿を袋から出して見ると、竿の先の細い部分が無くなっており、使用する事が出来なかった。
次に、四角い枠が、海の波に浚われたので、泳いで取りに行こうかと思ったが、台風の余波で大時化なので、泳ぐと自分も波に浚われて、命が危ないので、取りに行くのは止めた。
そして、其の四角な枠は、浪間に飲み込まれて見えなくなった。
次の映像は、私が管理を任されている「山崎」と言う人の別荘を見に行くと、其の敷地の中の木々が伐採されて、焼かれており、見知らぬ男性が二人で、畑にする為に開墾を始めていた。
どうやら、其の二人は地主の山崎さんに、作業を頼まれた様である。
次の映像は、私が山の方に歩いて登って行くと、其の途中にも開墾された土地が有り、既に、何種類かの野菜の苗が植えられていた。
次の映像は、戸棚の引き出しを開けると、湯飲みの下に文章が書かれた紙が有り、其の文章の題は「臣勿」の組み合わせの漢字であった。
そして、7月6日の日付が示されて来た。
今朝のメッセージを紐解く鍵・キーは、「臣勿」の漢字と、「76」の数字に有るようである。
「76」の数字は「なむ・ナム」と読めるので、昨日のテーマである「祷り・帰命・ナーム・リリジョン・religion」に関係があり、私が今朝の映像で、最初に、自分の故郷である屋久島に帰っていた事と関係があり、兄弟三人が揃って居たのは、私の意識が原点と言うか、源・みなもとに還った事を、意味しているのであろう。
「臣勿」の漢字は、次の様に載っている。
「臣・シン・ジン」【解字】象形。甲骨文・金文でよくわかるように、しっかりと見ひらいた目の象形で、賢いけらいの意味を表す。臣を音符に含む形声文字に堅・慳・腎・賢などがあり、これらの漢字は「しっかりしている」の意味を共有している。
【字義】@けらい。㋐君主に仕える人。「臣下」㋑しもべ。めしつかい。「臣妾」A家来となる。家来として仕える。また、家来とする。B家来として本分を尽くす。Cたみ。一般の人民。D家来が君主に対する謙遜の自称。E昔、自分を謙遜していうことば。
「勿・ブツ・モチ」【解字】象形。甲骨文は、弓のつるをはじいて、払い清めるさまにかたどり、借りて禁止の意味を表す助字に用いる。勿を音符に含む形声文字に、忽・惚・歾・物・笏などがあり、これらの漢字は「ない」の意味を共有している。
【字義】@助字。A勿勿。Bはた。人民を集めるしるしの旗。
⇒助字解説。@なかれ。禁止。・・・するな。
論語。「己所不欲勿施於人」(自分のいやに思うことを人にさせてはならない)
Aなし。否定。・・・ない。
孟子。「賢者能勿喪耳」(賢者は失わないでいられるだけだ)
漢語林より
此の意味からすると、「臣勿」の漢字は「家来を持つな」との意味になり、其れが水屋の引き出しの中に有ったのは、隠されている秘儀であると言う事に成るのであろう。
其の様に考えると、今朝の映像で、海の中に消えて行った四角な枠は、私に物事に枠を嵌めて考える事を止めろと言う事であり、釣竿が使用出来なく成っていたのは、私が世直しの為に、人材を集め様と考えて来た事を、止めろとの事ではないだろうか。
そして、山崎と言う人の別荘の土地で、他人が作業をして居たのは、私に「他人の物を 管理をするな」と言う事ではないだろうか。
そして、私が山崎との名前の人物の別荘に行ったのは、私の居所が、山崎に在ると言う事なのかも知れない。
今朝のメッセージを、此の様に考える・捉えると、私は32年前に「土肥無庵」に捜し出されて、「自適さんが救世主である」との意味を云われて、其の言葉に呪縛されていた事が、解かれた事になり、本来の自分に還った事に成るのではないだろうか。
しかし、土肥無庵に捜し出されて、マクロビオティックの世界に入り、父親の霊魂を含む4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」が起きなければ、私は屋久島の一人の住民の儘であり、此の様な意識と言うか、智慧を、授かる事は無かったのである。
其れに、万物の母である「女神」との接触も、起きなかったのである。
其れ等の事を考えると、私は、自分の人生の目的・命を完遂した事に成り、其れが今朝示されて来たのは、明日7月19日が旧暦6月4日であるので、私は「天照界」だけではなく、「月讀界」の方の情報も、整理する事が出来たと言う事に、成るのではないだろうか。
其れを証明するかの様に、昨夜から、私は自分の顔の筋肉が弛み、私の意識が佛顔に成っている感覚を味わっている。
其れは、1984年6月4日(旧暦5月5日)に安房川の岸辺で、土肥無庵の下で「禊ぎ祓い・パプテスマ」を受けて、解脱をしてから、山中の木に寄り掛かって仏陀として目覚めた時の感じとは、幾分違う感覚が有る。
其れは、老子の謂う「恍なり惚なり 惚なり恍なり」の方に近い感覚が有るが、老子の謂う其れは、自分が宇宙のエナジー・光エネルギーに包まれている感覚であるので、周囲に物の世界が在るが、私の現在・いまの感覚は、周囲には何も存在せず、唯私の中に全ての調和と言うか、安らぎが満ちている感覚なのである。
其れは、私が真実のブッダと成ったのか、「久遠元初・くおんがんじょ」の世界に「76・ナム・帰命」したので、「名病み・悩み・煩悩」が消え去って、「完璧な無」に至っているからかも知れない。
其の様に考えると、完璧な無の状態は、全ての事象・森羅万象を内に含有した状態であり、其れが本来の「ブッダ」の状態であり、其処には、何等の言葉や、意味付けが必要ないので、今朝示されて来た「臣勿」の漢字は、其の状態を意味しているのかも知れない。
其れは、大きな「臣・目・意識」で世界を捉え、全ての物事を「勿・祓い清めて」しまった状態であると言う事である。
其の様に考えると、確かに私は4311体の霊魂が求めて来た「神霊の思頼・みたまのふゆ」を叶える事に成功しており、矢追日聖法主との約束を果たした事に成るのではないだろうか。
これで、私は、明日の旧暦6月4日を「泰人」として、迎える事ができそうである。
平成27年7月18日10時31分
礒邉自適
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