言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2017/2/17
物の管理
29・2・17
本日2月17日は、「折年祭」が行われる日である。
祈年祭(きねんさい、としごいのまつり)は、毎年2月に行われ、一年の五穀豊穣などを祈る神道の祭祀である[1]。11月の新嘗祭と対になるとされるが、皇室祭祀令では祈年祭は小祭、新嘗祭は大祭とされていた。
実施時期
明治の改暦前は旧暦2月4日に行われた[1]。改暦後は2月17日に行われるが、時期は統一されておらず、北国には3月・4月の春祭りと併せて行う神社もある。
歴史(編集)
本来は民衆が行う田の神への予祝祭であったが[2]、中国の大祀祈殻の要素を取り入れ、律令国家祭祀として成立した。7世紀後半の天武天皇の時代には既に記録があり、延喜式神名帳記載の全神社(3132座)が祈願の対象であった。平安時代には形骸化し、神祇官の内部でのみ行う祭祀となった。平安時代中頃になると、天照大御神を主に祀る祭祀と認識され、院政期には天照大御神を奉祀する天皇の祭祀として厳修された。13世紀初め、鎌倉時代初頭の順徳天皇の『禁秘抄』では、祈年祭は伊勢神宮関係の祭祀とされた。
室町時代後半の戦乱期には、他の祭祀と同様に廃絶し、神祇官の伯を世襲した白川家が行うようになった。江戸時代に入り、元禄年間に宮中での祈年祭の復興が企画されたが為らず、明治時代の神祇官復興により再開された。祈年祭は重要な国家祭祀と位置づけられ、明治2年(1869年)からは[1]、宮中および全国の官国幣社、あるいは民社でも、「大祭」として祈年祭が行われた。
第二次世界大戦後に日本の国家神道が解体されると、祈年祭から国家的祭祀としての性格は消え、宮中では天皇家の私的な祭祀として、他の神社でも通常の祭祀として斎行している。
ウィキペディアフリー百科辞典 2017/2/17現在
今朝のメッセージは、其の事と関係が有るのか、昨日の文章に書いた、新しい「六合・国造り」の続きの様である。
・・今朝私が起こされた時間が「6時52分」であり、私が其の数字を「652・ろくごに・六後に」と記憶した事が正しければ、「六」の漢字が、家が立ち並んで村(郷・国)が出来る事を意味しているので、文化が切り替わる為には、新しい「村・郷・国」が出来る必要が有り、新しい御世が開闢するのは、其の後に・52成ると言う事ではないだろうか。・・・
今朝は、先ず、銀行の建物らしき10階建てくらいの、幅が広いとても大きな、西洋建築(鉄筋コンクリート)が映し出されて来て、其の屋上部分が、爆撃を受けても壊れない様に、厚い鋼鉄の鉄板で被覆される工事が行われていた。
そして、其の建物の上の部分の、左前の四分の一の部分が、優秀な男子が12名程住める様に、改築される事が示されて来て、家賃が4万円であるとの事であった。
其れから、私が自分の部屋の中の机に置いて有るPCが、情報管理の量が多過ぎたのか、突然加熱して煙を上げ始めたので、私は火事に成ると思って、其のPCを窓の外に放り投げた。
そして、私は、大型コンピュータを導入しなければ成らないと考えて居た。
次の映像は、私が、清水が勢い良く流れている、幅の狭い用水路の様な川を飛び越えると、履いている左足の青色のゴム長靴が脱げて、川の中に落ちた。
私は、向こう岸に渡ってから、其の長靴を追い掛けて、川下の方に駆けて行った。
すると、其の川は本流の方に合流して、流れが緩やかに成って、私の雨靴は丸い淵の底に沈んで留まった。
そして、其の淵の中には、私の長靴より以前に沈んでいる、もう一つの青色のゴム長靴が横に有って、二つの長靴が並んで立っていた。
私は、長い竹竿でもあれば、長靴の中に突っ込んで、何とか取り上げる事が出来そうだと思ったが、其れ等の道具が見あたらないので、水中眼鏡を持参して、潜って取らなければ成らないと考えている処で、其の映像は終わった。
次の映像は、私が姿の見えない男性と、昼食を摂る為に、台所から、庭に準備されている縁台に運んで居ると、足が何かに躓いて、料理の皿がお盆の上で滑ったので、皿の上に盛られていた料理が地面に落ちた。
私は、其の料理を何品か拾って、庭に有る水道で洗い始めた。
其の料理は、「林檎」を桂剥きの様に厚剥きにした物の天麩羅や、「蕗の薹・ふきのとう」の天麩羅など、植物性の天麩羅料理の盛り合わせである事が判った。
其れ等の意味に付いて考えて居ると、時間が気に成ったので、照明を点けて時計を見ると、「5時7分」であったので、私は其の数字を「57・ごな・語名」と記憶した。
朝起きて、昨年も天麩羅の事が出て来たと思って、「天麩羅」で検索すると、何と、昨年の今日と同じ2月17日の文章が出て来た。
そして、前日16日には「折年祭・としごいのまつり」に付いて、以前の文章を纏めてある。
2016/2/17・・昨日は 18時20分に由香が仕事から帰って来て 食卓に着いて箸立に手を伸ばすと 天井の照明が突然強く成って 部屋の中が明るく成った。
私は 既に 自分の夕食は済んでいたので、江藤敬介氏に電話を掛ける事にした。
何故かと言うと、「旧正月」である2月8日の夜 ベッドに就いて目を閉じると 立派な家の玄関の右側に 神の光りに包まれた江藤敬介氏が立って居る姿が現れた。
其れは 私を其の家に迎え入れる為に 立って居たものである事が判った。
其れで 私が玄関の門を潜って 中に入ると 江藤敬介氏が何かの蓋を開けて 私に何かを見せようとする場面が 映し出されて来たからである。
そして、2月9日(グリーンクラブの日)に 畑で草取りをして居ると、頭に「すみこさん」との言葉が告げられて来た。
其れで 昨夜、江藤敬介氏に電話を掛けて 其の話しをすると 江藤氏の2月11日(建国記念日)のビジョンにも 江藤氏が神殿の様な新しい家に居て 私と由香が遊びに来て 由香が台所で天麩羅を揚げて 料理の準備が出来たら 私が江藤氏に、「純子さんと マスターが来ないね」と云ったとの事である。・・・
天麩羅の語源が次の様に有るので、キリスト教に熱心であるマスターと関係が有る様である。
・・「てんぷら」の語源ですが、キリスト教の宗教用語で四句節のことを、「クアトロ・テンプラシ」と言います。この四句節には、キリスト教の信者はキリストの受難をしのび、節食したり、肉を食べない習わしがありました。四句節に肉を避け、魚のフライなどを食べるこの習慣が、日本のキリシタンの間にも広まり、いつしか「クアトロ・テンプラシ」から転じて、魚の揚げ物料理のことを「てんぷら」と呼ぶようになったといわれています。この語源にはいろいろな諸説があり、次の項でも紹介しておりますのでお読みください。
参考文献 東京てんぷら料理会「東天会」
「生活の技」http://green.ap.teacup.com/20060818/3760.html
2016/2/16・・これ等の文章を見ると、明日の「祈年祭」は非常に大事である事が理解される。
私が、最初に2月17日の祈年祭の事を意識したのは、1997年11月1日に、出雲の安部忠宏氏の所に引っ越して、二人で「出雲学びの家」を創出し、安部忠宏氏が私の勧めで「あべ未来研究所」を設立する事に成り「祈年祭・としごいのまつり」の日である1998年2月17日に、会社の登記をした事である。・・
確かに、此の日本から神一厘の仕組みが始まるとしても、日本人自身が自分の国の欠点を自覚していなければ、世界の人々に上げ足を取られて、巧く事が運ばなく成る事は、大いに考えられる事である。
其れを考えると、世界相手にモノ申す前に、日本国・日本人の欠点をしっかりと自覚して、改革の手段を図らなければ成らないであろう。
「日本文化の欠点」http://green.ap.teacup.com/20060818/3759.html
此の、折年祭の「天麩羅」のシンクロ現象は、どう言う事であろうか。
其れが、イエスキリストに関係が有るのなら、昨日の「ユダヤ民族から日本民族へ」とのテーマが関係が有り、今朝の映像で、川の淵の中に、私の長靴よりも以前に、誰かの長靴が沈んでいた事が関係が有って、其れは「イエスキリスト」の左足を意味しているのかも知れない。
其の様に考えると、今朝の映像で、私が一緒に庭で昼食を摂ろうとして居た相手は、イエスキリストの御魂であると言う事に成る。
其れに、今朝の映像で、銀行の建物が改築され12名の優秀な男性が、其の建物に住むと言うのは、イエスキリストの12名の弟子が新しい情報管理に携わるとの事が、示唆されているのかも知れない。
其れに、天麩羅の文章には、「江藤敬介氏」が登場するが、昨年の9月25日に、其の江藤敬介氏に、天から白い新しい長靴がプレゼントされる映像が、映し出されて来ている。
其の江藤敬介氏は、師匠に付いて30年間聖書を勉強して来ているので、イエスキリストにも関係が有ると言う事に成るのである。
「江藤敬介氏」と「白い長靴」で検索すると、三日分の文章が有る。
2016/9/25・・今朝のメッセージの映像は、私が天界から三本の手旗用の竹棒が入った、新しい白長靴を受け取って、江藤敬介氏に届ける場面が映し出されて来た。・・・
「三又の招魂木」 http://green.ap.teacup.com/20060818/3999.html
2017/2/2「善良な車(みこし)」 http://green.ap.teacup.com/20060818/4134.html
2013/12/22・・其れに、煩悩を消す為の「除夜の鐘」の事と、昨日の時間・事象を管理している「黒い大蛇」や、私が履く「白い長靴」の事を考えると、私が屋久島の石塚山に登る時に「アンジェルスの鐘を背負え」と告げられた事が、関係有る様である。
そして、私が運転する車が、自動車やオートバイではなく「白いスクーター」であるのは、「白い天使・ホワイト-エンジェル」を意味しているのではないだろうか。だからスクーターは、日本語の「救うたー」に、引っ掛けているのかも知れない。
英語の「エンジェル・アンジェルス」は、ギリシャ語の「メッセンジャー」が語源であるらしい。
私が、神の意志である「マントラ・真言」を運ぶメッセンジャーであれば、女神の霊が、頭の後ろに付いていて、其の霊が伝える事を受け取って、人民に知らせる役目の「エンジェル・天使」である事に成る。
私は、1984年の6月4日に神の世界に入って、荒野をさ迷い始めた時に、石塚山に登る途中で、「アンジェルスの鐘を背負え」と告げられた事がある。
其の言葉が、其の時は、何であるかが理解出来なかったが、後に、其れは、ミレーの絵の「晩鐘」に描かれている「祈りの鐘」の意味である事が解かった。
そして「祈り・祷り」とは、自分が「久遠元初・永遠の命」の「源・みなもと」に還る事の意味なのである理・ことも、此の頃理解できて来ている。
其れは、イエスキリストが、最後の夜に岡の上に登って、岩の側で祈っていた事と、同じ行為を意味するところである。
今朝のメッセージの映像は、其のイエスが、岩の側で祈っていた行為の背景が、映し出されて来たのであろう。・・・
「2008年5月27日」http://green.ap.teacup.com/20060818/2909.html
此の文章に有る、英語の「エンジェル・アンジェルス」は、ギリシャ語の「メッセンジャー」が語源であるとの事を考えると、今朝の映像に登場した大きな建物は、天使の働き・役割である「メッセンジャー」が活動を始める為の施設であり、お金の流通が、天神(てんのはたらき)に拠って、行われる時代が訪れると言う事なのかも知れない。
其れは、古代社会の経済のシステムが、王様や皇帝・天皇の言葉・命令で動かされていた事と関係が有り、真実の「統尊(すめらのみこと)・キリスト・メシヤ」が復活して、12名の「使徒・しと」の様な人物を用いて、此の世の物をコントロールすると言う事なのかも知れない。
其れは、今朝の履物・長靴が左足の靴であったのは、左足が精神的な世界を意味を持っているので、攻撃・キックの為の右足ではなく、躰を支える軸足の働きを示唆しており、軸足の存在を、水の世界に深く通じさせなければ成らないと言う理・ことなのであろう。
其れが「弁財天・サラスヴァティー」の世界に通じる事であり、其の魂しいは、「水」と「智慧」を司る「青龍・せいりゅう」の「神(はたらき)」を宿した、男性でなければ成らないと言う理・ことに成る。
其れに「エンジェル・アンジェルス」の語源が、ギリシャ語の「メッセンジャー」である事を考えると、釈迦牟尼佛が予言している、「無明の世界に 彌勒菩薩(みろくぼさつ)・maitreya(マイトレーヤ)が降臨して、新しい情報(明かり)を齎す。」との事が、其れに当たると言う事に成るのであろう。
2015/9/30・・弥勒菩薩とは、マイトレーヤ(最高の有情)の事だと記したが、彌勒の漢字が何故使われているのかを調べると、次の様に載っている。
「彌・ビ・ミ」【解字】会意。金文は「弓+日+爾」。弓は、ゆみの象形。日は、太陽の象形。爾は、はなやかに咲きほこる花の象形。時間的にも空間的にも、のびやかに満ちわたるの意味を表す。
【字義】@ひさしい(久)。また、遠い。Aあまねし(遍)。Bわたる。ゆきわたる。㋐続いている。㋑経る。月日を重ねる。㋒一面におおう。また、みなぎる。満ちる。「弥漫」C大きい。Dきわめて。きわめる。E終わる。終える。Fつくろう(繕)。ぬう(縫)。Gいよいよ。ますます。
国 いや。や。「いよいよ」の意。「弥栄・いやさか」
「勒・ロク」【解字】形声。革+力。音符の力は、ちからの意味。力を入れて馬の動きを抑えることのできる革、おもがいの意味を表す。
【字義】@くつわ。くつばみ。馬の口にかませ、たずなをつけて馬を扱う鉄製の道具。Aおもがい。馬の頭の上からくつわにかける革のひも。Bおさえる。(抑)おさえとどめる。Cおさめる。統率する。Dきざむ(刻)。ほる(掘)。
漢語林より
此の説明には、「彌」とは、時間的にも空間的にものびやかに満ちわたるとの意味であり、「勒」とは、馬のくつわを力を入れて動かすの意味である。
「弥勒菩薩・マイトレーヤ」とは、情報を有して力強く、慈悲をあまねく伸びやかに、満ち渡らせる者であると言う事になる。・・・
「岳入り」http://green.ap.teacup.com/20060818/3611.html
本日が「禱年祭」である事と、「天麩羅」の事がシンクロした事を考えると、イエスキリストが、兵隊に逮捕される前夜に、丘の上に有る磐座(いわくら)で、一晩中禱りを捧げて居たとの事が、思い出され来る。
今朝のメッセージの内容を考えると、其のイエスキリストの2000年間の禱りが、漸く叶う時節が到来したと言う事に成るのかも知れない。
「イエスキリスト」の名前と、私がイエスの御霊と岩手県の五葉山で遭遇した「12月13日」の日付で検索すると、次の様な文章が有るので、一応列挙した。
2004/12/13「キリストの手足」 http://star.ap.teacup.com/170606/501.html
2016/6/15「私は正式なユダヤの王」http://green.ap.teacup.com/20060818/3887.html
2016/12/25「結論」http://green.ap.teacup.com/20060818/4095.html
2015/10/17「新しいキリストの誕生」http://green.ap.teacup.com/20060818/3629.html
2015/12/13「日本語の言霊とキリスト」http://green.ap.teacup.com/20060818/3688.html
2016/12/13「意味が解読出来た」http://green.ap.teacup.com/20060818/4082.html
2015/7/7「助ける者」http://green.ap.teacup.com/20060818/3521.html
2014/12/12「鬼人と桃の実」http://green.ap.teacup.com/20060818/3294.html
2016/9/11「傲り高ぶりを止める」http://green.ap.teacup.com/20060818/3985.html
2009/2/8「天つ宮事もちて」http://green.ap.teacup.com/20060818/1039.html
2009/6/28「冬虫夏草」http://green.ap.teacup.com/20060818/1190.html
2008/5/28「ルーアンの道」http://star.ap.teacup.com/2007313/427.html
2011/7/23「全ての事は私に任さ」http://green.ap.teacup.com/20060818/1999.html
2008/7/20「貴方の肉体はわたし」http://green.ap.teacup.com/20060818/823.html
2009/12/2「神の再編成」http://green.ap.teacup.com/20060818/1358.html
2008/12/12「積傳・せきでん」http://green.ap.teacup.com/20060818/980.html
今朝私が起こされた時間が「5時7分」であり、私が其の数字を「57・ごな・語名」と記憶した事が当たっていれば、今朝のメッセージで示されて来た、情報管理の施設と関係が有り、人間社会の情報は全て「語」と「名」で組み上がっている物であり、全てが「語・名」を正しく組み替える事で、正しい物・世界に成る理・ことが、示されて来ているのではないだろうか。
「語・ゴ・かたる・かたらう」【解字】形声「言+吾」音符の吾・ゴは、互に通じ、交互する意味。交互に発言する・かたるの意味を表す。
【字義】(一)@かたる。かたらう。㋐はなす。のべる。いう。つげる。とく(説)。「独語」「大言壮言」㋑議論する。Aことば。㋐文句。成句。また、ことばづかい。「外来語」「反語」㋑ことわざ。たとえ。㋒はなし。物語。㋓単語。「語幹」B論語の略。(二)つげる。おしえる。とく。
国語 @かたらう。㋐話し合う。㋑親しく交わる。㋒さそう。仲間に引き入れる。㋓男女が約束する。Aかたる。ふしをつけて読む「義太夫語り」
「名・メイ・ミョウ・な」【解字】会意。「夕+口」夕は、明の省略体。鳴と同じく、夜明けにおんどりがときをつくるの意味であったのだろう。転じて、名をよぶ・なるの意味を表す。「説文」では、夕は、ゆうべの意味で、冥に通じ、夕やみに自分の名をなのるの意味を表すと説く。名を音符に含む形声文字に、酩・銘などがある。ただし、酩は酩酊と熟して、冥の意味に通じる擬態語。
【字義】@な。㋐人や事物などの呼び名。なまえ。㋑うわべ。形式⇔実。㋒人倫上の名称。君民・父子の類。→名分。㋓文字。「仮名」Aなづける。名をつける。Bないう。なよぶ。名をいう。人の名をいう。Cすぐれている。りっぱである。また、そのような評判。有名。「名山」「空名」D人数。人を数えるときにつける言葉。
漢語林より
此の語・名の意味からすると、今朝のメッセージで情報に関わる人数が「12名」であり、家賃が4万円であると言うのは、「12×4=48」と成るので、
言葉に関係の有る「日本語・いろは歌」(47文字+ん=48)に関連しているのではないだろうか。
2013/8/26・・「マン」の考えるとの意味は、英語の「人間」を意味する「マン・man」と同じ概念であり、英語の「マン・man」の意味も、語源は「考える者」との意味だそうだから、マンの語源の元は同じ所から始まっている様である。
其れに、白川静氏の解釈では「言葉」の「言」の漢字は「辛+口」の組み合わせで、「口」は言葉を書いた札を入れる容器の意味だとある。
其れは、品格の「品」の漢字が、王様から貰う褒美の皿・容器が三つの意味であり、昔王様から貰う褒美が一品・二品・三品・四品の順位が有り、王様から品貰う人間が、資格が有るので「品格」の言葉が生まれたらしいのである。
だから、口が容器であり、サラ・トラの意味である事は、間違い無いだろう。
其れは、漢字の「吾」が「五+口」の組み合わせで、五は籠の意味で、その籠に神の言葉を保存して護る人の意味であるので、私の役割は正に「我・私」ではなく「吾れ」であるとの事になる。・・・
「真言の世界」 http://green.ap.teacup.com/20060818/2790.html
今朝の映像に映し出されて来た、林檎の天麩羅が、桂剥きにされた物・形であったのは、旧約聖書に登場する蛇が勧める「知恵の林檎」が、天の力で揚げ直される理・ことが、示唆されているのではないだろうか。
其れに「蕗の薹」は、春一番に採れる山菜なので、春(無明の夜明け)が近いと言う理・ことが、示されて来ているのであろう。
平成29年2月17日
礒邉自適
2017/2/14
我が川辺の道
29・2・14
今朝のメッセージの映像と言うか、私の意識は、一晩中自分の立場と言うか、居場所を求めて、上り下りして居た。
其れは、山岳の頂から、河口まで、流れ下る川の辺りに通じる小道を、一晩中、自分の意識が往復している様な場面である。
そして、其の意識は、老子の意識である事が感じられ、私と老子の意識が重なって、自分の立場と言うか、居場所を探している様な感じであった。
そして、其の山岳の頂から、河口までの道程(みちのり)と言うか、水の流れの60%(六割)の所が、其の場として相応しいと言うか、適地である事が示されて来た。
其の数字・目安が示された処で、故「中屋龍州」翁の姿が映し出されて来た。
そして次に、「江藤敬介」氏が軽トラを運転して、其処に遣って来た。
すると、其の中屋龍州が、乗用車を江藤敬介氏に買い与える事に成って、江藤敬介氏が運転手を務める事に成った。
そして、其の事が決定すると、私は自分が着て行く服を、決めなければ成らない事に成り、自宅の壁に掛けて有る服を調べ始めた。
すると、其の壁には、私が是まで70年間着て来た、様々な服が左側から右へ、順番に全て並べて掛けて有り、私はどの服を着て、中屋龍州翁と一緒に、江藤敬介氏が運転する車に乗り込めば良いのかを考えて居る処で、其の映像は終わった。
其れから、「公」の文字が一字大きく映し出されて来て、今朝のメッセージは終わった。
今朝は先ず、其の「公・コウ・」の漢字を漢語林で調べると、次の様に載っている。
「公・コウ」【解字】指事。「八+口」八は、開くの意味とも、行の甲骨文・金文の上半分と同形で、通路の象形ともいう。口は場所の意味を示す。みなが共にする広場のさまから、おおやけの意味を示す。常用漢字は口の部分がムに変形して公になった。公を音符に含む形声文字に、訟・頌・翁などがあり、これらの漢字は「おおやけ」の意味を共有するものが多い。
【字義】@表むきなこと。あからさまなこと。公然。Aかたよらず正しいこと。公平。公正。Bおおやけ。個人のことではなく国家・社会などに関すること。みなが共にすること。公用。公金。Cきみ。天子。諸侯。国君。主人。・・
漢語林より
其れに、以前の文章を調べると、2007年8月31日の「公夫」の文章が出て来た。
2007/8/31・・今朝のメッセージは、私の意識が、新しい段階に進む事が示されて来た。
先ず始めに、石の様な物が、海面に浮かんでいる映像が映されて来て、私の意識が、其の石の様な物を手で掴むと、何故か、其れは、自分自身の鼻を摘む感触と成って、自分の鼻に伝わって来たのである。
次の映像は、大きくて、真っ直ぐに伸び、空に枝葉を繁らせている「おがたま・招霊木」が映って来た。
其れから、何処かで、大きなイベントが行なわれている様で、畑の中を通っている道路のバス停まで、大型の観覧用の乗り物が、中継されているのが映り、左の方に行くと山が見え、右の方に向かうと街に出る事が解った。
そして、其のイベント会場を運営している人は、ヤクザの様な気持ちを持っている男性で、私を大事に扱うのである。
そして、最後に「公夫」の文字が示されて来た。・・
今朝の、メッセージの映像の意味は、軽石は、花崗岩の事を意味しているのだろう。
花崗岩は、堆積岩が地殻の中に引き込まれて、マグマの熱で溶かされ、軽く成って、再び地上に浮かび上がって来た物である。だから、他の岩石より、少し軽い事になる。そして、其の石が、広い海の中に頭を出していたのは、屋久島の事であろう。屋久島は、全島が花崗岩で、約1400万年前に隆起して来た島であり、今でも年間1mm程隆起し続けているのである。
そして、其の石を摘んだら、私自身の鼻であったのは、屋久島が、地球の鼻の働きをしているからであろう。
私は、23年前に、地球の山脈を廻って、陸地を管理している白龍に、地球を自分の左手に乗せられるビジョンを見せられた事が有り、其の地球は、私の頭と合体していたのである。だから、私の脳を通過している情報は、屋久島の花崗岩を通して、地球全体の情報と成っている事になる。
其れは、地球の山岳が、地球の鼻の役割を果たしており、ピラミッドとして磁気を発していると言う事である。其れが、世界中で、高い山岳が信仰の対象と成っている原因であり、ピラミッドが建設される要因とも、成っているのだろう。
そして、其の人間の意識のアンテナに関係が有るのが、「おがたま・招霊木」であるとの事だろう。
日本の、新しい神社は、榊の木が植えられているが、古い形式の宮には招霊木が、植えられている。招霊木は、別名「臼木・うすぎ」とも呼ばれ、古代では、餅を搗く臼が作られる木だったのである。
何故、臼が招霊木で作られていたかと言うと、ひび割れがしなかったからであろう。
其れに、外宮の「豊受大神」の元である熊野の神は、「受け餅の神(保食神)」で、餅を搗く臼が、神事にとって一番大事とされているので、其の事が拡がったからであろう。
それと、神社の巫女さんが舞う時に、手に持つ鈴の形は、「おがたま・招霊木」の実の形に似せて、作った物であるとも云われている。
だから、招霊木が「神籬・ひもろぎ」として重要であり、其の招霊木を大事にしろとの事ではないだろうか。其れは、日本の古代の儀式(伝統・概念・行事・風習)を大事にして、世界に伝えろとの事なのかも知れない。
またそうする事が、古代の霊魂の協力を、得られる事に成るのではないだろうか。
其れは、過去の祭りの遣り方を意味しているのではなく、未来型の祭りの在り方を意味しているのであろう。
「公・コウ」【解字】指事。「八+口」八は、開くの意味とも、・・・
「夫」は「一+大」の組み合わせで、成人を表す大に、冠をのかんざしを表す一を付し、成人の男子の意味を表す。
【字義】@夫。妻のある男子。Aおとこ。一人前の男子。B公共の仕事を割り当てられた男。えだち。ぶやくまた、その割り当て。C兵士。または人夫。と有る。 漢語林より
是に拠ると、「公夫」とは「一人前の男子が おおやけの仕事を 広場でやり 道を開く。」との意味である事が解る。
其れは、いよいよ新しい祭り事が、始められる指示が来た事に成る。
そして、其の指示の発信元が、地球の鼻である屋久島であるとの事である。
「公夫」http://green.ap.teacup.com/20060818/438.html
今朝のメッセージは、「老子」の意識と、私の意識が重なって、自分の立場・居場所を決めかねて居た。
其れは、老子が王様の図書館の仕事を止めてから、函谷関(かんこくかん)の関所から、国外に出て行方不明に成っており、其の後の消息が顕かで無い事が関係が有るのかも知れない。
其れとも、「老子(道院殿老祖様)」や礒邉自適の様な御魂が、人間社会の中に定着した事が無い理・ことが、示されて来ているのであろうか。
其れが、山岳の頂から、港・巷(ちまた)である河口までの「川辺の道」として示されて来たのは、水の流れと、人間の意識の流れ・発展・進化に関係が有り、水の流れ・存在が、人間の魂しいの源流である理・ことが示されて来ているのであろうか。
其れは、インドのガンジス川(ガンガーの流れ)信仰の元に成っている、「弁財天・サラスヴァティー」の存在や、中国の四神の一神である水と智慧を司る「青龍・せいりゅう」の存在に関係が有り、水の流れが、人間の意識・精神と切っても切れない関係に有ると言う事である。
其れは、老子の道徳経の内容・言葉に「上善水の如し」と有る様に、水の流れ・川の存在が、何度も登場する事で顕かである。
そして、今朝のメッセージで老子の姿ではなく、故「中屋龍州翁」の姿が登場して、「江藤敬介氏」が運転手を務める事に成ったのかは、其の名前に意味が有るのだろう。
中屋龍州との名前は、「中央の屋形に龍の棲む洲が有る」「洲の中に有る屋形に 龍が棲む」との様な意味と成る。
其れに、江藤敬介氏は、今月1日の映像に登場しており、「江」は川に関係が有り、其れに「工・コウ」は公に通じると有る。
江藤敬介氏の名前の意味に付いては、次の様に書いて有る。
2017/2/1・・「江・コウ・え」【解字】形声。「氵(水)+工」音符の工・コウは、公に通じ、多くの水系を広くのみこむ大きな川の意味を表す。
【字義】@川の名。中国南部の大河。長江。大江。A大きな川。
国語 え。海や湖などの陸地に入り込んでいる所。入り江。
此の漢字の意味からすると、江藤敬介との名前は、「敬・江藤・介」と入れ替えると、「祈る人(神を敬う人)が 公に登って 仲立ちをする」との意味に成り、今朝の江藤敬介氏の登場は、其の事に成功した人物が、私の所に訪ねて来て、熨斗袋を手渡した事に成る。・・・
「随 江・藤・敬・介」http://green.ap.teacup.com/20060818/4133.html
其れに、其の中屋龍州翁は、私の全国の「家離・たび・旅」の中で、重要な役割を果たしている存在でもある。
2016/9/19「中屋龍州翁との思い出」http://moon.ap.teacup.com/20061108/645.html
其れに。1986年(昭和61年)1月31日には、其の中屋龍州翁を奈良市に有る「大倭あじさい邑」に案内し、矢追日聖法主に紹介している。
其の場は、矢追日聖法主の自宅であり、同席した人物は次の七名である。
中屋龍州 (政治家や経済人の相談を受けて居た)
矢追日聖法主 (宗教の法主・福祉施設の創立者)
杉岡政房 (京都の長者番付に載った事の有る経済人)
田中真海 (曹洞宗の僧侶)
石垣雅設 (出版会社の社長)
中 健二郎 (鍼灸師・気功家・太極拳師範)
礒邉自適 (屋久島生まれの自然児)
此の人物の役割を考えると、今朝登場した中屋龍州の役割である「政治家や経済人の相談を受ける人物」との事が関係有り、今朝のメッセージの映像で、私の意識が、山岳の頂から、河口の港(巷・ちまた)に通じる、川辺の坂道を下り上りして居たのは、「政治家や経済人の相談を受ける人物」の住む「屋形・館」の位置が、示唆されている事に成る。
其れが、「60%・六割」の位置であると言うのは、神様が棲む山岳の頂と、人間が生活する港・巷の、中間である「50%・五割」の位置ではなく、人間界から60%上に登った山中が、適しているとの理・ことが示されて来ているのではないだろうか。
其れに付いては、1994年3月22日のメッセージの映像で、私に「風 麥東 陶・ふうれんとう」との言葉を告げた人物が、山頂から少し下った場所に生えている、巨木の枝の下に有る花崗岩の上に、白い服を着て座って居た事と関係が有り、其の聖者が座って居た場所は、山頂から少し下っている所なので、山頂から言うと「10%・一割」の位置に成り、河口から言うと「90%・九割」の位置に当たる事に成るだろう。
1997/6/10「風 麦東 陶」http://moon.ap.teacup.com/20061108/422.html
其の聖者が、山頂近くの岩の上に座って居られるのは、其の人物が肉体を有しない四次元世界の霊魂・霊体であるので、食事等の衣食住の環境が必要では無いからである。
其れを考える、三次元界・人間社会で生きて居る人間の、相談に当たる人物は、肉体を持つ者でなければ成らないので、衣食住の補給が必要であり、人間が通える場所でなければ成らないと言う事になり、昔ながらの神社や寺院が存在する山腹の場所が、適地であると言う事に成るのであろう。
其れは、昨日のメッセージの映像で、私が、弁当と四輪駆動車を用意して、クラスメイトを港まで連れて行く事に難儀をして居たのは、今朝のメッセージの前置きであり、其の様な世界に身を置いては成らないと言う理・ことが、示されて来ていた事に成りそうである。
今朝示されて来た、公の漢字の「八+口」八は、「行の甲骨文・金文の上半分と同形で、通路の象形ともいう。」と有るので、今朝のメッセージの映像は、其の「道・通路」の意味にも関係が有ると言う事に成る。
其れは、江藤氏の江「氵(水・川)+工」は、川に関係が有り、「工・コウ」は公に通じる。と有る事と関係が有り、今朝のメッセージの映像で、川辺の道の存在が映し出されて来たのは、「公(おおやけ)の道」に就く者は、神様が棲む山岳の頂(聖地・泉)から、人間が生活する河口・港(巷・ちまた)までの、全工程・道筋・水流を、全て熟知して居なければ成らないと言う理・ことが、示されて来ている様である。
今朝のメッセージの映像で、私が中屋龍州翁と車に乗って何処かに出掛ける場面で、部屋の壁に、私が是までの人生で着て来た様々な服が、左から右へ自分の人生歴を表すかの様に、順番に掛けられていたのは、人間の人生は身に付ける服装で変わると言うか、職種や立場に因って服装が変わる理・ことを示唆しているのであろう。
そして今朝の映像で、私が是まで着て来た服の種類が多かったのは、私の人生模様が複雑であった事や、様々な体験を積んで来たからこそ、現在の意識に辿り着く事が出来た理・ことが、示されて来ているのであろう。
今朝の文章の題は、出雲大社の元宮である「日御碕神社」が有る、島根半島に「十六島・ふっぷるい」の地名の場所が有り、其の地名の意味が、アイヌ語で「我が水辺の道」の意味である事が、気に成ったので「我が川辺の道」とした。
其れに、其の「日御碕神社」に、高知から「倭姫命・やまとひめのみこと」の御魂であった「井上佳子」を呼んで、1987年7月12日に参拝している。
そして、其の日は直ぐ近くに有る「日御碕 国民宿舎」に宿泊した。
其の時の、井上佳子の霊夢には、当時の首相であった竹下登総理大臣が登場して、各大臣の部屋割りを間違えて案内した為に、神の計画が巧く行かなく成り、女神が登場して、消毒薬を散布する場面が、映し出されて来たと言う事であった。
其の30年前のメッセージは、其の後の政治状況を、示唆している事に成る様である。
今朝の愉伽さんのビジョンには、愉伽さんが傾斜の有る高い場所の土地に立って居て、下に居る多数の子供達や、身体障害者を、上に引き上げ様として居たとの事である。
私は、其の愉伽さんのビジョンの内容を聞いて、今朝のメッセージは、私の方に男性の役割・はたらきである精神的な世界・道の継続が示されて来ており、愉伽さんの方には、子育てをしなければ成らない母親の役割が映し出されて来ており、女性の役割が肉体を継続する事に有る理・ことが、示されて来ていると想った。
其の愉伽さんと出会ったのは、2001年11月21日で、其の日は故「井上佳子」の生誕44年の日である。
2015/3/27・・其れから、一眠りすると、一行の日本語の横書きの文章が映し出されて来て、其の文章の最後には、句読点である「。」が打たれており、次の書き出しに「11月21日」の日付が書かれていた。
そして、40歳代程の男性の声で、「立って居てください。立って居てください。」と、数度念を押す様に告げられて来た。
私が、11月21日の数字を「井上佳子の誕生日か」と問うと、「違う」との事であり、次に「一休禅師の命日か」と問うと、其れも違うとの事なので、「S・T スピリチュアルタイム」の日かと問うと、「そうだ」との事であった。
其れから、「わかれ道」との言葉が告げられて来た。
其れで、「S・T スピリチュアルタイム」の事を続ける事が、是からの私の役割である事が判ると、瞼の中に、夜が明けたかの様に、光が充ちて来て明るく成ったので、目を開けて電灯を点けて、時刻を確認すると「5時32分」であった。
そして、再び電灯を消して目を閉じると、「バグワン・ダッシュ」との言葉が告げられて来た。
其れから、「ジャーナリズム」と「スペイン硬貨」との言葉が告げられて来た。
今朝は、其の「バグワン・ダッシュ」の言葉が気に成るので、起きて時計を見ると6時10分であり、縁側から日の出が近いのが見えたので、着替えて庭に出て写真を撮ると、6時14分であり、25分には太陽が昇って、朝日が部屋の中に差して来た。
其れから、PCを立ち上げると、6時34分に左手の五本の指に、激しいカモ・(神の電気信号)の反応が起きて来た。
そして、PCで「バグワン・ダッシュ」を調べると、次の様に載っている。
・バグワン・Bhagwanは「神、神聖な存在」
・ダッシュは、句と句との間に入れ,接続することを示す「―」の符号
其の意味だと、今朝映し出されて来た文章の最後に句読点が有って、11月21日に関する事を文章にしなければ成らないのは、「神、神聖な存在」の「接続」をしなければ成らない理・ことを、示して来ている事に成る。・・・
「立って居てください」http://green.ap.teacup.com/20060818/3407.html
文章の6時10分の後に(6月10日・時の記念日・岡本天命日月神示開始日)と入れ様とすると、左手の中指にカモ・(神の電気信号)が起きた。12時58分
平成29年2月14日
礒邉自適
2017/2/7
描写の為の言の葉
29・2・7
今朝のメッセージの映像には、小説の様な文章が一枚映し出されて来て、其の文章には「部」「章」「節」「項」の文章校正の、一項毎に、「一個の単語」にペーストの為の色付けの様な物が為されていた。
其れは、一個の単語(名詞・動詞)の説明の為に、様々な描写が必要であり、其の描写を行う言葉の仕組みが、他の動物には無いモノであり、人間独自のモノで、其の事で、人間の意識と言うか脳が、発達して来た理・ことが理解されて来た。
次の映像は、私が薄暗い森の中に入って行くと、姿の見えない物に襲われる恐怖感が迫って来たので、森の外に出て、許しを請う様に、木々の苗を森の入り口に植え始めると、其の森の霊魂みたいな物は、森の奥へと引いて行った。
其れは、他の動物は、植物と共存関係の中に在り、森自体を破壊する事は無いが、人間は森を根こそぎ破壊してしまうので、其の人間の行為を、森の主・精霊が怒っているのだとの感覚を、強く感じる場面であった。
次の映像は、様々な問題・事件が映し出されて来て、其れに合わせて、私は両手のパワーを使って、治療や解決を行って居る場面が映し出されて来た。
そして、私は其の行動は、イエスキリストの行為というよりも、「手力男尊・たじからをのみこと」の行為に似ている事を感じて居た。
今朝のメッセージは、人間の行為の特徴に付いて、具体的に示されて来ている様である。
確かに、人間が文化文明を発展させて来たのは、言葉が発達し、文字を開発する事で、情報を記録し、他人に其の情報を傳える事が出来る様に成ったからである。
其れは、国→県→市町村→番地→部屋番号などで、自分が居る場所を明確に知らせられる事や、暦と時計が有る事で、自分の生年月日を認識する事が出来、役所や銀行などの手続きが出来る事なども、其の一環である。
だが、反対の世界で言えば、富士山の樹海の様な深い森の中に、一人存在する事を、他人に知らせる事は困難である。
其れ等の事を考えると、自分の存在を表明する為には、自分が人前に立つ事で可能であるが、其れを姿を出さずに、言葉・文字に拠って他人に説明するのには、性別・年齢・服装・髪型・皮膚の色などを、詳しく描写する必要がある。
其れと同じ事が、「成仏」とか「覚醒」とかの、名詞や動詞ではない言葉には必要なのである。
其れは、他の生き物には関係の無い、人間独自の世界である。
そして、森林を破壊し続けて、地球環境を急速に悪化させているのは、人間である。
其れ等の世界・事柄を起こしている原因は、両手を使って様々な事を行い、大脳を発達させて来た、人間の手の行為に有ると言う理・ことに成る。
其れを考えると、全ての問題は人間の手に有ると言う事に成り、人間の両手は良い世界を作り出す事が出来る代わりに、悪い世界を作り出している事にも成る。
今朝のメッセージの内容からすると、是からの私の手(行為)が何をするかが問題であり、「神(はたらき)」が望んでいる事は、森の保存と、言葉の正しい描写を行えとの事なのかも知れない。
其れは、言葉が「ことのは」との呼び方で表現されている事と関係が有り、木の葉と人間の意識に、何等かの深い関わりが有る理・ことが、暗示されているのではないだろうか。
今朝のメッセージは、一昨日の「宗教と言葉の関係」のメッセージの映像に有った、森の中の池の岸辺に舞い散っていた広葉樹の木の葉の世界と関係が有り、昨日の「万物の霊長としての人間」のメッセージの続きであるのだろう。
2008/2/11・・其の事を考えれば、植物と、人間の間には、殆んど差がなく、釈迦仏陀の謂う「衆生一切我が子(草木や虫達を含む一切の生命の意)」の概念は、正しい理である事が理解できるのである。
其れに、動物が生きて居られるのは、植物の葉が出してくれた酸素を、肺で取り込んでいるからなので、人間の肺「上・中・下の各葉」は、植物の葉と、兄弟姉妹である理・ことに成るのだ。
だから、人間の肺の活動・働きと、植物の葉は切っても切れない間柄なので、無意識の世界では意志が通じていると考えるのは、当然の事であり、だからこそ神棚や仏壇に、木の枝や草花が御供えされるのである。
其れに「事」の漢字は、「枝+札+手」の組み合わせで、木の枝に、願い事を書いたお札を結び着けて、右手に持ち、神様に差し出す場面を現す、象形文字である。
其れが、現代でも神社で行われる、玉串奉納の儀式の元なのである。
だから、全ての元は「木の葉」に有り、神と、人間の間を繋ぐ物は、木の葉であり、言葉なのである。
其の「事」の文字の概念が、七夕の短冊や、クリスマスツリーの風習の、元と成っているのである。
其れに、化学的に考えれば、太陽光線の無機質のエネルギーを、有機質に転換しているのが、植物の葉である。
植物が、炭酸同化作用を行い、澱粉や蛋白質を生産し、其れ等がフルボ酸鉄と成って、森から河川や海に流れ出し、作物やプランクトンや魚貝類を、育てているのである。・・・
「言葉を運ぶ女性ライダー」 http://green.ap.teacup.com/20060818/638.html
2006/10/25・・其の視線が、何者の目線であるか考える時、私は、或る者に見守られて生きて来た事が解る。
其れが、何者であるかは、明確に説明出来ないので、今朝は此の侭、其の他の映像の解釈に入ろうと意う。
今朝は、自分の胃から、意識が発生し、其れを、大脳の前頭葉が受け取っている様子が映って来た。
其の場面は、観音菩薩と言える様な、人形の上半身の姿が、黄金色で現れ、俯き加減の胸には、丸い小さなメダルの様な物が下げられていた。
其のメダルは、其の観音菩薩の想いが、凝縮されているらしいことが視て取れた。
其の映像の意味は、胃の細胞が、全ての「いのち」の情報を読み取り、自分の現在の全身像を、確認している様な雰囲気である。
其の、前頭葉に映し出される映像を、言葉に拠って、解釈しているのは、大脳の左奥の言語を司る細胞群のようである。・・・
「確かな次元上昇」http://star.ap.teacup.com/2006413/112.html
2016/9/29・・今朝のメッセージの映像内容から、私が感じ取った事は「釈迦牟尼佛」の謂う「衆生一切わが子」との言葉の世界であり、其れは「生きとし生けるもの」が全て、自分の子供であるとの意味であり、人間が「万物の霊長」であるからこその謂い様である。
いきとし‐いける‐もの【生きとし生けるもの】
[連語]《「と」「し」は強めの助詞》この世に生きているすべてのもの。あらゆる生物。→生 (い) ける
其の昼寝の最初の部分では、文章の間に、野菜の畝に生えている茄子かトマトの根元を、手で掘る場面が映し出されて来たので、私は未明から続いている長い文章は、生命の根源を掘り起こす為の文章(作業)なのだと思って居た。
其れは、世界自然遺産に登録される様な、屋久島の海山川で遊び戯れて育った私にしか、感知されないと言うか、認識できない世界を、深く洞察して文章化して行く事なのである。・・・
「衆生一切わが子」http://green.ap.teacup.com/20060818/4003.html
2005/8/17・・7月9日のNHKのニュースで、中山文部大臣が「子供達の読解力が落ちて来ているので、漢字や言葉の教育に力を入れたい。算数も、理科も、全て言葉の理解が出来なければ、成績が上がらないので・・・。」と云って居た。
其れは、当然の事である。
人間は、言葉を使用して、脳が考えているのだから、言葉の意味が正しく処理されていないと、物事が理解出来る分けがない。
答案用紙に、何が書いて有るのかの意味が、汲み取れない者に、答が出せる分けが無いのだ。
言葉の土台が出来るのは三歳頃である。
其の頃、目や肌に触れる物や、耳に聞こえる音などの情報で、脳の基盤が出来るのである。
其の時分から、狭い部屋の中に居て、紙に書かれた絵や、文字ばかりを見て居たのでは、脳の舞台が小さな物に成り、言葉の世界の領域も狭い物と成って、理解力が貧しいものとなるのだ。
都会で生まれ育った人達が、私に「自適さんの言っていることが 解からない。」と言う。
私は、日本語で話して居るのに、何故、其の様に言うのかと、不思議に想っていた。
其れは、私の脳の中の景色は、自然が一杯なのに対して、都会に生まれ育った人達は、頭の中に、私と同じ景色が無いので、私がイメージしている事が、相手の脳のスクリーンに映らないのである。・・・
「言葉の探求」http://moon.ap.teacup.com/20061108/613.html
2016/6/13「言葉の成り立ちと文字」http://moon.ap.teacup.com/20061108/642.html
2001/2/27「言葉の定義付けを外す」http://moon.ap.teacup.com/20061108/75.html
2006/5/22「言葉のみち」http://star.ap.teacup.com/170606/907.html
平成29年2月7日
礒邉自適
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