言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2017/6/29
風餐水宿
29・6・29
昨日は、午後から近くに有る初めての山に出かけ、鳥の囀りを聴きながら、ウドの芽や蓬団子用の猿取りイバラの葉などを採り、帰り道でオクラの支柱にする竹を切って来た。
そして、夕食にウドの芽の天麩羅を作って食べ、後片付けを済ませてから、風呂釜の掃除を始めると身体が止まらなく成り、風呂場全体を「亀の子束子」で漉すって洗う事に成った。
其の所為か、今朝のメッセージは「祓い戸の大神」である「瀬織津比売・せおりつひめ」の神霊が関係して来ている様である。
今朝のメッセージは、先ず、私が、「山尾三省を偲ぶ会」に参加しており、其れを終えてから、同窓会の方に参加する為に、連絡を入れると、「黒江が 自適さんに反発して 宿泊場所が決まらない」との事であった。
其処で、照明を点けて時計を見ると、時刻は「4時55分」であったので、私は其の数字を「455・しごご・死後語」と記憶した。
そして、電気を消して再び眠ると、「ご飯」一膳と「味噌汁」が一椀、台の上に置かれる場面が映し出されて来た。
そして「宮之浦」との言葉が告げられて来た。
今朝は、起きた時間は「6時5分」であり、時計を見て居ると「みすみすチャンスを逃すな」との言葉が頭に響いて来た。
私は、其の言葉から「一休宗純禅師」の事を思い出した。
何故かと謂うと、私は「一休さん」から「風喰水宿・ふうさんすいしゅく」との言葉を告げられて来ているからである。
其の一休宗純禅師の風喰水宿の言葉を考えると、今朝のメッセージで同級生の「黒江」と言う人の反発で、私の「宿」が取れない事と、「ご飯」と「味噌汁」が映し出されて来た事の意味が理解されて来る。
其れに、今朝の映像で、山尾三省を偲ぶ会が行なわれていたのは、山尾三省の遺言に「故郷である 東京の神田川の水が飲める様にして欲しい」と、有る事に関係が有るからである。
2014/12/8・・まず、第一の遺言は、僕の生まれ故郷の、東京・神田川の水を、もう一度飲める水に再生したい、ということです。
神田川といえば、JRお茶の水駅下を流れるあのどぶ川ですが、あの川の水がもう一度飲める川の水に再生された時には、劫初に未来が戻り、文明が再生の希望をつかんだ時であると思います。
これはむろんぼくの個人的な願いですが、やがて東京に出て行くやもしれぬ子供達には、父の遺言としてしっかり覚えていてほしいと思います。・・・
「救世主は故郷を忘れ」http://green.ap.teacup.com/20060818/3290.html
そして、今朝「宮之浦」との言葉が告げられて来たのは、私が2001年4月24日に屋久島に帰る事に成った時に、宮之浦港から自宅に向かうのではなく、山尾三省の墓に向かう事に成った事と関係が有るのだろう。
私は、其の山尾三省の墓で「礎・いしずえ」との言葉を告げられている。
2006/9/15・・私は、四年前の4月24日に屋久島に帰って来たが、何故か、自宅に真っ直ぐに帰らずに、三省の墓に詣でる事に成ってしまった。
其れは、同行した「白土雅一君」が、「白川山に 友達が住んで居るので 会いたい」との事と、宮之浦港で出会った母子が、「三省さんの墓参りに行くのだ」と云うので、では一緒にと言う事に成ったのである。
四人で、山尾三省の墓に到着して、雅一君が竹音にて供養をしていると、私に一言「礎・いしずえ」との言葉が告げられて来た。
其の日から、間もなく四年半の月日が経とうとしている。
先月8月28日は、三省さんの五回忌が行なわれて、私も、其の催しに参加した。私は、撮影の準備が有るので、少し早目に「やまびこ館」に行くと、丁度 準備が整って、皆が昼食に帰って誰も居なかった。
私は、三省さんの御影が飾られている祭壇の前に行き、線香を立てて礼拝をすると「此処から始まる」との言葉が来た。
其れは四年半振りの言葉であった。
私は、其の言葉が気に成ったので、「山尾三省を偲ぶ」のHPを造ったのである。・・・
「彼の世と此の世の境目」http://moon.ap.teacup.com/20060830/24.html
2007/12/11・・今、其のページを開いて、私自身が驚いている。
其れは、日付が6月9日だからである。6月9日は「タオ・道」のマークの日であり、岡山のスーリアさんが、屋久島でスーリアサロンを2002年6月8日に開催し、翌日9日の11時11分に「矢筈岬」で岩戸開きの儀式をした日でもあるのだ。矢筈岬は「東経130度30分」の線上に有り、山尾三省氏の墓も、其の線上の山奥に在る。
何故か、私は、8年振りに屋久島に帰った時に、港から自宅には向かわずに、山尾三省氏の墓に直接向う事に成り、墓の前で手を合わすと「礎・いしずえ」との言葉が一言伝えられて来た。
其れは、山尾三省氏が詩人であり、言葉と、詩の世界に触れていたからであろう。其の「礎」の言葉は、「自分も詩霊の礎に成ったのだから、お前も同じく言葉の礎に成れ。」との意味に、受け取られたのである。・・・
「和歌(こたうるうた)」http://green.ap.teacup.com/20060818/571.html
2014/1/20・・私は、再度うたた寝をしようとすると、誰かが傍に遣って来て、「此処の仏さんが 貴方の事が好ましいと云っています」と、耳元で囁いた。
其れから、漢字文字が書かれた紙が現れたが、其の紙に書かれている漢字文章は、私には全然意味が解らない物であった。そして、最後に、太陽がサンサンと照っている農地に、イネ科の植物が重たく実を着けて、頭が垂れている場面が映し出されて来て、其の右側に、観音様の様な女性の立ち姿があった。其の映像の意味は、其の場面が、一番大事な理・ことを表しており、其れは「太陽・雨・風・大地」の存在であると示されて来た。
今朝のメッセージの映像の意味は、歩く事が大事であり、お寺で熱心に写経をしても、書かれている文字の意味が理解できなければ、何にも成らない理・ことを示唆しているのであろう。そして、一番大事な「理・ことわり」は、経典の様な、譯・わけの解らない文章に、書かれているモノではなく、太陽・雨・風・大地の存在に、あるとの事であろう。其れは、自然の働きに拠って、食べ物が生産され、其れが基礎と成って、他の一切の物事は成り立っているとの理・ことなのであろう。
そして、其れ等の真理に気付く為には、お寺で修行をして居るよりも、自分の足で、旅をした方が良いとの事ではないだろうか。・・・
「一番大事な理」 http://moon.ap.teacup.com/20060830/33.html
2013/8/27「言葉の成り立ちと背景」http://green.ap.teacup.com/20060818/2791.html
「山尾三省を偲ぶ・ブログ」http://moon.ap.teacup.com/20060830/
キー「一休宗純禅師 風餐水宿」
2001/4/5・・私の旅の目的は、「風餐宿・ふうさんしゅく」に行き着く事であった。
旅の途中で、「風餐宿」とは一休禅師の「風餐水宿」の事である事が解った。
私は、1984年6月4日に、安房川で禊ぎをした後、私の身体には4311体の霊界人が依り憑いて来て、自動書記が始まった。
その時、書き記した中で、一番気になっていた言葉が「風餐宿」であった。
その時は、「一休さん」の事は、名前だけしか知らなかったし、「風餐宿」の言葉はもちろん「餐」と言う文字が有る事さえ、知らなかったのである。
「餐」は「ショク」ではなく「サン」と読むのである。
私の旅は、最初から「弘法大師空海」と「坂本龍馬」と「一休宗純禅師」に操られていた事になる。
私は、姿無き、声だけの霊界人達の思惑通りに、動かされていたのだ。・・・
「空海と龍馬と一休さん」http://moon.ap.teacup.com/20061108/104.html
2001/3/3・・私が、此の世で、最大のマジックだと想うのは、「人間は 知識を得てはならない」と言う、聖者達の訓えだ。
中国には、最高の徳のある者が存在した。その人物は、「老子」の名で知られ、その教えは「道徳経・タオ(道)」として全世界に広がっている。老子は、王様の図書館の管理を任されていたので、中国に存在する、何万という文字を、全て理解していたのであろう。その老子の思考のエキスが、わずか5000余字に圧縮されて、道徳経として遺されている。
その中に「明白四達、能無知乎(明白四達して、よく無知ならんか)」「絶学無憂(学を絶てば憂なし)」と言う節がある。其れは、それぞれ「道理に 明白なこと 四方に達するには、無知であることに心がけよ」「学ぶことを絶すれば 憂う事なし」と、言う意味である。
日本の道元禅師も「絶学無為の者を尊重せよ」と謂い、仏教でも「不立(りゅう)文字」と言う様に、書物(文字)には教え(龍)は存在しないと説かれている。
また、旧約聖書でも「知識」は蛇の勧めるもので、その実を食べると、神の楽園を追放されると教えている。
聖書で言う知識とは、善悪を判断する基準になるものである。善悪を判断する事は、人間がしてはいけないと説いているのだ。
是は、どう言う事であろうか。
キリスト教では「聖書」、仏教では「経典」と言う文字に縋り付いて居て、人はその身を処している。
しかし、イエスキリストが本を読んで居たとか、ブッダである釈迦が経典を唱えて居たとか言う話しは、聞いた事が無い。
老子においては、図書館に勤めていながら、「無知の方が良い」と教えている。
私は、其処の処が、腑に落ちないので、マジックだと想うのである。
最も知識を得た者である老子が、無知を説いているのだ。何故なのだろうか。実は、此れが、人間の意識の絡繰・からくりなのだ。
悟った人達に共通しているのは、自然と一体化している事である。
仙人、聖者、尊者、皆生活の場が山中にある。老子も、山中へ消えたとの話である。
老子は、勤めて居た図書館を辞して、函谷関の関を通過する時に、関守「尹喜(いき)」に請われて5000字の教えを遺して、何処かへ立ち去ったという。死んだ場所も、日付も明らかでない。しかし、本人の教えが、素のままで今日に残っているのは、老子の教えだけである。
釈迦の教えである経典も、イエスの教えである聖書も、後の世になって、弟子達が師・先生はこう言った、ああ言ったと、書き連ねたものである。
孔子の教えも、ソクラテスの教えも、道元禅師の教えも、皆、本人が書いた物ではなく、弟子が聞き取って書き残したものである。
老子の道徳教だけが、本人の手になる物であり、最も文字をよく理解していた人が、文字に表した教えなのである。
現在、日本では、白川静氏が、一生を賭けて漢字を研究しているが、遠く老子に及ぶ事はないだろう。白川静氏は、研究者であって体験者ではない。
白川静氏だけが、及ばないのではなく、現在世界中に悟りを体験して、文字の本質を理解している人が、何人いるだろうか。
文字を研究する人には、「無知こそが 大切である」とは言えない。
なぜなら、現代の世の中は、学校という教育機関が存在し、人々は強制的に国・政府の価値観を押し付けられているからである。
其処では、文字こそが一番のテキストであり、文字を取り扱う者が、優位に立つご時世だからである。
私達は、どこで、誰に、何を、どの様に学べば良いのだろうか。
自然は、向こうからは、何も教えてはくれない。しかし、自然の存在は、学びたい者にはヒントを与えてくれる。
自然の与えてくれるヒントは、人間の脳が考え出したものではなく、人智を越えた働き、宇宙の神秘、其の侭である。
現代の都会は、自然物ではなく、人間の創り出した物が溢れており、不自然極まりない世界である。
聖者の謂う教えの絡繰は、此処らにありそうだ。人智が創りだした物は「まやかし」なのである。我々は、前時代の人が創り出した「まやかし」の中に、生活しているので、宇宙の真実が見えなく成っているのだ。
仏教で「六根清浄」と唱えるのは、この絡繰から逃れる為なのである。
老子も「塞其兌、閉其門(其の兌を塞ぎ、其の門を閉じ)」宇宙の本質を知る真の知者は、感覚にとらわれず、みだりに私意も働かせないと謂っている。
どうしても、感覚の世界に捕われてしまうのは、人間だけの悩みである。
人間だけが、持ち得るものに、文字と言葉がある。
釈迦が悟るまでに、6年の歳月を要したのは、「悟りたい」という欲望が有ったからだ。その欲望の元は何なのか。
それは、「悟り」と言う言葉に因って、出来上がる「まやかし」の世界である。
その「まやかし」の世界が、仏教に帰依する者を、大量に作り出したのである。
日本でも、「聖徳太子」が仏教を取り入れる為に、「物部守屋」を殺して、禊ぎ祓いの世界を、壊滅させてしまった。其の為に、日本は、経本を読む事と、偶像崇拝の世界に、落ちてしまったのである。
聖徳太子でさえ、絡繰の中に入ってしまうのだから、七歳から学校に通い、その仕掛けに取り込まれる現代人は、逃れようがない。其の、仕掛けとなっている学校教育が、行き詰まりに来ているのが、現代社会の有様である。
現代の社会は、神社も、寺も、政府も、裁判所も、全てこの絡繰りの中にある。誰一人として、絡繰りから逃れている者はいない。
インドの釈迦は、「やがて 人間は 無明の中に 陥る」と予言している。
現代は、正に、その釈迦の予言の通りの世界となった。
釈迦は偉人である。そして、その上に位置するのが老子である。
老子は、予言をせず、弟子も持たなかった。言葉の無意味さを知りながら、「道・タオ」と名付ける事で、絡繰りを解く糸口を、後世に残したのだ。
現在の世の中は、古い絡繰が解かれて、また、新しいか絡繰りが仕組まれて行く。その連続を、釈迦は「因縁」と名付けたのだ。
我々人間の存在意義は、天と地の間に立つ「絡繰人形」である事なのである。そして、その内側にあって、一人、目を回さない者が現れてくる。其れが、ブッダ(覚者)である。
此の絡繰を知っていたのは老子であり、其の絡繰を知って居たがゆえに、老子は弟子を採る事をしなかったのだ。
釈迦やイエスは、その事に気づかず、弟子を育て、孔子に至っては、大勢の弟子を育てる事によって、絡繰に、最も拍車をかける結果を招いてしまった。
一休禅師は、「釈迦と言う いたずら者が居たので こんな世の中に成ってしまった」と謂っている。その一休禅師も、木刀を振り回して、からくりを壊そうとしたが、出来なかったのだ。
一休禅師が、我々に遺したものは、「骸骨の偶像」と「風喰水宿」の塒・ねぐらの事と、不立文字の二本の掛け軸である。
掛け軸の文字は「諸悪莫作」と「衆善奉行」である。
此れは、中国の古典にある言葉で、「悪い行いを止めなさい」「善い行いをしなさい」と言う意味である。
只それだけの意味であり、これだけの理・ことが、人間は、一生の間に何度も守れない事があるのだそうだ。
中国の古い訓えに、「子供でも 其の理・ことは知識では知っているが、老人になるまで生きても、それが守れない」と言うものが有る。
一休禅師は、自分の言葉でなく、中国の他人の名付けた絡繰・からくりを使う事で、自分が仕掛けに成ってしまう事から、逃げている。
やっぱり、一休禅師は「頓智の一休さん」なのである。
「塒」形声。「土+時」音符の時は、止に通じ、じっととどまるの意味。土塀に穴をあけて、にわとりをとまらせる所、ねぐらの意味を表す。
【字義】ねぐら。とや。鶏のねどこ。転じて、広く鳥の寝る所。
「この世の最大のマジック」 http://moon.ap.teacup.com/20061108/82.html?rev=1
今朝のメッセージで同級生の「黒江」が私に反発して、宿泊が取れないとの事は、「黒い汚い大きな川が 私に反発し 私は泊れない」との意味に成る。
「江・コウ・え」【解字】形声。「氵(水)+工」音符の工・コウは、公に通じ、多くの水系を広くのみこむ大きな川の意味を表す。
【字義】@川の名。中国南部の大河。長江。大江。A大きな川。
国語 え。海や湖などの陸地に入り込んでいる所。入り江。
「泊・ハク・ちまる。とめる。」【解字】形声。「氵(水)+白」音符の白は迫に通じ、ぴったり近づくの意味。舟がぴったり近づいてとまる水辺のさまから、とまるの意味を表す。
【字義】@とまる。㋐船が岸についてとまる。「停泊」㋑とどまる。停止する。㋒宿る。旅の途中で宿る。また、その回数を数えることば。「三泊」㋓身を寄せる。寓居。㋔いこう。休息する。Aとめる。「泊船」Bとまり。㋐船着場。みなと。㋑宿屋。旅館。C湖や沼。Dしずか。(静)心が静かであっさりしていること。さっぱりしている。「淡泊」Eうすい。(薄)また、浅い。
漢語林より
今朝、私が起きた時間が「6時5分」であり、「みすみすチャンスを逃すな」との言葉が告げられて来たのは、私が此の世界に飛び込んだ日が6月4日であり、6月5日の日付と関係が有れば、其の翌日であるので、「みすみすチャンスを逃すな」とは、何かのチャンスが到来するとの事なのかも知れない。
其れは、天界・神界に新しい舞台・事象が整えられると言う事であり、其の時流に乗る必要が有るのかも知れない。
「一休宗純禅師 風餐水宿」で検索した文章には、次の様なものが有る。
2006/5/13・・今朝の映像には、一枚の紙が現れ、其れに二行の文字が書かれていた。其れは、「四次元プログラム」と「水素原子管理」文字で、22年前の6月4日に、私が神の世界に突入した時に、無庵師匠に向かって、口から出た言葉である。
其の件に付いて、書いた13年前の文章があるので、其れをリンクする事にした。
其の文章の中に有る、自動書記で書いた「海渡族の謎を追え」の内容は、未だ解明されていない。現在までに調べた結果では、伊勢神宮に「度会部・わたらい・渡辺」との姓が在るので、海を渡って来た部族が、伊勢に関わりが有る事はハッキリしている。
そして、伊勢神宮の創建の元である「倭姫命」に、土地を提供したのは、磯部の部族であった事も判り、「伊雑宮・磯部の宮」は伊勢神宮よりも古く、磯部族の産土神である事も判って来た。
どのくらい前に、日本列島に渡って来た民族かは判らないが、伊勢湾の磯部より、鹿児島湾の磯部族の方が南に位置しているので、元だと考えられる。
何故かと云えば、鹿児島の磯部は、身体が小柄で、南方系だと想われるからである。
南方から、黒潮に乗って渡って来れば、鹿児島湾が手前と成る。
しかし、同じ海渡族である、海部や、安曇との関係は、未だ判らない。
今朝は、紙が映り文字を確認したら「面白雑学」との言葉が有ったので、今朝「面白雑学」のブログを創った。
是からは、真剣な物言いはしなくて良いのだろう。
此処数日のメッセージを書き止めた事で、私の探索は、終了したのかも知れない。是からは、蛸が好きで、ジョークの効いた一休さんと、頓智比べで遊んで行きたいと意う。
私のHPは、霊界の苦情受付窓口として、充分その役目を果たしたのであろう。
「面白雑学」 http://star.ap.teacup.com/170606/894.html
2009/7/9・・其の理由を考えると、現在、6月から薬草園の村造りの責任者として屋久島に来て住んでいる丹治氏が、年内一杯で東京に帰る事に成っているので、其の後を継ぐデスクワークの人材が、一人必要と成るとの事ではないだろうか。そして、其の人物は国内だけではなく、海外に向けても、デスクワークが可能でなければ成らないと言う事である。
「デスクワーク・desk work」とは、次の様に載っている。
机の上でする仕事。事務・勉強・文筆活動など。また特に、事務職。
何故、今朝のメッセージが、其の様なモノであるのかを考えるに当り、「登龍」との言葉が告げられて来た、神社の近くで現れた二人の女性が、誰であるかを考えなければ成らない。
姉妹関係か、母娘の関係かが、判別出来ない中年の女性二人で、私が知り得る人物は、原地区の「益救神社・やくじんじゃ」の祭神である「山幸彦・彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)」の妻である「豊玉姫・とよたまひめ」と、其の妹である「玉依姫・たまよりひめ」の姉妹の存在である。
其の姉妹も、益救神社の祭神として、名が刻まれているのである。
其の「豊玉姫」は、「山幸彦」との間に「鵜葺草葺不合命・うがやふきあえずのみこと」が産んだが、お産の姿を、山幸彦が覗いた事に怒って、赤子を妹の「玉依姫・たまよりひめ」に預けて、「龍宮・海神の国」に帰ってしまった事に成っている。
そして、姉の赤子を預かった其の玉依姫は、「鵜葺草葺不合命」を無事に育てて、其の姉の息子と夫婦に成り、四名の男子を産んでいる。
其の四番目の男子が、日本の歴史の元に成っている神武天皇である。
其の関係性を考えると、今朝の映像の場面で、原の神社に向かっていた私の意識は、母である「豊玉姫」と、妻である「玉依姫」に出迎えられた、「鵜葺草葺不合命」である事に成るのだろうか。・・・
「登龍・トウリュウ」http://green.ap.teacup.com/20060818/1201.html
私は昨夜、風呂場を大掃除してから、蓬エキスを大量に入れた風呂に入浴した。
其れは、私の33年前に自宅や実家の大掃除を行い、屋久島の川や海で四ヶ月間禊ぎ祓いを続けた事と関係が有る。
昨夜、私が無意識に風呂場の大掃除を急に始めたのは、昨日が旧暦閏5月5日であり、33年前に安房川の岸辺で「禊ぎ祓い」を行い此の神の世界に飛び込んだ6月4日が、旧暦5月5日であった事と関係が有り、何等かの変化が是から起きるとの事ではないだろうか。
其れを考えると、現在の人間社会は、「江」の意味である「多くの水系を広くのみこむ大きな川」の水が、黒く汚染されているので、其の水の社会で「餮・サン(むさぼる)」している者は、新しい時流に乗れないと言う事であり、私が体験した様な世界を通過する必要が有ると言う理・ことなのであろう。
其の為には、日本の伝統である「大祓祝詞(おほはらへのことば)」を儀式で唱えるだけではなく、其の内容を実際に自分で実行しなければ成らないと言う事であり、其の世界には「厳・嚴・ゲン・ゴン・おごそか・きびしい」「瀬織津比売・せおりつひめ」の「神(はたらき)」が存在すると言う事である。
2011/2/28・・此の時の体験でも判る様に、「瀬織津姫・せおりつひめ」の神霊は実在しており、現実的に、人間界に関わりを持って来ている事は間違いない。
其れに、神霊の名を神社の名前に付けていても、必ずしも其の神霊が、其処に毎日来ている事には成らないのである。
神霊は、肉体を有しないので、自由に何時でも、何処にでも、自分の働き易い場所・空間に、移動する事が出来るのである。
其れに、用が無い時は、自分の都合が良い場所に静かに休んでいる。
しかし、地球自体・人類全体の「アセンション・次元上昇」の時節を迎えたいま、何処かを中心にして神霊が集まり、一致団結して事に当たることが必要なのであろう。
其の為には、手足と成って働く人間の存在が、必要である。
何故なら、人間社会の変革には、人間自身の手に拠り、物を動かす必要があるからである。神々は、物を動かす手足を有してはいない。
神々が出来る事は、意識を通じて、人間社会に介入する事である。・・・
「禊ぎ祓いの神」 http://green.ap.teacup.com/20060818/1850.html
2017/4/13・・私が此の世界に入った切っ掛けの一つに、其の息子が4歳の時の夏頃に、夜中に「みず みず」と謂って、母親の美代子が起きないので、私が階下に降りてコップに水を汲んで来て、息子を抱き起こして水を飲ませた時に、息子と目が合い、其の息子の眼を覗いた時に、私の意識がクラクラとして、様子が変に成った。
そして、コップを手にして階下に降りて、洗面所の鏡で自分の顔を見ると、其の顔が死人の顔に見えたのである。
私は、其の顔を見て、自分に死が近付いていると思い、外に出て安房川の辺りを彷徨った事が有り、其れで自分の人生の向き・生き方が変化したのである。
其の事を考えると、4月10日の文章に書いた、9日に「12月12日」の日付と「瀬織津比売・せおりつひめ」の名前が告げられて来た事の意味が、理解されて来る。
「劉備」http://wave.ap.teacup.com/20060106/736.html
今朝私が起こされた時間が、「4時55分」で、私が其の数字を「455・しごご・死後語」と記憶したのは、私が此処まで書き続けて来た事は、私の死後に、人々が私の語・言葉を理解する様に成るとの事なのかも知れない。
其の様に考えると、私は少しは肩の荷が軽くなり、穏やかな老後を過ごせる様な気がして来る。
平成29年6月29日
礒邉自適
2017/6/23
父親の意識
29・6・23
今朝のメッセージの映像には、何も無い真っ暗な世界を背景にして、両端の見えない一本の白い紐・線の様な物が、横に真っ直ぐに張られている・通っている場面が、映し出されて来た。
そして、私の父親らしき意識が登場して、「蒙古の人が 陰性に成ってしまったので 其れが 切れ切れに成ってしまった」との事が、示されて来た後、透明な水が溜まった容器の中に、其の白い物が、饂飩(うどん)を切断した様に、短く成って、次々に沈んで行く場面が映し出されて来た。
今朝は、其のメッセージに付いて長らく考えて居たが、意味が能く判らないので、6時過ぎに起きてPCを立ち上げると、「土肥無庵」の様な音韻の雰囲気で、「何も無い」との言葉が一言告げられて来た。
そして、其の言葉の方に意識を向けると、続きの言葉が告げられて来て、途中から自分の父親の意識に変わり、更にいつもの女神の言葉に変わって来た。
どうやら、私を捜し出して此の神の世界に送り込んだ「土肥無庵」と、私の父親である「礒邉勲」は、同じ土俵の上に在る様で、其の背後には女神の存在・意識が伴っている様である。
「何も無い
君が遣るべき事は もう何も無い。
其れは 人間社会に対しての事であって
今後は 君の本格的な 役目が始まる事になる。
だが 其れが
人間社会に 認識されるかどうかは 別問題である。
君の行なっている事は 今の世の中の事だけではなく
未来の時空に 関わる事なので
結果がどう成るかは 考える必要は無いし 気にする必要もない。
要は 君の気持ちが どうであるかが大事であり
毎日の 君の意識管理が
最も 重要であると言う理・ことである。
其れは 自分の感性の方向性を
意識する事であり 其の元には 五感の働きがある。
其れを 管理する事が 達人の生き方の秘訣である。
・・・・・ ・・ ・・・・・
何事にも 始まりと 終りが有る。
お前は 一つの段階が終り
次の段階に 進まなければ成らないので
過去の 個人的な出来事は みな忘れて
未来世の有り様を イメージしなさい。
其れが お前に残された 次の仕事であり
其処に 私の夢が重なって行くのだ。 残り4ヶ月。
・・・・・ ・・ ・・・・・
単なる夢は 夢で終わってしまいますが
貴方の夢は 夢で終わってしまう モノではありません。
其れは あたしの意識が 重なっているモノなので
悠久性が 有るのです。
其れが 「永遠の命に入る」と 言う事なのです。
ですから 貴方は あたしの世界である
永遠の命の世界に 入って居るのですよ。
良いですか 貴方には もう死は無いのです。
何故なら 貴方の魂しいは 永遠性を 持ったのですから
もう 何事にも 振り回される事は 無いのですよ。
其れが 統尊(すめらのみこと)の
心境でなければ成らないのです。
貴方は 漸く 其の立場・御座に着いたのです。
其の理を 永久に忘れないでね。
何故なら 其の事を 失念した時に
其の立場と座を 失うのですから・・・。
「何も無い」http://moon.ap.teacup.com/20060103/843.html
此の女神の言葉からすると、今朝の映像に映し出されて来た、暗い世界を背景に、両端が見えない白い一本の紐・線・饂飩の様な物が、横に張られていたのは、其の「永遠の命」の事を意味していた様である。
そして「蒙古の人が 陰性に成ってしまったので 其れが 切れ切れに成ってしまった」との事が、父親の意識で告げられて来たのは、自分の魂魄(こんぱく)の源である御祖神(みおやかみ)の存在が示されて来ているのであろう。
其れが「蒙古の人が 陰性に成ってしまったため」との事は、どう言う事であろうか。
「蒙・ボウ・モウ」【解字】形声。「艸+冡」音符の冡・モウは、頭巾のように頭部が多毛によっておおわれた豚の意味。艸を付し、おおうの意味を表す。
【字義】@こうむる。受ける。かぶる。Aおおう。おおいかくす。かぶる。着る。Bくらい。おろか(愚)。㋐道理にくらい。押さなくて、まだ道理をわきまえない。また、おろか者「啓蒙」㋑自己の謙称。Cおかす(冒)。乱す。また、乱れる。Dまじる、いりまじる。Eあざむく。だます。Fめを出す。めばえる。G易の六十四卦の一つ。物のかすかであきらかでない象(かたち)。H蒙古(モンゴル)の略称。「外蒙」
「古・コ・ふるい・ふるす」【解字】象形。金文は、冑(チュウ)金文の上部の形と似て、固いかぶとの象形。固くなる・ふるい・いにしえの意味を表す。古を音符に含む形声文字に、個・固・姑・居・故・胡・枯・活・涸・湖・祜・箇・糊・苦・話・・・などがあり、これらの漢字は「ふるくてかたい」の意味を共有しているものが多い。・・・
漢語林より
此の「蒙・古」の漢字の意味からすると、「陰性で 道理にくらい 古くて固い者が 永遠の命(神の道)を 細切れにしてしまった」との意味合いに成り、陽性である私が、其の「永遠の命(神の道)」を復活(よみがえらせた)と言う事が、示されて来ているのではないだろうか。
『そのとおり。だが 其れは今始まったばかりであり 先は長い。』
今朝の映像で、切断された饂飩の様な物が、水が入った容器の中に、次々に沈んで入った場面は、命の繋がりが言葉に有って、其の繋がりが切れて水の中に沈んで行くのは、「弁財天・サラスヴァティー」の世界と関係が有り、途切れ途切れと成った言葉(人間の意識)では、弁財天・サラスヴァティーは「働き様が無い」と言う理・ことが、示されて来ているのではないだろうか。
其れを考えると、日本の神道の伝統である水に拠る「禊ぎ祓い」の儀式と、「弁財天・サラスヴァティー」の「神(はたらき)」の関係は、切っても切れない世界であると言う理・ことに成る。
2016/12/9・・今朝のメッセージの映像は、「キリスト」の御魂が「水・みず」の世界に付いて学習を始める場面が映し出されて来た。
其れは、一昨日の映像に映し出されて来た、「玄米お粥」の中に、透明なDVDが浸されていた事と関係が有り、水の存在がなければお粥は作れないし、DVDの情報処理も不可能であると言う事である。
其れを考えると、「イエスキリスト」がヨルダン川でヨハネに「バプテスマ・水の禊ぎの儀式」を受けて、聖霊に満たされた事や、釈迦牟尼佛が厳しい修行を止めて池で水浴びをしてから、樹木に寄り掛って休んだ時に成仏した事。
其れに、日本の神道の祖である「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」が小戸のあわぎ原で禊ぎ祓いの儀式を行った時に、様々な「神(はたらき)」を生み出した事の原点・現場に、其の水の存在が有るので、宗教の始まりと言うか、精神世界の始まりには、水の存在が欠かせないと言う理・ことになる。
其れを考えると、「四次元・絶対界・神霊界・精神界」の入り口には、「水(水素H+酸素O)」の世界が必要不可欠であると言う事であり、其の水の世界に付いては、イエスキリスト、釈迦牟尼佛、伊邪那岐命は、何も知らなかったと言う事に成り、近代科学が登場するまでは、「水(水素H+酸素O)」の法則を誰も知らなかったので、其れが言葉で表現されていなかった事に成る。
旧約聖書には「神は 水を 天と地に別けた」と有るが、其れは、地上に存在する水と、天空に存在する雲と、雲から降って来る雨の世界を言っている物であり、全宇宙が水素原子で出来上がっている理を、言い現しているモノではないだろう。
先ず「水・みず」の言葉を考えると、水の漢字である「水・スイ」は中国語であり、其れは川と成って流れる水の象形である。
だが、日本語の「みず」の言葉は、「あまみず・みなもと・みずほ・みずから」などと、様々な使い方がされており、流れと成っている水の形態だけではないのである。・・・
「水の役割」 http://green.ap.teacup.com/20060818/4078.html
2017/1/7「教育の世界の重要性」http://green.ap.teacup.com/20060818/4108.html
2002/3/25「水の秘密」http://moon.ap.teacup.com/20061108/174.html
2006/3/10「智恵の神・青龍」http://star.ap.teacup.com/170606/798.html
2001/3/1「禊ぎ」http://moon.ap.teacup.com/20061108/78.html
2000/5/10「松果体」http://star.ap.teacup.com/20071015/18.html
今朝、漢語林で「蒙」の漢字を調べると、941ページに載っている。
其の941の数字は、123の二乗である「149」の逆並びである。
其の事を考えると、本日「蒙」の文字を調べる事に成ったのも、其の背景に「弁財天・サラスヴァティー」の「神(はたらき)」が有ると言う事に成るのではないだろうか。
2010/9/3「149の謎」http://green.ap.teacup.com/20060818/1656.html
其れに、今朝父親の意識で「残り4ヶ月」と告げられて来たのは、4ヶ月後となる10月23日が、私の父親の53回目の命日であるので、「完熟のトマト」6月17日のメッセージに有った「1022」の数字と関係が有りそうである。
其れに、先日初めて参拝した「妻垣神社」の神行祭が行なわれるのが「10月22日〜23日」でもある。
2017/6/17・・すると「レオ」との言葉が告げられて来て、其れは手塚治の「ジャングル大帝」と関係が有り、若い子供ライオンが、何れ「百獣の王」に成る事を示唆していた。
其れから最後に、四次元(神霊界)の日程・スケジュール版が映し出されて来て、其の提示版には「1022」の数字が一行だけしか、記されてはいなかった。
其の数字で、心当たりが有るのは、私の父親の命日が10月23日であるので、22日は父親の「宵の宮祭」である事に成る。・・・
「完熟のトマト」http://green.ap.teacup.com/20060818/4274.html
2015/8/20・・昨夜は、寝る為に床に就いて目を閉じて居ると、カラー印刷が為されている、ポスターの様な物が、何枚も重ねられている映像が映し出されて来た。
そして、其の色付きのポスターの様な物が、何を意味しているのかと意って居ると、次に、水が入っている透明な容器が映し出されて来て、其の容器の中央に、薄緑色の丸い錠剤の様な物が一個有り、其の丸い物から溶け出す様に、薄緑色の細い糸が、容器全体の水中に拡がりつつあった。
そして、眠ってからの映像は、地上から、細いガラス張りの丸いビルディングの様な物が、天まで伸びていて、其の最上階の情報管理室に私が一人で居て、全ての情報をチエックしており、其の情報の映像に、私自身が色を選んで「着色・いろづけ」を行っていた。
其れから、其の丸くて高い塔の様な物は、光ファイバーの様な役割をしている物で、世界中の情報を管理する情報が詰まっている物であり、其の塔の働きを地上に全て降ろすと、放射状の丸い円形の中央に管理室が存在する、円形の配置図に成る事が示されて来た。
そして「ラージャ」との言葉が示されて来た後、私の以前の文章が二日分だけ、日付つきで、貼付けられているのが映し出されて来て、私の意識は、其の文章を校正していた。
其の文章は、上記の分が長くて、下記の分は少し短い物であった。
朝起きてから、早速「ラージャ」を検索すると次の様に載っている。
【ラージャ】ラージャあるいはラージャー(Raja, Rajah, 羅闍)とは、サンスクリット語の語彙で、君主号または貴族の称号のことである。強大な権勢を持つラージャは、「マハーラージャ(Maharaja)」という。日本語に訳せば「王」・意訳して「豪族」の意味。インドのみでなくその影響を強く受けたヒンドゥー教時代の東南アジアにも伝播し、王または王族・貴族の称号として定着した。日本では閻魔大王が、閻魔羅闍と訳されたことがある。・・・
「ラージャ」 http://green.ap.teacup.com/20060818/3570.html
今朝「君が遣るべき事は もう何も無い。」と告げて来たのが、私に「何もナサザルナ」とのメモ書きを渡した「土肥無庵」の御魂であれば、土肥無庵が生ま育った北九州小倉の足立山に存在する「妙見宮」の祭神が「御祖神(みおやかみ)」であり、其の神が、土肥無庵の守護神であった事に関係が有り、「土肥無庵」が私に期待していた課題が、是で完成した事に成るのではないだろうか。
『そのとおり。だが まだまだ先が有り 是は永久に終わらない。』
2006/6/20・・私は、今朝、意識の中で、紫色のフラッシュを焚かれ、意識を パシッ とショートさせられたのである。
其の映像が、今でも脳裏に鮮明に残っている。
其れは、私の意識の、新しい1ページと成る映像である。
其れはまた、新しき時代の、禊ぎの概念に、関わる理に成るのかも知れない。
私の師である「無庵師匠(土肥英基)」も、17歳の時に、オートバイで走って居て、崖から転落し、頭蓋骨骨折で意識不明に成り、意識が、小倉の足立山の「妙見神社」の階段を登って行くと、階段の上に真っ白い服を着て、白い髭を生やした老人が現れて、「お前は まだ役目が有るから 返れ。」と云われ、奇跡的に意識が回復して助かったそうである。
無庵師匠の他にも、何らかの事故で、意識不明に陥ってから、能力が変化した人間は何人も存在する。
それも、神の作戦の一つで、故意に、紫色の世界に連れ込まれ、フラッシュを焚かれて、意識を転換させられているのかも知れない。・・・
「未来への希望それは進化」http://star.ap.teacup.com/170606/945.html?rev=1
2007/9/19・・其れを考えると、人間の魂しいは、永遠に若いままであり、歳をとって行くのは肉体だけの事であって、其の肉体が衰え機能しなく成れば、其の肉体から離れ、次の「乗り物・人体」に乗り換えて行く理・ことを意味しているのではないだろうか。
其の魂しいの在り様が、イエスキリストの謂う「永遠のいのち」との意味ではないだろうか。
私は風呂場から出て、眩いばかりの光りの世界で、服を着ようとすると、私が身に一度も着けた事の無い、黄金色のパンツが一枚準備されていた。
其れは、私の肉体が老化して、其の肉体から離れた時に、身に着ける下着が、神に祝福された、黄金色の衣服である事を、意味しているのではないだろうか。
そして、其の衣服を纏って訪ねた部屋には、素晴らしい感性と、生きる技術と、健康な身体を持った白人の若者が居て、私に話しかけて来た。
私は、其の若者の作品に見入っている内に、九次元の答えは「無言・無音」であり、何等の「福音」の言葉も必要ない事を、ハッキリと自覚出来たのである。・・・
「まとめ」 http://green.ap.teacup.com/20060818/467.html
2007/9/4・・私達人類が、現在・いま存在している宇宙空間は、138億年前にビッグバン現象から始まった物で、爆発の光(エネルギー)の速度で、風船が膨らむ様に膨張しており、其の年数は、我々人間の概念である地球時間では、138億年が経過しているらしい。
其の、ゴム風船に名付けられた名が、密教では「大日如来・マハーヴァイローチャナ」なので、大日如来の歳は、地球時間で138歳となるのである。
そして、其の中に満ちている「神の息吹・光のエネルギー」が、「阿弥陀」と呼ばれているモノである。
今朝の映像で、三つの紙箱が届けられ、新しき苗か種子が植えられると言う事は、其の大日如来の身体に、三つの阿弥陀の力が籠った苗が植えられ、新しい働きを始めるとの理・ことではないだろうか。
其の様な感覚で、今朝の映像を分析すれば、畑の草取りをしていた自分の姿は、過去の自分の姿であり、私が若い時に、農業をして居た世界を意味しているのだろう。
そして、手伝いをして居た畑の持ち主は、無庵師匠を意味しており、私が、師の手伝いをして、水掛をして居たのは、此の地球の生命を育てている、「弁財天・サラスヴァティー」の働きを、手助けする意味ではなかっただろうか。
そして、其の茶畑が山上に有ったのは、神の世界を意味し、下界から崖を這い上がって来た、カメラリュックを持った人間は、私自身であり、私が森羅万象の流転を、カメラのレンズを通して眺め、大日如来の真実を明らかにして来たことを意味しているのではないだろうか。・・・
「三つのボックス」 http://green.ap.teacup.com/20060818/445.html
2014/3/5「新しい道場」http://green.ap.teacup.com/20060818/2985.html
2015/1/8「究極のデザイン世界」http://green.ap.teacup.com/20060818/3323.html
2015/4/3「天御中主は御祖神」http://green.ap.teacup.com/20060818/3414.html
2016/5/25「動き出す神の世界」 http://green.ap.teacup.com/20060818/3863.html
2016/12/15「紫色の世界」http://green.ap.teacup.com/20060818/4084.html
今朝は、寝床で、自分の父親と蒙古の繋がり、其れに、蒙古は放牧民族でありジンギスハーンの存在が有名なので、「陰性」の意味が全く判らないと言うか、解読できないでいた。
其れで、父親が17歳から42歳まで、満州の北京に居たので、満州人を調べると、「ツングース系民族で古くは女真族といった」と有り、蒙古人とは別の民族である事が判った。
其れで、漢語林で「蒙・古」の文字を調べると、ようやく今朝のメッセージの意味が解けてきた。
其の事を考えても、故「白川静」が謂う様に、漢字は神とのコミュニケーションの為に創られてと言う事が正しい様である。
そうであれば、私は新時代の為に、次なる神とのコミュニケーションの為に、正しい文字文章の世界を、構築して行かなければ成らないのであろう。
此処で、睡魔が襲って来たので、ベッドに横に成ると、私が其の事に取り組まなければ、現在の人々は、何が真実なのか、区別が付かない儘、無明の世界を永遠に行き続ける事に成り、今回の最後のアセンションの舞台である九レーンも、失敗に終わると言う事が、何回も繰り返し示されて来た。
其れは、「牛神(A+B=令)+口=命」の概念の儘、人々は、自分が「神(はたらき)」である理に覚醒せず、無明の世界を輪廻すると言う理・ことである。
2016/7/1・・すると、直ぐに長い横書きの日本語文章が映し出されて来た。
其れは動物の牛の姿が映し出されて来たわけではないが、何千頭の牛の存在に付いて書いて有る物であり、其の牛の頭数に付いて「6832」との数字が、関係有る事が示されて来た。
次に、其の文章よりも短い文章が、二項目映し出されて来て、其れも牛に関係有る事が示されて来た。
私は、其れ等の文章を、自分のPCで見ている物であると思って居たが、起きて見ると其れは思い違いであり、内容に付いて一切、手掛かりが無い事が判った。それで時計を見ると、11時5分であり、時計の針は「V」の形に成っている事を確認した。
其れから、台所に行って素麺を茹でて食べながら、其の「牛」に関する文章の事を考えて見た。牛は、シュメール文化では「バール神」であり、インドでは神の使いの動物である。其れに、其のシュメール文化の影響を受けたアルファベットの「A]は牛神の象形であり、「B]は其の牛神を跪いて禱る人の象形である。
そして、中国の「物」の漢字は、「天地間にある一切のもの。目に見えるすべてのもの。」を意味し、其れは、清められた生贄の牛の意味から「物」の意味となっている。そして、生命の「命」の漢字は「口+令」の組み合わせで「令」は「A(牛)+B(跪く人)」の組み合わせである。其れを考えると、今日の昼間のビジョンも、昨日の「生命の元気(もとき)」のメッセージの続きであると言う事に成る。・・・
「何千頭もの牛」http://green.ap.teacup.com/20060818/3905.html
2014/5/4・・神社の施設に、翡翠製の牛の像の様な物が置かれていたのは、「物」の漢字が「天地間にある いっさいのもの。目に見えるすべてのもの」の意味を持っている事と関係が有り、今朝私が、其の牛三頭の尻に手を触れて回っていたのは、三つの世界に対し て、全てアクセスが完了した理・ことを、意味しているのではないだろうか。
「物・ブツ・モツ・もの」【解字】形声。「牛+勿」音符の勿・ブツは、悪い物を払い清めるの意味。清められた、いけにえの牛の意味から「もの」も意味を表す。【字義】@もの。ア天地間にあるいっさいのもの。目に見えるすべてのもの。「食物」「博物」㋑ものごと。ことがら。㋒転じて、世事。世間。「物外」「物議」A旗の名。周代、大夫や士が用いた。Bみる。また、占う。
其れに、牛は、漢字で「天地間にあるいっさいのもの」を意味するが、アルファベットの一番である「A」も牛の象形であり、牛神を祷る(跪く)人の姿が「B」であるので、其の概念は中国だけではないと言う事に成る。・・・
「物が無ければ空振りに終わる」http://green.ap.teacup.com/20060818/3045.html
2008/5/4・・アルファベットの「A」は牛の形で牛神を現し、「B」は跪(膝間着)いて其の牛神を祈る人の姿の象形文字である。そして漢字の命令の「令」も、AとBの組 み合わせで出来ているので、元は同じ文化である事が解かる。
「命(A+B+口の組み合わせ)」の漢字の意味は、跪いて神に祈り、神の「口(言葉・命 令・指示・知らせ)」を受け取るの意味である。
其の両方の文化の元は、エジプトより古い文化で、牛を神として祭る「シュメール・スメール・スメル文化」である。
其の「スメル」の意味は「葦の生える地を 治める」である。そして、其の「スメル・統る」働きを司る者が「スメラ・皇」で、其の役割の人間を日本では「すめらのみこと・天皇」と呼んで来たのであ る。・・・
「霊威の系統」http://green.ap.teacup.com/20060818/738.html
2013/3/4「帰命・ナーム」 http://green.ap.teacup.com/20060818/2612.html
2009/8/6「ベータ-ハウス」 http://green.ap.teacup.com/20060818/1230.html
2011/10/2「光から牛を離す」 http://green.ap.teacup.com/20060818/2077.html
平成29年6月23日
礒邉自適
2017/6/5
六合
29・6・5
本日6月5日は、私が33年前に此の世界に飛び込んで、34年目に入る初日である。
今朝のメッセージの映像は、50歳代の男性が何かの仕事を成し遂げて、同じ年代の男性(主権者・オーナー・発注者)の所に行くと、其の男性がテーブルの上に封筒の様な厚い紙袋を置いて、其の中の三分の一程の紙幣を、仕事を成し遂げた男性に渡して、何処かに帰って行く場面が映し出されて来た。
其れから、「6+5=11」の数字計算が映し出されて来て「ろくごう・六合」との言葉が告げられて来た。
今朝のメッセージの映像は、何等かの事が完結して、其の成功報酬と言うか、成果が、天神地祇の間で別けられる様子が示されて来ている様であり、其れは天地の力関係(役割の比率)が、示されて来ているのかも知れない。
其れは、此の世の人間が100%頑張って、物事を成功させても、其の背景には莫大な天神(てんのはたらき)の「エネルトーン・度合い」が掛かっているとの理・ことであり、人間は其の理を、決して忘れては成らないと言う事なのであろう。
てんじんちぎ 【天神地祇】
@天の神と地の神。天つ神と国つ神。あらゆる神々。 〔日本では,高天原(たかまのはら)に生成または誕生した神々を天神,初めから葦原中国(あしはらのなかつくに)に誕生した神を地祇とする〕
A仏教で,天界に住む夜叉・梵天・帝釈天などの天神と,地界に住む堅牢地神・八大竜王などの地祇の総称。 歴史民俗用語辞典より
そして「ろくごう・六合」との言葉に付いては、以前の文章を調べると次の様な物が有る。
2009/11/14・・昨日の午後に、「への神」とのメッセージが告げられて来て、夜にも文章をアップしたが、今朝のメッセージの映像には、其の「国之常立神・くにのとこたちのかみ」の働きに付いての事柄が示されて来た。
何故、昨日アラビア数字の「6」を使わないで、弘法大師空海の「いろは歌」の「い・ろ・は・に・ほ・へ・と・ち・」を使って、「への神」と伝えて来たかを考えると、マントラ・真言に関係が有るからだろう。
其れは、11月11日のメッセージの「正しい日本語」に関係が有り、純粋な日本語を使用しなければ成らない事を、示して来ているものと考えられる。
其れに、日本の数である「ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・ここの・たり」を使うと、6番目は「むの神」に成り、私が「無の神」との勘違いをするからであろう。
今朝のメッセージを一言で謂うと、「国之常立神」の働きは「現場主義」にあると言う事である。
何故なら、日本で初めて国造りを行ったと云われている「大国主命」は、現場で働いた人間であり、其れに智慧を出して協力した「少名彦神・すくなひこかみ」も、現場で働いているのである。
其れは、現在の皇室や、宮内庁や、神社庁の人間とは、全然違っている。
つまり、現在・いま、神が人間に求めて来ている事は、「神社」や「寺院」での祷りや儀式ではなく、人間が生活する村・国の現場を、どうするかに付いてなのである。
其れは、人間が神にお願いをするのではなく、神の希望を、人間が叶えて遣る事なのである。其の場こそが、「国之常立神」の名の意味なのであろう。
国之常立神とは、「地面に常に立つ神・はたらき」又は「六合・くにの床に何時も立つ神・はたらき」との意味である。
だから、其の「神・はたらき」は、常に地上に立っていなければ、役割を果たせない神なのである。
其れは、人類を救う為に地上に降りた、光の天使「ルシフェル」と同じ働きである。
【六合】とは、「りくごう 」と読み、 天地と四方。上下四方。また、天下。世界。全宇宙。六極(りっきょく)。の意味だが、中国の数字である「一・二・三・四・五・六・七・八・九・十」は村を造る順番から来ている。
「一・二・三・四」は家を造る柱を、一本・二本・三本・四本と集めて来る意味で、「五」は「正」に通じ、正しく土台の上に柱を組上げる意味である。
「六」は家屋の象形で「六合」が家が立ち並び「村・国」が出来上がる意味で、「七」は木に暦・日付を刻むの意味である。
此の漢数字の意味からも、6番目が国造りに関係が有る事に成る。
そして、其の6番目の神こそ、最大の力を発揮する神である理・ことを、伝えて来ているのではないだろうか。
昨日の文章には、「管理する物が何も無い」と書いたのに、其れは半日しか持たず、私の意識には「国之常立神」の働きが侵入して来てしまった様である。
其れは、村造りに始り、国や地球環境を守る事である。
やはり、私には、未だ休み時間は与えられない様である。其れは、仕方の無い事であろう。何故なら、私には、神の元手が掛かっているのだから・・・
「国之常立神」http://green.ap.teacup.com/20060818/1340.html
2005/11/30・・今朝のメッセージは、是からは、私一人の能力では、とても間に合わない状況が起きることが、感じられるものであった。
と言うのは、神の世界が、次元の壁を壊して、一気に今の時間(トキ)にシフトして来たらしいからである。
別な言い方をすれば、「森羅万象が 今のトキに溶け込んで来て 情報(エナジー)が 人類の思考と同化する。」となるだろうか。
思考の仕草を導く為に、仮の絵柄を表記すれば
天のみなか主
タカミムスヒの神 カミムスヒの神
ウマシアシカビヒコジの神 アメノトコタチの神
クニトコタチの神 トヨクモの神
以下(男神) ウヒジニの神 スヒジニの神 以下(女神)
ツノグヒノの神 イクグイの神
オホトノジの神 オホトベの神
オモダルの神 アヤカシコネの神
イザナギの神 イザナミの神
の 神々と、名付けて呼ばれて来た、宇宙の働きが、其の拘束から解かれ、総べてが、一つの時空に溶け込んでしまったと、説明すれば、何となくイメージ出来るだろうか。
中国の老子が、「恍なり惚なり。惚なり恍なり。」と謂っている世界と云えば、簡単な世界ではある。
其処は、未だ、約束事が何も決められていない世界であり、拘束力が働いていないエナジーだけの世界である。
今朝の私は、其のエネルギーの満ちた世界の中に、意識が目覚め、パソコンのシステムを探り出そうとするのだが、其れさえも、エナジーの中に溶け込んで捜せない。
そうする中で、漸く「六郡」と言う言霊を捉まえる事が出来た。
其の言葉を、パスワードに使い、パソコンを操作すると、22日のメッセージに現われた、物の形が幾つも在った画面を、捜し出す事が出来た。
しかし、22日の映像には、黒い画面の中に白抜きで現われた物の形が、今朝はエネルギーが満ち溢れた、紫色の中に、金色で現われた。
其の色は、紫微垣(しびえん)として、中国の古典「普書」に出てくる、北斗星の北に有る天帝の居所とされている、紫微宮の色である。
古代の人達は、天位とは紫微北辰に在ると、ちゃんと概念化しているのである。総べての物は、其の紫微垣から生じる事を知っており、日本語では、其の場を「天の御中主」と呼んで来たのだろう。
今朝の言霊は「六郡」と出て来た。
何故「六合」か「六郷」ではなかったのだろうか。
【六合】は 天地と四方。宇宙全体。全世界。の意味である。
六合はクニ・国の意味に使われる。六の漢字は家屋の象形である。
漢字の、数字の文字は、家を建て・村を造り・暦を刻む事を順番に説明している。一・二・三・四(元字は4本線)は、家屋を建設する為の材料と成る柱の数である。
「五」は、基礎の上に柱を立て、桁を乗せて柱を真っ直ぐに正しく立てる。の意味である。
「六」は、其の上に屋根が被った状態で、村が出来上がって行く様子を意味している。
「七・八」は、木に刻みを入れる意味で、暦を刻む事から来ている。
「九」は極まる意味で、「十」は針の形である。
漢字の数は、村が出来て行く順番だが、日本の数字の「ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・ここ・と(たり)」は、宇宙の始まり「火・風・水・世」から、「飯・息(むす)・名(な)・矢・此処・当(足り)と、人間の暮らしを説明している様である。
漢字の十(針)も、日本語の当たるで、足りも、「とおす。通じる。完成。」の共通の概念を持つ様である。 (是は 私の勝手な解釈です。)
では何故「六合」ではなく「六郡」なのだろうか。
「郡」の漢字は「君+阝」で、「君」は神事を司る族長の意味。祝詞の意味。で、「阝」は邑の意味だから、「神事を司る族長を中心にして 群れる村・国」との意味に成る。
「六郡」とは、其の様な村に、家を造り 暦を刻む。との意味だろうか。
ようやく此処まで頭を整理して来たが、未だ、具体的な物事の把握までは至らない。
簡単に、今日感じる事を述べれば、現在、神社に御備えして有る鏡は、必要ではなく成ったとの事である。
現在の鏡は、キンピカな物であるが、其の前は銅鏡であった。
其の鏡の始まりは、岩鏡と言って花崗岩の岩が対象だったのである。
現在の鏡は、神通力が無く成った祭祀王が便利上、創り出した物である。
其れが、今世に成り、石英・珪素に拠る、光りファイバーや太陽電池パネル等が出来、クオーツ発信機等が出来たので、其の振動は、情報産業の機器類に拠って、各家庭まで隙間無く飛び交っている。
だから、神社の鏡を使用しなくても、宇宙の振動波には、誰でも気軽にアタック出来る様に成った。
人間の認識には上らなくても、携帯電話では、別の情報が、其の機器の電波に相乗りしているのである。だから、パソコンの存在は、新しい時代の岩鏡と言えるだろう。
私の脳は、其の相乗りの電波にトランスしているのだ。
其れを、神の世界と云うのは、もう時代遅れと成るだろう。
今朝の意識の世界は、愈々神(宇宙意識)と、人間の脳(電気システム)が、お互いに「意乗る・祈る」時点に、達したとの事だろう。
私は21年前、神に身体を貸せと云われた。
其の用は「新しい事象の特異点・新しい神の企画の座表軸」と、される為であった。其の事が、現実と成って来ている様である。
特異点と座標軸は、センター的な意味合いがあり、全体に対しての部分である。其れは「ゼロ・O・零」が、全体との掛け合いの処に位置している事が、理解出来るものだ。
「九」で極まって「トー・十」で抜けて行くのだ。其処には、新たなOからの始まりが待っているのである。
王の位置が、目の前に現存した「老子」と、「王」の立場を捨てた釈迦の意識の位置関係が、現在・いま何処・いずこに在るのだろうか。
釈迦は、王の存在意義を、悟ることが出来たのであろうか。
其れに、神武は王の立場の認識があったのだろうか。
老子と、釈迦と、神武を、パネリストに迎えて「紫微垣」をテーマに、会議を開いて見たいものである。・・・
「六郡(くにつくり)」http://star.ap.teacup.com/170606/655.html?rev=1
2009/9/2・・次の映像は、都会から遠く離れている小さな村の実情を、私が写真撮影して、其のフイルムを、防水が為されている筒に入れ、其の筒を皮ベルトに取り付け、村の若者の背に取り着けた。処が、其の村の若者は、前部分の皮ベルトの金具の締め付けも、巧く出来ないのである。
其の意味は、田舎の若者には、町まで、何日も走り続ける体力は有るが、近代的な文明に対しては、無知である理・ことを示している。
其れは、田舎の人間に、新しい文化を普及するには、其れなりの訓練が、必要である理・こと知らせて来ているのであろう。
今朝のメッセージは、新しい未来社会を創造する為の、「田舎・ローカル」と「都会・中央政府」の関係性や、情報の遣り取りに付いて、示唆して来ているのであろう。
其れは、「情報」其のモノが、「生命線・いのちの最前線」である理・ことを、示して来ているのではないだろうか。
其れは、「弥勒菩薩・マイトレイヤ」の「有情」の意味や、「大日如来・ビルシャナ」の「意・口」の意味を、強調して来ているのかも知れない。
此の様に書いて行くと、今朝のメッセージは、昨日のメッセージの映像に表れた、大事な内容が書いてある文章や、活発に動き始める「事務所・役所」の男性達の姿に、関係が有るのだろう。そして、其の文章や、現場写真のフイルムの処理に、人手が必要に成る事を示して来ているのであろう。
しかし、今朝の映像は、地球を上空から見なければ、視覚に収まらない列島の形や、視線を宇宙に向けなければ、認知できない惑星配列までが、映されて来た。其れは、人間の生活や地球環境だけではなく、宇宙の運行までを、意識下に納めて、プログラムを組めと言う事である。
其れを、示して来る意識は、人間の立場に在るモノではなく、宇宙を管理している存在の意識である事は確かである。其の意識こそが、私に「女神のメッセージ」をパートナーとして、書かせている本体なのであろう。・・・
「国造りの情報」 http://green.ap.teacup.com/20060818/1259.html
2015/8/3・・今朝のメッセージは、私の両親が昭和21年の今日、屋久島に渡って来て、私を産み育てた天神(てんのはたらき)のプログラムが、無事に果たされた事を示して来ており、是からは、過去世の人々の意識(情報)は関係無く、私の意識・おもいが、天界に直通する事に成る理・ことが、示されて来ている様である。
其れは、奈良市に有る「大倭あじさい邑」の創立者である矢追日聖氏が、生前謂っていた「霊界に存在する人々が 全て成仏すれば 現世の人間の意識が 天神に直結する」との事が、ようやく現実の事と成る理・ことを、示して来ている様である・・・
「直通」http://green.ap.teacup.com/20060818/3553.html
2008/8/16「ミズとイズ 」http://green.ap.teacup.com/20071223/242.html
2010/6/1「事象の顔」http://green.ap.teacup.com/20060818/1560.html
2013/1/1「待って居ても来ない」http://green.ap.teacup.com/20060818/2549.html
2016/9/13「六合造り(くにつくり)」http://green.ap.teacup.com/20060818/3987.html
2017/2/17「ユダヤ民族から日本民族へ」 http://angel.ap.teacup.com/20071208/832.html
【六合】とは、「りくごう 」と読み、 天地と四方。上下四方。また、天下。世界。全宇宙。六極(りっきょく)。 大辞林より
【六合】りくごう・ろくごう。天地と四方とを合わせていう。上下四方。全宇宙。 言泉より
此の「六合」と「6+5=11」の数字の関係を考えると、六は「天地四方・全宇宙」の意味であるので、五は家の柱を「正・定」に組む意味であるので「五・いつ・嚴」であり、嚴の意味である「口口」の形と関係が有り、11の数字(形)は「全宇宙+嚴」で、「厳・嚴・ゲン・ゴン・おごそか・きびしい」の役割である人間の働きを合わせたモノ(世界)が、「11」であると言う理・ことが示されて来ているのではないだろうか。
「六・ロク・む・むつ・むい」【解字】象形。甲骨文は、家屋の形にかたどる。転じて、数のむつの意味を表す。【字義】@むつ。むっつ。Aむたび。六度。B六番目。C易の陰爻(インコウ)⇔九。陽爻。・・・
「厳・嚴・ゲン・ゴン・おごそか・きびしい」【解字】形声。「口口+敢」。口口は、きびしくつじつまを合わせる意味。のち、音符の敢を付し、音を明らかにした。【字義】@きびしい。はげしい。ひどい。また、きびしくする。「厳寒」Aおごそか。いかめしい。いかつい。「荘厳」Bたっとい。たっとぶ。Cいましめる。いましめ。「戒厳」D父。⇔慈(母)「冷厳」「家厳」
漢語林より
其れ等の事を考えると、今朝のメッセージは「統尊(すめらのみこと)」の「御嚴(みいつ)」の世界・はたらきに付いて、具体的に映像にて示されて来ている事になる。
其れは、「釈迦牟尼佛」や「イエスキリスト」の思考には無い世界であり、どちらかと謂うと「老子」の世界に近いモノであろうが、老子自体は其の事を実行していないし、現在の天皇家や宮内庁の関係者にも、其れ等の理・ことは理解されていない様なので、御稜威 ・みいつの世界・概念に付いて、再構築しなければ成らないとの事ではないだろうか。
其の様に考えると、今朝のメッセージは、私が此の世界に入って「16年半+16年半=33年」から、34年目に踏み出す第一日目に、相応しいモノであると言う事に成る。
今朝の愉伽さんのビジョンには、類人猿から分離して、少し進化した原人の様な男性が目の前に立って居て、仕事としてトラックの運転を任されたが、どうしたら良いか分からず困っているので、自分がトラックの運転の仕方を訓えなければ成らない場面が、映し出されて来たとの事である。
其れは、六合(村・国)を造って生活するのが、人間であるので、六合の始まりを示唆しており、トラックの運転を訓える場面の意味は、現場の作業と言うか実働時間を意味しており、現代人の特徴である子供の時から机に座って、頭脳に情報を詰め込んで、理屈人間(口先人間)に成る事とは、反対の世界を示唆しており、「六合(村・国 造り)」の原点が示唆されて来ているのであろう。
【此れから考えると、現代の社会は手伝う事ではなく、ただ理屈というか、知識だけを伝えるだけで、実際の体験を伝えていない事になる。】
2000/6/2・・「あそび」とは、仕事と異なって、自分の好きな時間と、体の動きを伴った行動と言えるのではないだろうか。
人間にとって、楽しい事は、体に深く記憶される。
だから、子供の頃の「あそび」が一番記憶に残ってしまう事になる。
「游・ユウ」の漢字は、「子供が 吹流しの旗のように 自由に 川で泳ぐ」という意味である。
人生の一番の基本、方法、方向は、子供の頃の学習にあると言って良い。
「学習」とは、「学(まなぶ)」「習(ならう)」で「まなぶ」も「まねる」から来ていると言われている。
子供の頃、親に色々な事を習い、年上の子供達と遊ぶ事によって見習い、また学校に行く様になって読み書きを習い、次第に社会人と成って行く。
社会が異なっていれば、習うことも異なっている。それが、文化の違いと成って現れるのである。
「習・シュウ」の漢字は「羽+白」の組み合わせで、字義は「巣の中にいる 未だ何も知らない真白な雛鳥が 親の羽ばたきをまねて覚える。」との意味らしい。
そして「学・ガク」は、旧字が「學」で「子+家+交+両手」の組み合わせで出来ており、字義は「家の内に居る子供に交わる 教えてくれる人の両手」となる。
「学」は「人の手」が「習」は「親鳥の手」が関係しているとの事で、両方とも「手」だと言う事になる。
そして、「伝える」の旧字が「傳」で、字義は「人が車のようにクルクル 次々に手から手に伝える」である。
だから、日本語の「手伝う」とは、「手仕事を 伝えて行く 手の方法」と言う事になる。
【此れから考えると、現代の社会は手伝う事ではなく、ただ理屈というか、知識だけを伝えるだけで、実際の体験を伝えていない事になる。】
私達が、子供の頃(昭和30年代頃まで)は、女の子はママごと遊びで、「ママ(お母さん)」のまねごとで、料理や赤ちゃんの世話の作業を見覚え、男の子達はナイフで笛や釣竿など、色々な物を作って遊んでいた。
漢字の「作・サク」は「人+木・手・刃」の組み合わせで、字義は「人が 枝を刃物で削る」の象形文字である。
世界中で、自然の中で生活する男性は、ほとんどと言って良いほど、刃物を大切にしている。
学校が出来て、ペンや筆を手にするまでは、男の子は刃物の使い方が、一番重要な事であったのだ。
古代社会では、刃物一つで家を造ったり、食器を作ったり、竹を編んだりして、生活に必要な物を作っていたのである。子供の頃から、ナイフを使ったり、母親の真似をしたりする事は、遊びであるけれども、大人になる為の、大事な準備なのである。
人間は、両手を使う事で、脳の前頭葉が発達すると云われている。だからこそ、「あの手 この手を考える」とかの言葉が生まれたのだろう。
子供の時代に、大事なのは、自分の手足を使う事で、言葉との繋がりを確かめ、増やしていく日常生活である。
社会とは、その為の環境や、条件を整える事が役割であり、それが、「教・育(おしえ・はぐくむ)」の本来の意味である。
今年(平成12年)に入って、世界中で16歳・17歳の子供達の犯罪が増えているが、これも本人の罪ではなく、社会条件に因るものである。
幼稚園から、机に座っての文字の学習では、本来のまなびの道から外れてしまうのは、当然の理・ことと言えよう。
もう一度、人間の教育、おしえる側と、まなぶ側の成り立ちを、考えるべき時に来ているのではないだろうか。
漢字の「捉える」は「手」と「足」で出来ている。
子供の時の「あそび」が人生にとって、どれだけ大事かを、痛切に感じるこの頃である。
「あそび・游・遊」http://moon.ap.teacup.com/20061108/25.html
2008/10/7・・今朝のメッセージは、「手と足のたび」と告げられて来た。
其れは、人間のDNAの情報の組み上りには、「手」と「足」が深く関わりが有るとの事だろう。
其れを、大雑把に謂えば、「後頭葉」は恐竜時代に歩く事で生まれ、「前頭葉」は猿の時代に両手を使う事で生まれた、と 謂えるのかもしれない。
其れは、言葉の世界で、足に付いては「満足」との言葉が有り、人間は歩く事で後頭葉が刺激され、アルファー波が発生するので、落ち着く事で証明される。
そして、手に付いては、「あの手 この手の手段」との言葉が有るので、両手を使う事は前頭葉を刺激し、様々な方策を生み出す事を意味している。
其の様に考えると、脳の発達と、手足の存在は、密接な関係が有ると言う事に成るのである。だから「手足のたび」とは、DNAが進化する為の、過程を意味している事に成る。・・・
「手と足のたび」http://star.ap.teacup.com/2007313/564.html
2017/2/26「何故は 何処から生まれたか」http://wave.ap.teacup.com/20060106/725.html
2001/7/31「母親の顔」http://star.ap.teacup.com/170606/676.html?rev=1
2016/4/21今朝のメッセージから、私が感じた事は、猿人(ヒト科・ヒト亜科)から義人までの、脳の変化と言うか、意識の変化に付いてである。
其れは、「猿真似」との言葉が有る様に、人間は、此の世に誕生した時から、親の真似をして成長し、「霊留・ひと・人」と成る理・ことである。
其れが「学習」との言葉の存在であり、其の環境の呼び方が「教育」である。
そして、其の先に「教師・先達・達人・義人・聖者・仙人・至人・仏陀・大君・現人神」の世界が存在する。
「猿人・さるひと」http://green.ap.teacup.com/20060818/3824.html
今朝の、私のへのメッセージは、人間の完成と謂うか未来への前進に付いて示されて来ており、愉伽さんには、人間の過去・原点が示されて来ている様である。
今、気付いたが「6+5=11」は、本日6月5日の日付と同じであるので、何かが本日、揃った「11・口口(嚴・ゲン・ゴン・おごそか・きびしい)」と成った事が、示されて来ているではないだろうか。
だからこそ、「くに・郷」の意味である「六合」を、「りくごう」と言わずに、今日の日付に合わせて「ろくごう・65」と告げて来たのであろう。
平成29年6月5日
礒邉自適
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