言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2018/5/22
罠・かえして
30・5・22
今朝のメッセージの映像は、私が芸術家の立場で居る、意識状態が映し出されて来た。
其れは、入り口や窓が大きく開放される、体育館の様な大きな木造建築の中が、芸術を創作するブースの様に成っており、其の日の気分に因って、どの作業場でも、直ぐに創作活動が出来る状態の施設である。
私の意識は、其の建物施設の中に居て、夏の間は窓を開け放てば冷房は必要ではないが、冬の暖房をどうするかを考えて居て、作業が出来る程の場・空間を、透明なビニールで囲う四角な枠組みを造り、中にガスが発生しない電熱器を置けば良いと考えて居た。
其のビニール製の部屋は、其の日に活動するブースの側に、簡単に移動できる物である。
今朝のメッセージの映像は其れだけであり、其の建物施設に訪ねて来る人影もなく、家族や弟子も居ない、一人暮らしの生活の場である。
そして、明け方に「わな」との言葉が一言告げられて来たので、其の意味を考えて居ると、男性の声で「かえして」との言葉が一言告げられて来た。
私は、其の「わな」と「かえして」の二言で、全ての事が理解される様な気がして居た。
其れは、此の人間の近代社会は、全て「思考の罠」の中に有って、他人の仕掛けに掛ってしまう人間と、自分が生きて行く為に罠を仕掛ける人間の組み合わせで、動いていると謂う事である。
そして、其の罠に掛ってしまった人間の台詞が「自分の人生・時間を返して」と謂う事なのである。
そして、たった其れだけの仕組みが、人間社会に様々な「様相・柵・業・カルマ・罪穢れ」を創り出しており、其の逆の世界の言葉が「解脱・覚醒・自由・出家・自分」等であるのだ。
其れを考えると、今朝のメッセージの映像は、昨日のメッセージの続きであり、私の意識の背景である脳細胞(シナプス回路・軸索・海馬)から、過去の情報である「網・蔓(唐草模様・大風呂敷)」が冬枯れを起こして、姿を消したと謂う事に成るのであろう。
其れは、私の意識から、本能の生命プログラムと、生活に関する五体の記憶・蓄積されている手段・技術・智慧より他の、不要な情報網が剥がれ落ちた事に成るのであろう。
其れは、1984年6月4日(旧暦5月5日)に私の意識に起きた事が、再び異なる次元に入り込んでいる事に成る。
其れを考えると、本日5月22日が旧暦4月8日であり、其の日付は「釈迦(ガウタマ・シッダールタ)」の誕生日である事と関係が有り、私は釈迦牟尼世尊の「カルマ・柵(しがらみ)」を解除した事に成るのではないだろうか。
『真にそうである。だが 是は 新しい一歩にしか過ぎない。
是からが 君の本番であるので 自分自身の道を 歩き出さなければ成らないのだ。其処に 真実の未来が開闢されるのである。』7時29分
『ナニモ ナサザルナ。また思考の罠にかかる』7時31分
『ただす』『夢物語』『いまを生きる』『何をではなく何か 探索』7時57分
今朝は7時33分に、由香にビジョンを見なかったかと訊くと、見たとの事である。
其れは、我が家の庭に林檎の木が生えており、真っ赤に熟れた美しい林檎が実っており、其れは無農薬自然栽培にて、私が育てたものであったとの事であり、捥ぎたての新鮮な林檎を最初に差し出していた人物は、知り合いの「輝生さん(光輝いて生きる)」であったとの事である。
私は其の由香の説明で、今朝の我が家の夢舞台は、やはり釈迦牟尼世尊の御魂が関係しており、私を捜し出して此の世界に送り込んだ「土肥無庵」や、私のスケジュールを管理している弘法大師空海などの神(はたらき)が、一連の思考の蔓(唐草模様の大風呂敷)の、取り扱い者と成って居ると謂う事が、明確に成って来た。
其れを考えると、やはり私の働きは「御嚴・みいつ」であり、其の役職名は「統尊・すめらのみこと」であると謂う事に成り、王様の針師の子孫である清水先生の治療は正しかった事に成る。
其れ等の事を考えると、確かに私は、総合無意識の世界の棟梁と成って、今朝の映像に映し出されて来た体育館ではない、芸術館を稼動させなければ成らないと言う事に成るのであろう。
キー「針師 清水先生」
2007/2/26・・私は、1995年の8月に東京都調布にお住まいの針師である「清水先生」に探し出されて、中国の王様が受ける針の治療を二ヶ月に亘り、六回受けた事が有る。
其の時に、針師に云われた事は「北を背にし 南を向いて椅子に正しく座り 呼吸を整え 頭に一切の言葉を 想い浮かべては成らない」との理であった。
其の事が、今の私に、現実として起きて来ているのだ。
其の時の日記の内容(東京都目黒から通う8月19日・21日・23日 9月5日夜中に阿蘇の自宅で寝て居る時に、鼻の下に遠隔針を打たれ「9月13日までに来い」と告げられたので、7日の11時30分の飛行機で羽田に向かう。9月14日5時清水先生宅。24日日曜日11時〜3時まで。)
其れ等の事柄を考えると、今朝の状況こそ、神々と精霊達が此処まで私を導いて来た事が完成したことを意味し、23年前に私を探し出した無庵師匠の云った事が、現実と成った事を証明しているのではないだろうか。・・・
「平らかに成った世界」http://green.ap.teacup.com/20060818/200.html
2014/5/30今朝のメッセージの映像には、「1年11月11日」との日付が映し出されて来て、和田家の存在が示されて来た。
そして、私が、其の和田家を訪れると、姿ははっきりとは見えないのだが、婦人が一人、建物内の広い会場に立って居た。
私は、其の女性と会う事に因って、其の会場に、人々を集めなければ成らない事が示され、食事の段取りもしなければ成らない事が解かった。
そして、人々が集まり始めると、其の中に、出雲大社の宮司が立っている姿が映し出されて来た。
「自我意識が消えた時に其れが始まる」http://green.ap.teacup.com/20060818/3084.html
2015/10/18「心の戸締り」http://green.ap.teacup.com/20060818/3630.html
2017/5/26「全系の稜威」http://green.ap.teacup.com/20060818/4251.html
2018/2/6「剛の者」http://green.ap.teacup.com/20060818/4519.html
2018/5/9「霊文神示・ひふみしんじ」http://green.ap.teacup.com/20060818/4613.html
「自我意識が消えた時に其れが始まる」との言葉では、今朝の映像に映し出されて来た「芸術館」の運営は出来ない。
だが、能く考えて見れば、私の自我意識は1984年6月4日(旧暦5月5日)に、私が安房川の岸辺で「土肥無庵」が見守る下で禊ぎ祓いを行って、4311体の霊魂に躰を貸した時に、消えてしまっているのであるから、其の問題は解決しており、其の後の34年間の私の動きと謂うか意識は、私の自我ではないと謂う事に成るので、問題は無いのであろう。
寧ろ「其れが始まる」との事が現実と成って来ており、由香のビジョンの意味からすると、旧約聖書に記されている「蛇が薦める林檎」の例え話・理論を超える・消化した所で、七つの頭を持つ大蛇が守護霊である釈迦牟尼世尊の智慧を、此の世に開花させなければ成らないと言う事である。
其れは、昨日の映像に映し出されて来た緑色の「冬瓜・とうがん」と関係が有り、動物の蛇のトグロのイメージから、植物の螺旋に切り替えなければ成らないと謂う事でもある。
其れは、人間の脳の古皮質(蛇の脳)から、植物のヒゲ(触覚・手)の感覚システムに意識・検索を切り替える事でもある。其れは、動物と植物が枝別れ(多細胞発生期)する10〜6億年頃前の意識まで、DNAの記憶を遡る事にも成る。
今朝7時31分に告げられて来た、「ナニモナサザルナ。また思考の罠にかかる」は「土肥無庵」の御魂からのモノらしいので、物は試しで、昨年の7月31日の文章を見ると、何と、今朝のメッセージの内容に関係が有る。
2017/7/31今朝のメッセージの映像は、先ず未明に、天御中主の様な感じの60歳代のスーツを着た男性が、左側に少し若い部下を一人連れて、新しいビルが建設される場所を視て居る場面が映し出されて来た。
そして建てるビルは、窓が何も無い4〜5階建ての真黒な四角い建物であり、コンピュータの様な電子機器が揃えられて、全ての情報管理が為される物である事が理解されて来た。
次に、何故か、私の意識が其の敷地の中に居て、其の敷地の中で地縄張りの作業を行って居た。其れは、方角を確かめてから、建物の位置を決めて行く作業である。
其れから、建物の縦横の比率を決める段階に至って、縦横を4−6の長方形にするか、5−5の正方形の比率にするかが、検討され始めると、其れが数学の方程式の様な世界へと発展して行き、其の世界が「メーソン・石工」の職業に関係有る事が示されて来た。
其れは「4×6=24 =12(4×3)+12(4×3)・・・の様な感じで、其れ等の比率は、建物の部屋の広さの区分や、情報機器の配置に関係し、更に情報管理の区分や量にも関係が有る理・ことが理解されて来た。
其れ等に付いて考えて居ると、意識が目覚めて来たので照明を点けて時計を見ると、時刻は「4時38分であったので、私は其の数字を「438・しみや・紙魚屋」と記憶した。
其れから再び眠ると、今度は、森林の管理に付いて、会議が開かれる場面が映し出されて来て、其れが毎日繰り返されても、中々答えが出ないと言うか、政策が決定されないのである。其れは、経済発展の立場と、環境保護の立場の違いから、全く意見が合わない事や、役所の縄張りや利権などが存在するので、今日決った事が明日は変更されてしまうとの事である。
其れに、役所の係りの人達は、学校で学んだ事が基本であると言うか、知識として頭に詰め込んでいるモノが主体・考えであるので、現場で生きて来た私の意見とは全く噛み合わない事などがあった。
会合の主催者側には、頭の良い年配男性が存在して、私の意見と言うか考えは理解するのだが、全般的には、一般的な各分野のお偉いさん達が、上席を占めて権力を行使しているので、夢の中で朝方まで其の会議は繰り返されたが、私(神霊)が意う様には事が進まず、結論が出る事は無かった。
今朝のメッセージの映像から、私に感じられる事は、天神(てんのはたらき)の存在が私の背景に在っても、現在の三次元世界・人間社会は、人間の都合と謂うか煩悩で動いているので、私が天神(てんのはたらき)からの情報・意見を傳えても、力を有している・占めている人達が耳を貸さないので、地球生命全体の事を考える情報センターの設置や稼動は、容易ではないと謂う事である。
これ等の事を考えると、今朝のメッセージは、私が33年前に此の神の世界に飛び込んだ時に、白山権現菊理姫の本体である白龍が私の躰に巻き付いて来て、「地球の管理を任す」と告げて来た事に関係が有り、其の事が具体的に映し出されて来た事に成りそうである。
其の様に考えると、今朝のメッセージの映像に、お供を連れた「天御中主」の様な存在感の有る、年配男性の姿が現場に登場したのは、地球管理の様な現実的な仕事・役割りは、余程優秀な男性でなければ出来ないと言う理・ことが示されて来ているのではないだろうか。
だが、今朝のメッセージの内容からすると、現在の政府の人間や、教育関係の人達には、其の役割を熟せる人物が居ないと言う事に成る。
其の事を考えると、地球全体の情報管理をするセンターを造っても、其れを統率管理できる人材が居ないと言う事に成る。
其れに、今朝のメッセージの映像からすると、其の情報センターの管理者は、数学の世界に長けていなければ成らないとの事の様なので、法律関係や文科系の人材よりも、理数系の人の方が向いており、権力を欲しがる様な人物は適任ではないと言う事に成るので、現在の政治家に成りたがる人や、出世を気にする公務員(官僚)は、適任ではないと言う事なのではないだろうか。
其れに、天皇家の人達や、外務省の人達の様に、社交的な世界で生きて居る人達も、現場の事に対しては無知なので、役に立たないと言う事に成るであろう。
今朝のメッセージの登場した二人の男性が、白人ではないがスーツを来た人物であったのは、昨日のメッセージの映像で、若者の後ろの壁がスクリーンと成り、文字が映し出されて来て、其の文字の意味は東洋的価値観ではなく、古典的な西洋的価値観で訳す必要があると示されて来た事と関係が有り、情緒的な判断ではなく、科学的な思考に拠って物事を分析し、理数学的な判断に拠って、物事を処理して行かなければ成らないと言う事ではないだろうか。
其の様に考えると、日本の神社や、仏教関係の人間の頭脳では、情報センターの運営は無理であると言う事に成るだろう。
何故なら、其れは「惟神・かんながら」や「他力本願」の生き方では出来ないので、人間自身の能力や努力が試される世界である。
其の為にも、定規やコンパス等の道具を象徴としている、「メーソン・石工・石部・物部」の血筋・系統が、必要不可欠であると言う事に成るのであろう。
「情報センターの建設」http://green.ap.teacup.com/20060818/4321.html
此の、情報センターの事を考えると、確かに土肥無庵が私を捜し出した時に謂って居た事が、未だ中心の所で続いている事に成る。
今朝7時57分に告げられて来た『ただす』『夢物語』『いまを生きる』『何をではなく何か 探索』との言葉は、未来社会に関係が有る事は間違い無いのであろうが、どの様な意味合いなのであろうか。
『ただす』は、老子の謂う「道・タオ」、釈迦牟尼世尊の謂う「ダルマ・法」から外れている人間の道・行動を正す必要が有ると言う事なのであろう。
『夢物語』は、現在私が行って居る神界とのコンタクトが、是からも必要であり、其れが永遠の物語と成るとの事なのかも知れない。
『いまを生きる』は、釈迦牟尼世尊の言葉に有る「過去・現在・未来に私が在り 衆生一切吾が子」との意味が、「今の此の瞬間をどう生きるか」と謂う事であり、今此処をしっかりと認識しなければ(意識を今に集中しなければ)何事も始まらないと謂う事なのであろう。
『何をではなく何か 探索』は、「何を」は自分の自我意識の言葉であり、「何か」とは、日本語の「かんがえる・神返る」に関係が有り、天神(てんのはたらき)に問う言葉であるので、其れが『探索』との言葉に関係が有るのかも知れない。
探索[名](スル)《古くは「たんざく」》
1 未知の事柄などをさぐり調べること。
「探・タン・さぐる・さがす」【解字】形声。篆文は、「才(手)+タン」音符のタンは、深い胎内から赤子をまさぐりだすさまにかたどる。手を付し、さぐるの意味を表す。常用漢字の探は、変形したもの。【字儀】@さぐる。さがす。もとめる。「探求」2たずねる。おとづれる。「探勝」
「索・サク」【解字】会意。金文は、「宀+糸+廾」宀は、家屋の意味。糸は、いとの意味。廾は、両手の象形。家内でなわをなう、なわの意味を表す。また、なわをたぐり寄せるようにして、なにかを求めるの意味を表す。
【字儀】@なわ。つな(綱)。太いなわ。また、なわをなう。Aもとめる。㋐さがす。もとめる。「捜索」㋑請求する。Bつきる(尽)。なくなる。ほろびる。Cちる(散)。離れる。ひとりになる。
何れにしても、私が此の様に文章に記す事で、事象は変化している事は間違い無い様である。
平成30年5月22日
礒邉自適
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