言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2018/11/22
空の継続
30・11・22
本日11月22日は明日23日に掛けて、夜通しで新嘗祭の儀式が行われる日である。
今朝のメッセージの映像は、其の「新嘗祭・にいなめさい」と天皇即位時に行われる「大嘗祭・おおなめのまつり・おほにへまつり・(だいじょうさい)」の本義に付いて示されて来た。
今朝の映像は先ず私が、電気コードが必要なので、数メートル間隔で接続器具に使用されている、黒色のビニールで被覆されている電気コードを、切って繋いで使おうと意って、中身の電線を確認しないままケーブルカッターで切断して行くと、最後の所で其のコードは電気溶接器具が着いている物である事が判り、其の溶接機は是から必要な物であるので、元の様に繋ぎ直す為にコードの被覆を剥がすと、其の電気線は一本のコードではなく、とても細い線が束ねられている物である事が判った。
次の映像は、私が2010年の夏に徳島県の山中に有る「天石門別八倉比売・あめのいわとわけやくらひめ」が祀られている岩座(いわくら)で、直子さんに偶然出会い、「自適さんではないですか?」と声を掛けられ、其の年の12月22日に直子さん夫婦の自宅に泊めて貰ったという事があったのだが、其の直子さんが登場し、預けていた物を受け取りに行くという内容で、渡された物は、冷蔵コンテナに保存されていた、釣竿を入れる大きな袋であった。
私が其の細長い袋を受け取ると、中で水音がするので、中身を確かめると、其れは釣り竿ではなく、長い筒型の器に入れられている「古酒」である事が判った。
次の映像は、孟宗竹の林が映し出されて来て、其の中にとても大きな竹が、真直ぐに天空に向かって伸びて・聳えており、私の意識は其の一本の竹をとても気に入って眺めて居た。
今朝は、起された時刻が7時42分であったので、私は其の数字を「742・なしに・無しに」と記憶して起きた。
そして、仕事に出掛けようとして居る由香に、何かビジョンを見なかったと訊ねると、「会社の組織の事が映し出されて来て、様々な改革に付いて考えて居たが、立ち去った時に頭が空に成ってしまった。」と謂うのである。
私は、其の由香の言葉から、今朝のメッセージの内容は、新嘗祭や大嘗祭の儀式は、人間が自分の「頭・意識」を「空・クウ・から」にして、「御祖神・みおやかみ」を迎え入れる為のモノである理・ことが確認できた。
其れは、日本語の「ひと」が「人」ではなく「霊留・ひと」であると謂う理・ことである。
其れは、私が此の世界に入る切っ掛けと成ったのが、1984年6月4日に、屋久島の安房川の岸辺にて、「土肥無庵」が見守る下で禊ぎ祓いを行って、私に躰に4311体の霊魂が依り憑いて来た事と関係があり、人間の脳意識は空白(カラだ)と成れば、霊魂が人間の身心を使用して、霊界・世次元の情報を齎す事に成り、其れが俗に言う「神懸り」と謂う事である。
そして、其の事を恒例行事として行うのが、7月14日の夏禊ぎと、春3月の春禊ぎであり、其れを霊的な重要儀式として行うのが新嘗祭と大嘗祭の儀式なのである。
其の事が、今朝のメッセージの映像に映し出されて来た、真直ぐに天空に向かって伸びて・聳えている大きな孟宗竹と関係が有り、家屋の中心である重量に耐える大きな大黒柱とは異なり、中が空で節目の有る竹の存在が、天空・神界への時間的な繋がり・継続であると謂う事であり、「統尊・すめらのみこと・天皇・大君・ミカド・レビ」は、意識が絶えず「空(空蝉・うつせみ)からだ」でなければ成らないと言う理・ことなのである。
そして、其の意識をカラとしなければ成らない「大君・ミカド・レビ」に仕えると謂うか、支える役割が「物部・もののべ・政府(府+貝)」なのである。
2013/2/9昨日から今朝に掛けて、天津日嗣の真実が理解できて来た。
其れは、岡本天明に降りたお筆先が「日月神示」「一二三神事」と名付けられている事を「天津日嗣神事・霊文(ひふみ)神示」と、しなければ成らないのではないだろうか。
岡本天明にお筆先が降り始めたのは、1944年(昭和19年)6月10日に千葉県印旛郡公津村台方(現・成田市台方)に有る「麻賀多神社」に岡本天明が参詣した時に、境内の末社である「天之日津久神社」の祠の前である。
其の現象を考えると、岡本天明に依り憑いた神霊は「天之日津久神」であると言う事になる。
其の「天之日津久神・あまつひつくのかみ」とは、「天の霊継ぐ神」との意味であり、其の事に別の字を当てれば「天津日嗣・あまつひつぎ・天の霊継」と成る。「天津日嗣」とは、辞書に、皇位の継承。また、皇位。あまのひつぎ。と載っている。
だから、天皇陛下の働きは「天津日嗣天皇・あまつひつぎのてんのう」であり、「津」は接続詞の「の」であるので、「天の霊(ひ)を嗣(つ)ぐ天皇」と言う事に成る。
しかし、其の「天津日嗣」の代々の天皇は、神武天皇、天智天皇、後醍醐天皇、昭和天皇と、私に「政・まつりごと」を霊界から頼んで来ている。
其れは、どう言う理・ことなのであろうか。
日本の天皇家は、天津系・渡来系とされており、其れはユダヤ(イスラエル)の民が大陸から海を渡って来て、日本列島に天津日嗣の伝統文化を伝えて来た事を意味している。
「大国主命」が造った出雲国に渡って来たのは、初めに「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊・あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと」が来て、次に其の息子の「大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし)宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)」が渡来し、次に「天稚彦・あめのわかひこ」が渡来して「下照姫・したてるひめ」を娶って住み着いている。
そして、最後に「經津主神・ふつぬしのかみ」に「武甕槌神・たけみかづち」が伴として付いて来て、大国主命が根負けして国譲りをしている。
其れとは別に、「饒速日命・にぎはやひのみこと」の弟である「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」が鹿児島県の笠沙の浜に上陸して来て、神武天皇の祖と成っている。
其の「饒速日命」と「瓊瓊杵尊」の兄弟の祖母が「天照大神」とされているが、其の天照大神とは、エジプト文化の「太陽の船」に乗る、額に鏡を着けている「女神イシス」であり、ユダヤの民がエジプトから脱出する時に、鳥居や獅子・ライオンと共に持ち出した文化であり、其れがシルクロードを通って日本まで伝わっているものである。
其の流れを、儀式として受け継いだのが「忌部・斎部・いんべ」であり、其の忌部の役割は、「帝(カド族・レビ族・神官)」を奉って「すめらのみこと・天皇」の仕組みを維持する事である。
忌部に付いては、天津系が渡来する時に従って来た5神「天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命」+3神「思金神、手力男神、天石門別神」の1神「天石門別八倉比売命」に関わりがあり、其の八倉比売命は「手力男命・たじからおのみこと」の妻であり、其の息子の「天の日鷲命」が「忌部・斎部・いんべ」の祖となっている。
「饒速日命」の息子である「宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし)」は、奈良の石上神宮に祭祀されている物部の初代であり、其の御陵は島根県太田市にある物部神社の裏山に有る。
そして、其の宇摩志麻遅命の役割が「食国政事長・おすくにのまつりごとのつかさ」であり、宇摩志麻遅命が伝えた「御餉殿・みけどの」の概念が、物部神社で行われる「新嘗祭」の儀式であり、其れが「持統天皇」の時世に天皇家に取り込まれて、天津日継ぎに必要な「大嘗祭」の儀式と成っているのである。
其れ等の事を考えると、日本の天皇家の元は「ユダヤ民族・イスラエル」にある理・ことに成り、日本の天皇家の仕組みは、失われた10支族の末裔と言う事に成る。
だとすれば、「天津日嗣」とは、ユダヤ民族の血統・霊系を伝えるモノであると言う事に成る。
其れは、岡本天明の「日月神示」に有る「148(石屋)の救世主が日本から現れる」と関係が有り、「石工・メイソン」の霊系が天津日嗣の元である理・ことに成り、「日嗣・ひつぎ」とは「棺・ひつぎ」に関係が有り、「アーク・神輿」と同じ意味が有る事に成る。
「石工・メイソン」に付いては、次の様な言い伝えが有る。
【石工の秘儀】「石の上に立つ 兵士の謎を解く鍵とは 生ける力のダイナムを 正しく応用することであると知るとき 彼は結社の神秘を学び取り ルシフェルの力は彼のものと成る」
其の「ルシフェル、ルシファー」は、「エゼキエル書」では「あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。」「わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。」と記されており、天使長の事である。
また、「ルシファー」の語は、キリスト教以前から「明けの明星」である金星を指すものとして用いられていたとの事である。
其の、明けの明星である金星は、仏教では「虚空蔵菩薩」とされており、「弘法大師空海」は四国の室戸岬で、其の明星が口の中に飛び込んで来て「虚空蔵菩薩求聞持法」を会得した事に成っている。其の虚空蔵菩薩の存在は、私の昨日のビジョンでは、神様の中で一つだけ光を放っていた。
其の現象を考えると、「天津日嗣」と「虚空蔵菩薩」の存在は関係が有り、天津日嗣とは「虚空蔵菩薩」の働きを継続する物であり、「天皇・すめらのみこと」とは「虚空蔵菩薩求聞持法」を会得した者でなければ成らないと言う理・ことに成る。石工・メイソン → ルシフェル・天使長 → イスラエル(カド族・レビ族)→アーク・棺・ひつぎ・神輿 →「ミカド・天皇」→ 神憑り石 →「忌部・斎部・いんべ」→ 物部→ 新嘗祭 → 御餉殿 → 「食国政長・おすくにのまつりごとのつかさ」 ・・・
何とか、私の意識も「天津日嗣」と言うか、日の本の霊系の繋がりを、見出した様である。其れが、昨日の「われは主と共にあり」との感覚の原因だったのではないだろうか。
其れは、私の「祷り・帰命・ナーム」が、成功した事を示しているのであろう。
「天津日嗣の真実」http://moon.ap.teacup.com/20061108/559.html
そして、其の継続(天津日継)の仕組みに付いて示されて来たのが、数メートル措きに接続器具が着いていた電気ケーブルの存在であり、其のケーブルの中の電線が一本の大きな銅線ではなく、白く光る細い針金の束であったのは、天津日継のシステムは、一人の「大君・ミカド・レビ」が命令的に執り仕切るモノ・世界ではなく、必要な役割(部署)が全て完璧に揃っていなければ成らないと言う理・ことなのであろう。
2006/3/22昨日21日から、新しい地球創造が始まっている。
其れは、宇宙の意識である龍が動き出しているからである。
その扉は、人間のハート・心臓に在る。
「寺・ジ」の漢字は、「出発する前に 立ち止まって 自分の右手の脈を 左手の親指で計る。」の意味の象形文字である。
其れは、自分の内側に「いのち・龍」が住んでいる事を、自覚していたからだ。
「龍」の漢字は、「虫」が大きく育った形を現している。
子供の虫(龍の落し子)が、大きく成って角が生えた形が、龍の文字なのだ。だから、「いのち」が籠もっていない文字は「不立(りゅう)文字」と言う。
日本の、古い「くにつかみ・祇」は「御岳・御室山」に住む龍・大蛇である。
其の龍神は、水や風や大地を支配する神で、山の御神木に七回半巻き付くのである。
七回半とは、太陽の光りが、一秒間に地球を七回半廻る数字と同じだから、古代の人間は、一秒間の時刻の目盛を、光りの体にメモリーとして有していたのだ。其れは、60秒を「一わけ・一分」とする意識である。
そして、60秒の中で、肺は12回の息をする。
其の働きを、月の運行や太陽のエネルギーと絡み合わせて、龍の息遣いとして、時計や銅鏡を創り出したのである。
人間は、大きな宇宙の「働き・龍」から生まれた物である。
だから、龍の息遣いを、自分のリズムの中にメモリーしているのだ。
其の記憶から、物事に目盛を刻み始めたのである。
大きな呼吸の12と、小さな60の心臓・体の刻みを、時刻に取り入れ、其れを暦にも応用し120還暦を創り、其の半分を60歳の還暦としたのだ。
私も、其の還暦を迎えた。
いま120歳の龍の、歳の半分を終えたのだ。
漸く若さが消えて、心臓の音や、呼吸の苦しさを、体感として覚え、気にし始めている。
私の意識も、自我の意識から、客観的な龍(体の中の虫)の意識えと、変化しつつあり、宇宙の微妙なメモリーの自覚を、持てる様に成って来たのだ。
今年は、皇紀2666年である。
宇宙の龍の呼吸は、一回が2666年で、其の間に四回脈を打つ様である。
其の時の、ハートの音が666年置きに、振動して時代を刻んでいる。
其れが、日本では、神武天皇(BC660年)→宗神天皇紀(0年) →天智天皇(667年) →後醍醐天皇(667+666=1333年)と、成って現われたのだろう。
今回は、漸く、其の音が6月11日(旧暦5月16日)に始まろうとしているそうしてまた、新しい龍の「呼吸・イキ」が起きるのだ。
其れは、大地の鼻である「御岳・ピラミッド」で生じるのである。
其の御岳の、神の発動を里に呼び寄せるのが、十五夜の満月の綱引きである。
御岳の神を、龍体としてあつらえた綱に憑依させて、十五夜の綱引きの綱として里に下ろして、満月の下で、東西どちらが勝つか占うのである。
東西の勝ち負けが決まったら、今度は、其の龍体を神社の広場で土俵に替え、人間と大地との結びとして相撲神事を行い、其れが終わったら、龍神は海に帰って貰い、再び雲と成って、御岳に雨の神として訪れて貰うのだ。
其れは、水と風の、穏やかで力強い循環を願う行事である。
其の為に、御岳の神は「三室山・みむろやま」を「ムロ」として住むのである。其の、龍に名付けられた名が「おおやまつみ・大山の巳」の名である。
別の名は「おおものぬし・大物主」で、其の龍が、人間に依り憑けば、其の人は「おおなむち・大巳貴神」と呼ばれる事になる。
其の「おおなむち」が、龍の代理として国造りを行うのである。だから、出雲でも、奈良の大和でも、其の「おおなむち」が神として、山に祭られて来たのである。
地球の大地を廻りながら、水を管理し、国を再生して行くのが、此の神の働きである。だから、此の神は、666年措きに居場所を変えて行くのである。
其の神の、移動に使われて来たのがお神輿なのだ。
其れが、今回2666年振りに、屋久島の山に帰って来るのだ。
屋久島の30座の峰峰に住む神々は、推古24年(616年)に(3月に3名・5月に7名・7月に20名・合計30名の人間に憑いて)奈良の都に出張している。今回の動きには、其の神々も、久振りに屋久島の御岳の峰々に帰って来るのだろう。
私自身は、両親の体を船にして、屋久島に帰って、既に丸60年経っている。其れも、今回の「大山祇神」の働きの、一部なのだ。
今回の大山祇神の動きは、地球全体の振るいである。
その九代龍王の、今回の身震いの霊動に、振るい落とされる者は、もう地球に存続を続ける事は出来ないであろう。
この様にして、ハヤブサの霊が「伝令・時告鳥」として、知らせて来ているのだから、神の忠告は既に為されているのだ。
そして、新しい龍伝説の物語は、既に始まっているのである。
「龍伝説の復活」https://star.ap.teacup.com/170606/822.html
此の文章の内容からすると、私が2010年の夏に徳島県の山中に有る「天石門別八倉比売・あめのいわとわけやくらひめ」が祀られている岩座(いわくら)で、直子さんに初めて出会い、声を掛けられたのが切っ掛けで、12月22日に自宅に一泊させて貰い、翌23日に奈良市の大倭あじさい邑で行われる元旦祭(「矢追日聖生誕祭)に向かった事と関係が有り、漸く真実の岩戸開きが始まるとの事なのであろう。
そして、私が倉から出して貰った釣り竿の袋の中に、釣竿ではなく古酒が入った筒が納められていたのは、人材を釣る為の手段は釣りではなく、古代からの伝統である神社の儀式である「直会(なおらい)」に有るとの事なのであろう。
キー「直・チョク・ジキ・ただちに・なおす・なおる」
2018/4/27今朝のメッセージの映像は、先ず私が、姿の見えない男性に案内されて歩いて行くと、古代の石組みの城壁が存在して、堀の部分は埋め立てられて、農作物が植えられており、城内の部分は芝生が植えられている場面が映し出されて来た。
次に、木造の大きな建物が映し出されて来て、其の中には古代の武具や骨董品などが、美術館・博物館の様に展示されており、奥の方に有る部屋に小柄で高齢のお婆さんが居て、付き添いとして娘さんが側に居た。
そして、其のお婆さんが、是まで私の身の上に起きた事の説明を始めたので、私は、此の老婆は何故、私の事を何でも知っているのだろうかと不思議に思うと、其の背景には、姿はハッキリとはしないのだが、大きな人物(男性意識)が存在する事が示されて来た。
そして、其の大きな男性の存在(はたらき)の一部は、私が24歳の頃に自分が飼っていた牛を鹿児島の市場で、競りに掛ける時に世話してくれた人物の父親であるとの事で、私が其の息子は、当時、私と同年代であったので、現在はどうして居るのだろうかと訊ねると、「直道・なおみち」と言う名の立派な息子が育っているとの事であった。
其の、私が屋久島から船に牛積んで行った時に、其の市場が開かれた日に世話をしてくれた人物が、泊めてくれた自宅の場所は、私の父親の実家が有る谷山の近くであり、鹿児島の薩摩藩の殿様の出城が有った址が、「慈願寺公園」に成っている場所に、通じる道路沿いである。・・
「直・チョク・ジキ・ただちに・なおす・なおる」【解字】象形。上にまじないの印の十をつけた目の象形で、まっすぐ見つめるの意味を表し、一般に、まっすぐであるの意味を表す。直を音符に含む形声文字に、値・埴・植・殖・置などがある。
【字儀】(一)@なおし。㋐曲がっていない。まっすぐである。⇔曲。「一直線」㋑正しい。よろしい。⇔曲。㋒すなおである。「実直」Aなおくする。なおす。㋐ただす。(正)㋑のばす。曲がっているものをのばす。Bあたる(当・値)。㋐むかう。対する。向かい進む。㋑相当する。㋒事に当たる。㋓その場に臨む。Cとのい。また、とのいする。「宿直」D助字。㋐ただ。㋑ただちに。
(二)@あたい(値)。㋐ねだん。価格。㋑賃金。俸給。Aあたいする。値打ちがある。Bあたる。あう。=値。
国語@なおす。㋐病気をなおす。㋑修理する。訂正する。Aなおる。㋐もとのようになる。㋑変わる。改まる。Bジキ。㋐間に物や人を入れないですること。ジカ。直接。㋑時を移さずにすること。すぐ。即時。㋒すぐに、ただちに。Cひた。㋐ひたむき。ひたすら。㋑純粋。㋒一面。むやみ 漢語林より
何故、今朝「正道・まさなお」ではなく「直道・なおみち」と告げられて来たかを考えると「正」の漢字は、征伐の「征」に通じ隣国を攻める・ただすと言う意味なので、其れは、是からの御世造りの理念に合わないからなのであろう。・・・
「直道・なおみち」https://angel.ap.teacup.com/20071208/1271.html
「徳・トク」【解字】形声。もと、「彳+直+心」音符の直心(トク)は、まっすぐな心の意味。彳は、行くの意味。まっすぐ心で人生を歩むの意味を表す。
【字儀】@品性として先天的または、後天的に身に得ているもの。特に、その中の正しくよいもの。「人徳」A品性を向上させるために人の修得すべきもの。道徳。「徳育」Bそのものに備わっている特性。本性。C徳を積んだ人。君子。賢者。「大徳」Dめぐみ。恩恵。また、幸い。Eトクせしむ。恵む。恩恵を与える。Fトクする。ありがたく思う。恩に感ずる。G行為。働き。能力。作用。ききめ。H教え。教化。感化。Iよい。りっぱ。ありがたい。長所。「徳音」「徳政」J利益。冨。・・ 漢語林より
2012/5/31今朝のメッセージの映像には、「直会・なおらい」と「宴会・えんかい」の違いが示されて来た。
其れは、普通の宴会やパーティは、昨日のメッセージで伝えられて来た二つの条件とは、全く関係が無いからであろう。
今朝の映像は、旅館か料亭の様な建物の大平間に、白い布が掛けられた長いテーブルが用意されており、其のテーブルの上には、肉魚が使用された御馳走が、所せましと並べられていた。そして、宴会が始まると、畳の上に「肉ハム」の様な物が、転がり落ちたりしていた。
そして、其の客の中には、私の大事なスーツのズボンを、履いている男性が居るので、私が「其れは 私の大事なスーツのズボンなので 汚れるから 脱いで返してくれ」と云っても、素知らぬ顔をして、御馳走を食べ続けているのである。
其の夜の宴会が終り、次の日の催しの会場に出掛けて行くと、私のズボンを履いていた男性は見当たらず、私の行動を心配した男性が、袋一杯の衣類を持って来てくれた。
私は、其の袋を開けて中の衣類を見てみると、ズボンはサイズが合わないし、シャツは全て化学繊維製なので、一着も役に立つ物は無かった。
そうしている間に、海の水が陸の方まで満ちて来たので、皆が慌てて道具を片付け始めた。
今朝の映像の意味は、潮が満ちて来る・トキが迫って来ているのに、其れに気付かない人々が、他人の迷惑も考えずに、相変わらず飲み食いを続けている事を、示唆しているのではないだろうか。
「直会・なおらい」とは、神霊や聖霊・霊魂などの祭祀の為に、神棚にお供えした、お神酒や食べ物を、儀式が済んでから、神霊や霊魂と共に、拝殿で飲食する事である。だから、本来なら、祀られている神霊や霊魂の供養の意味や、労・ねぎらいの意味の言葉が、交わされなければ成らないのである。
其れが、一般的な宴会やパーティでは、神霊や聖霊や霊魂の事などは、気にされないと言うか、語られずに飲み食いが続けられる。
其処で話される事は、金儲けの話か、世間のゴシップなどであろう。
其れに、家庭の食事でも、神への感謝や、先祖への祷りも省かれつつある。
其処には、昨日の二つの条件である「大山祇神・おおやまつみかみ」の存在や、御餉殿や新嘗祭の大事さが、文化として伝えられていない。
其れは、身近な所に、本質から外れた、神社や、お寺や、宗教施設が存在し、人間の目と言うか意識を、曇らせているからであろう。
其れは、人間の意識は、真実ではない世界だが、真実に似た物が近くに在れば、惑わされてしまう理・ことを示している。
私の役割は、「大山祇神・大山津巳神・大山の巳神」の働きを強化する事と、正しい「直会・なおらい」の充実にあるのではないだろうか。
其れは、キリストの「最後の晩餐」を、「始まりの晩餐」として復活させる事でもある。・・・
「直会は宴会とは違う」https://green.ap.teacup.com/20060818/2325.html
今朝私が、起された時刻が7時42分であったので、私が其の数字を「742・なしに・無しに」と記憶した事が正しければ、私は本日を節目・境目として、34年前に体験した「空・真っ白」な世界に返る必要が有り、是までの人生・歩みの体験記憶を全て零にして、新しい次元で明日を迎える必要が有ると謂う事なのかも知れない。
平成30年11月22日12時8分
礒邉自適
2018/11/2
六勝零敗
30・11・2
今朝のメッセージの映像は、昨日海岸に居た「長老」が何処かに連絡して居た事と関係が有るのか、始めに僧侶が居る何処かの寺院の映像が映し出されて来た。
其れから、「六勝零敗」との言葉が告げられて来て、其れは私の事である理・ことが理解されて来た。
其れは、私自身の評価が示されて来ている物であり、私が仏教の「六波羅蜜」を熟したと謂うか、マスターした事を意味している事が理解できた。
【波羅蜜 パーラミター】とは、仏教において迷いの世界から悟りの世界へ至ること、および、そのために菩薩が行う修行のこと[1]。到彼岸(とうひがん)、度(ど)、玄奘以降の新訳では[要出典]波羅蜜多(はらみった)などとも訳す[1][注釈 1]。六波羅蜜と十波羅蜜があり、大乗仏教では実践を六波羅蜜にまとめている[1]。
六波羅蜜(ろくはらみつ、ろっぱらみつ、梵:Ṣatpāramitā)とは、大乗仏教で説く悟りの彼岸に至るための6つの修行徳目[2]。六度彼岸(ろくどひがん)や[要出典]六度とも呼ばれる[2]。
布施波羅蜜 - 檀那(だんな、Dāna ダーナ)は、分け与えること。dānaという単語は英語のdonation、givingに相当する。具体的には、財施(喜捨を行なう)・無畏施・法施(仏法について教える)などの布施である。檀と略す場合もある。
持戒波羅蜜 - 尸羅(しら、Śīla シーラ)は、戒律を守ること。在家の場合は五戒(もしくは八戒)を、出家の場合は律に規定された禁戒を守ることを指す。
忍辱波羅蜜 - 羼提(せんだい、Kṣānti クシャーンティ)は、耐え忍ぶこと。
精進波羅蜜 - 精進毘梨耶(びりや、Vīrya ヴィーリヤ)は、努力すること。
禅定波羅蜜 - 禅那(ぜんな、Dhyāna ディヤーナ)は、特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること。
般若波羅蜜 - 慧(え、Prajñā プラジュニャー)は、慧波羅蜜とも呼ばれ、十波羅蜜の智波羅蜜とは区別される[4]。前五波羅蜜は、この般若波羅蜜を成就するための階梯であるとともに、般若波羅蜜を希求することによって調御、成就される。 ウィキペディアフリー百科辞典 2018/11/02現在
其れは昨日の文章に、河川の橋を渡る事や、神社の鵲橋(かささぎばし)を渡る事に付いて触れた事と関係があり、私は神仏両面の世界に措いて、其れ等の概念を超えた事に成るのであろう。
次の映像は、私が「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊・あまてる くにてるひこ あまのほ あかり くしたま にぎはやひ の みこと」と思われる人物を、人力車に乗せて山岳から麓に向かって下って行く場面が映し出されて来た。
だが途中で道を間違った様で、下った所は高い崖から滝水が何本も落ちている、広大な河川の源であり、それ以上下る事は船でなければ無理なので、引き返そうかと意ったが、人力車は下る事は出来ても、砂利道を登る事は不可能なので、どうしたら良いかと想い、川辺りの森を見ると、大きな建物が有る事が判ったので、其方に向かう事にした。
そして、其の建物に到着すると、其の建物施設は以前、劇場に使用されていた舞台・ステージの残骸である事が判った。
其れで以前、其の場所は栄えた町が存在した事が判ったので、道路を下って行くと大きな城が有ったらしく、水が流れる堀が有るので、私は其の掘りの反対側に有る城跡を視察してみようかと思い、向こう岸の木の枝を掴まえて渡ろうとすると、眼鏡が外れて堀に落ちそうなので、眼鏡を外して掘りの縁の置いて、渡ろうとすると、中年の男性が此方が気に成ったらしく、遣って来て「何をしているのですか」と謂うので、振り向くと其の男性が、私が地面に置いて有る眼鏡を足で踏んでいるのが判ったので、城跡に渡る事は中止に成ってしまった。
其れで、其の男性が、自分の眼鏡の予備を私に弁償すると謂うので、其の男性に付いて行くと、其の男性の行った先の建物には六〜七人の中年男性が居て、其の人達は夫々が自分の世界を持っている事が分かり、独自の考えを述べていた。
そして、私にも何か話をしろとの事なので、私が話しを始めると、其の人達は私の話と謂うか情報に凄く驚いて居るので、私は、其の人達は昔の哲学者や芸術家などであり、優秀な頭脳の持ち主ではあるのだが、現代の情報を知らない人達である事が理解されて来た。
其れは、中国の「竹林の七賢人」の世界を示唆している様であり、古代の叡智者と言われている人達でも、現代の科学的な証拠に基づく情報社会では、時代遅れであり、社会の役には余り役に立たない理・ことが理解された。
次の映像は、「大型トラック」との言葉が示されて来て、其の「大型トラック」との表題が記されている下には、難しい横書きの日本語の文章が、とても長く記されている場面が映し出されて来た。
そして、其の文章の最後の行まで下ると、其の下に、少し文字が小さい平仮名交じりの日本語の横書き文章が有り、其の書き出しには「しの私(わたし)・・・」と書いて有る事が示されて来た。
私は其の「しの私」との言葉は、「私」の漢字は「稲を刈り取って自分の物にする」との意味であり、「し」は「私・シ」であるので、何故「し・私」と日本語の「わたし」が逆に成っているのか、疑問に思い始めた所で意識が目覚めた。
今朝はPCを立ち上げ、先ず、私の漢字を調べると次の様に載っている。
「私・シ・わたくし」【解字】形声。「禾+ム」音符のムは、わたくしするの意味。禾は、いねの意味。私有する稲の意味から、わたくしするの意味を表す。
【字儀】@わたくし。㋐自分。自己。㋑個人⇔公。「公私」㋒かたておち。不公平。㋓よこしま。邪悪。㋔利己的な欲望。㋕ひとりでいること。㋖人に知られたくない行い。また、かくしごと。秘密・プライバシー。Aわたくしする。㋐自分のものにする。自分の利益をはかる。㋑不公平にする。かたよる。㋒姦通する。ひそかに。こっそりと。正式ではなく。C愛する。あわれむ。めぐむ。D気にいり。愛する者。Eふだんいる所。自分の家。また、ふだん着。Fまたけらい。家来の家来。陪臣・バイジン。Gみうち。家族。Hゆばり。ゆばりする。Iあいむこ。姉妹の夫同士。Jかくしどころ。Kいね。小作人の所有となる稲。国語 わたくし。わたし。一人称の代名詞。
漢語林より
此の「私・シ」の漢字の意味からすると、私の漢字は余り良い物ではなく、今朝告げられて来た「六勝零敗」との言葉とは、反対の世界・個人的な世界であり、「彼岸に渡る」との言葉の概念とは、縁遠い世界を現す文字である事に成る。
今朝は、以前の文章を「私・シ・わたし」で検索すると「定着した画像」の文章だけしか無いので、是まで私は「私・シ」に付いては深く触れてはいない様である。
2008/6/3・・そして22日の朝、車を運転して磯部町を走って居ると、道路の右側に在る「正傳寺」の階段が気に成り、道路の横に車を止めて、階段を上がって行った。すると境内に、神懸りに成った車椅子に乗ったお爺さんが居て、其の傍らでは、お婆さんが「朝から お爺さんの気が狂った」と云って、激しく泣いて居るのである。
其のお爺さんは、寺の住職に向かって「地球が危ない」と叫んで居るのである。
其のお爺さんは、私が階段を上がって境内に入ると、私の気配を感じたらしく、後ろを振り向いて、「ああ お前だ。此処の坊主では 何にも解らん。」と云った。
そして、私に「是まで 8回トンネル潜りに失敗して 今回が9回目で 最後のチャンスである」と云い、更に「早稲田や 慶応に 沢山孫が居るので 助けてくれ。」と、云うのである。・・
今朝フト浮かんだ事は、「私」の日本語の「わたくし」は「海串・わたくし」との意味ではないかと想えたのである。
漢字の「私・シ」は「私する」との意味に使い、「物を自分の物にする」との意味合いである。
「私」は、「穀物を刈り取って自分の腕に中に入れる。」との象形で出来ている。其の様子は、日本語の「わたくし」には、合っていないのではないだろうか。
「くし」の日本語は「串・櫛」が当てられる様に、「通す・通じる」の意味である。
其れと、「わたくし」の「わた」が、「海神・わたつみ」の「海・わた」と同じ語源から来ている物であるなら、「渡す」「渡る」の言葉と繋がりがあり、自分の気持ちや考えを、「渡す・通じさせる」との意味を、表すものではないかと想われるのである。
其の様に考えると、「私する」との言葉の概念とは、全然違う言葉であると言う事に成るのである。
中国の漢字には、他にも「我・(武器を持って戦う自分の意)」「吾・(神の知らせの言葉を籠に入れて大事に守る自分の意)」「僕・(山から切り出した原木の様に無垢な自分の意)」等、違う自分を表現する言葉が有る。
其れ等の表現から考えられる事は、相手に話すとの行為の「ワタクシは」の、自分の気持ちや考えを「放す・離す・話す」との言葉の、背景が見えてくる。其れは、人間同士の会話・コミュニケーションの世界であるが、神と人間の会話・クシは、相手が目に見えないだけに難しいものがある。
其の、神との会話の方法として、今朝は白板が利用されたのであろう。
其の白板に映し出された映像こそ、此の三次元の現世を構成している物質の世界である。
其の事実を考えると、此の我々の住む三次元世界は、神が人間の意識を組む為に、創り出しているモノ・現象であると言う事に成る。
そして其の一部として、我々の肉体も存在しているのである。
其の様に考えると、此の自分の肉体や、財産等に意識が執着する事は、真実の道から外れる事に成る。・・・
「定着した画像」https://green.ap.teacup.com/20060818/770.html
是等の事を考えると、今朝示されて来た「大型トラック」の表題の下の段に、記されていた文章の書き出しの「しの私(わたし)・・・」との言葉は、「私・シのわたし(渡し)」では、大量の物を運ぶ事は出来ない理・ことを示唆しており、別の「し之わたし」が必要不可欠であるとの事なのではないだろうか。
「し」の文字・言葉に付いては以前に書いて有る。
2006/7/19 吾(わたし)は現在(いま)しあがる・仕上がっているようだ
しがらみ・柵がほどけ・解
此の世界の しくみ・仕組みが分り
どう生きたら良いかの しかた・仕方が分り
しこと・仕事が出来ているので
神(宇宙)との関係は しあわせ・仕合せ である
其れは 他に対して しいる・強いる事も
しかける・仕掛ける事も
しきる・仕切る事も
しうち・仕打ちをする事も
しこむ・仕込む事も無いので
しくじる・しくじる事も無い世界である
だから おさまる・治まっている
なので 何事も おきない・起き無いし
おこる・怒ることも無いし
おいめ・負い目も無いし
おびえる・怯える事も無いし
もう おくれる・遅れる事も
おしえる・教える事も
おかしい・お変しい事も
おもう・想う事も
おとなう・訪う事も無い
全てを おえた・終えた私には
おもいで・思い出だけが残り
最早 おぼえ・覚えなければならない事も
おりかえす・折り返す事も必要なく
私は 是から 静かに おいて・老いて行くだけである
言葉あそび
「吾はいま仕合せ」https://moon.ap.teacup.com/20060507/25.html
此の言葉遊びからすると、此の文章は六波羅蜜の解決方の一手と成るのかも知れない。
其れを考えると、今朝の映像で、私が「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」を人力車に乗せて下った、中国の風水画にも成りそうな、河川の源流の山懐に住む七人の賢者でも解決できない世界を、私が34年間掛かって解き解して来た事が、多くの人々を大型のトラックで済度(さいど)する目処が立って来たとの事なのかも知れない。
そして其れは、「大国主命・おおくにぬし」から国譲り受けた「饒速日尊・にぎはやひのみこと」の長年の悩みが、解決するとの事なのでもあろう。
【済度(さいど)】 1「済」は救う、「度」は渡す意》仏語。仏が、迷い苦しんでいる人々を救って、悟りの境地に導くこと。「衆生 (しゅじょう) を済度する」
2 困難や苦労から救うこと。 国語辞典より
明日11月3日は「文化の日」である。
其れを考えると、本日のメッセージの内容は其の文化の世界に関係が有り、私に「文化を頼む」と告げて来た故「日吉眞夫」の御霊が関係しているのかも知れない。
2014/1/18・・其の事を考えると、今朝のメッセージは霊界にて、其の人達が一同に会し、何等かの事を始めている様子が映し出されて来ている。
其れ等の人々は、私に1984年に起きた4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」の御霊とは関係が無く、其の後に霊界に帰った人達ばかりである。
其れは、昭和の時代を生きた人々であるので、いま神霊界で働き始めている霊魂は、新しい時代の人達であると言う事に成る。
そして、其の中心的な存在に「日吉眞夫」が存在したのは、日吉眞夫の霊魂が初七日の27日に私の夢に現れ、「新しい文化を興せ」と告げて来た事に関係が有り、新しい文化活動が始まる理・ことを示して来ているのかも知れない。
其れは、此処数日のメッセージで示された事が、具体的に進行しているとの事ではないだろうか。
其れに、日吉眞夫氏の事務所は、喫茶店の奥に有ったので、今朝の映像に喫茶店が絡んでいたのは、今朝の私の意識に、日吉眞夫氏の霊魂が関わりを持って来ていた所為なのかも知れない。
今朝のメッセージには、「海」の歌が聞こえて来た。其れに稲用虎夫の出身地は「荒城の月」の竹田市である。そして、日吉眞夫の命日には「11月3日・文化の日」と「艶歌加入」との言葉が告げられて来ている。
更に、山尾三省の墓に初めて参詣した時には「文化の礎・いしずえ」との事が告げられても来ている。・・・
「文化を頼む」http://green.ap.teacup.com/20060818/2936.html
2017/2/8「文化の再構築」https://angel.ap.teacup.com/20071208/824.html
平成30年11月2日
礒邉自適
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