言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2019/6/22
ルーベン・デス
1・6・22
本日6月22日は、今年の「夏至」の日である。
夏至は、二十四節気の第10。北半球ではこの日が一年のうちで最も昼の時間が長い。南半球では、北半球の夏至の日に最も昼の時間が短くなる。日本における旧暦5月内に発生する。 現在広まっている定気法では太陽黄経が90度のときで6月21日ごろ。
昨夜は床に就いて目を閉じて居ると、左手の中指にバシッと強いカモ(神の電気信号)の反応が起きたので、照明を点けて時計を見ると時刻は「0時11分」であった。
其れから再び横に成ると、「うわさどおり」との言葉が一言告げられて来た。
そして眠りに入ってからの映像は、先ず、黒い大きな船が真直ぐに北に向かって航行している場面が映し出されてきた。
私は、其の船の向きと感じから「ルーベン・デス」の言葉を思い出していた。
其れから、船の甲板の様子が映し出されて来て、其の甲板には、左側だけに荷物が詰められた大きな箱が積まれており、其の上に洋服を着た男性が一人座っており、右側の甲板には黒色の服を着た僧侶が一人立っており、其の二人はお互いが見詰め合って居た。
そして「西高東低」との言葉が一言告げられて来た。
次の映像は、私が由香の運転で寺院を訪問している場面が映し出されて来て、其の寺の住職(館長)と座卓に向き合って居ると、弟子が言伝に遣って来て、客人(僧侶)が話を聴きたいと言っているとの事を伝えた。
其れから「1500佛」との言葉が告げられて来た。
「ルーベン・デス」との言葉は1999年5月21日に告げられて来た、ドイツ語の言葉である。
2003/2/14私の旅日記を捲ると、様々な事が記してある。
何しろ、18年間自由に旅をして来たので、多くの出会いが有り、日記を書いた場所も、全国バラバラである。其の中で、自分でも興味深い事が有るので、文章に起して見ようと思う。
1999(平成11)年5月21日の夢に、「ルーベン-デス」と出て来て、次に「判断基準」の意味が伝えられ、縦書にて「記― 性― 食― 霊―」と、次々に文字が書かれて現れた。
そして、一番上の「記」の文字だけが光っていたのである。しかし、当日は未だ、何の事だか分からなかった。
次の日22日に、出雲から、東京に向かって出発した。
23日に、埼玉県上福岡市で神明塾を開いている「佐々木将人氏」の祭りが有り、其れに呼ばれていたからである。
不思議な事に、二ヶ月前の1999年3月18日金曜日の夢に「23日 1.4」と現れて、何だろうかと考えていたら、其の日の午後2時頃、郵便が届いたので開けて見ると、佐々木将人氏からの手紙で、『5月23日午後1時より4時まで祭りを行う。』との内容であった。
3月18日は、私が無庵師匠に捜し出されて丁度16年の日である。
其の16年の記念すべき日に、夢に出た日付と、時間が附合する手紙が届いたのである。
早速、安部忠宏氏(当時、私がお世話に成っていた 出雲の会社社長)に其の事を話し、二名で参加する旨を連絡した。
そんな事が有って、5月22日朝9時20分発の飛行機で、出雲空港から東京へ向けて出発する事と成ったのである。
其の、5月23日の祭りも無事に済んで、出会いの中から、東京に安部氏が事務所を持つ事に成り、私は事務所探しの為に東京に留まる事になり、其れから暫らくホテル住いと成ったのである。
26日に、時間が空いたので、渋谷の本屋に寄って「ルーベン-デス」を調べてみようと思い、辞典のコーナーに行って見た。
行って見て、判かった事は「ルーベン-デス」のスペルが分からないと、調べ様が無いとの事である。「ルーベン-デス」の日本語の意味も、分からないので調べ様が無い。
私はガッカリして、あきらめ掛けたのだが「ルーベン」の言葉の響きがドイツ語の様な気がするので、ドイツ語辞典の棚の前に立った。
しかし「独和辞典」なのか、「和独辞典」なのかも分からない。
私は、何気なく、厚い独和辞典を手に取って、栞・しおりの挟まっているページを開けて見た。すると、独語のスペルの右側に、カタカナが書いてある。
其のカタカナの中に、何と「ルーヴェン」と有るではないか。
そして、後の方に「船首を 風上に向ける」と書いて有り、スペルの方を見ると「lu-ven」と載っている。「ルーヴェン・(ルーフェン)」の所に、偶然に栞が挟まっていたので驚きであった。
私は喜んで、昂奮気味に、今度はカタカナで「デス」を追っ掛けて頁を捲って行った。
すると「デス・タメント」が載っており、【@遺言状 Aキリスト教・神と人との契約】とある。判った事は「デス」とは「テスト」や「テスタメント」の「テス」で、「精確に。精密に。」「聖なる契約」の意味である事が分かったのである。
遺言状や、神と人との契約は、人間にとって一番大事なもので、決して間違ってはならないものである。
テストは間違っても、点数が悪くなるだけだが、それでも正確に書くという約束事は、ハッキリ意味付けされている。
「ルーヴェン」と「デス」を続けて意味を採ると、「正確に 船首を 風上に向ける」となり、私の是からの行動は、「風に向って 正確に前進せよ」とのメッセージとして受け取れた。
この事が判明したので、私は、馴れない東京での、一人暮らしの覚悟が出来たのである。
話を元に戻すと、5月21日には「性(男・女の働き)」「食(食物の良し悪し)」「霊(守護霊の霊格)」等の判断基準の前に「記」の文字が有り、其の文字が光っていた事が有る。
此れらの事からも、「ルーヴェン-デス」が、何の事か解って来た。
「デス」が正確に書く、つまり記す事に関係が有る事が分かったので、「記す事を正確にし 其れを判断基準にして、風上に向って進む」とのメッセージが、明確に成って来たのである。
西洋の旧約聖書が、預言書として3000年来伝えられている様に、人間が風に流される事なく前進する為には、何らかの記された物が、必要であるとの事だろう。
「記す」と言う事は、古代シュメール文化や、エジプト文化や、マヤ文化でも行われている。記された物が、如何に、人間の判断に影響を与えるかは、昔から重要視されていたのであろう。
それにしても、中学校しか出ていない私に、ドイツ語で云って来るのも不思議な事であり、東京の本屋の辞典の、其処のページに栞を挟んである事も、常識では考えられない。
私が、出雲に住んでいる事を知っており、東京の本屋の人間まで、動かしている者の正体は、一体何者であろうか。
私にも、神の世界がどう言う「絡繰・からくり」に成っているのか分からないが、全体的に、目には見えない何者かが、手を尽している事は、ハッキリ感じられるし、其の働きを人間側が知って、証しとして記す事が、大事である事も理解できて来た。
私が文章を書き始めたのも、此の「記」と「ルーヴェン-デス」のメッセージが大きな切っ掛けと成り、1999年の秋から、日記だけではなく、文章にも残し始めたのである。
それから、三年余りに成るが、私が記す事で、神界も段取り良く、事が進められる様である。
私の行動を支えながら、メッセージを送って来る者、それも、私が持っている辞書の中身まで知っていて、私の知り得る情報の限界をも、把握していての事らしい。
昔から、神は、偉大な存在だと云われているが、私も、其の事に対して疑いは無くなっている。
私が、不思議に思うのは、其れだけ力の有る神が、何故・なにゆえこんな出来の悪い人間を、大量に増やして来たのかと言う事である。
他の生物や、地球環境の事を考えると、もう少し、何等かの方法が有るのではと想うのだが、其れも人間の余計な考えなのであろう。
神は、偉大な存在であるのだから、全て知っていての、現象界への現れなのだろうから、私達人間は、風上に向って、神の御業の完成を手助けし、勝って行かなければならないのだろう。
13日には、愛媛県と岡山県の中年男性が、「もう 世の中に合わせて 生きて行くのには疲れた」と、限界を訴えて来た。
人間社会全体が、古い価値観では、どうしようもない処まで、来ている様である。
未来に向って、新しい船を出港させなければならない日は、近いのであろう。其れが、「ルーヴェン-デス」のメッセージの指し示す事であると想われる。
「記」https://star.ap.teacup.com/170606/245.html
2003/11/1今朝のメッセージの映像は、数ヶ所の新しい現場の入口に、同じ女性が立っていた。その女性が、入口が何処に有るのかを知っているらしい。
そして、私は道路の草刈りをして、道を整備しているのである。
私の役目は、その女性が居る現場への道を、造る事の様である。
私は、11月1日には幾つかの思い出が有る。
其れは、11月1日に二回引越しを体験している事である。
一度は、1997年11月1日に京都から出雲への引っ越しで、一度は1986年11月1日に四国の高知県土佐市から、九州小倉への引越しで、四国の道路沿いでは、何ヶ所でも神社の大祭が行われていた。其の神社の名は、「十二所神社」である。
11と1の数字で考えると、11は「十一面観音菩薩」の顔面の数が有る。
十一面観音菩薩は、「阿弥陀」の働きを表す物とされているが、それを密教の「大日如来曼荼羅」九葉曼荼羅的に捉えれば、自分の顔が一で、冠の所に九つの聖霊の顔が付いていて、頭上には阿弥陀の頭が着いている。
其れを、全部合せて十一の面を持つ観音様と成っているのだ。
今朝のメッセージに映って来た女性は、9名ではなく1人だった。
若しかしたら、現場が9つ有って、其処には、それぞれの役目の者が、中に居るのかも知れない。それとも、9名の役目の人達が、其処へ辿り着ける様に、道路を整備するのが私の役目なのだろうか。
だとすれば、私は道祖神と言う事に成り、日本の道案内の神である「猿田彦神」の働きと成る。
道祖神は、「道路の悪霊を防いで行人を守護する神。日本では『さえのかみ』と習合されて来た。くなとのかみ。たむけのかみ。」と載っている。広辞苑
*「さえのかみ・障の神・塞の神・道祖神」。
「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」が「伊邪那美命・いざなみのみこと」を黄泉の国に訪ね、逃げ戻った時、追い掛けて来た黄泉醜女(よもつしこめ)を、さえぎり止める為に投げた杖から成り出た神。
邪霊の侵入を防ぐ神。行路の安全を守る神。村境などに置かれ、近世にはその形から良縁・出産・夫婦円満の神ともなった。
*「くなとの神(久那斗神・岐神)・くなとのかみ(ふなとのかみ)さえのかみ」の別名で、集落の人口などの分岐点にまつられ災禍の侵入を防ぐ神。また道路や旅行の神とされた(ちまたのかみ)。「たむけのかみ」〔手向けの神〕 旅人が道中の安全を祈るために幣物を手向ける峠などの神。「ちまたのかみ」〔岐の神〕@道の分岐点を守って、邪霊の侵入を阻止する神。A天孫降臨の時、天の八街(やちまた)に迎えて先導したからいう猿田彦の異称。と 道に関する神の名が 広辞苑に 載っている。
私に、1999年5月21日にドイツ語で「ルーベン・デス」と告げて来た神も、同じ道の案内神ではないだろうか。
「ルーベン・デス」とは、日本語で「風上に 船首を正しく向ける」との意味である。其の言葉が告げられて来てから、三年半に成ろうとしている。
今朝のメッセージは、私の進んで来た道が、分岐点に差し掛かっており、是から八街(やちまた)に分岐するとの事だろうか。
十一面観音菩薩は、阿弥陀の本体に辿り着くのに、九つの聖霊(部所神)が途中に存在することを示している。又は、阿弥陀の働きが九つに分岐して、自分を守護していると受け取っても良いだろう。
上に向かう事が、観音菩薩行であり、上からエネルギーを貰い、現象界に向かって働く事は、観自在菩薩行である。
神の世界は、理屈ではなく、現場で出来ているのである。
何故、私が屋久島の自然の中で、現場だけに従事していたのかが分かって来た。私の思考は、現場無しには働かないのだ。
道を案内すると言う事は、行き先を知っていなければ成らないし、途中で起きる様々な事も、情報として把握しておかなければならない。
私の56年間の人生は、その為に在ったのだろう。
私が神憑りになった時に、一番先に行った事は、竹山に行って、竹を切って来て杖として突く事だった。
天皇家の、代替わりの時の「大嘗祭」に、杖が供えられるのも、猿田彦神を頼りとしているからではないだろうか。
今年は11月3日(旧10月10日)に出雲の稲佐・いなさ浜で、神迎えの儀式が行われる。旧暦の、10月10日に神迎えの儀式が催されるのは、猿田彦の神が迎えに立つ儀式なのであろう。 その儀式に先立って、私の所に猿田彦の神が現れたのだろうか。
何れにしても、神(観音菩薩)への道が、近くなって来た事は確かなのだろう。
私が18年間、全国を歩き回ったのには、幾つもの理由が含まれている。
その結果が、今後どの様な形で、人々の役に立つのか分からないが、自分の体験を通して、これから旅を始める人達に、何等かのアドバイスが出来るのではないだろうか。
私の旅は、今朝、夢に現れた菩薩の手助けをするのが、目的だった様に思えて来た。
「観音菩薩の道を整える」https://star.ap.teacup.com/170606/98.html
此の「記」の文章には「デス」の意味が「精確に。精密に。」「聖なる契約」であると書いて有るので、昨日のメッセージに「正確無比」との言葉がスローガンであると示されて来た事と、令和・平成・昭和などの元号が示されて来たのは、「新しい王・大君の時代」「時代の変わり目」「暦の変わり目」を示唆しており、其の為には「ルーヴェン-デス 正確に 船首を 風上に向ける」船長の登場が欠かせないとの理・ことが示されて来ているのであろう。
其れに「観音菩薩の道を整える」の文章には、「十一面観音菩薩」の事が書いて有るので、今朝0時11分に左手の中指にカモ(神の電気信号)の強い反応が起きた事と関係が有りそうである。
【9時6分 左手の中指からカモ(神の電気信号)が始まって 全ての指に広がる。9時8分】
其れを考えると「うわさどおり」との言葉は、どの様な意味合いが有るのだろうか。
「うわさ」の言葉は、古語辞典には載っていないので、漢語林を調べると次の様に載っている。
「噂・ソン」【解字】形声。「口+尊」音符の尊は、屯(トン)に通じ、あつまるの意味。多くの人が集まって話すの意味を表す。
【字儀】集まってしゃべる。国語 うわさ。またうわさする。
漢語林より
此の噂の漢字の意味からすると、今朝告げられて来た「うわさどおり」との言葉は、「多くの人が集まって話すと 其の通りに成る」との意味であり、今朝のメッセージの映像で、大きな寺院に人々が話しを聴きに集まるとの事と関係が有り、「1500佛」との言葉数は、1500人の目覚めた人々(覚醒者)が集まる必要があると言う事なのではないだろうか。
其の様に考えると、今朝の映像に映し出されて来た船の甲板の右側に、一人の僧侶が立って居た事が関係が有り、「西高東低」との言葉は、左側の甲板に荷物が詰まった箱が山積みに成って居て、其の上に洋服を着た男性が一人座って居た事と関係が有り、其の意味は、西洋で発展した産業や化学・知識が余りにも高く・多く成ってしまったので、船が傾いてしまい、正確に北方(宇宙・紫微垣(しびえん)」に向かって航海出来なく成ってしまっている理・ことが示されて来ているのであろう。
其れを考えると、「ルーヴェン-デス 正確に 船首を 風上に向ける」為には、西洋の「科学・化学・文明」から、東洋の「精神世界・価値観・文化」に重きを置くと言うか、比重を移さなければ船(経済・けいせいさいみん)が転覆してしまうと言う理・ことが示されて来ている事に成る。
キー「経世済民 ・けいせいさいみん」
2008/12/9・・今朝のメッセージは、文章の中に四文字の漢字が有り、其の左から二番目に「○商○○」と「商」の漢字が有り、其の商は、何故か逆様に書かれていた。
其の、逆様の商の漢字の意味は、商売の世界が逆様に成っているとの意味か、或いは、是から逆様に成ると言う意味なのであろう。
其れは、昨日のメッセージに有った、「下に下がりますのでお気を付けて下さい」の続きなのであろうか。そうであれば、現在の経済活動の商売の世界が、ヒックリ返るとの意味に受け取れる。
其れは、2008年9月15日の「リーマンブラザーズ証券会社」倒産から始まった、世界金融崩壊にも関係が有るのだろう。
其れが始まる事は、2005年10月7日のメッセージで既に示されていたので、神の意志に拠って、引き起こされた事に成る。
是まで、経済の中心と成って来た商業世界が、ヒックリ返るのであれば、他の経済活動を、構築しなければ成らない。
「経済」とは「経世済民」の略で経世済民とは、次の様に有る。
・經世濟民(経世済民 / けいせいさいみん)は、中国の古典に登場する語で、文字通りには「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」の意。略して「經濟」(経済)ともいうが、主として英語の「economy」の訳語として使われている今日の用法とは異なり、本来はより広く政治・統治・行政全般を指示する語であった。
ウィキペディアフリー辞典 現在記載
日本には、現在の経済活動とは違う、農業活動を中心とする経済を興した「二宮尊徳」や「大原幽学」「大蔵永常」等の存在がある。
是から、世界経済が崩壊すれば、一番大変な事は、食料の確保である。
特に、資源の有るアメリカ国や、国内自給率100%のフランス国やイギリス国は良いが、自給率30%の日本国は、未曾有の困難が国内を襲うだろう。
経済とは、国が力を失えば、貨幣の価値が下がり、外国から物を買えなく成る。日本国は、其の意味に於いて、大変危ない国である。
今は未だ、何とか、経済は保たれているが、是から、段々と事情は悪く成って行くだろう。そして、現在の商業活動が終った処で、新たな経済システムが立ち上がるのであろう。
其れは、自分の為に儲けるのではなく、全体が良く成る為に、営業収入を上げる経済活動である。
其れが起きない限り、人間の「真の幸福」は、得られないのである。
「逆さまの商」http://green.ap.teacup.com/20060818/978.html
今朝は、本日が夏至である所為か、由香にも神(はたらき)が作用して来ている。
今朝は、由香の携帯電話が、触れてもいないのに、電源を入れた時の起動音が鳴ったので、驚いて起きて時計を見ると、6時26分であり、すぐに携帯電話を手に取って確かめて見ると、時刻は6時27分になっており、画面には「初期設定」の表示されていたとの事である。
そして、6.26と6.27の数字から、26日は、友人である舟○文子さんと、知り合いの文○謙さん、27日は「天波博文」氏の誕生日であり、三人とも名前に「文」の字があるので、何かを強く知らせる為に、普通の電源が入った状態の電話が再起動?したのかと、思ったとの事である。
夏至で思い当たるのは、1985年に奈良市に有る「大倭あじさい邑」で、「矢追日聖法主」は冬至生まれであるが、神社の祭祈を一任されていた「青山日元さん」が夏至生まれであった事が関係が有り、矢追日聖法主が終戦の日の昭和天皇の玉音放送の直後に天神(てんのはたらき)から伝えられた事が、本日から本格的に始まるとの事なのかも知れない。
2016/3/11・・何故、其の様な事を、私が考えたかと言うと、先月、奈良の「大倭あじさい邑」の新聞に「青山日元さん」が1月25日に101歳6カ月で亡く成った事が載っていた事が、思い出されたからである。
青山日元さんは、「夏至」の生まれであり「大倭神宮」の禰宜職の役割を果たしており、宮司の役割であった矢追日聖法主は「冬至」の生まれであり、夏至と冬至は、太陽に対して、地球が反対側の位置に存在する時だからである。・・・
「チャック」https://green.ap.teacup.com/20060818/3783.html
そして「文」の文字が示されて来た事は、私の「記」の文字と関係が有り、「元号・暦」の成立に関係する人間は「正確無比の文章を記す」必要が有り、其れが「統尊・すめらのみこと」の「御嚴・みいつ」「御稜威 ・みいつ」「詔勅・みことのり」の世界であるとの事なのであろう。
キー「矢追日聖法主」
2003/4/7昨日は夕方、山口県萩市に入り「吉田松陰塾」を見学して、近くの海岸に車中泊し、朝5時から山陰道を出雲に向けて北上中、「正傳 矢追日聖」との言葉が、頭にいき成り告げられて来た。
私が「エッ、どういう事?」と想うと、イメージが浮かんで来て、矢追日聖氏の教えを、正しく伝え残さなければならない事が理解された。
「矢追日聖」とは、1911年(明治44年)12月23日(旧暦11月3日)「冬至」生れで、1996年(平成8年)2月9日に亡くなった奈良市の方で、私が初めて出会ったのは1985年7月27日であり、其れは奈良市大倭町の日聖氏の自宅であった。
前日26日に、野草社の石垣雅設氏を初めて訪ね、その日は「大倭あじさい邑(むら)」の会館に泊めて貰い、次の日矢追日聖氏に会う事となったのである。
私は、約一年半の全国巡りが1985年7月2日に終り、最後に泊った料理旅館「木津館」の主人「井上昌一氏」の紹介で、京都府丹後の網野町の龍献寺住職「安井桂造氏」を訪ね、安井氏の紹介で亀岡市の西光寺住職「田中真海和尚」の所に翌3日に着いた。
其れが、私の島外での人間関係の始まりである。
西光寺で数日を過ごし、丁度、寺に一週間の修業に来ていた「笑太郎君」と旅に一緒に出る事となった。私が、喜太郎の音楽に興味を持っていたので、笑太郎君が「喜太郎とは 知り合いなので 会いに行こう。」と言う事になって出発し、途中、長野県大鹿村の笑太郎君の友人「アキ」の家に立ち寄った。
すると、アキの言う事には「自適さんは 奈良の野草社の石垣さんを 訪ねた方が良い。石垣さんなら 自適さんの話が解るだろう。」との事になって、次の日、奈良に向って引き返す事になったのである。
午後4時頃、奈良市に着いて、「大倭あじさい邑」内に在る、野草社の代表「石垣雅設氏」と初めて会う事となった。
石垣氏との会話の中で、私が「途中の 古墳の所を通ったら 頭に『法主』と出て来たのですが。」と言うと、石垣氏が「それは 此のあじさい邑の理事長の事ですよ。理事長の矢追日聖氏は 通常、法主さんと呼ばれています。」と云って、矢追氏に連絡を執って下さり、翌日矢追日聖氏の自宅で会う事になった。
野草社の事務所で、石垣氏と話している間に、私が、躰で何かを感じたので、時計を見ていたら、その時間に長野県の「地附山・じつきやま」が崩れていた事が、次の日判明した。
次の日、私と笑太郎君、其れに石垣さんと野草社の社員計五名で、日聖氏の自宅を訪問した。日聖氏と、奥様が、自宅の畳の客間で私達を温かく迎えて下さり、私は自分に起きた事を話した。
今は、其の時何を話したかは覚えていないが、他の人が聞けば、頭が変しいと思う事を話したであろう。日聖氏の所には、私の様な状態の人間は 数多く訪れるので、少しも変な顔をせず私の話を聞いて頂いた。
私が、日聖氏に「私が大事な人に出会うと 地球が喜んで 何かを起こすのです」と謂うと、突然、日聖氏が「あんた 今日の新聞を読んだか」と訊くので、私が「いいえ」と応えると、「今日の新聞に 昨日 長野で山崩れが起きた記事が載っている」と謂う。
時間を聞くと、其れは、私が気に成って、時計を見た頃の時刻であった。
その事で、私は、石垣さんと矢追日聖氏が、神にとって大事な存在である事が判かったので、一目置く様に成ったのである。
矢追日聖宅で、話が盛り上がった時、私は上半身裸に成り、日聖氏の前で座ったまま一回転し、「今度の肉体は 若いので 大丈夫だ」と云うと、日聖氏が「私の所の霊は 女の霊だからなあー」と謂った。
矢追日聖氏が、福祉の邑を造ったのは、聖武天皇の皇后「光明皇后(藤原安宿媛・あすかひめ)」( 701〜760)の、霊の働きに因るものだとの事。
世直しは、女霊では難しく、男霊で無ければ駄目だとの意味の事が、伝えられたのである。
私に、世直しの霊が憑いている事は、矢追日聖氏に理解して頂いた様である。其れから数度、大倭あじさい邑を訪れていて、1987年(昭和62年)1月14日より一年間、石垣さんの野草社の手伝いをする事となった。
石垣さんとは、87年11月21〜22日に「スピリチュアル・タイム」とのタイトルで、全国から「あじさい邑」の大倭会館に、70名程集まって貰い、話し合いを持ったりもした。
話を、最初の方に戻すと、矢追日聖法主の教えを、正しく傳えろとの事なので、矢追日聖氏の教えの真髄が、何なのかを確認しなければならない。
日聖氏の伝記は、野草社より「やわらぎの黙示」と「ながそねの息吹」の二冊が出版されているので、詳しくは其の本を読んで頂ければ良いが、私が大事だと思っている所だけを、幾つか書き出して見よう。
1、矢追日聖氏のよく言われていた事は、「私は 信者も 弟子も一人も要らない。私が行っている事は、霊界の人達の成仏を願っての事であり、霊界に滞っている人達が、全部成仏すれば、霊界人が現世の人達に憑依して、何かを行おうとの事が無くなり、現世の人間と、神が、直接繋がる事に成り、世の中は平和に成る。」との理・ことで、日聖氏自体が、自分の意志ではなく、神霊の思いや、頼みに動かされていた事を証明している。
是は、私と同じ状況を示しており、私が、霊団に身体を貸している事と同じ事が、日聖氏にも現に有った事が理解出来た。
私が、日聖氏の前で、裸になって体を見せ、「今度の肉体は 若いから 大丈夫。」と謂った事の理由も、其処に有ったのだろう。
2、矢追日聖氏は、終戦日である昭和20年8月15日に、大倭神宮で神に地球儀を見せられ、世界中に日の丸が立っており、新しい精神革命が、日本から起きる事を告げられている。
其れは、現代の価値観が行き詰まり、新しい価値観が日本から始まり、世界中に拡がる事を示唆している。
3、日本から、世界に拡がる価値観とは、紫陽花の花の如く一輪一輪が花開いて、其れが大きな花と成り、また花が沢山有る株と成り 根本は一ヶ所に集まっている。
そんな紫陽花の花の形の様に、一人一人、一民族、一国家が、皆 独自の特長を生かし、それが大きな和になっていると言う、個々が花開いている社会である。
現在の様に、力の強い国が、自分の国の風習や価値観を、世界に押し付ける遣り方とは、反対の考え方である。
4、矢追日聖氏が、一生を懸けて行った事は、福祉の村造りであった。
現在、あじさい邑には13の福祉施設が有る。
矢追日聖氏は、終戦後間もない大阪の市内に、ただ一人で幟を手にして立ち、生活に困っている人達を集め、皆で、施設を造り、現在の形までに持って来たのである。
「大倭あじさい邑」は、日本の福祉の雛形として、福祉行政の最前線を務めて来たのである。一応、宗教活動の認可は得ているが、宗教活動をするのではなく、人間の生活其のものに、関わり続けて来たのである。
日聖氏は、マザーテレサ的働きを、一生続けて役目を終え、安らかに往った。
矢追日聖法主が亡くなって、是までの7年間では、私に、日聖氏に付いてのメッセージが届いた事は一度も無かった。
其れが、4月7日に萩市を通過した時に、何故出て来たのだろうか。
萩は、明治維新の原動力と成った、幕末の志士を育てた「吉田松陰」の出身地で、松下村塾が在った曰(いわ)く因縁の地である。
其の、維新の草分けの地で「矢追日聖を正しく伝えよ」と出たと言う事は、世界維新に向けて、改めて、矢追日聖氏の事を考えろとの事であろう。
4月7日の日付を考えると、釈迦の誕生日の前日であり、昭和20年4月7日には、日本の国の名を付けた「戦艦大和」が、屋久島の西南沖で沈んだ日でもある。
日本は、軍隊を持って世界に力を見せる事は、此の日で終っている。
日本は、軍隊を持つ事は、永久に憲法で放棄している、世界に類の無い国である。今日のアメリカの政策とは、反対の処に位置するものである。
今回のアメリカの遣り方で、軍隊を持って行う方法では、世界は平和に成らない事が示された。
矢追日聖氏が云う様に、人間が平和な社会を迎えるには、自分の欲望を禊ぎ、霊界の鎮魂を果たして行かなければならないのだ。
そして、人々が幸福に暮せるのには、福祉の充実が大事である。
私個人には、具体的な計画は未だ立っていないが、協力者は増えて来ている。取り敢えず、矢追日聖氏の事を考えていれば、何か、する事が見えて来るかも知れない。
矢追日聖氏は、終戦の年から12月23日を元旦として、祭りをして来ている。
本来、太陽暦を正確に使用するのなら、冬至が年の変わり目に成らなければならない。現在の元旦は、冬至から7日ずれている事になる。
世界を見ると、歴史が変る時には、暦も変っている。
しかし、今だ、世界共通のカレンダーは出来ていない。日本から、世界維新が始まるのであれば、先ずは、正しい暦の作成から始めるのも、一手であるのかも知れない。
矢追日聖氏が、終戦の日から始めた事が、神の意志に拠るものであり、世界維新の準備だったのであれば、霊界も其の為に、58年間段取りを続けて来た筈である。
吉田松陰をはじめ、若くして、維新の為に命を捧げた人達や、太平洋戦争で国の為に若い命を散らして往った人達の意いを受け取って、平和な社会を創造して行かなければならないだろう。
私達が、早く気付かなければならない事は、日常の生活ばかりに意識を捉われて居てはいけないとの事である。目先の事ばかりを考えて、努力を積んでも、未来と合致していなければ、無駄なエネルギーの浪費で終ってしまう。
私も、自分の老後と、子孫の為にも、大きな視点を持って、今後の人生に取り組んで行かなければならない。
「正傳矢追日聖」https://star.ap.teacup.com/170606/210.html
2014/11/26本日11月26日は、私の直ぐ下の弟「礒邉農夫成・のぶなり」の36回目の命日であり、台湾の蘭嶼島に住む、ヤミ族の「ミカギシ」の祭りが行われ日でもある。
今朝のメッセージの映像は、其の「ミカギシ」の祭りに関係が有るのか、神社での厳かな式典の様子が映し出されて来た。
其れは、故「矢追日聖法主」が主体と成って、二人の禰宜・付き人が備品を取り扱う場面である。其の式典・儀式に使用される物は、物が入っている数個の木箱が用意されるだけで、通常行われている神社での儀式の様なものではなく、酒・米・塩や食べ物などの供物は、一切何も無かった。
そして、幣・ぬさに拠る祓いや祝詞奏上等が、何も行われないのである。
其処で行われた事は、白装束の男性三人が、社の中に数個の木箱を持ち込んで、其の木箱の蓋を開けるだけであった。
そして、床に置いた木箱の蓋の内側には、文字が書かれており、床に置かれた蓋は内側が上面に成っているので、其の書かれている文字・言葉が、神に奉納される事の様であった。
そして、其の儀式が済むと、青空に薄い雲の様な物が、左側からせり出して来て、甘露と言える様な雨粒が、地上に降り注ぐ場面が映し出されて来た。
其の儀式が済んだ後、私は矢追日聖法主に誘われて、隣の部屋に移った。
そして、矢追日聖法主が、私に「此れは 知り合いが書いてくれた物だ」と言って、壁に掛けられている一幅の大きな掛け軸を見せてくれた。
其の掛け軸には、上部分から、左の方に筆文字が書かれており、中央やや右には、特別大きな文字で「順道」と縦に書かれていた。
そして、其の掛け軸は矢追日聖法主がとても気に入っている物であり、「順道」との言葉は、是からの未来世界に対して、全て理・ことを含んでいる言葉である事が示された。
次の映像は、私が居た社の様な建物の、一番下の入り口から、青・緑・黄色等の色物の服を着た、中年の男性達が複数外に出て行く姿が、小さく見えた。
其の人達の姿が、小さく見える事から、私が居る場所は、相当高い位置にある事が判った。
其れから場所が変わり、私は、野草社・新泉社の社長である「石垣雅設氏」が居る事務所の中に居て、是から世に出すべき書き物・本の整理を二人でしていた。其の石垣雅設氏は、私が出会った当時は、矢追日聖法主が創設した奈良市の「大倭あじさい邑」の中に会社が在り、矢追日聖法主の本も出版していた人間である。
其れから、写真のネガフイルムが映し出されて来て、左から五番目の一コマが重要であるので、其れをプリントとして、表に出さなければ成らない事が示された。
今朝の最後の映像の中では、私が屋久島で、不動産業や宅地造成などの仕事をして居た時に着ていた、作業服が川の中に捨てられて、泥に塗れている場面が映し出されて来た。
今朝のメッセージで行われていた儀式は、とても清楚な物であるが、厳粛な物であり、是こそが、真の神の祭典であると想われる物であり、天神(てんのはたらき)と人間の関係が、完璧にコミュニケーションされている物であると感じられた。
今朝の映像で、斎主を務めて居た矢追日聖法主は、常日頃「神社も信者も必要無い。私は唯 霊界が浄化されて 人間と天神が 直接繋がれる様に成ればよい。其の事の為に 務めているだけである。」と、謂っていた。
今朝のメッセージの映像は、其の矢追日聖法主の憶いが、叶った事を示して来ているのではないだろうか。
其の様に考えると、本日台湾の蘭嶼島に住む、ヤミ族に伝わる古代の儀式である「ミカギシ」の祭りが、非常に大事な儀式であると言う事に成るのかも知れない。
そして、今朝の映像では、儀式の後、地上に甘露の雨粒が撒かれた事と、社の下の方から、色付きの服を着た働き盛りの中年の男性達が、次々に表に出て行ったのは、其の人達が、是から、世の中に色付けをすると言うか、新しい世の中を創造する事を意味しているのではないだろうか。
其れから、私の昔の仕事着が川の中に捨てられていたのは、私にはもう土木工事の作業着は必要無い事を示唆しているのであろう。
そして、私の仕事は、石垣雅設氏と共に「正傳 矢追日聖」のメッセージを実行に移す事であり、石垣雅設氏は文字の世界を扱い、私は映像・現場写真を担当しなければ成らないとの、事なのかも知れない。・・
今朝のメッセージの映像から、私が感じた理・ことは、天神(てんのはたらき)とのコミュニケーションの場とは、矢追日聖法主が謂っていた様に、神社や寺院の建物・施設が一切必要ではないと言う事である。
其れ等は、「釈迦仏陀」や「イエスキリスト」が謂っている事と同じである。
何故なら、其れ等の物が荘厳であり、大きければ大きい程、其の物自体に、人間の意識・こころが奪われて、神の存在が、人間の意識から遠のいてしまうと言う事である。其れは、神社や寺院の建物だけではなく、お金の世界もそうであり、仏像や刀剣などの美術品の世界も同じ事である。
だからこそ、日本の神道では「禊ぎ祓い」が一番重要とされており、仏教でも「六根清浄・ろくこんしょうじょう」の言葉が繰り返されるのである。
其れ等の、言葉や儀式の意味を考えると、今朝示されて来た「順道」とは、老子の謂う「タオ・道」や、釈迦の謂う「ダルマ・法」其れに、イエスの謂う「永遠のいのち・魂」と関係が有り、其れ等の世界をマスター・認知するには、「順道」が大事であるとの事を、示して来ているのではないだろうか。
じゅんどう【順道】
A 当然の道理。また,順当なやり方。
A 順当な道筋。正しい進路。順路。「路は−なれども宿の逆川(さかは)といふ所に泊る/海道記」 大辞林
1 順当な道すじであること。また、そのさま。
2 順当な道理であること。また、そのさま。
「何か差し置きお盃を頂戴致すが―なれど」〈浄・近江源氏〉国語辞典
「順道・じゅんどう」https://green.ap.teacup.com/20060818/3277.html
此の「順道・じゅんどう」の文章には、「・・床に置いた木箱の蓋の内側には、文字が書かれており、床に置かれた蓋は内側が上面に成っているので、其の書かれている文字・言葉が、神に奉納される事の様であった。」と書いて有るので、今朝の「記」「文」の事や、「デス」の意味が「精確に。精密に。」「聖なる契約」である事が関係有り、私は是から命懸けで、エジプトの「トト神・書記長」の役割を果さなければ成らないと言う事に成りそうである。
其れは、私が認識して文章を打った分だけ、森羅万象が変化するとの事であり、其れが私が此の世界に飛び込んだ日に告げられて来た、「事象の特異点」と「新しい神の座標軸」との言葉が意味する世界なのであろう。
令和1年6月22日
礒邉自適
2019/6/14
自然のうつくしい聲が聞える
1・6・14
今朝のメッセージの映像には、「創価学会」の文字が縦書きの額の様な感じで映し出されて来て、其の世界が真っ白な明るい世界に変わっている事が示されて来た。
其れから、私の潜在意識(脳の裏影)に「自然のうつくしい声が聞こえる」との文字が、テロップの様に横に流れて行く様子・場面が映し出されて来た。
そして、携帯電話の呼び出し音が二回だけ鳴ったので、起きて時計を見ると時刻は7時1分前であった。
今朝のメッセージは、昨日記した、朝鮮国王「李王朝」三代目「太宗(テジョン)・李芳遠(イ・バンウォン)6月13日(誕生日)旧暦5月10日(命日)の、霊魂が登場した事と関係が有り、創価学会の「本尊・日蓮曼陀羅」に、「人の寿命を奪う悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等」が記されいる事と関係が有り、私に起きた4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」には、多くの人を殺した「太宗・李芳遠」も混ざって居たとの事なのであろう。
そして今朝、創価学会の世界が真っ白の明るい世界に成っていたのは、最後まで残っていた「太宗・李芳遠」の霊魂が成仏して、神上がりした事を示唆しており、霊界が晴れ渡った理・ことが示されて来ているのであろう。
日蓮曼陀羅の「南無妙法蓮華経」の意味は、「帰依します釈迦の妙なる法華経に」との意味であり、其れは日蓮の衆生救済方が「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)を唱えれば 諸天善神が皆守護に付く」との事だからである。
日蓮大聖人は『日女御前御返事』
「首題の五字は中央にかかり、四大天王は宝塔の四方に座し、釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ、(略)三千世界の人の寿命を奪う悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等、加之(しかのみならず)日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神々、総じて大小の神祇等、体の神つらなる、其の余の用の神、豈もるべきや。宝塔品に云はく『諸の大衆を接して皆虚空に在り』云々。此等の仏・菩薩・大聖等、総じて序品列座の二界、八番の雑衆等、一人ももれず此の御本尊の中に住し給ひ、妙法五字の光明にてらされて、本有の尊形となる。是を本尊とは申すなり」(平成新編御書1387ページ)
「諸の大衆を接して、皆虚空に在り」仏・菩薩・大聖等、この御本尊の中に住み、妙法蓮華経の五字の光明に照らされて、本来ありのままの尊形となっている。これを本尊という。
其れと、次の「自然のうつくしい声が聞こえる」との言葉の意味が曖昧なので、日本語の「うつくしい」を調べると次の様に載っている。
*うつ・く。【空く・虚く】@中がからになる。うつろになる。A気がぬける。ぼんやりする。
*うつく・し。【愛し・美し】
一【愛し】かわいい。いとしい。
二【美し】@きれいだ。美しい。A立派ですぐれている。見事だ。
*うつくし・む。【慈しむ。愛しむ】愛する・かわいがる。
古語林より
是等の日本語の意味からすると、今朝脳裏を流れた「自然のうつくしい声が聞こえる」との言葉は、日蓮の「諸の大衆を接して、皆虚空に在り」との言葉と関係が有り、今朝の私の意識と謂うか、脳の働き(海馬)の掃除が出来たとの事であり、弘法大師空海の世界である「虚空蔵菩薩」の世界と関係有り、私の意識(意の織物)の色柄(色・rūpa・ルーパ・縁起)が、消去された事を意味しているのではないだろうか。
そして、「自然のうつくしい声が聞こえる」との言葉の意味は、真実の【愛し・美し】は自然の中に存在するとの理・ことであり、天空の中には【慈しむ。愛しむ】が満ちているとの理・ことなのかも知れない。
其の様に考えると、私に同調・チャンネルしている女神の存在は、其の「自然のうつくしい声が聞こえる」との言葉、其のモノが、神(はたらき)として、此の私に、反映している事にも成る。
「声・聲・セイ・ショウ・こえ・こわ」【解字】形声。篆文は、「耳+殸」音符の殸(ケイ)は、中国の古代の楽器で、高い音のする、けいの意味。耳に達する高い音・こえの意味を表す。常用漢字の声は、省略体としての俗字による。
【字儀】@こえ。人の声。動物の鳴き声。また、物のひびき。音。「肉声」「鐘声」A音楽。音律。歌。また、そのふし。Bことばを出す。述べる。「声明」C世間のうわさ。評判。「名声」「悪声」D中国語のアクセント。平・上・去・入の四声に分ける。 漢語林より
此の聲の漢字の意味からすると、私に起きている様々な天空からのメッセージは、天の「聲・音」であり、高いレベルの音律であると謂う事なのであろう。
そして、今朝の携帯電話の呼び出し音・声は「鐘声」である事に、成りそうである。
今朝のメッセージの内容・様子から考えると、私の長い苦しい・重荷を背負った人生は、漸く「明るく・軽く・楽しい」時期を迎える事に成る理・ことが、示されて来ているのではないだろうか。
2012/2/16・・今朝のメッセージには、創価学会の池田会長が、来世で女の子に生まれ変わり、女の修行をする事が、映し出されて来た。
其れは、私の最初の妻が、屋久島の創価学会の島長の娘であり、私も創価学会員に成る事で「日蓮上人」に縁が出来て、此の世界に入る事に成った。
日蓮の教えは、釈迦の訓えである法華経に帰依すれば、天照大神、八幡大菩薩を始め、諸天善神が皆加護に付くと言うモノである。
私には、其れが現実として、4311体もの「神霊の思頼・みたまのふゆ」が起きたのである。
しかし、池田大作名誉会長自身には、其れが起きていないのである。
其の原因は、釈迦の訓えに反して、大きな教団を創って、カルマ・業を強くしているからであろう。其の池田大作のカルマに拠って、多くの家庭が犠牲に成り、自殺者などを生み出して来たのである。だから池田大作氏は、釈迦の訓えに反して、国家内国家を作って、自分のエゴと言うか、男の願望は最大限に満足させたが、老子の謂う「雄の立場を知った上で 雌の立場に身を置く」の意味は理解していないので、もう一度、女性に生まれ変わって、修行をやり直さなければ成らないと言う事なのであろう。
私は、日蓮の御霊の指示に従って、御本尊である南妙法蓮華経の曼荼羅をビリビリに破り捨てたので、学会員を除名させられており、旅に出て曹洞宗に縁が出来て禅宗の受戒を行い「真悠護法居士」の戒名を受けている。
其の、「護法」とは「人の名前に付けるモノではないが」との前置きで、「真海和尚」が私に付けた物であるが、日蓮の考えにも護法は有る。
・護法善神(ごほうぜんじん)とは、仏法及び仏教徒を守護する天部の神々(天)のこと。護法神(ごほうしん)、あるいは諸天善神(しょてんぜんしん)などともいう。
諸天善神 [編集] 通常、仏教一般では三宝を守護する天部の神々は護法善神、あるいは護法神と呼ばれる。しかし日蓮は、法華経とその行者を守護する天部の神々に対して諸天善神という語を多用した。したがって日蓮宗系の宗派間では、護法善神や護法神よりも諸天善神と呼ばれることが多い。法華経の行者を守護する善神のこと。法華経においてこの諸天善神が法華経の行者を守護することを誓っているとされる。また民衆、国土を守り、福をもたらす宇宙の働きと解釈されている。 ~引用終了~ ウィキペディア辞典
しかし、今朝のメッセージの内容は、其れ等の事よりも、もっとレベルの高いテーマであり、其れ等の、人間が考えた概念と言うか理屈を、人類の意識から、削除しなければ成らないと言う事であろう。・・・
「本当の禊ぎ祓い」https://green.ap.teacup.com/20060818/2218.html
今朝、携帯電話の呼び出し音で起きた時刻「7時1分前」から、昨年の7月1日の文章を視て見ると、次の様に書いて有る。
2018/7/1今朝のメッセージの映像は、場面の左端から右端まで、一直線にテーブル・台が伸びており、其の台の上に、人間の首・頭が此方向きに、隙間なく一列に並んでいる場面が映し出されて来た。
其れは髭や頭髪が長い、長老と謂うか「仙人・聖者・翁」等の古代の人物である事が理解されるモノであった。
其の人物数は、画面に並んで居る者だけでも何十人分も有ったので、左右にどれだけの数が並んで居るのかは、予想できない世界である。そして、中央に一個だけ様子が違う首頭が存在するので、近付いて見ると、其れは鳥の頭である事が判り、何の鳥の頭だろうかと意うと、其の鳥が左方を向いたので、其の横顔が見えた。
其れで、其の鳥が2016年9月16日に姿を現した天空を両翼にする「鳳・おおとり」の顔である事が理解されたので、私は三個のタルト(渦巻き)が何を意味するのかを、意識を集中させて其の鳥神に念波で訊ねて見た。
すると「夢・サラダ・横車」との応答が返されて来た。
私は、其れで、直ぐに其の三つの言葉の意味が理解されて来た。
そして、其れから其の鳥神が、私の方から見て、右方向に動き出す様子が映し出されて来た。其れは、私が想う事が、人間社会で現実化していく場面である。
私は、其の様子と謂うか気配から、自分の存在が恐ろしく成ったので、其の映像と謂うか場面を拒否して目を覚ました。
そして、起きて時計を見ると、何と時刻は昨日と同じ6時30分である。
私が今朝、鳳・鳥神から聞き出した「夢・サラダ・横車」との言葉に付いての解釈は、次の様な事である。
【夢】「天御臥間・ あめのおふすま」夜間・暗黒宇宙・宇宙意志・情報・四次元・月読界・冥府。
【サラダ】「生野菜」「身土不二・しんどふじ」「生命・いのち」旬・新鮮・薬草。食事・血液・細胞・DNA・遺伝子。
【横車】「惑星の回転盤」「渦巻き銀河」「暦・カレンダー(年・月・日)」「転輪聖王・チャクラヴァルティン」「聖・ひじり・日知り」「アカシックレコード」
今朝、私が昨日と全く同じ6時30分に起された現象は、私の意識と謂うか心身が、完全に四次元世界に管理されている事に成り、今朝「鳳・おうとり・鳳凰」が教えて来た「夢・サラダ・横車」の三条件を、クリアしている事に成るのであろう。・・
今朝、其の鳳の左右に、無限を現す様に「長老・翁・仙人・聖者」の頭が並んで居たのは、鳳の両翼は男性意識の霊魂だけであり、女性の霊魂は一人も居ない理・ことを示している。
其れは、頭だけで躰が無いので「魂魄・こんぱく」の「魂・たましい」だけの世界を意味しており、男性の役割は「魂しい・意識・精神性」を高める為に存在する理・ことが、示されて来ているのであろう。
其れは、古代から男性が神官や僧侶の職責・役割を務めて来た事で明らかであり、女性は「斎宮」や「巫女」を務めて来てはいるが、其れは自分自身が人類の精神性を創造する為ではなく、霊魂・神霊の意思を取り次ぐ為の役割に過ぎないと謂う理・ことを示している。・・
今朝の映像で、鳳が動き出す事で、私の想う事が全て現実化するとの場面は、私を捜しだして此の神の世界に送り込んだ「土肥無庵」が、「自適さんは想った事が現実に成るでしょう。ですから、自適さんが想えば良いのですよ。」と謂った事が、現実と成る時節が到来したと言う事に成るのであろう。
其れは、日本語の「現人神・あらひとかみ」との言葉が、現実に成ると言う事にもなる。・・
本日の文章は此処までにしようと思ったが、「夢・サラダ・横車」に関係が有りそうな文章を幾つか抜き出して措く事にする。・・
今朝の映像で、鳳の左右に並んで居た頭は、全て長髪で髭を蓄えている男性の物であったので、僧侶や禿(男性ホルモン過剰)では無かった。
其れは仏教の租である釈迦牟尼世尊は長髪なので、並べられる資格が有るが、他人の真似(弟子・信者)をしたり、他人の布施で生活する様な人間は、其処に登場・登壇する資格が無いと言う事であり、男性は独立独歩の生き方をする人間でないと、鳥神の役には立たないと言う理・ことなのではないだろうか。
其の点で謂えば、私は「土肥無庵」を建前上「無庵師匠」と書いているが、弟子に成っている譯でも無いので、合格していると言う事に成るのであろう。
「夢・サラダ・横車」https://green.ap.teacup.com/20060818/4667.html
今朝、呼び出し音が二回だけ鳴った相手は「江藤敬介氏」であり、いま江藤氏に電話を掛けて確かめたら、其の時間は水田にてトラクター作業をしている最中で、携帯電話には触っていないとの事なので、コンピュータの誤作動によるものである事が分かった。
其の事を考えると、其の江藤敬介氏の携帯電話を操作した存在も、宇宙を両翼としている「鳳・おおとり」なのではないだろうか。
其の江藤敬介氏に始めた出会ったのは2007年1月13日であり、其の時には、夢ではなく実際・現実に、江藤氏の背後に美しい花畑が存在する事が、映し出されて来た。「
其の出来事を考えると、今朝私の脳裏・潜在意識の中を流れた「自然のうつくしい声が聞こえる」とのテロップは、森羅万象の流転の中の看板(ネオン)だったのかも知れない。
其の様に考えると、今朝のメッセージは、天界が明るく澄み渡って・晴れ渡って、「天国・楽天」の「聲・ショウ・音楽祭」が始まるとの理・ことが、示されて来ている事に成りそうである。
令和1年6月14日
礒邉自適
2019/6/9
神の番人
1・6・9
本日6月9日は、「道・タオ」「陰陽・六九」のマークと成る数字の日付の日である。
今朝のメッセージは、其の事に関係有りそうな映像が映し出されて来た。
今朝のメッセージの映像は、先ず、正しく生きている中年の男性の姿が登場して、仕事の対価として渡される物は、布袋に入れらている「砂金」である事が映し出されて来た。
次に、左側から右方に向いて立って居る、古代の一人の巫女の存在が映し出されて来て、其の巫女は本物・本来の巫女の姿を表現しているモノである事が理解されて来た。
其れから、私の役割として「ばんじん・番人」との言葉が関係有る事が告げられて来て意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると時刻は「6時25分」であった。
其れから、再び横に成って其の「ばんじん・番人」との言葉に付いて、色々と考えて居ると、「今が貴方にとって 最も重要なトキですから 静かにして居なさいね」との女神の言葉が告げられて来たので、起きて時計を見ると時刻は「7時4分」であった。
其れから台所に行き、穀物コーヒーを飲みながら蓬団子を食べて、PCを立ち上げると「貴方に確かめたい」との言葉が告げられて来たので、女神のブログを開くと、続きの言葉が告げられて来た。
「貴方に 確かめたい事が 有ります
貴方自身は 何をしたい
何を 望んでいるのですか
其れが 確かめられなければ
此方も 動き出す事が 出来ないのです
貴方が無欲である事は 良い事ですが
何も しなくて良いと言う事ではありませんよ
何故なら 人間は何かを為す事で
此処まで 進化をしているからです
ですから 何もしないと言う事は
進化が 停止する事に成るのですよ
問題なのは 人間が行う事が
正しいかどうかに 有るのです
ですから 貴方自身が
人間が どう生きたら良いかを
考えなければ 成らないのです
其の為に 是までの
長い期間の 修行が有ったのです
良いですか 頭を空にする事は良い事ですが
無闇に 頭を空にすると
良からぬ想いが 発生して来るので
正しい目的を 維持しなければ成りません
其れは 貴方自身の考えを 纏める事であり
自分自身の気持ちを 確かめる事でもあるのです
良いですか 今日からが 本番であると考え
身を引き締めて 生きて行きなさいね
此れ以上の事を あたしが謂う必要は 無いでしょう
「貴方に確かめたい」https://moon.ap.teacup.com/20060103/941.html
其れから、今朝起された「6時25分」と「7時4分」の数字から、昨年の6月25日と7月4日の文章を視て見ると、次の様に書いて有る。
2018/6/25今朝のメッセージの映像は、一晩中、映像や文章の存在にて、繰り返し「種の保存」に付いて示されて来た。
其れは、特に、動物を狩る場合は、子供や雌を残すと言うか、守護しなければ成らない理・ことが強調されていた。そして、全ての生命の「元種・もとだね・原種」を大事にすると謂う理・ことである。
今朝のメッセージの内容から、私が想った事は、釈迦牟尼世尊の仏教は生命の世界を「精神的」に捉えているが、大山祇神(祇神・くに つかみ)の民族が暮らして居た、此の日本列島に渡来して来た「天津系(ユダヤ・イスラエル)」の民族、思考体系と謂うか文化は、物の世界を科学的に考え様としていると謂う事である。
特に「ノアの箱舟」や「バベルの塔」の物語は、西方(オリエント)的であると謂えるのではないだろうか。
其の様に考えると、今朝のメッセージの内容は「ノアの箱舟」的考え・思考のモノであり、日本に最初に渡来して来た「須佐之男尊・すさのをのみこと」に関係が有り、古事記や日本書紀の物語も、大山祇神系の物語・伝説ではなく、ユダヤ・イスラエル系民族のモノである事に成るのであろう。
特に、釈迦牟尼世尊の教えには星座的な喩えは無いが、西方(オリエント)の考えには星座(宇宙)的な価値観と謂うか、考え方が含まれている気がするので、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」と「伊耶那美命・いざなみのみこと」が、天に架かる橋を渡って来て、島々を生み出したと謂う話や、目と鼻から三貴神が誕生したとの話も、エジプトの神話と類似しているので、モーゼに先導されてエジプトを脱出したユダヤ人が、エジプト文化を日本に持ち込んで、現在の神社や神道の世界が有ると謂う理・ことにも成る。
そして、其の接点に「須佐之男尊・すさのをのみこと」が出雲に渡って来て、大山祇神系の娘である「櫛稲田姫」を娶って、須賀で生活を始めた出来事が有るのだろう。そして、須佐之男尊から六代目に当たる「大国主命・おおくにぬしのみこと」が「少彦名命」の協力を得て国造り行い、其の後に「饒速日尊・にぎはやひのみこと」を中心とする「天照神(イシス女神)」を崇拝する天津系が次々に渡って来て、現在の日本の政治体制が生まれた事に成るのである。・・
是等の事柄から考えると、本日の「種の保存」とのテーマは、神々の役割や概念(命・みこと)を超えて、人類の事だけではなく、地球の環境を含め、全生命の保全及び継続を考えなければ成らない理・ことが示されて来ており、其れが「経津主大神(ふつぬしのおおかみ) ・伊波比主神/斎主神(いわいぬしのかみ)・斎之大人(いはひのうし)。」との名前・名称にて表されていると謂う事なのではないだろうか。
何れにしても、誰かが新しい考えを打ち出さなければ、時代は此の儘末法の時代へと、突き進んでしまう事に成り、人間だけが自滅するのであれば「自業自得」であるが、他の生き物達にとっては、甚だしい迷惑であると謂う理・ことである。
「種の保存」https://green.ap.teacup.com/20060818/4661.html
2018/7/4昨夜は、一眠りすると意識が目覚めたので、何時だろうと意い、照明を点けて時計を見ると、時刻は「2時5分前」であった。
其れで再び眠ると、今度は左足甲の薬指の付け根の部分にカモ(神の電気信号)が起きたので、照明を点けて時計を見ると時刻は「2時5分」であった。
其れから、再び眠ると、今度は「123456789」の数字が、字の大きさや順番・組み合わせが変化しながら、何度も繰り返し、舞台で乱舞する様に映し出されて来て、其れは「時間(とき)、事象」に関係している理・ことが示されて来た。
そして「絶対・ぜったい」との言葉が一言告げられて来た。
次の映像は、一千ヘクタールも有る広大な土地を所有している60歳位の紳士が登場して、敷地内に存在する墓地の設備や墓石を撤去して、鉱山にする準備をしている様子が映し出されて来た。
そして、其の墓地の撤去は、親戚の叔父さん達の了解を得ての事であることが示されて来た。
其れから、其の男性が私に茶色の粉末が入っている透明な袋を渡して、是は人体に対して、とても重要な「貴重鉱物・ミネラル」であるので、是から本格的な生産を始めるとの事であった。
そして、其の男性の所有物である、近くに有る喫茶店に案内されると、其の喫茶店では其の粉末が、台所の機械に付いているタンクに入れられており、様々な飲食物に使用されている事が示されて来た。
今朝は、6時13分に起きてPCを立ち上げて2月5日の文章を見ると、貼り付けも無く短い文章である。・・
此の文章の内容からすると、私は、自分自身で思考を始めなければ成らない時節が来ているのが理解できる。
其れに、此の七五三の文字の事を考えると、今朝の映像に映し出されて来た数字の世界も関係が有り、言葉よりも、数字の方が「絶対的」な力を持っている理・ことが示されて来ている。
昨日は、メッセージの文章を書き終えて、写真の整理を始めると、睡魔が襲って来たので床に就いた。
すると、釈迦牟尼世尊の意識が介入して来て、私に新しい次元で、説法をしなければ成らない事が繰り返し映し出されて来ると謂うか、感覚が襲って来て、2時間程起きられない状態が続いた。
其れは、「獅子吼・師子吼・ししく」の事と関係が有り、私が相手の御魂・御霊に対して話をしなければ、不特定多数の人間に対して、パソコンで打っている文章・言葉では、新次元に通じる御魂・意識が開かないと謂う理・ことが示されて来ており、説法の力・効果が何であるかを考えなければ成らないとの事なのであろう。
其れは、文章を視覚で追い掛けるだけでは、不立文字(ふりゅうもんじ)の世界で終わり、真理が波動的(バイブレーション)に肉体に直接響かないと謂う理・ことなのであろう。
其れ等の事を考えると、私の人生は、学校で勉強する事や、書物を読み漁る事ではなく、年配の人達に直接接触する事で築いて来ている事に成るし、現在付き合いの有る人々も、私をインターネットを通じて知り合ったのではなく、直接出会った人々である事も、其の事の証明である事に成るであろう。
其れを考えると、何故昨日午後、睡魔が襲って来たかの原因・要因も理解されて来る。
其れは、私が33年前の1985年7月2日に宿泊した木津館の御主人「井上昌一氏」に、3日の朝「龍献寺」に案内され、住職の「安井桂造禅師」に紹介された事で、私に新しい人脈が繋がった事と関係が有り、其の出来事の基礎に釈迦ブッダの意識・霊魂が存在する謂う事に成るからである。・・
其の33年前の7月3日と、昨日7月3日の日付が直接関連している事を考えると、確かに日付・年月日が「絶対的」な力(ちから)を有している事に成り、人間の相対的な「思考・理屈」は、絶対的世界(四次元)に対して邪魔には成っても、役には立たないと謂う理・ことである。
今朝告げられて来た「絶対」との言葉は、数字の世界が「宇宙・森羅万象」の世界で、絶対的なモノである理・ことが示されて来ているのであろう。
其れは、私を捜し出して此の世界に送り込んだ「土肥無庵」が、私に「自適さんに教えたい事は色々有るが、最も重要な言葉を三つだけ覚え(判断基準)てくれ」と謂って『絶対と相対』『陰と陽』『マクロとミクロ』との言葉を教えてくれた事の一つである。
今朝は、由香に何かビジョンを見なかったかと訊ねると、植物の蔓を扱う作業をしている男性の姿が映し出されて、「葛粉」と言葉が浮かんで来たとの事である。
其れは、私の今朝の映像に映し出されて来た、男性が私に手渡した透明な袋に入れられた「希少金属・ミネラル」の粉の存在と、共通している。
其の粉の存在は、昨日のメッセージの「根源の力」との言葉と関係が有り、人間が宇宙情報とコンタクト出来るチャンネルが「希少金属・ミネラル」の周波数に有ると言う理・ことが示されて来ているのであろう。
そして、其の事が、「宇摩志麻遅命・うましまじのみこと」が、私に頼んで来た「子供達に 岩を溶かした水を与えろ」と告げて来た事と、釈迦牟尼世尊が謂う「本当に頼れる物は此の自分の躰だけである」との理・ことに通じるのである。
其れを考えると、今月1日の映像に映し出されて来た「鳳・鳥神」の左右に、無限に並んで居た男性の首頭が、全て頭髪や顎鬚が長い物であった事と関係が有り、ミネラル分が必要不可欠で有るとの事に成る。
其れは「翁・おきな」の漢字が、鳥の羽の様に髭が伸びた男性の象形である事と関係して来る。・・
此の「翁・おきな」の漢字の意味からすると、鳥の様に見える「翁・長老男性」は、1日の映像に登場した、「鳳・鳥神」の左右の台に並んで居た、頭髪と顎鬚が長い男性の存在と関係が有る事に成る。
其の様に考えると、中央に位置する「鳳・鳥神」は、生命樹の幹と頂であり、男性の御魂の存在は、其の生命樹の四方に広がる枝の働き・役割になると言う事ではないだろうか。
其の考えが当たっていれば、「鳳・鳥神・母神」は「翁・長老」が研鑽した智慧を自分の物として収穫し、躰に内蔵・蓄積しているのかも知れない。
其の様に考えると、私に「いのちの名を探せ」と告げて来た女神の言葉の意味も理解できるし、男性の本来の役割・本質が、何処に有るのかも理解されて来ると謂うものである。・・
此の「絶・対」の漢字の意味からすると、私は34年前に人間社会を「絶」して、34年間に亘り「女神・母神・鳳」に「対」して来たと謂う事に成りそうである。
「絶対」https://green.ap.teacup.com/20060818/4670.html
私は一昨日の朝、台所で父親らしき口調で嗜める様に「自適お前は 何を考えているのだ」と、一言告げられて来て、私は其の言葉に対して、私は、「自分で勝手に考えなければ成らないのか」「余計な事を考えては成らないのか」かの判断に苦しんで居たのだが、今朝の女神の言葉や、是等の文章の内容から、自分自身が未来創造に付いて、真剣に考えなければ成らないとの事が、理解できてきた。
〔種の保存〕「・・何れにしても、誰かが新しい考えを打ち出さなければ、時代は此の儘末法の時代へと、突き進んでしまう事に成り、人間だけが自滅するのであれば「自業自得」であるが、他の生き物達にとっては、甚だしい迷惑であると謂う理・ことである。
〔絶対〕「・・私は自分自身で、思考を始めなければ成らない時節が来ているのが理解できる。・・」
其の様に考えると、現在・いま、私に与えられている此の静寂さは、未来創造に付いて思考する・模索する為の期間であると言う事に成りそうである。
其れを視点にして、今朝のメッセージ映像を考えると、次の様な事が考えられる。
*中年の男性の姿が登場して、仕事の対価として渡される物は、布袋に入れらている「砂金」である事が映し出されて来た。
・「砂金」代価として渡される事は、「金・おかね」の始まりが砂金である事と関係が有り、実際の希少価値を示唆している。
・現在の紙幣経済は、一万円札が30円程で大量に印刷されている物であるので、経済が崩壊すれば紙屑に成る事とは異なる。
・現在の国家(政府)の運営は「国債」を大量に発行して行っているので、まやかしの仕組みであり、真実の物(裏付けが有る)の世界ではない。
・実質的な物ではない物で経済(日常)が回っているので、人々の意識は現実感が無く成っている。
*左側から右方に向いて立って居る、古代の一人の巫女の存在が映し出されて来て、其の巫女は本物・本来の巫女の姿を表現しているモノである事が理解されて来た。
・日本の古代社会の斎宮は、生活に心配が無く、何かの権力にも押さえ付けられる事無く、自由に育った悩みの無い女性が、生涯独身を貫き、他人と関わる事無く、自然環境に恵まれた静かな佇まいの中で、衣食住を提供されて生活し、天神(てんのはたらき)に仕えるモノであった。
・今朝登場した女性は、装飾が何も無い簡素な服装であり、室内には神具などの備品類は何も無く、手に道具と成る様な物も持ってはいなかった。
・其れは、仏教の観音様や、ヒンズー教の神々の姿(仏像・絵画)とは、全く異なる存在である。
・其の世界には、現代社会の教育(保育園→幼稚園→小学→中学→高校→大学)は適用されない世界である。
*「バンジン・番人」
番人との言葉は、「法の番人」との言葉が有るので、私が静かに暮らしていなければ成らないとの事は、私が「神の番人」と成らなければ成らないとの理・ことが、示されて来ているのであろう。
『其れは 此の世界では 最小限度の約束事です
良いですか 此方が動き出す為には
貴方に ミスの恐れが有る事が 最大のネックと成るのです
ですから 其の恐れを無くす為には
貴方は牟尼・世尊の言葉を 厳守しなければ成らないのです
良いですか 此の事が上手く成就する為には
一切の雑念が湧かない体制を貫きなさいね
其れが 本当の統尊の在り方なのです
ですから 貴方の意識の中に有る 高御座を砕いたのです』9時46分
キー「6月9日 陰数 陽数」
2018/6/9本日6月9日の日付を、私は是まで、中国の数字の概念「六(陰数)6・九(陽数)9」から、「道・タオの日」と考えて来たが、今朝のメッセージの内容からすると、其れ等の考えは余計な事であり、人間は不必要な考えは捨てるべきとの様である。
今朝の映像には、私が、姿がハッキリしない黒い影の人体三人と一緒に、テーブルに東西南北の四方の形で向かい合い、椅子に座って居る場面が映し出されて来た。私のの席は、西を向く東側の席であった。
そして、話し合いを始めたのだが、「民族・お国柄・文化の違い・食生活の違い・宗教の違い」からか、全く意見が噛み合わない様子が映し出されて来た。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると時刻は「2時42分」で、昨日起こされた時間と同じであった。
私は、其の時間設定から、私の今の考え・意識では、私が西洋に向かったところで、何の効果も無く、無駄に成るだけなのだと思った。
其れから再び眠ると、朝まで、人間の生活に付いての事柄が、様々映し出されて来て、自分の今の心境は混乱した儘である。
今朝は、最後に「実体は無い」との言葉が告げられて来たので、其の言葉が何となく腑に落ちたので、気分が楽に成って起きて時計を見ると6時45分であった。其の6時45分の数字は「645・むしご・無視語」と読める数霊(かずたま)である。
今朝のメッセージの内容から、私に考えられる事は、「統尊・すめらのみこと」や「御嚴・みいつ」の役割と謂うか、働きは、本来は言葉が必要では無い世界であり、全てが映像にて処理されて行く世界であるとの事であり、漢字の存在も文字の形や読み音に意味が有るのではなく、象形文字の実体・実写に真実の働きが有るとの事の様である。
其れを考えると、昨日のメッセージの「白い王」との言葉は、「白く光り輝く斧の形」の象形であるので、其処には人体・人物が存在する譯ではないので、確かに「統尊・すめらのみこと」や「御嚴・みいつ」の言葉自体には、実像が無いと謂う事であり、人間の目には見えない・確認出来ない世界であると謂う理・ことに成る。
其れを考えると、だからこそ、此の世には偽者の「王様・皇帝・天皇・殿・大臣・総理・首相・書記長」が、存在できるのだと言う事が理解できる。・・
今朝の映像には、普通の人々の生活・暮らしの場面が、永続的に映し出されて来た。其れは、人間の生活・くらしは、其の地域の環境条件に因って、衣食住の条件が異なるので、考えや言葉(単語)も其れに合わせて変化・進化して行くので、地球全体を一律に整える事は、不可能であると謂う理・ことであり、無理やりに統一しようとする事は、自然の法則を無視する事に成るので、人間に不幸や悲劇を齎す事に成ると謂う理・ことである。
其れを考えると、やはり「正傳矢追日聖」と告げられて来た言葉や、岡本天明の「ひふみ・霊文神示」に記されている事が、正しいと謂う事に成って来る。・・
此の文章を書いてから、もう直ぐ24年と成るが、内容は今でも書き換える必要は無さそうである。
世界は、24年前とは殆ど状況は変わっていない・寧ろ悪化している様に見えるが、人間の目に見えない次元で、物事は変化して来ており、もう人間の意識の臨界点は目の前に迫っている様である。
其れをより良きモノとする為には、出来るだけ多くの人々が早く気付いて、心の準備を始める事である。
此の私が願うのは、其の事だけである様な気がする。
其の「願う」との言葉は、人間だけの感情意識の表現であり、他の生物には無いモノである。其れを考えると、人間が是まで築いて来た概念は、全て実体が無いモノであると謂う事であり、其の過去の情報・概念を全て取り払って、空無の状態に成る事が、昨日告げられて来た「白い王である」との言葉の意味なのではないだろうか。
其れを考えると、私は本日から座右の書としている道徳経の著者である老子の世界である「道・タオ」の言葉も頭から消去しなければ成らないのかも知れない。
『そうよ 一度 全ての理を頭から消して 空無の世界に還るのです』
「実体は無い」https://green.ap.teacup.com/20060818/4645.html
2018/9/6「二本の蔓」https://green.ap.teacup.com/20060818/4735.html
此の一年前の今日の文章の最後に有る『そうよ 一度 全ての理を頭から消して 空無の世界に還るのです』との女神の言葉からすると、女神が告げて来た言葉が一年間で現実の事として、私に起きて来ている事に成る。
「番人・バンジン」の番は、辞典漢語林に次の様に載っている。
「番・バン」【解字】形声。「田+釆」音符の采・ハンは、獣のつめの象形で、放射状に広がるの意味。田畑に種をまくの意味を表し、播の原字。借りて、かわるがわる事にあたるの意味にもちいる。
【字儀】@かわるがわる。代わりあうこと。交代。Aかず(数)。㋐順序の数。㋑たび。回数。㋒個数。枚数。未開の民族。異民族。外国人。転じて外国のもの、外国からきたものに冠する語。
国語。@バン。㋐見張り。当直。「番人」㋑組み合わせ・取り組みなどを数える語。「十番勝負」㋒ある語に冠して「常用・粗末な」の意味を表す語。「番茶」「番傘」Aつがい。㋐つがったもの。組。㋑二つで一組になったもの。㋒つがいめ。関節。「蝶番」㋓動物の雌雄。一対。㋔夫婦。Bつがう。繋ぎ合うの意味。㋐二つ以上が組み合う。㋑対になる。㋒交尾する。Cつがえる。㋐二つ以上を組み合わせる。㋑弓の弦に矢をあてる。㋒ちぎる(契)。硬く約束する。
此の説明では、本来の意味は「田畑に放射状に種をまく」との意味であるので、今朝告げられて来た「番人・バンジン」との言葉は、「放射状に神の種(意思・おもい)をまく人」の意味に成る。
其れは、正に「統尊・すめらのみこと」の「御稜威 ・みいつ」世界に直接関係が有る事に成り、イエスキリストが死後に復活して72名の弟子を集め「私の教えを広めなさい。だが 何を話すかは決めて行っては成らない 其の時神が舌を借りるから。手にする物は杖の他は下着一枚だけ。話しを聴く人間が居ない村は神が居ない所だから直ぐに通り過ぎよ。」との事を、謂っている事に通じている。
其れは、昨日の「イエスをキリストと認めるか」「正しい者が少ない世の中」との題名と関係が有り、今朝のメッセージは昨日のメッセージの続きであると謂う事に成って来る。
其れを考えると、今朝告げられて来た「番人・バンジン」との言葉は、明日「6月10日」が「時の記念日」であり、千葉県成田市台方の麻賀多神社の境内に在る「天之日津久神社」の祠の前で、昭和19年6月10日に岡本天明に「ひふみ・霊文神示・日月神示・天津日嗣神事」が始まった日である事を考えると、「日月神示・天津日嗣神事」に記されている「此の日本から神一厘の仕組みが発動する」との事が明日から始まると言う事なのではないだろうか。
今朝のメッセージの内容からすると、日本語に使用されている漢字の解釈も「トンデモナイ」物が有る事に成るので、矢張り人間社会の情報は一度全て消去して、ゼロ・空からやり直す・組み直す必要が有ると謂う事に成るだろう。
今朝の由香のビジョンも、其れに連動・共通している事は間違い無いのだが、既存の人間社会の仕組み・システムを批難する事に成るので、文章にする事は止める。
令和1年6月9日
礒邉自適
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