言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2019/12/31
4+8
1・12・31
本日12月31日は、今年の大晦日である。
昨日の「稲盆」との言葉は、稲が「禾(米)+下向きの右手(憂の心は上向きの手)+臼」で、盆が「分(墳墓)+皿(ふつわ)」であり、昨日が餅搗きの日であった事から考えると、「臼で搗いた餅を 右手で取り出して、器に入れて墳墓(霊魂)にお供えする」との意味にも受け取れる。
其れを考えると、日本に渡って来た「渡来族・天津神・ユダヤ民族」の文化風習である「過ぎ越しの祭り」と関係が有りそうである。
日本の年越しの行事で、竹の枝葉で家中の巣煤払いを行うのは、ユダヤ民族の「種無しパン」お焼く為に家中の酵母菌を追い出す為であり、鏡餅を重ねて備えるのは、其の膨らみの無い麦粉のパンを重ねる風習が、麦が取れない日本で米餅に置き換わったモノ・風習・行事である。
其の行事を持ち込んだ人達が、大国主命から国譲りを受けた「櫛玉饒速日命・くしたまにぎはやひのみこと」を始めとするユダヤ民族であり、神魂神社で熾した火で、杵築大社で米を蒸して搗き(水は眞名井神社の滝水)、熊野大社に納める儀式が、現在まで続けられているのであろう。
2011/8/16・・其れを考えると、私に菌を移したいと云ったのは、パンや酒や味噌等の麹菌・酵母や、EM菌などの土壌細菌などの、微生物の事を意味しており、新しい経済の事を示唆しているのかも知れない。
其れに、パンの事を考えると、イスラエルの民・ユダヤ人が「過ぎ越しの祭り」に、酵母菌の入っていないパンを食べる事に、関係が有るのかも知れない。
其の様に考えると、建物の中に、ユダヤ人が使用する布が、掛けられていた意味も理解できる。
其れは、日本の風習で、大晦日の前に生竹を切って来て、長い竹箒で家中の煤(菌)を払い、餅(米パン)を搗く事と同じであり、日本に、ユダヤの文化が入って来ている事の証明にもなる。
其れに、もう一つ加えると、「風 麦東 陶・ふうれんとう」の「麦東・レン」は、「錬・鍛冶屋」「煉・餡子屋」「練・織物屋」とは違い、「麦東・パン屋・麺屋」の意味である。
其の様に考えると、今朝のメッセージは、新しい国造りは、ユダヤ民族と日本人が、協力し合わなければ成らない理・ことを示して来ており、岡本天明の「日月神示」に「148・石屋の救世主が 此の日本から現れる」と有る事も、現実感を持って来る。・・・
「主の日は整ってはいない」https://green.ap.teacup.com/20060818/2026.html
2007/4/22・・其の映像で、私は、漢字の「謂」の意味を思い出していた。
謂は「言+胃」の組み合わせで、「言葉は 胃袋の中の穀物から生じる。」との意味である。
其れは、日本の天皇家の神である「御餉殿・みけどの」と、同じ概念を有しており、穀物には「稲霊・いなだま」が宿っており、其の穀物を食べる事で、先祖霊や神霊とも交流が図れるとの考えである。
其の考えこそが「瑞穂の国」の概念であり、其れは、仏教のお盆の行事や、仏壇での先祖供養にも取り入れられ、現在でも、其の風習は日常の暮らしの中で続けられている。
其の考えの元が、天皇家に伝えられている「新嘗祭」の儀式なのである。
其の、天皇家の儀式は、奈良の石上神宮の物部の儀式なので、元は物部族に伝わる儀式なのである。
物部の元は「饒速日命・にぎはやひのみこと」で、其の長男は、島根県太田市に有る物部神社の祭神「宇摩志麻遅命・うましまじのみこと」であり、奈良の石上物部神社は、代々の物部の御霊を祀る神社である。
物部族の首領であった「物部守屋」は、仏教を日本に取り入れ様とした「蘇我馬子」と、「聖徳太子」に殺されて滅びた後に、一族は「石部物部」で再び復活したと有るので、私の血にも、其の流れが繋がっているのだろう。
私は、2001年6月15日に、太田市の「物部神社」に、出雲の「安部忠宏氏」と参拝し、宇摩志麻遅命の御霊を祭祀する御陵で、霊魂と交流が起きた事が有る。其の出来事からも、私の魂しいには、物部の霊との因縁が深いと言えるだろう。・・
今朝の様子からすると、其の物部の儀式が、本格的に復活して来るとの意味ではないだろうか。「ニギハヤヒ・天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊・あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと」は、天照大神の孫で、鹿児島県の吹上浜に上陸した「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」の兄君だとも伝えられている。
其の、天照神の概念が、エジプトの「イシス神」と同じ物であり、日本まで伝えられたものであれば、同じルートで、ユダヤ族の過ぎ越しの祭祀の「種無しパン」の風習も、日本に伝えられて来た可能性がある。
日本で、年の暮れに、竹箒で天上の煤落としをする風習があるが、其れは、ユダヤ族の風習の、種無しパンを焼く為に、家中の菌を払い出す行為と、同じであるらしい。何故、パンを種無しにする必要があるのかは解からないが、先祖が食べていたパンが種無しパンだったので、先祖の霊魂と共食するには、昔のパンを用意する必要が有るからではないだろうか。
何故、儀式に食べるパンを、先祖の霊魂に合わせる必要が有るのだろうか。
其の事に、深い意味が有るのかも知れない。
例えば、麦のパンを食べて居た先祖に対して、米で出来た餅を差し出せば、先祖の霊が食べた事が無いので、食べ方が分からずに、怒り出す可能性は有る。
だから、部族の一番古い祖霊魂に合わせる必要が、有るからではないだろうか。
そうであれば、今朝の映像は、皆が自分の「想い・概念・柄模様」を止めて、全ての霊が、白い布の熨斗(純白の意識)を持って、集まらなければ成らないと言う事に成る。・・・
「其々の胸のおもいを」https://wave.ap.teacup.com/20060106/252.html
今朝のメッセージの映像には、大事・重要な理が記してある、横書きの日本語の文章が映し出されて来て、其の中に「4・四」と「8・八」を足す・プラスしなければ成らないとの理・ことが示されて来た。
其れで、其の4と8をプラス事に、どの様な意味が有るのかを考え始めると、「2・二は 狩りの猟犬である」との事が知らされて来た。
どうやら、「4・四+8・八」の意味には、「狩りの犬」がヒントの様である。
狩りの犬は、主人に忠節であり、獲物を鼻で嗅ぎ付けて追い出し、主人が撃ち落とした獲物は湖の中であっても、泳いで行って咥え主人の手元に持って来るので、精神世界を旅する「同行二人」の関係性を、示唆しているのではないだろうか。
其の様に考えると「4+8」の数字は「48・しや・視野」との数霊・言霊に通じており、人間にとって「視野・視覚(矢・鉄砲)」が最も重要であり、「目に映る物」が人間の「意識・情報・かんがえ」を組み上げる・積み上げる原点であるとの理が示されて来ており、其れが神(はたらき)の始まりであるとの理・ことが、示されて来ている様である。
其れを考えると、矢張り釈迦ブッダの「十二因縁起」の教訓が最も重要である事に成って来る。
「法華経の十二因縁起」
1)無明(本来根源的な無知)は、行(形成力)の
縁(原因となるもの)である。
2)行は 識(認識作用)の縁である。
3)識は 名色(名称と形態)の縁である。
4)名色は 六入(眼・耳・鼻・舌・身・意 の六つの領域)
の縁である。
5)六入は 触・そく(接触)の縁である。
6)触は 受(感受)の縁である。
7)受は 愛(妄執・耽溺)の縁である。
8)愛は 取(執著)の縁である。
9)取は 有・う(生存)の縁である。
10)有は 生(生まれること)の縁である。
11)生は 老・死・憂・悲・苦・悩の縁である。
12)したがって
無明が滅すれば、行が滅する。
行が滅すれば、識が滅する。
識が滅すれば、名色が滅する。
名色が滅すれば、六入が滅する。
六入が滅すれば、触が滅する。
触が滅すれば、受が滅する。
受が滅すれば、愛が滅する。
愛が滅すれば、取が滅する。
取が滅すれば、有が滅する。
有が滅すれば、生が滅する。
生が滅すれば、
すなわち 老・死・憂・悲・苦・悩が滅するのである。
訳者・著書・著者 不明
この内容からすると、今夜0時・子の刻に煩悩を消す為の「除夜の鐘」が108回(12ヶ月×苦・9)鳴らされる事が関係が有り、「四+八」の数字は、「四苦八苦」の事・世界を示唆していると考えられる。
【四苦八苦】
四苦八苦(しくはっく)とは、仏教における苦(ドゥッカ, dukkha)の分類。
根本的なドゥッカを生・老・病・死(しょう・ろう・びょう・し)の四苦とし
生苦(Jāti dukkha)[1] - 生まれること。
老苦(jarāpi dukha)[1] - 老いていくこと。体力、気力など全てが衰退していき自由が利かなくなる。
病苦(byādhipi dukkha)[1] - 様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる。
死苦(maraṇampi dukkha)[1] -死ぬことへの恐怖、その先の不安。
根本的な四つの苦に加え、
愛別離苦(あいべつりく、appiyehi dukkha)[1] - 愛する者と別離すること
怨憎会苦(おんぞうえく、piyehi dukkha)[1] - 怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦(ぐふとくく、yampiccha dukkha)[1] - 求める物が得られないこと
五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと
の四つの苦を合わせて八苦と呼ぶ。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
そして、其の四苦八苦の源が「48・視野・視覚」から始まるとの事を考えると、神社で正月に行われる矢射る行事「御弓の神事」や、お守りの「破魔矢」などとも関係が有り、十二因縁起の発端・はじまりも、人間が歩き出して目で物を視て、其の物事の名前・名詞を頭で判断する事から、始まるとの理と関連している事に成る。
其れは、除夜の鐘を突いてから、山に登り「初日の出」を拝む事が、既に、新年の行為を始める事に成っている。
御弓の神事
おゆみ‐の‐しんじ【▽御弓の神事】
正月(多くは小正月)に、神前で矢を射る神事。元来魔よけのためとされたが、年占・武芸の奉納などの意義をもつようになった。奉射(ぶしゃ)。
デジタル大辞泉の解説
キー「正月 鏡餅」
2006/7/21タイ国の仏教遺跡の仏陀と、「コノ国マコト」のHPの情報で、正月にお供えする鏡餅が「カガミ(蛇)餅」で、七段重ねるのが本式なのが分って来た。
今でも、「蜥蜴・とかげ」の事を「カガミッチョ・カガミソ」と呼ぶ地域が残っている様に、昔の人は、蜥蜴の足が消えて、蛇に成った理・ことを知っていたのである。
屋久島でも、青大将を火で焼くと、後足が出てくると云われている。
近頃、外国で発見された9000万年前の蛇の化石には、未だ後ろ足が着いているそうである。だから、中国の「タオ・道」のマークのシンボルも、蜥蜴だったり蛇だったりするのだろう。
7月17日のNHK番組、1億5000年前の恐竜世界「恐竜VS哺乳類」で、蜥蜴に産毛と羽根が生えて、空を飛ぶ様に成る様子が、化石と映像を使って説明されていた。其れは、マヤ文化の神である「羽根の生えた蛇」その物の姿である。西洋では、羽根の生えた龍の姿は悪魔として使用されているが、其れは悪魔ではなく。実在した、一億年前の恐竜の姿だったのである。
もう、人類の先祖が、蛇と同じトカゲやヤモリで在ったことは、明白に成って来た。
何故、山に住む大蛇が水を管理し、月と繋がっていると考えられていたのか。其れは、人間の生命の本質の処に、其の蜥蜴の存在があるからであり、其のトカゲの生命情報が、脳の古代皮質を通して、潜在意識から浮かび上がって来るので、大蛇を神としたのであろう。
世界中に、其の大蛇が、山と水を管理する物として祭られており、人間にとって一番大事な存在であるとされて来ている。
世界中で共通しているのは、其の大蛇が七回トグロを巻き、頭をもたげている事である。
そして、鎌首をもたげた大蛇が、仏陀の姿を護っているのである。
タイ国やビルマの仏陀は、七段積まれた壇の上に座り、其の頭上には七頭の大蛇が守り神と成っている。
其の、七段の基壇の形と同じ物が、正月のお供えである鏡餅だと言うことなのである。
奈良の、三輪山の神は「大物主」で、其の姿は蛇とされているが、出雲大社の神社の裏山も「蛇山」と呼ぶそうである。
私が22年前、出雲大社の裏山に在る神社「三歳社・みとせのやしろ」にお参りして、参道の近くの大島屋旅館に泊まっていると、夜中に、白くて蛇の様に長いものが向えに来て、私の意識を大社の拝殿の裏に在る「須佐之男尊・すさのおのみこと」を祭る社に、案内した事が有った。
其の様な出来事が有るので、蛇の霊を祭る信仰が生まれたのであろう。
何故、鎌首を持ち上げた蛇が仏陀の守り神とされるのか、其処には深い理由・わけが有ると考えられる。人間も、一億年前までは蜥蜴の様に尻尾が有り、四つ足で大地を這って歩いて居たのである。
其れが、猿に進化して、700万年前に類人猿から分離し、立ち上がって歩き始めたのである。
だから、今でも蛇や蜥蜴の情報がDNAには残ってはいるが、這って歩いていたトキの記憶が消えてしまっているのである。
其の為に、地を這う蛇の記憶の助けが必要なのだ。
人間は昔、地を這って歩いている時に腹は下に有り、背が上に位置していた。其れが、立ち上がった為に、腹は前方に向き、背は後方に向いてしまったのである。だから、肉体に感じる、重力と地磁気の向きが変わってしまったのである。だから釈迦仏陀は、衆生に向う時は座っているが、記憶の海に向う時は涅槃の状態になり、身体を横にするのである。
私に、映像のメッセージが来るのも、横に成っている時である。
記憶の海を辿ると、胎盤を持つ哺乳類から、卵を産む爬虫類を経て、種子の植物に至り、胞子植物を通過して、最後は、雌雄の無い単細胞の生き物に行き着くのである。
其の先には無機質の世界があり、素粒子や電子の海へと繋がっている。
其の先に在る、暗黒の闇に迄で還り着いたのが、仏陀釈迦の存在なのだ。
だから、釈迦は、蛇の協力のもと、其の次元を通り過ぎて、宇宙の根源まで辿り着いたのである。
科学の力で、此処まで宇宙の成り立ちや、生命の神秘が解き明かされてくれば、悪魔は実在しない事になり、生命の存在こそが、神秘である事が理解されてくる。其れが、釈迦が皆に教えていた説法の内容なのである。
釈迦が、衆生に説法をする時は、現世の人間だけではなく、人間の霊魂や龍神までもが聴きに来て居たと云う。其れは、釈迦が、宇宙の原点まで辿り着いて、答えを持っていた事を証明している。
人間も、子供の時は這って歩くのである。其の幼児の姿は、猿の子供よりワニに近いものである。何故そうなのか、大人が説明を求められる時代が来ているのである。
現代社会は、昔から伝えられて来ている「鏡餅」や「注連縄」などの文化の意味が、正しく伝えられなく成り、どうしてそんな物が大事に伝えられているのか、其の理由が分らなく成って来ている。
其の、大事な部分が伝えられなく成れば、文化は浅くなり、魂しいも儚いものと成ってしまうのだ。
インターネットで、どんな情報でも手に入れられる社会と成っているのに、子供はコウノトリが運んで来るとか、サンタクロースが贈り物を持って来るとか云っていれば、親は馬鹿にされ、信頼を失うばかりである。
しかし、仏陀の護り神が蛇だと言うのを、迷信だと云うのも無知と言うものである。
何故、現在でも、五体投地をしたり、台地に額ずいて祈りをするのか、其れは自分の中のトカゲの記憶を取り戻す為なのである。
しかし、もう、其の必要は無いだろう。何故なら、コンピュターの発達で、どんなイメージでもCG化できるので、視覚神経から、其の記憶を呼び起こす情報を、入力する事が出来るからである。
もう、命賭けの苦しい修行は、必要ないのだ。
釈迦や、イエスの時代は、共通意識を持つ事は困難だったが、此れからの社会はインターネットで、皆が仏陀の観た世界を共有出来るのである。其れは、幸いにして、地球には、未だ釈迦が仏陀と成った時と同じ環境が、残されているからである。
未来に向う若者や子供達には、我々より充実した社会が用意されているのである。「鏡餅が大蛇の姿だったとは」https://star.ap.teacup.com/170606/981.html
2000/2/23・・「大嘗祭」は、新しい「天皇・すめらのみこと」の、即位の儀式が行なわれる事であるが、其の儀式には「悠紀殿・ゆきでん」と「主基殿・すきでん」の二つの建物が準備される。
其の「ユき」と「スき」の言葉は、「譲る・ユズる」の「ユス」に関係が有り、「ゆずる」とは、新しきモノを立てる為に、古いモノを「ユスり落す」行為の事を意味しているのではないだろうか。
其れは、「譲り葉」の意味が、新しい葉が育った時に、古い葉は、自然に落ちて行く事に成っているからである。
正月の飾り付けである、三方の台の上には、鏡餅が乗せられるが、其の三方には「橙・だいだい」と、「昆布」や「譲り葉」や、「裏白羊歯」が添えられる。其の「譲り葉」の意味は、「橙・だいだい」と関係が有り、「代々譲ること。継承」を意味しているのであろう。・・・
「大嘗祭・だいじょうさい」http://moon.ap.teacup.com/20061108/419.html
今朝は起きてPCを立ち上げると、「5月5日」と「5月13日」の日付が告げられて来た。
其れで、今年の「5月5日」と「5月13日」の文章を視て見ると、次の様な事が書いて有る。
2019/5/5本日5月5日は、「男の子」の健康を禱る「端午の節句」である。
今朝のメッセージの映像は、諺(ことわざ)に有る「可愛い子供には旅をさせろ」との言葉と関係が有るのか、私が一人で旅を続けている場面が、長い間映し出されて来た。
いま思い出せるのは、次の様な場面である。
*私が、人間が食べる為に、身体全体の皮を剥がれている犬を助けて、連れて歩いて居ると、魚屋を開いている40歳位の男性に呼び止められて、魚を買ってくれと頼まれる場面。
其の店の生簀の中を覗くと、何故か三枚に下ろされた、大きな魚の中骨だけが泳いでいた。
*2011年3月11日に起きた「東北地方太平洋沖地震」に関する、「3月11日」の日付が入った単語が、三つ映し出されて来て、其の甚大な災害の原因は、人間の業・さがに因る物である理・ことが示されて来た。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「5時2分」であった。
其れから再び眠ると、今度は、50人程が参加している講演会の会場が映し出されて来て、私は最前列の右側の方に着席して居た。
そして、演台で話をして居る人物は、大学教授の様な60歳代の男性であり、其の話しの内容はとても次元が高く、私は自分が納得できるモノだったので、安心して机に頭を着けて眠り込んでしまった。
其れから、其の男性の話が終わった所で、私が目覚めると、講演会の主催者である、40歳位の身体の大きな男性が話しを始めて、其の男性の名前は「諏訪繚」である事が示されて来た。
私は、其の講演会が終わってから、其の「諏訪 繚」という人物と話し始めるた。繚さんは「ただ天界に還る日を待っている」との事を謂うので、私は其れに対して「貴方は 今回の役目を果たさなければ成らない」と、謂っていた。
其れから二人で、街中に食事に出掛けると、其処は屋久島の安房の街中であり、新町の道路を歩いて居ると、右側の家に住む、小学校の時の担任であった寺田先生の母親である「照婆さん」が、繚さんに親しく話し掛けて来たので、私は其の照婆さんに「繚さんの故郷は何処ですか」と訊ねたが、其の応答は無かった。
其れから、其の「照婆さん」の次の家が「田中親さん」が経営する食堂なので、其の店先のテーブルに二人で向かい合わせに座って、何を食べるかを話している所で其の映像は終わった。
其れから、「新しきユダヤの王」との言葉が大きくはっきりと聞こえたので、起きて時計を見ると、「6時40分から41分・7時20分前から19分前」に成る所であった。
今朝は先ず、講演会を開催して居た男性の名前が「諏訪 繚」であったので、其の漢字繚を調べると、次の様に載っている。
「繚・リョウ」【解字】形声。「糸+寮」音符の寮は、かがり火の意味。火の粉が、もつれみだれるようにまつわりつくの意味を表す。
【字儀】@まとう。まつわる。Aめぐる。めぐらす。糸などでしばる。Bもとる(戻)。道理などに反する。Cおさめる(理)。=撩。
此の「かがり火の意味。火の粉が、もつれみだれるようにまつわりつくの意味」との事からすると、古い因縁が燃え尽き、新たに物事が始まる事が示唆されており、其れに「糸」偏が付いている事を考えると、昨日のメッセージ「生命の誕生と紀(とき)」や「紀(とき)の祭りを行え」の言葉と関係が有り、新たな「縁結び」が始まる事が示されて来ているのではないだろうか。
其れに、繚さんの苗字が「諏訪」である事を考えると、其の事は「大国主命・おおくにぬし」の息子である「建御名方神・たけみなかたのかみ」が祭神である長野の「諏訪大社」に関係があるのかも知れない。
今朝「新しきユダヤの王」との言葉が告げられて来て、起きた時刻が「6時40分から41分・7時20分前から19分前」であった事から、昨年の7月19日・20日の文章を視て見ると次の様に書いて有る。・・
此の「摩利支天」の文章に有る、『貴方も 礒邉自適の存在が 何であるのかを ぼつぼつ真剣に考えなさいね。其れが明確に認識されなければ 首座が定まりませんよ。』との女神の言葉からすると、今朝告げられて来た「新しいユダヤの王」との言葉は、イエスキリストが「新しいユダヤの王」である事を、ユダヤの人々が認める事なく殺害した事と関係が有り、其のイエスキリストが「メシヤ」であったとの事の続きが、2000年振りに始まるとの事なのではないだろうか。
そして、其の事が長野の「諏訪大社」に関係があるとすれば、「前宮」の「十間堂」がユダヤの「幕屋」であるとの事を考えると、昨年の4月22日に告げられて来た「キリストの救済」が其れに関係が有ると言う事に成るのだろう。・・
此処まで打って来ると、此れ以上の作業が出来ないと謂うか、頭脳が動かない。
其れは、昨日父親の口調で「自適 お前は自分では何もするな」と一言告げられて来た事と関係が有り、もう私の意識の「たび(家を離れるの意味)」が完了した事に成るのではないだろうか。
其れは、私が中国の王様の鍼師の子孫であった清水先生に六回に亘り鍼治療を受けて、教えられた事が、現実と成っていると謂う事であり、「土肥無庵」に渡されたメモ書きの内容を守らなければ成らない時節を、迎えた事に成るのではないだろうか。・・・
「新しいユダヤの王」https://green.ap.teacup.com/20060818/4981.html
2019/5/13今朝のメッセージの映像には、雛段に薄紫色を貴重とした平安時代の貴族女性の様な服(十二単)を着た躰の大きな「女性」が一人座って居る映像が映し出されて来て、私の意識が其の女性に近付いて顔を見ると、其の顔は人間の顔ではなく、鳥の顔をしており、目は金色であった。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「6時4分」であった。
其れから再び眠ると、青色系の現代服・洋服を着た30歳代の男性の存在が映し出されて来て、其の男性が、新しい時代の指導者(王様・大君)の立場に立つ役割である事が示されて来た。
今朝のメッセージは、余計な事は省いて、本日から天界の新しいプログが開始される事が示されて来ている様である。
其の原因・要因を考えると、本日は無農薬・無肥料で稲作を行っている「江藤敬介氏」が、稲の籾種子を苗箱に播種する作業を行う日であり、其れに出雲の安部忠弘氏が奥さんと長男を伴って参加する事と、関係が有るのではないだろうか。
何故かと謂うと、昨年の1月14日のメッセージで、2月17日・祈年祭(としごいのまつり)に、江藤敬介氏を午後1時に出雲の安部忠弘氏の事務所に行かせろとのメッセージが有って、2月17日の午後1時に江藤氏が安部氏を訪れた事が有った。
そして、今年の3月20日に再び江藤氏が稲作の引継ぎの為に安部氏宅を訪問し、其れが切っ掛けで、安部氏が江藤氏の炒り玄米を販売する事に成り、其の安部忠弘氏が家族で、本日江藤氏の播種作業に参加する事に成っているからである。・・
是等の文章の内容からすると、昨日の「炭酸同化作用」の件が関係有りそうである。何故かと謂うと、人間にとって一番大事な「穀物(米・麦・豆)」は、其の炭酸同化作用の賜物だからである。
其れを考えると、神話に有る「天津日高彦火瓊々杵尊・あまつひだかひこ ほのににぎのみこと」が、天照大神から稲穂を授かって高千穂の峰に降臨した等との作り話は、此処らで消去して、科学的な認識に基いた考えを普及しなければ成らないと言う事であり、昨日のメッセージで「勘に頼る事は許さない」との言葉が告げられて来た事と、関係が有りそうである。
今朝の由香のビジョンにも「鳥」の世界が、映し出されて来たとの事である。
其の映像は、人間の言葉を話す鳥が棲む場所に居る場面と、田舎の農村地帯で、大型の鳥の雛を二十羽ほどを引率しており、道路から少し上がった小高い畑か田んぼの角から、「はい、飛んで」と声をかけて、飛び立つ練習を後押しして居たとの事である。・・
今朝の文章の題は、私が1984年6月4日に此の世界に飛び込んだ時に、白山菊理姫の本体である「白龍」が私の肉体に巻付いて来て、「地球の管理を任す」と告げて来た事と、本日「鳥神・鳳」が雛段に座って居た事を考え「龍神と鳥神」とした。
其れは、エジプトの有名なツターンカーメンの黄金のマスクの額に、「鳥(はやぶさ)」「蛇(こぶら)」が着いている事と関係が有り、古代から世界中で「蛇神」と「鳥神」は「ツイン・番・両目・双葉」で人間の「意識・脳」に関わりを持ち続けて来ているからである。・・・
「龍神と鳥神」https://green.ap.teacup.com/20060818/4989.html
四苦八苦の因縁を断ち切る事こそが、日本の「惟神の道」の考えと「禊ぎ祓い」の儀式の存在なのであろう。
其れは除夜の鐘を聴いても、初日の出を拝んでも、消去できない世界なのである。
2006/8/16・・日本の古い言葉に、「神は 始めに 水鏡で来た」とある。
其れは、水瓶に水を一杯に張って、自分の顔を映しこみ、自我を認識する事である。
其れが、漢字の監察の「監・カン」の意味である。
監の文字は、「皿+臣+人」の組み合わせで、「鼎・かなえに水を張って 大きく眼を見開いて 人が覗き込む姿」の象形文字である。
「監・カン」【解字】会意。金文は、「臣+人+皿」。臣は、目の象形。人が水の入ったたらいをのぞこむさまから、鏡に写して見るの意味を表す。監を音符に含む形声文字に、塩・檻・濫・艦・覧・鑑・・などがある。
【字義】(一)@みる。㋐上から見おろしてみさだめる。㋑見張る。また、取りしまる。「観察」「監督」Aかんがみる(鑑)。鏡や手本・先例に照らしてみきわめる。(二)@みる。Aかがみ。また、手本。いましめ。Bめつけ役。見張りの役人。・・・漢語林より・・・
「本番」http://star.ap.teacup.com/170606/1011.html
2000/8/20神は、水鏡から来たと言う伝説が有ります。
其の所為かどうかは分かりませんが、神社には鏡が供えられています。
昔の銅製の鏡では、人間の顔は、はっきりとは映らなかったのではないかと想いますが、其れでも鏡は、昔から長い年月伝え続けられています。
エジプトの、女神「イシス」の頭上にも鏡が付いております。
日本の山岳信仰では、岩鏡と言って、正面を向いた岩の平な面を、自分の魂を映す反射板として斎祈しております。
これらの事から考えると、「神様」の一番身近な処に、「鏡」が位置している事が理解できます。
私は、自分の体験から、この件を、次の様に理解しています。
人間は、神を意識する前に、自分を自覚する必要に迫られます。
神と言う、対象を見詰めるには、まず自分の自我がなくてはなりません。
その為には、自分の確認が必要ですが、其の自分に気付き、自我の確認をするのが、水鏡ではないかと考えられます。
日本語「鑑・かがみ」の語源が、「かがみ込んで 自分の影を見る」処から来ている様です。自分の顔を、一度も見た事の無い人間が、森の湖泉に映る、自分の顔に気付いた時の驚きは、どんなものだったでしょうか。
其れが、自分の顔だと気付くまでには、多少の時間が必要だったと想います。
その顔が、自分の顔だと気付いた時に、人間に、「自分」と言う意識が生まれたのではないでしょうか。
最初の人間が、其れに気付き、後の人間は、その事を、最初の人に教えて貰うので、もう驚きは有りません。
其れは、もう当然の事としてしか、傳わって行かないからです。
同じ様に、現代の宮司や神官が、皆に見方を教えてしまうので、教わる側の人の意識を素通りしてしまい、当然の事としてしか、伝わらないのです。
教育も、総て、その様に認識が起きないまま、意識の表層を流されて行きます。
今では、誰の鏡にも、自分の顔は、絵に描かれたものでしかないのです。
其処には、神の神秘はもう見出せないまま、トキが悪戯に過ぎて行きます。
だから、今では、絵の映らない鏡に向かって「鏡よ鏡」の儀式を続けて、無駄な時間を使っているのです。
何故かと言うと、当然と成ってしまった現象は、認識作用を目覚めさせる力が無いからです。
「神は 水鏡でやって来た」確かにそうなのです。
最初に、自分を見た者、其れが神の本体なのです。
神とは、認識の別の云いか方なのです。
其の理に気付いた、釈迦牟尼佛は「私は目覚めた。ブツダに成った。」と、謂い放ったのです。
そして、天照大神は太陽神ですし、イシスも太陽神です。
鏡で自分を見るには、太陽の光りがなければ成りません。
人間は、太陽の光りに拠って、自分の自覚が起きたので、光が神と成ったのです。神とは、「ただ今」の認識の中に住む働きなのです。
過ぎ去った、過去の意識の中にはいないのです。
鏡とは、ただ今の認識をする為の、神具なのです。
神は、水鏡で来たと言うのは、真実なのです。
其処にしか、真実の神の働きは有りません。
「神は水鏡で始まった」https://moon.ap.teacup.com/20061108/258.html
令和1年12月31日12時00分・正午
礒邉自適
2019/12/30
稲盆
1・12・30
今年も残り1日で終わる。
昨夜は、ゆっくりと入浴して居ると、「全て新しく成る」との言葉が、一言告げられて来た。
そして、眠ってからの映像には、木製の器の三種類「飯椀・汁椀・深皿」が夫々、其れ用に使う食材の中に、数個づつ置かれている場面が映し出されて来た。
次に、其れを何処かに運んで行かなければ成らない様子が示されて来て、どうして運んだら良いのかを考えて居ると、出雲の「安部忠弘氏」が現われて、運んでくれる事になった。
そして、奥さんが軽い食事を四角なお盆に並べて持って来て、「時間が無いので食事を早く済ませてください」と云った。
次の映像は、安部氏が持って来た車は、古い2トン積み程の大きさのダンプカーであり、荷物を積み込んで黒いシートで覆って、下がっている右側の枠を持ち上げると、留める器具が壊れている事が判ったので、落ちない様に紐で縛り付けて居た。
次に、私が出発しようとすると、私の作務衣や履物が無い事が判り、私が是まで欠かさず現場で持ち歩いていた、腰鉈のバンドが無くなっており、腰に帯びる事が出来ない事が判った。
其処で、出発できない事が判り、どうしたら良いかを考える所で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「2時13分」であった。
其れから再び眠ると、今度は私が、安部忠弘氏と二人で電車に乗って居る映像が映し出されて来て、安部氏の向かいの席に、産院からの帰りなのか、産まれて間もない赤子を連れた女性が座って居て、安部氏が立ち上がって赤子を覗きに行くと、其の赤子が包まれている籠の横に、モンキーバナナの小型の房が置かれている事が判った。
すると、私の左横に、其の女性の両親が並んで座っているので、私は其の人達に「何処に帰るのですか」と訊ねると、「稲盆です」と応答した。
今朝起きた・起こされた時刻は「7時15分」である。
今朝のメッセージは、昨日の映像に、「大皿の中に 米粒と刻んだ赤いトマトが混ざっている料理」と「器の中に玄米と刻んだ稲藁が大量に混ぜられている場面」が映し出されて来た事の続きの様である。
其れに、今朝のメッセージで気に成るのは、「稲盆」との言葉である。
其れで、先ず「稲・盆」の漢字を漢語林で調べて見ると、次の様に載っている。
「稲・トウ・いね。いな。」【解字】形声。「禾+トウ」音符のトウは、うすから取り出すの意味。うすから取り出す穀物・いねの意味を表す。
【字義】いね。五穀の一つ。
「盆・ボン」【解字】形声、「皿+分」音符の分は、墳に通じ、土がふき出た形の墓の意味。ふせた形が墳墓のようになるさら・ぼんの意味を表す。
【字義】@はち。ほとぎ。浅くて比較的大きな円形の物を入れる瓦器(ガキ・かわらけ)。国語。ボン。㋐盂蘭盆会(ウラボンエ)の略称。㋑盂蘭盆会(旧暦7月15日)の前後数日の称。㋒茶器。食器などを載せる、縁が低く比較的大きな円形の器。 漢語林より
此の「稲・盆」の漢字の意味からすると、本日臼で餅搗きが行われる事と関係が有りそうであり、「臼・お椀の中に米が入っている」との意味からすると、出雲の熊野大社の「保食神・うけもちのかみ・受け餅の神」の儀式や、其の餅を搗く「出雲大社・杵築(きねつき)大社」の存在が関係が有るのではないだろうか。
そして、其処に帰る「孫」を連れた夫婦の存在は、安部忠弘氏が一緒に乗って居た事を考えると、安部氏が稲田神社が存在する横田町出身であるので、出雲の「須佐之男尊」と「櫛稲田姫」であるとの事なのかも知れない。
だが其の赤子の側に、小型のモンキーバナナが一房置かれていたのは、どう謂う意味が有るのだろうか。
其れは、モンキーバナナが冬霜で枯れる植物である事を考えると、孫の父方の祖父母が屋久島以南の温暖な地域の者であり、誕生祝いにバナナを贈ったとの事が考えられる。
其の事を考えると、新約聖書のイエスキリストの記述に、冬場の雪の季節の場面が登場しない事が気に成って来るし、仏教の釈迦は熱帯の気候の中だからこそ、6年間も荒野で修行が出来たと謂う理・ことに成り、聖者の悟り・修行の場は冬場も野外で生活ができる気候・環境でなければ成らないと言う理・ことが考えられる。
其れに、お椀や食べ物を何処かに届けなければ成らない場面が映し出されて来て、安部忠弘氏の奥さんが「早く出発しなければ遅れる」との事を謂ったのは、皆の食料が切れる事を意味しているのであろう。
そして、私の履物や作務衣が無い事や、腰鉈のバンドが無くなっている場面は、私の仕事・役割りが無い・終わった事を示唆しているのではないだろうか。
其れにダンプカーが壊れていたのは、自然破壊に繋がる土木作業も終わった事が、示されて来ているのではないだろうか。
其れを考えると、昨夜入浴中に告げられて来た「全て新しく成る」との言葉は、現在の社会体制が全て崩壊する事を示唆しており、ゼロから全てが始まるとの理・ことが示されて来ている事に成る。
今朝起こされた時刻「2時13分」と「7時15分」の数字から、今年の2月13日と7月15日の文章を視て見ると、次の様な事が書いて有る。
2019/2/13今朝のメッセージの映像には「水計」との文字が映し出されて来て、其れは「時計・とけい・土計(土影計)」や「雨量計」「温度計」「体温計」「体重計」等と同じく「水計・みずはかり」の意味である事が理解されて来た。
今朝のメッセージの映像は、先ず、私が牛飼いを始めた20歳頃の生活が映し出されて来て、農家では屋久島一番の借金を抱えて苦しんで居る時の様子が映し出されて来て、意識が目覚めると、其れは全て解決している昔の意識が甦って来ているモノ・現象である事が理解できたので、再びそのまま眠った。
すると今度は、1983年3月18日に「土肥無庵」に捜し出されて、全ての事を止めた37歳の時と同じ様に、自分の家中の物を全て処分して居る場面が映し出されて来た。
だが其の家は、昔の私の自宅ではなく、鉄筋コンクリート造りの二階建ての家であり、狭い階段から様々な物を下ろしていた。
其れから、37歳の時は燃える物は全て、自宅前の安房川の岸辺で焼却したのだが、今朝の映像では野焼きが出来ないので、全て何処かの塵集積場に運んで行かなければ成らない様子が示されて来た。
次の映像は、実家から安房の町に下って行く途中に在る県の出先機関である「合同庁舎」から下る坂道の道路が映し出されて来て、其の道路の山側の側溝が大きな物であり、其の側溝の中には水が満タンに溜まっており、其の中に澤山の蟹の様な赤い生き物が蠢いて居る様子が映し出されて来た。
私が不思議に意って、其の生き物を能く視ると、其れは鋏が有る蟹ではなく、目鼻も無い、真丸の体に足だけが20〜30本程付いている古生代の生き物である事が判った。
そして、其の生き物を能く観察していると、頭に「テールエノール」との言葉・文字が映し出されて来た。
「テールエノール」を調べると次の様に載っている。
*テール〘名〙 (tail)テイル@ 尾。しっぽ。
*「enolエノール」という名前は、二重結合を表す「eneエン」にアルコールを表す「olオール」をつけ加えて作られた名前である。これに対して、カルボニル構造の互変異性形をケト形という。日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
此の「tail・enol」の意味から、私に考えられ事は、海原を治める役割を意味する「須佐之男尊・すさのをのみこと・苆の尾の命」の名前である。・・
此の「苆の尾の帰命」の文章には、「・・緑色の苔が人手・ヒトデの様な動きをして、私の手に移動して来た。」と書いて有るので、今朝映し出されて来た真丸の蟹の様な生き物と関係が有り、今朝のメッセージは古生代(約5億年前)の生き物のDNA・遺伝子の記憶の世界に迄、思索を深くしろとの事が示されて来ているのではないだろうか。
其の様に考えると、今朝其の生き物が居た場所が、県の出先機関である合同庁舎の前の下り坂の始まりの場所であった事に意味が有り、其れは国家・政府を挙げて、全ての関係機関合同で取り組まなければ成らないと言う理・ことなのではないだろうか。
其れは、昨日告げられて来た「ときの始まりとする」との言葉と関係が有り、先ず我々が取り組まなければ成らない事は、「生命・いのち」の実体・真実を見極めて、地球全体の自然環境の保全・調和を考えなければ成らないと言う事であり、其れが成されなければ、人類の平和・幸福は築けないと謂うか、お先真っ暗であるとの事なのであろう。
其の事を始める為には、自分の「エゴ・利己主義」を改めなければ成らないと言う事であり、其の為にこそ、自分の生活や人間社会に存在する不要な物事を、全て消去しなければ成らないと言う事である。
今朝「時計」や「温度計」の様な感覚で「水計」との言葉が示されて来たのは、時計で時刻を測る事や体温計で自分の体温を測るだけではなく、自分の肉体がどの様な環境状態の中に存在するかを、的確に深く認知する必要があると言う事が示されて来ているのであろう。
体温が高いかどうかは、体温計で測る前に判るし、水温や温度は体感できるが、生命を支えている空気の「気圧」や「湿度」、「重力」「引力」「磁気力」などは、殆ど気にしないで生活している。
其れ等の感覚器官は、昆虫や鳥などは今だに肌感覚で感知しているであろうが、冷暖房付きの丈夫な住居に住む人間が失ってしまった感覚である。
だが我々生命は、全て40億±2億年前に海で発生した微生物から進化した物であるので、基本的に一番大事な計りは「水計・みずはかり」であり、塩素が多く投入されている水道水を飲む人間は、其の水計が壊れてしまっている事に成る。
其れは、此の世に誕生した時に最初に肌に触れる「産湯」も同じ事である。
其れ等の事柄を考えると、近代都市に暮らす人々の殆どが、其の条件を満たしていないと謂う事に成り、昨日告げられて来た「ときの始まりとする」との言葉は、「馬の耳に念仏」や「猫に小判」と同じ事に成るのであろう。
今朝起きた時刻・起された時刻が「8時44分・9時16分前」であったので、いま試しに昨年の9月16日の文章を見てみると、何と須佐之男尊の写真付きで、水の事に付いて書いて有るので、今朝の「テール・エノール」の言葉の解釈が当たっている様なので全文を載せて措く事にする。・・
此の「視覚を失った闇の世界」との言葉を考えると、釈迦が予言している「弥勒菩薩が下生して 闇の世に灯りを点す」との事が、現実と成るとの事なのかも知れない。
「水計」https://green.ap.teacup.com/20060818/4899.html
2019/7/15今朝のメッセージの映像は、先ず、10代の小学生達が、良い子のグループと、悪い子のグループが、別々に、集団で自然の中で遊んで居る場面が映し出されて来た。
次に、町の中で祭りが行われている様子が映し出されて来て、各班の子供神輿の列が、河川に架かる太鼓橋の上を渡って来る場面が映し出されて来た。
私は、自分の長男である「海生」と、昼飯を一緒に食べようかと思って人垣の中に入って行ったが、途中で海生の姿を見失ってしまい、会う事が出来なかった。
其の映像の意味に付いて考えて居ると、「良い子 悪い子」との言葉が頭に浮かんで来たので、意識が目覚め起きて時計を見ると、時刻は7時16分であった。
其れからPCを立ち上げて、昨年の7月16日の文章を視て見ると、次の様に書いて有る。・・
此の文章を書いて・打ってから明日で丸一年と成る。
其の事を考えると、今朝のメッセージは「子供達に 神に対する信仰心(依存心)を 持たせては成らない」との事が、示されて来ているのではないだろうか。
其れは、釈迦牟尼世尊、老子、イエスキリスト等の偉人が、宗教団体や建物を建設し、神頼みをする事を戒めているので、顕かな事である。
其れを考えると、私の両親は神社や寺院に子供達を連れて行く事は、一度も無かったし、私が産まれ育った松峰区(開拓村)には神社が存在しなかったので、神社の行事など何も無い環境であった事が関係有りそうである。
だが私の息子は、母親「美代子」が創価学会の信者であるので、現在でも学会活動・公明党の活動に染まったままである。
其れを考えると、今朝のメッセージも「精進」「禊ぎ祓い」とのテーマと関係が有り、最初から禊ぎ祓いが必要に成る様な事は、しなければ良いと謂う事に成る。
だが今朝のメッセージの映像には、良い子(素直な子)と、悪い子(悪戯子)のグループが、別々の集団で遊んでいる場面が映し出されて来た。
其れに、子供神輿は、其の子供達が一人残らず参加する行事なので、何等かの集団行動・活動が、必要不可欠であるとの理・ことが示唆されているのであろう。
其の最大のモノ・世界が、学校教育の存在である。
其れを考えると、学芸会・運動会・遠足・修学旅行などが、其の一環であると言う事に成るであろう。だが、其れだけでは、天神(てんのはたらき)や「御祖神・みおやかみ」・先祖霊等の存在を傳える事が出来ないので、何らかの手段・方法が、必要であると言う事に成りそうである。
今朝は、由香に「何かビジョンを見なかったか」と訊ねると、見たとの事であり、其の内容は次の様なモノである。
先ず、広い真直ぐな道を歩いて進んで行くと、突き当たりの右の角に「黒柳徹子」が立って居て、其の右手の直ぐ横には岩肌が剥き出しに成った場所が在り、其処は何人かの人が亡く成った場所である事が伝わって来た。
其処で、手を合わせて禱りを捧げた後、その横にある建物に入っていくと、古民家を再生した趣のある建築で、とても心地の良い空間であったとの事である。
突き当たりの左手には、小さな建物があり、其処は道を歩いて来た人達の休憩所に成っている様で、中に入るとインドの神様の様な出で立ちで、恰幅の良い、宝石・アクセサリーを身に着けた人達が3,4人ほど居て、自分用に小さな薄紫のクリスタルが付いた耳飾のような物が置いてあり、「もっと欲しいのなら、まだある」と謂われたが、欲しいと思わないので、そのままにしていたとの事である。
次の映像は、父方の祖母が出て来て、「墓に物凄いお金を掛けてきた」という趣旨の事を謂うと同時に、数式が出て来て、それを計算するのに疲れたとの事である。
其の後、実家を中心に、右手にある神社の随身門、左手奥にある本家、左手の山上にある観音堂(十一面観音)の三つの場所が順番に示され、「深く掘り下げて調べなければ」と、強く感じていたとの事である。
其れらの場面は、墓・本家=亡く成った場所=先祖供養・鎮魂、古民家=随身門=神社、インドの神=観音=仏教 と、関連している。
其の由香のビジョンから、私が即座に考えた事は、男性の役割は本来「狩りに出掛ける」「家族・部族を守護する為に戦う」に有るので、外向きの活動が目的・本能であり、其れが現在では、政治・経済・教育・宗教・芸術・建設などの分野と成っていて、行動力・想像力が必要とされているので、其の為に、男子は子供の頃から、仲間造りや、自分の能力の向上に務める・修行する必要がある理・ことに成る。
其れを考えると、女性の役割は、子育てや家事に能力を発揮する事にあるので、暮らしの伝統を継いで行かなければ成らないと言う事であり、先祖供養や、町村での文化行事は女性の役割・役目であると、理解できる事に成りそうである。
其の様に考えると、今朝の二人のビジョンは、男性と女性の役割と謂うか、立場が示されて来ていると捉えても間違いではないだろう。
「黒柳徹子」の名前の「徹・テツ・とおる」は、辞典に次の様に載っている。
「徹・テツ」【解字】会意。甲骨文は、鬲+又。鬲は、かなえの象形。又(手)を付し、食後のあとかたづけをするの意味を表す。常用漢字の徹は、「彳+育+攴」の会意文字。育は鬲の変形、攴は又の変形。一般に、事が最後のかたづけにまで行く、とおす、とどくの意味を表すようになり、彳を付した。
【字儀】@とおる。(通)また、とおす。突き通す。「貫徹」「徹底」Aとどく。達する。とどける。Bあきらか。「明徹」Cのぞく(除)取り去る。はぎ取る。また、捨てる。Dこわす。こぼつ。Eつらねる。(列)。つらなる。F夜を明かす。 漢語林より
此の「徹・テツ」の漢字の意味からすると、今朝のメッセージは、男女ともが、自分の役割を「貫徹・徹底」しなければ成らない理・ことが、示されて来ているのであろう。
其れを考えると、「男女同権」などの言葉・概念は止めて、男性は女性の、女性は男性の役割を、互いに認知・理解して、尊重しながら、相互協力に努めなければ成らないと言う事であり、其の理を第一義として、社会の組み立てを、行って行かなければ成らないと言う事に成るのであろう。
そして、其れを第一義とすれば、宗教や天皇家の存在も必要では無く成るし、天皇陛下が交代する度に、年号が変わる様な面倒も無く成る事に成る。・・
是等の文章に目を「徹・とおす」と、私は36年前に「土肥無庵」に捜し出されて、真実の答えを得る為に、此の世界に送り込まれた事の、答えを導き出したのではないだろうか。
其れは、人間が万物の霊長として、どう在るべきか鉄則である。
今朝の文章の題は「良い子 悪い子」としたが、其れは子供達自身に罪が有るのではなく、其の子供達が育った環境条件に有るので、其処の事・件から、私に対策を図れと言う事なのかも知れない。
「良い子悪い子」https://green.ap.teacup.com/20060818/5053.html
今此処で「1月15日」の日付が告げられて来て、其れは7月15日の反対側に当たるので、視て見ると、次の様な事が書いて有る。10時33分
2019/1/15今朝のメッセージの映像は、昨日のメッセージで「新しい自適が完成した」との事が告げられて来て、私が「智慧が完成した」との言葉を打った事と関係が有る様で、其れは個人的(部分的)な世界であり、全体的な事を、私が把握しているとの事ではない理・ことが示されて来たモノの様である。
今朝のメッセージの前半は、私が屋久島で海に潜ってイセエビ漁をする事や、海岸の河口で砂利の選別や採取を行う事、其れに道路を通したり公園の様な物を整備する事等で、人々を指導している場面が映し出されて来た。
其れから後半には、私が校長先生の奥さんが経営する民宿の手伝いをして居る場面が映し出されて来て、私が布団が敷かれている部屋で、布団を片付けずに作業を行った為に、布団カバーや敷布や汚れてしまい、奥さんに怒られる場面や、食堂の掃除を始めると、東京で生活文化に付いて出版活動を行っている男性社長が奥の席で朝食を摂って居て、其の男性に注意される場面等が映し出されて来た。
其れは、田舎での野外生活・活動に付いては、私は指導的な立場・役割は果されるが、都会生活や客商売等の世界では、未熟である理・ことが示されて来ている事になる。
何故、今朝其の様な課題に付いて、私が夢を見る事に成ったかを考えると、私が昨夜、動画でアフリカ象の生態に付いての番組・映像を見ながら、人間の男性は様々な情報を後世に傳え残す事ができるが、象の世界で其れを行っているのは群れを統率し導いている「お婆さん象・母象」であり、雄は交尾の時だけ顔を出すだけで、象社会全体を導く情報は持っていないと謂う理・ことを考えた事が、引き金と成ったのではないだろうか。
今朝は、其れ等の事を考えて居て「智慧の完成」との言葉が頭に浮かんで来たので、以前の文章を「智慧の完成」で調べると、次の様な文章が有った。・・
其れに、私が1997年3月21日に出雲の安部忠弘氏の別宅で、安部氏と共に第一回「呟学」の会合を開いた日の朝の映像に、中年の婦人達が数人登場して、私よりも生活術が長けている様子が映し出されて来て、私は其のメッセージで其の日の学習テーマを変更した事が有る。・・
今朝のメッセージの内容から、私に考えられる事は、私は個人的には「自分・みずからのわけ」との言葉は消化出来たのだが、人間社会全体に対して指導できる立場上での智慧が完成した分けではない理・ことが、示されて来ている様である。
だが、2013年3月21日「遍照金剛」の女神の言葉からすると、私は人間社会に直接嵌まり込んでしまう事は、自分の役割を果たせなく成るとの事の様であるので、私は昨日の文章に「・・私は他の事に付いて考える事は一切無く、自分自身の心身の管理を徹底的に行えば良いと謂う事であり、其れを完璧に行いさえすれば、自分の役割を遂行する事が出来ると言う理・ことの様である。・・・」と書いた事を、維持すれば良いのであろう。
「生活の智慧」https://green.ap.teacup.com/20060818/4869.html
此の文章の内容からも、私は何が起きても現場に出向く事なく、今のPC作業を黙々と続けて居なければならないとの事なのであろう。
今日は、聖書について、江藤敬介氏に訊ねたい事があったので、電話をかけてみると、今朝の江藤氏のメッセージには、貨物船の船員が、毎日船上で飲んだり食ったりのパーティを続けて、港に入港した時には、積荷が無くなっているので、荷主の男性が困り果てて居る様子が映し出されて来たとの事であった。
私は其の話から、其れは現在の政府(国家)の状態や、経済活動(銀行・保険等を含む)の組織が其の様な状態に成って来ており、やがて終末を迎える時には、中身(府貝)が空に成っており、全ての組織(船)が崩壊してしまう事を考えた。
江藤氏に、何故聖書の中に、雪の中でのイエスキリストの言動が見当たらないのかと訊ねると、「乾燥地で湿気が無いからであり、イエスキリストの言葉に『其の時が 冬でない事を祷りなさい』と有るので、冬期には自然の中には食べ物が無い事を示唆している。」との事であった。
其れを考えると、確かに日本でも冬間に未曾有の危機が発生すれば、大変な事に成る事は疑いようが無い。
何れにしても、私の役目は、滅びの事案に関わる事なく、ただ未来思考で、此のPC作業を続けて行きさえすれば、果たせるとの事なのであろう。
令和1年12月30日
礒邉自適
2019/12/13
大同 完結
1・12・13
本日12月13日金曜日は、私が1984年11月半ばに全国の旅に出発して、岩手県の五葉山の山中でイエスキリストの御霊と遭遇してから、丸35年の日である。
2004/12/13「キリストの手足」https://star.ap.teacup.com/170606/501.html
今朝のメッセージの映像は、先ず、昨日の文章に書いた「宇宙に糸を張り巡らす蜘蛛・スパイダーの存在が意味する物」との事と関係が有るのか、天界に張られている網糸を操る金属性の道具の存在が示されて来た。
そして其れは、弘法大師空海が手にする「三鈷・さんこ」の世界や、天空を両翼とする鳳が私に手渡した三個の渦巻きにも通じる事が、理解されて来た。
次に、長方形の箱の先端に一個の「球(一品宝珠)」が入っている場面が映し出されて来て、其の球の出し入れは、手元の左横からできる事が示されて来た。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「2時17分」であった。
其れから再び眠ると、今度は年輪が経った屋久杉の板が、壁や天井に張られている座敷の存在が映し出されて来て、其の部屋は一組だけの客を入れる予約制の料理屋であり、40歳くらいの男性が経営して居るのだが、其れでは生計が立たないので、奥さんが事務系の仕事に勤務している事が示されて来た。
次に、40歳くらいの「ブラックマリア(肌が黒く輝いている女性)」と呼べる様な、品位が高くスラリとした黒人女性の存在が映し出されて来て、其の女性は、あらゆる自然の物と調和している理・ことが、多数の写真で示されて来た。
次に、優秀な40歳代の日本人男性の存在が映し出されて来て、其の男性は工芸家であり、素晴らしい生活用品や調度品を澤山作っている様子が映し出されて来た。
次に、裕福な家に育った40歳代の白人男性の姿が映し出されて来て、其の男性は全ての物を失う事に成ったのか、打ちひしがれている様子を示していた。
其処で「大同 完結」との文字が映し出されて来て、意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「6時1分」であった。
其れから、花の花びらが散っているかの様に、数字や記号が曼荼羅の様に乱舞している中央に、「2175」の数字が有る場面が映し出されて来て、起きて時計を見ると時刻は9時13分であった。
其れから、「大道完結」ではなく、何故「大同」なのかが気に成るので、PCを立ち上げ「大同」を調べると次の様に載っているので、今朝のメッセージの意味が腑に落ちて来た。
【大同】ダイドウ 漢語林より
@差別をつけない。
A天地と一体になる。よく同化する。
B太古、無為自然の大道の行われた平和な世。
C公羊学でいう、天下が統一され、民族の差別がない平和な世の中。→大同書。
D人心がよく和同すること。
E大同小異。
此の「大同」の意味からすると、「大同 完結」との言葉は、「A天地と一体になる よく同化する 事が完結した。」との意味に成る。
だが、「大同」と「完結」の文字の間が離れていた事を考えると、其れは人類全体がそう成ったとの事ではなく、私だけか、一部の人達が其の様に成ったとの事ではないのだろう。
其れを考えると、最後に数字や記号が、花びらが散っているかの様に乱舞している中央に、「2175」の数字が有った事は、人類全体が「大同完結」するのは、2175年であるとの理・ことなのかも知れない。
其の様に考えると、今朝のメッセージは、其の間に、我々人間が取り組まなければ成らない課題が示されて来ているのかも知れない。
*私が「帝釈天の網」や、「一品宝珠(龍神が手にする球)」の扱いを熟知しなければ成らない。
そして其の理を、新時代のモラル・智慧・精神的な柱としなければならない。
*人間の文化・価値観を改めなければ成らない。
・男性意識を屋久杉の年輪の様に、緻密に永遠性を確立しなければ成らない。
・人類の発祥が、アフリカ大陸の中央高原で650年前に突然変異した一匹の新種の類人猿が始祖である理・ことを、明確に認識しなければ成らない。
・真実の男性の役割は、戦争を起こして生命や物を破壊をする事ではなく、芸術性を高め、生活を豊かにする事に努める事にある。
・白人が此処まで築いて来た、西洋の価値観に拠る文化・文明が、東洋的文化文明に変る。
今朝起こされた2時17分と6時1分・9時13分の数字から、今年の2月17日・6月1日・9月13日の文章を視て見ると、次の様な事が書いて有る。
2019/2/17昨夜は一眠りすると、意識が目覚めたので照明を点けて時計を見ると時刻は「2時17分」であるので、私は2月17日の2時17分に起された事を自覚した。
其れから再び眠ると、今度はとてもリアルな映像が映し出されて来た。
其の場面は、天才的な幼児や子供達がテレビの様な放送媒体で歌をうたう映像が映し出されて来て、何故か私は其の番組を見た記憶が有り、其の番組を何時・何処で観たのか、記憶を探ってみたが思い出せないでいた。
次に、其の子供達が大人に成ってから集まって来る場面が映し出されて来たが、其の人達は、全て子供の時の様な能力を失ってしまっているのである。
其の理由を探って居ると「声はシフトする」との言葉が一言告げられれ来たので、照明を点けて時計を見ると時刻は「3時36分」であった。
其れから、再び横に成り、其れ等の内容に付いて思いに耽って居ると、私が子供の頃から、父親に対しても自分の意見を通して居た事が思い出されて来て、其の私の言動と謂うか行為は、現在までも続いており、其れが「大日如来・マハーヴァイローチャナ」の真言・マントラと関係が有るのだと思えて来た。
そして、左耳に「耳鳴り」がして来たので起きて時計を見ると7時21分であった。
今朝はPCを立ち上げて、先ず「シフト」を調べると次の様に載っている。
シフト〘名〙 (shift)
@ 位置や状態、体制などを移行させること。また、移行すること。「シフトキー」「シフトレバー」
此の「シフト・shift」の言葉の意味からすると、今朝告げられて来た「声はシフトする」との言葉は、昨日の「半端じゃない」との文章に書いた、
・・此の文章の内容から考えると、今朝のメッセージの映像に登場した緑色の服装をした一人の男性の姿は「キリスト・メシヤ」の存在を示唆しており、其れは「グリーンマン」や「クライマックス(森の極相)」と関係が有るのではないだろうか。何故かと謂うと、死海文書に記されているイエスキリストの言葉に、「貴方達は何処から来たかと訊ねられたら、『光の元から来た』と答えなさい。神は何かと訊ねられたら、『此の大自然そのままである』と答えなさい。」と有るからである。其れに、「グリーンマン」や「クライマックス(森の極相)」の西洋の言葉は、日本の「素戔鳴尊・すさのおのみこと」の言動に関係して来る。・・・
との事と関係が有り、文字や言葉は時代や国の違いに拠って変化するが、声自体は、時空を超えてシフトして行くと言う事なのではないだろうか。
其れは「林檎」を「アップル」、「海」を「シー」と謂っても、頭に有る映像場面は同じ物・世界であるので、時代や世界が異なっても、人間の脳のシステムは同じ様に働き続けていると謂う理・ことであり、思考から生み出される声(言葉)は何時の時代・何処の場所であっても、シフトして行くと謂う理・ことなのではないだろうか。
其の様に考えると、私に起きた4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」現象は「時代・場所・文化」を越えて、同じ意思の下に4311人の霊魂が集まって起きた事の謎が解けて来る。
其れに、今朝起された時間が2月17日2時17分であったのは、本日2月17日が「祈年祭・としごいのまつり」の日である事と関係が有り、「祈年・禱年」との言葉が、今朝告げられて来た「声はシフトする」との言葉と関係が有り禱りの言葉は、永遠にシフトして行くと謂う理・ことであり、其れが「キリスト・メシヤ・帝(みかど)・マイトレイヤ」の「言葉・みことのり・玉音」の世界であるとの理なのであろう。
本日は、私が1998年2月17日に、「祈年祭」の日を初めて意識して行動を起してから、丸21年と成る日である。・・
此の7月21日の文章と、本日が「あべ未来研究所」を登記してから丸21年である事を考えると、「21」の数字は「3年が七回」「7年が三回」の数字であるので、人間の意識のリズム(イザ波)の世界と関係があり、我々の意識(生命)を管理している仕掛けには、数字(リズムの法則)の世界が絡んでいるとの事なのかも知れない。
其れを考えると、「声はシフトする」との言葉が告げられて来たのが、3時36分であったのは、昨日の「96」の数字と関係が有り、「3+3=6。3+3+(3+3)。」の数式が示されて来ており、老子の謂う「三から全てが生まれる」との理・ことや、矢追日聖法主が謂う「三の数字は一人歩きをする」との言葉と関係が有るのかも知れない。
其れは、今朝の映像に映し出されて来た天才的に歌をうたう「幼児・子供」の存在と関係が有り、子供達が自由に歌う心を潰しては成らないと言う理・ことであり、神に仕える人間・人材は、子供の時から自由に歌・唄をうたえる「童部・わらわべ」であると謂う理・ことであり、教育と称して、過去の人間の情報を分別の無い幼児・子供の脳に、詰め込んでは成らないと言う理・ことなのであろう。
何故なら、自由を失った人間の思考では「禱り」の行為は、不可能であるからである。
「声がシフトする」https://green.ap.teacup.com/20060818/4903.html
2019/6/1今朝のメッセージの映像には、「女神・観音菩薩」を一体含む九体程の神仏の「存在(働き)」が、一枚の紙か額の様な物に表現される場面が映し出されて来た。
そして、其れが消えた後か、其の世界(額)の裏側なのかは判らないが、白い空間に、紅色系の牡丹(ぼたん)の様な花が、表現できない程の美しさで満開に咲いている場面が映し出されて来た。
そして、私は其の神仏・観音の働き・存在が表現される「曼荼羅・マンダラ」の様な世界が、私の意識を此処まで育てる為の背景に有った理・ことを、理解して居た。
其れで、其の存在に感謝の念が湧いて来て、其れを表現する言葉として「謝霊」との文字を考えて居ると、蚊の羽音が耳元で聴こえるので、右手で追い払おうとすると意識が目覚めたので、起きて時計を見ると、時刻は「6時53分・7時7分前」であった。
其れからPCを立ち上げて、「牡丹」と「曼陀羅華」を調べると、次の様に載っている。・・
此の開闢の説明からすると、昨日のメッセージの映像に、大きな「招魂木・おがたま」が一本伐り出されて、其れを中央の柱として、三層・三階建ての施設を造る為の桁(けた)を嵌め込む切込みが為されている場面が、映し出されて来た事が関係有り、其れは、天界(宇宙)の「神霊・如来」の働きが、三層の舞台として、参集すると謂うか、動き出す事が示されて来ているのではないだろうか。
其れに今朝、蚊の羽音で起された時刻が「6時53分・7時7分前」であったのは、7月7日が七夕である事と関係が有り、天の川(銀河・星雲)の存在と「招魂木・おがたま」の概念が関係有るとの事なのではないだろうか。
其れは、御神木(ツリー)やトーテンポールの概念が世界中に存在する事と関係が有り、人間の意識を天神と結ぶ為には、重力(G)に逆らって天空に伸び上がる樹木の存在・姿が欠かせないとの理・ことにも成るのだろう。
「チベットマンダラ」の始まりは、大きな樹木の幹の中央に「釈迦牟尼世尊」が座って居る姿が描かれている物であり、次が、其の釈迦の左右に二体の如来・菩薩が座る構図と成り、現在の両部曼荼羅へと発展(複雑化)して来ている。・・
其れに、私が屋久島から自分の荷物を全部、現在の自宅に運び込んだ日が2012年7月7日であるので、今年の7月7日で丸7年とも成る。
昨日告げられて来た「是で始める」との言葉は、愈々お膳立てが整ったとの事なのかも知れない。
其れを考えると、「招魂木・おがたま」の棚段の仕組みを、考える必要があるのかも知れない。
今朝の文章の題は「謝霊」にしようかと想ったが、美しい牡丹の花の様子から「曼荼羅華」とした。
「曼荼羅華」https://green.ap.teacup.com/20060818/5008.html
2019/9/13今朝のメッセージは、先ず、人間社会にて、私が他人に自分の物・モノを次々に盗まれて行く場面・様子が映し出されて来た。
そして、其の結果として、私に残されている物が、箇条書きではなく、横書きの日本語の文章で五段程書き出されて来て、盗まれた部分は・・・の印で表されていた。
そして、其の残された物の中で一番重要な物が、私の「苗字・姓」である「礒邉・磯部・石部」である事が示されて来た。
そして「ポテンシャルを高める」との言葉が告げられて来た。
其れで私は、「織田信長」や「徳川家康」は苗字が有るが「秀吉」は素性がはっきりしないので苗字(木下も出所不明)が無かった事を思い出し、自分の「いそべ」の姓や、奈良の「石上神宮」の名前の事に付いて色々考えて居ると、「勝正・かつまさ」との文字が大きく映し出されて来たので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「6時6分」であった。
其れから再び眠ると、今度は「充分な練習を積んだ」との言葉が告げられて来たので、起きて時計を見ると時刻は「6時43分・7時17分前」であった。
其れから、PCを立ち上げて「ポテンシャル」「姓・苗字・かばね」に付いて調べると、次の様に国語辞典に載っている。・・
何れにしても、今朝告げられて来た「充分な練習を積んだ」との言葉は、私が本番を迎える事を示唆しており、其の為には「ポテンシャルを高めて勝正で在らなければ成らない」と、言う事なのであろう。
其れを考えると、やはり、昨日の子供達の応援してくれる姿が、一番の力添えに成る。
「充分な練習を積んだ」https://green.ap.teacup.com/20060818/5114.html
此の三日分の文章も、私が或る次元に到達した事が示されており、私は是までの体験・経験を土台として、自分の役割をきめ細く精査して行かなければ成らないのであろう。
令和1年12月13日金曜日
礒邉自適
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