言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2020/6/27
231・文始め
2・6・27
今朝のビジョンは先ず、私の意識が、太陽光・日当たりの良い山丘が連なる谷間の村々を視て廻っている様子が映し出されて来て、私が通過した場所の跡には、足跡を意味するのか「点々・・・」や、コースの意味なのか「線 ―」が残っている映像が映し出されて来た。
そして、場面が変わり、其の点と線は、私の現地調査後の記録・報告文書の事を示唆している事が、示されて来た。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「2時31分」であったので、私は其の数字を「231・ふみはじめ・文始め」と記憶して再び眠った。
すると今度は、戦争で焼けたのか、大津波が襲って水に浮く物が全て流されてしまったのか、鉄や石の様な物しか残っていない町の址が映し出されて来て、私は一人で其の中を歩いて、砥石や金梃子(てこ)等を拾いながら、歩いている場面が映し出されて来た。
次に、私は定期船が通っていない離れ小島に、自宅と成る家を手に入れて、生活用品を揃えて居る場面が映し出されて来て、其処は他人の影響が何も無いので、静かに暮らせる事を確認して、安らかな気分に成って居た。
だがガスコンロのガスが無いので、煮炊きをする竈を作らなければ成らないと意って居た。
次の映像は、其の小島ではなく、本土の様子が映し出されて来て、地面には毒の有る「水仙」しか生えていない様子が示されて来て、其の理由は食料難の為に、他の毒の無い草が、全て食べられてしまった結果を示している事が、理解されて来た。
次に、人間が通らなく成った山道に、木々が育ち始めている様子が示されて来て、森の中では、私の知り合いらしき樹医をしている男性が、老木(御神木)が出来るだけ長生きする様に手入れをして居る場面が映し出されて来て、私は其の男性と樹木の事に関して色々話して居た。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「4時55分・5時5分前」であった。
其れから再び眠ると、今度は雨音と共に雷鳴が轟き始めた。
そして、其の音を聞いて居ると、空気中に溜まって来ている「+・−」の電気粒子の所為か、雷から空中に放射・伝波されている「電気・磁気・大山祇神」との繋がりなのかは判らないが、様々な世界が瞼・脳裏に映し出され始め、私は其の映像が余りにも現実的な場面なので、昔の人が雷を「かみなり・神鳴り」と呼んだり、「神・シン・ジン」の漢字を「示(祭壇)+申(電気・雷)」としているのかが、理解される様な気がしてきた。
其れから、女性・女神の聲で「現れたくない」との言葉が一言告げられて来た。
其れは、地球全体・生命全体の事を考える女神が、暴走・破壊を止めない人間の数を減らさなければ、どうにも成らない次元に至っているのだが、其れを始めれば、感謝される所か、逆恨みされて、「悪魔・悪神」であるかの様に受け取られかねない事を、気にしている事が理解されるモノであった。
其処で起きて時計を見ると、時刻は8時24分である。
今朝の最初の場面は、太陽の「陽」の漢字と、「郡」の漢字の世界が示されて来ており、人間の暮らしの原点を見つめ直す必要がある事が示されて来ているようである。
キー「陽 郡」
2014/9/14本日の日付は「9・14」で、149の数字は123の二乗である。
第一次世界大戦は、1914年に始まり、第二次世界大戦(日本参加・太平洋戦争)は、1941年に始まっている。
今朝は、起きて洗面を済ませ、PCの前に座ると「愈々ですね」との言葉が有ったので、女神のブログを開くと、続きの言葉が告げられて来た。
「愈々ですね」
貴方の本番が 近付いています。
貴方は 既に 御存知の様に
自分の躰は動かさなくても 事は順調に進んでいます。
貴方は 動かない事で
貴方の能力は 最大限に生かされているのです。
ですから 此方の準備も 順調に整っているのですよ。
よくしたもので 其の方が 皆が遣り易いのです。
何故なら 皆に自由が 生まれるからです。
是までの 八回の失敗は 其処に原因があり
頭がこければ 全体が こけてしまったからです。
どうやら 貴方には もう 其れが無いようですね。
良いですか 考える事と する事は 別なのですよ。
貴方は 良く解かっていると 想いますけど。」「愈々ですね」
今朝のメッセージの映像は、先ず、昨日の続きの様で、神の光の中で、人間の躰の五臓六府の仕組みや、五感である「視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚」などの働きが、全てバラバラにされて、其の働きを、明確に認識する必要がある事が示されて来た。
其れは、男女の肉体の仕組みの違いや、五体の骨組・筋肉組織・神経組織・血管網などや、爪・髪・髭・歯、其れに脳の働きなど迄、全てを認識する事である。
次の映像は、雪が降っている真冬の天候の中に、私が歩いて居り、途中で数人の女性が、氷が張る湖の側の土地で、食べられる野草を雪の下から捜し出して、摘み採って居るのに出会った。
其の中の一人が、私が普通の服装をしているので、自分の黒い毛皮のコートと、帽子と手袋を貸してくれた。
私は、其れを着て、自分も野草摘みを手伝っていた。
すると、誰かが、車で私を迎えて来たので、借りて着ていた物を脱いで、其の女性に返した。すると、其の女性が、心配そうに「大丈夫ですか」と、私に問うた。私は、其の慈愛に満ちた女性の顔を見て、何処かで会った事のある、懐かしい顔であると思った。
だが、其れが、誰だか判らないでいると、映画で観た事のある、イエスキリストの母親「マリア」ではないかと思えて来た。
其処で一度目覚めて、トイレに行き、再び眠った。
すると、木造の古い田舎の家屋の中に、私は居て、他にも数人の同じ年代の男性が居て、土間で薪ストーブ焚いて暖を取っていた。
そして、私が外に出て見ると、30代後半の男性が三人来て居て、巻尺で屋敷の周囲を計測して居るので、私が「貴方達は 何をして居るのか」と厳しく尋ねると、責任者の男性が「貴方が 代金を払わないので 利息が膨らんで300万円を超えたので 屋敷を競売にかけるのだ」と、言うのである。
私は、物を買って代金を払っていない覚えも無いし、屋敷を抵当に入れた覚えも無いので、其の男性に「会社と自分の名前を云え」と言ったのだが、其れに対して何も返答をしないのである。
其の様な問答をして居ると、其の男性の仲間が二人・三人と次々に遣って来て、段々の数が増えて来たので、私は其の人達に、日本語の「ひと」との言葉は、「霊留・ひと」で「霊が留まる」との意味であり、霊魂が留まって居無い人間は、「只の空だ・ただの肉体だ・殻」と、説教を始めた。
すると、段々の人数が増えて来て、屋敷内に入り切れなく成って来て、近所迷惑に成るので、観覧席の在る競技場の様な所に移動した。
そして、其の競技上の様な場所も一杯に成って来た。其れは、男性ばかりなのだが、中に三人だけ女性が並んで座っていた。
其れから、自宅に帰って居ると、大きな車の後部座席に、60歳位の立派な男性が三人乗って、私を訪ねて来た。
そして、其の三人の男性を家に通すと、私の書いた文章が、長々と映し出されて来て、其の文章の中に「阝」と「易」の文字が有る事が、強調されて来た。
今朝のメッセージの映像は、其れだけなのだが、全体的な繋がりが、私にも良く解からない。
今朝の映像で、雪の中で野草を摘んで居た、数人の女性の他は、私の所に集まって来たのは全て男性だったのだが、観覧席に三人だけ女性が居た。
其の三人の女性は、姉妹の様だったので、「宗像三女神」を意味していたのかも知れない。
そうすると、最後に、私の家に訪ねて来た立派な三人の男性は、「造化三神」だったのかも知れない。
其の様に考えると、今朝の映像に登場した人物は、全て現実界の人々ではなく、神界か霊界の人々であったと言う事に成って来る。
何故、今朝の映像で、何百人もの男性が、私の話を聞きに、集まって来たのであろうか。
其れは、今朝の女神の言葉に有った様に、愈々本番が始まるとの事であり、此の三次元世界である現実界にも、何等かの兆候が表れるのであろうか。
今朝のメッセージではっきりしているのは、私が、多くの男性に説法を始めた事と、私の長い文章が映し出されて来た事である。
其の私の文章の中には、「阝」と「易」の文字が有る事が強調された。
其の「阝」と「易」の文字は、合すと「陽」の漢字と成り、太陽の陽である。
*「陽・ヨウ」形声。阝+易。音符の易は、日が上がるの意味。おかの日の当たる側、ひなたの意味を表す。」
【字義】「@ひ(日)。Aひなた。日の当たる所。山の南側。川の北岸。B易の用語。天・春・夏・日・天子・君主・父・夫・風・火・剛・仁徳・奇数などのように、主に積極的・男性的な性質を持つもの。Cあらわれる。また、あきらか。Dそと(外)。うわべ。また、うわべだけの見せかけ。Eきよい。すむ。
Fたかく大きい。また、貴い。Gいきる。また、生。Hいつわる(偽)。
漢語林より
其の、陽の文字を使用した言葉には、次の様な単語がある。
「陽澤」天子の恩徳をいう。
「陽道」⇔ 陰道。@陽の道。男子。君子。父・夫として取らなければならない生活態度。A太陽の軌道。B男子の生殖力。C山の南側の道。
「陽徳」@陽気。万物を成長させる気。A太陽。
此の、「陽」の文字の意味を考えると、慈悲の顔を持つ聖母マリアらしき女性が、厳寒の中で野草摘みをして居たのは、ただ単に「飢え」を意味しているのではなく、「陰徳」の世界を示していたのではないだろうか。
「陰性」⇔陽性。@暗い・消極的な性質。
「陰道」⇔陰道。@陰の道。臣・子・母・妻としてとるべき道。A喪事や戦争。B月の軌道。C女子の生殖力。D山の北側の道。
「陰徳」@人に知られない善行。A地の徳。地が万物を育てている徳。
転じて婦人の徳。婦徳。
*「陰・イン」は「阝+侌・今」の組み合わせで、音符の「今」は、含に通じ、含むの意味。雲が太陽を覆い含む意味から、くもり・かげの意味を表す。のち、篆文は、云を付し、雲につつまれるの意味を明らかにした。
【字義】@かげ。アひかげ。日のあたらないところ。㋑物におおわれている所。「樹陰」㋒山の北側。また、川の南岸。Aおおう(蔽)また、おおい。Bくもる。かげる。C移って行く日かげ。転じて、時間。「光陰」D暗い。Eしめる。また、しめり。Fひそかに。ひそか。G男女の生殖器。特に、女性についていう。H易学の用語。陽(男性的・動・剛)に対して、消極的・女性的なもの。地・水・女・静・内・夜・月・雨・寒・秋・冬などをいう。⇔ 陽。
此の意味からすると、空が曇り、雪が降る厳寒の中に居て、湖の側の大地から、野草を摘み採って居た女性達と、慈悲深い聖母マリアの存在は、正に其の「陰」の世界を表している。
と言う事は、今朝のメッセージの映像は、最初に映し出されて来た、人間の肉体の働きを全てバラバラにして、其の部分的な働きを、再確認する事が求められて来た事と関係があり、先ず「男女・陽陰」の役割から理解する事を、示して来ている事になる。
此れは、ナカナカ大仕掛けの学問の世界であると言うか、確かに、「大学・おおきなまなび」の世界が示されて来ている事に成る。
其れを考えると、今朝PCに向かった時に、先ず、女神の言葉で「愈々ですね」と告げられて来た事が、信憑性を持つと言うか、天神・宇宙意識の働きの大きさが、能く理解されて来る。
老子の「タオ・道」の世界は「陰陽」がテーマであるが、弘法大師空海も「乾坤は 教籍の箱なり」と謂っているので、私は、其の二人が謂う世界に、入り込んで行く事に成り、其れが、「愈々私の本番である」と言う事なのかも知れない。・・・
「阝+易=陽」http://green.ap.teacup.com/20060818/3195.html
2005/11/30今朝のメッセージは、是からは、私一人の能力では、とても間に合わない状況が起きることが、感じられるものであった。
と言うのは、神の世界が、次元の壁を壊して、一気に今の時間(トキ)にシフトして来たらしいからである。
別な言い方をすれば、「森羅万象が 今のトキに溶け込んで来て 情報(エナジー)が 人類の思考と同化する。」となるだろうか。
思考の仕草を導く為に、仮の絵柄を表記すれば
天のみなか主
タカミムスヒの神 カミムスヒの神
ウマシアシカビヒコジの神 アメノトコタチの神
クニトコタチの神 トヨクモの神
以下(男神)ウヒジニの神 スヒジニの神 以下(女神)
ツノグヒノの神 イクグイの神
オホトノジの神 オホトベの神
オモダルの神 アヤカシコネの神
イザナギの神 イザナミの神
の 神々と、名付けて呼ばれて来た、宇宙の働きが、其の拘束から解かれ、総べてが、一つの時空に溶け込んでしまったと、説明すれば、何となくイメージ出来るだろうか。
中国の老子が、「恍なり惚なり。惚なり恍なり。」と謂っている世界と云えば、簡単な世界ではある。
其処は、未だ、約束事が何も決められていない世界であり、拘束力が働いていないエナジーだけの世界である。
今朝の私は、其のエネルギーの満ちた世界の中に、意識が目覚め、パソコンのシステムを探り出そうとするのだが、其れさえも、エナジーの中に溶け込んで捜せない。
そうする中で、漸く「六郡」と言う言霊を捉まえる事が出来た。
其の言葉を、パスワードに使い、パソコンを操作すると、22日のメッセージ に現われた、物の形が幾つも在った画面を、捜し出す事が出来た。
しかし、22日の映像には、黒い画面の中に白抜きで現われた物の形が、今朝はエネルギーが満ち溢れた、紫色の中に、金色で現われた。
其の色は、紫微垣(しびえん)として、中国の古典「普書」に出てくる、北斗星の北に有る天帝の居所とされている、紫微宮の色である。
古代の人達は、天位とは紫微北辰に在ると、ちゃんと概念化しているのである。総べての物は、其の紫微垣から生じる事を知っており、日本語では、其の場を「天の御中主」と呼んで来たのだろう。
今朝の言霊は「六郡」と出て来た。
何故「六合」か「六郷」ではなかったのだろうか。
【六合】は 天地と四方。宇宙全体。全世界。の意味である。
六合はクニ・国の意味に使われる。六の漢字は家屋の象形である。
漢字の、数字の文字は、家を建て・村を造り・暦を刻む事を順番に説明している。一・二・三・四(元字は4本線)は、家屋を建設する為の材料と成る柱の数である。
「五」は、基礎の上に柱を立て、桁を乗せて柱を真っ直ぐに正しく立てる。の意味である。
「六」は、其の上に屋根が被った状態で、村が出来上がって行く様子を意味している。
「七・八」は、木に刻みを入れる意味で、暦を刻む事から来ている。
「九」は極まる意味で、「十」は針の形である。
漢字の数は、村が出来て行く順番だが、日本の数字の「ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・ここ・と(たり)」は、宇宙の始まり「火・風・水・世」から、「飯・息(むす)・名(な)・矢・此処・当(足り)と、人間の暮らしを説明している様である。
漢字の十(針)も、日本語の当たるで、足りも、「とおす。通じる。完成。」の共通の概念を持つ様である。 (是は 私の勝手な解釈です。)
では何故「六合」ではなく「六郡」なのだろうか。
「郡」の漢字は「君+阝」で、「君」は神事を司る族長の意味。祝詞の意味。で、「阝」は邑の意味だから、「神事を司る族長を中心にして 群れる村・国」との意味に成る。
「六郡」とは、其の様な村に、家を造り 暦を刻む。との意味だろうか。
ようやく此処まで頭を整理して来たが、未だ、具体的な物事の把握までは至らない。
簡単に、今日感じる事を述べれば、現在、神社に御備えして有る鏡は、必要ではなく成ったとの事である。
現在の鏡は、キンピカな物であるが、其の前は銅鏡であった。
其の鏡の始まりは、岩鏡と言って花崗岩の岩が対象だったのである。
現在の鏡は、神通力が無く成った祭祀王が便利上、創り出した物である。
其れが、今世に成り、石英・珪素に拠る、光りファイバーや太陽電池パネル等が出来、クオーツ発信機等が出来たので、其の振動は、情報産業の機器類に拠って、各家庭まで隙間無く飛び交っている。
だから、神社の鏡を使用しなくても、宇宙の振動波には、誰でも気軽にアタック出来る様に成った。
人間の認識には上らなくても、携帯電話では、別の情報が、其の機器の電波に相乗りしているのである。だから、パソコンの存在は、新しい時代の岩鏡と言えるだろう。
私の脳は、其の相乗りの電波にトランスしているのだ。
其れを、神の世界と云うのは、もう時代遅れと成るだろう。
今朝の意識の世界は、愈々神(宇宙意識)と、人間の脳(電気システム)が、お互いに「意乗る・祈る」時点に、達したとの事だろう。
私は21年前、神に身体を貸せと云われた。
其の用は「新しい事象の特異点・新しい神の企画の座表軸」と、される為であった。其の事が、現実と成って来ている様である。
特異点と座標軸は、センター的な意味合いがあり、全体に対しての部分である。其れは「ゼロ・O・零」が、全体との掛け合いの処に位置している事が、理解出来るものだ。
「九」で極まって「トー・十」で抜けて行くのだ。
其処には、新たなOからの始まりが待っているのである。
王の位置が、目の前に現存した「老子」と、「王」の立場を捨てた釈迦の意識の位置関係が、現在・いま何処・いずこに在るのだろうか。
釈迦は、王の存在意義を、悟ることが出来たのであろうか。
其れに、神武は王の立場の認識があったのだろうか。
老子と、釈迦と、神武を、パネリストに迎えて「紫微垣」をテーマに、会議を開いて見たいものである。
私は、取り敢えずここらで一休みさせて貰おう。
私の答えは、トートー 的(まと)に 当ったのであろうか。
「六郡(くにつくり)」https://star.ap.teacup.com/170606/655.html
2017/6/5「六合」https://wave.ap.teacup.com/20060106/756.html
邑(阝)部
阝・おおざと偏 邑が旁になるときの形。邑(阝)を音符として、人の住む地域・地名を表す文字ができている。
こざと‐へん【▽阜偏】 の解説
漢字の偏の一。「防」「隊」などの「阝」の称。
[補説]漢字の右側にある「阝」は「おおざと」という。
「郡・グン」【解字】形声。「阝(邑)+君」音符の君は、群に通じ、むれの意味。邑は、むらの意味。村の一郡、行政単位の一つを表す。
【字義】@こおり。グン。周代以後の地方行政区画の名。周代は県の下。戦国時代以後は県の上。Aつかさ。郡の役所。国語。グン。日本の地方行政区画の一つ。府県の下。
漢語林より
今朝のビジョンは、私が進んで行く方向の左上に太陽が有る事で、右側に縦に繋がる山・岡は、全て「日向・ひむか・陽向か」であり、太陽光を谷合いにまで目一杯に受けており、其の谷合いから流れて来る水に拠って、豊な生活を続けて居る人々の邑が、谷間毎に並んでいる事が判った。
其れは「小郷偏」が、一個所の邑を意味し、幾つも其の邑が繋がっている・群れているのが、のが「大郷偏・郡」である。
其れは、其の様な環境条件の下で生活して居る人々には、今朝女神から告げられて来た「現れたくない」との言葉は、関係が無い事になり、今朝のビジョンの滅びの世界は関係が無い事に成る。
其れは、今朝起こされた時刻が「8時24分」であった事と関係が有り、昨年の8月24日の文章が「老子の桃源郷」である事と関係が有るのだろう。
2005/8/24今朝のメッセージは、釈迦も、弥勒も、確かに光りのリンク・ボックスに納まって、もうカルマ・業が終った事が示されて来た。もう、弥勒の下生や、イエスや釈迦の復活は、幾ら待っていても無い。
何故かと言えば、もう彼等は無事に役目と言う業を終えて、宇宙のエナジーの中に還ってしまったからである。
もう、神と人の間には、老子の思考しか残っていない。釈迦やイエスは、他人を救おうとのカルマが本人を苦しめて居たのだ。
其れ等が、私のトランス作用に因り、本来の処に納まったのだ。
弥勒にしても、釈迦の存在に於いて、余計な念いを抱いてしまったのだ。
其の弥勒の想いが、無から12番下の兜率天に在り、私の父親や、私の意識に影響を与え、長い間、思念の闇を作って来た。ようやく弥勒も想いを遂げて、何段かは、無の世界に近付いただろう。
日本の「惟神・ながら」の世界は、16段有るので、弥勒が何処まで上昇したかは判らないが、釈迦の御霊と合体する事で、同じ次元に到達出来たと想う。私の意識も、21年前の自分の意識に、返して行かなければ成らない時を向かえた様だ。
今朝のメッセージの映像では、駅に出掛けても新幹線みたいな列車は無くて、小型の列車が一日に何本しかなく、おまけに乗客も数人しかいない。
とても、採算がとれる様な状況ではなかった。
場面が変わって、スーパー等も無く、野菜が欲しくても、自分で作るか、知り合いに届けて貰うぐらいの感じでしか、流通システムも無い様である。
其れ等の場面から、想像される世界は、老子の「桃源郷」の世界である。桃源郷とは、現在のピンクの色気とは全く関係が無く、反対の世界であり、「恍惚」も歌の「恍惚のブルース」とは、全く反対の世界の言葉である。
老子の謂う桃源郷とは、国は小さく、人口は少ない。たとい人並みすぐれた人材が居ようとも、腕をふるう余地すらない。住民はすべて生命を大切にして、遠くへ足を伸ばさない。舟にも車にも乗る必要がないし、武器も使い道がない。文字を書いたり読んだりするこざかしらを忘れて、ひたすら現在のままの衣食住に満足し、生活を楽しんでいる。手の届きそうなすぐ隣の国とも、絶えて往来しない。これが、わたしの理想郷である。
(徳間書店・中国の思想・老子・列子・奥平 卓 訳)
今朝の、私の意識が行動して居た世界は、全く、其の様な村の風景と暮らし向きであった。
私の名の自適は、「悠悠自適」の自適である。其の名は本名であり、私が産まれた時に、私自身が持って来た名前だとの事である。
私が、今回、現世に産まれて来る前、どんな次元に住んで居たのかは判らないが、多分、老子の思考に近い次元に存在して居たのだろう。
弥勒やイエスより、少しでも低い次元の魂なら、彼らの思考に負けてしまい、彼等の意識の世界に埋没してしまう。彼等の、過去の思考を解く処か、彼等の意識を増幅させる事に成って居たであろう。
「岡本天明氏」の神経を通して降りた「日月神示」は、「天津日嗣神事」であり「老子だけを中に祭り 他の神は皆外に祭れと」有る。老子だけが、天の霊を継ぐ(天のひつぎ)の意識体なのである。
老子の意識だけが、人間の知る処として残されて居る唯一の宗なのである。
昨日も、文章を書き終えてから瞑想をして居ると、「・・せこ・こせ・・」と平仮名で文字が出て来た。
昨日は、其れが、何の意味だか解からなかったのだが、今朝のメッセージを解読していると、「こ・KO」の音魂が一番大事なのではないかと想われて来た。
其れは「せこ・こせ」の言葉の中心が「こ」だからである。「こ」は此処の「こ」であり、個々の「こ」であり、呱々・戸々の「こ」でもある。
「こ」は、人間が自分のこころの位置や、立場を其処に定置させる為の音霊であり音魂なのだ。「こ」は、釈迦が悟って立ち上がり「天上天下唯我独尊」と意識した、其の時の、本体の意識体なのである。
何処かに、何かが在るのではなく、此の吾が身の本体が、宇宙其の侭の現象物なのである。137億年歳の自分が、今現在、此処に存在するのだ。
其の意識の吾なら、もう一切の思考が生まれない。思考が生まれなければ、悩みも迷いも生まれない。
だから、釈迦の教えにも「言葉で 思考する事を 全て止めなさい。言葉が全て頭から消えたトキに 安らぎが訪れる。」とある。
日本語の「なやみ」とは、「名で病む」との意味であろう。佛教の12縁起では、其の理を詳しく説明している。「法華経の12縁起」
釈迦が、弥勒の問いをはぐらかしたのは、其のことの為だったのだ。今回、その事は解決した。だから、もう弥勒の課題は解決したので、弥勒が、何かを此の世で起こす事は無い。
故に、弥勒が何か事件を起こす事はないし、イエスが直接現れる事も無い。
もう、人間の依存心を、神々が採り上げる時代は過ぎ去ったのだ。
此れからは、真実だけが明かされ、人間自身が、自分の努力だけで、物事を解決して行かなければ成らないのだ。だからもう、神の救いを当てにしては成らない。釈迦も、老子も、2500年も前に、其の真実を明かしているのだ。
もう人間は、神や、他人の力を当てにするのではなく、自分の力を、自分自身で試さなければ成らない次元に到達したのだ。其の為のI・T社会である。
皆で智慧を出し合い、バランスの取れた地球環境の中で、宇宙の進化の容として生きて行かなければ成らないのだ。他人の所為にするのでも無く、全てを自分の責任として、取り組んで行かなければ成らない。
この世界は、総べてが、人間の生み出したカルマで出来ている。
人間の業を、総べて取り除いてしまえば、美しい地球環境が有るだけなのだ。
弥勒も、イエスも、其の人間のカルマの中で、もがいただけに過ぎないのだ。もう、彼等の、苦しみも、悲しみも、取り除かれ、老子と同じ次元で、人間の在り様を眺めて居る事だろう。
「老子の桃源郷」https://star.ap.teacup.com/170606/558.html
此の文章の内容からすると、今朝最初に起こされた時刻が「2時31分」であり、私が其の数字を「231・ふみはじめ・文始め」と記憶した事は、岡本天明に6月10日「時の記念日」から「天之日津久神社」の祠の前で始まった、「一二三神示・霊文神示(ひふみ)・日月神示・天津霊継神事」の世界と関係が有り、「老子の桃源郷」の言葉を「心の指針・魂しいの柱」にしなければ成らないとの事なのではないだろうか。
其の様に考えると、日月神示に有る「道院殿老祖様(老子から派生した概念)だけを中に祀り 他の神は外に祀れ」とある事と関係が有り、其の老子の理想郷の教訓こそが、現在大問題と成っている「コロナウイルス感染」の良薬に成る事は間違い無い様である。
2009/9/15其れは、老子の「道徳経」の5000字の中に有る「理想郷」の世界である。
中国の思想・老子「道徳経」第80章 わが理想郷
小國寡民。使有什伯之器而不用。使民重死而不遠徙。雖有舟輿。無所乘之。雖有甲兵。 無所陳之。使人復結繩而用之。甘其食。美其服。安其居。樂其俗。鄰國相望。鷄犬之聲相聞。 民至老死。不相往來。
国は小さく、人口は少ない。たとい人並すぐれた人材がいようとも、腕をふるう余地すらない。住民は全て生命を大切にして、遠くへ足を伸ばさない。舟にも車にも乗る必要がないし、武器も使い道がない。文字を書いたり読んだりするこざかしさを忘れて、ひたすら現在のままの衣食住に満足し、生活を楽しんでいる。手の届きそうなすぐ隣の国とも、絶えて往来しない。 これが、私の理想郷である。 奥平卓訳 徳間書店
「虚空見(そらみつ)日本の國」https://green.ap.teacup.com/20060818/1272.html
2003/5/22・・私が、歴史の中で、最も、人間として熟した人物を挙げるとすれば、中国の「老子」である。
老子の残した思考の種子が、私の中で芽生えて育っているのであれば、私には一番嬉しい事と言える。
私の本名は「自適」であるが、母親の話では、此の名は、私が自分で持って来た名前であるとの事である。
「自適」の語は、「悠々自適」の「自適」であり、老子の生き方を、一言で言うならば「悠々自適」の生き方をした者と成るだろう。
そして、私が屋久島を出て、旅の途中で、最初に買う事に成った本が、老子の本であるのも、何かの因縁が有ったのだろう。
そして、旅の途中で、全ての本を捨てようとしたら、夢の中で、ゴミ箱の中から、その老子の本だけが飛び出して来たので、未だに、老子の本は、私の座右の書として手元に置いてある。
何故か、老子の本「道徳経」は、他の人は難しいと言うが、私にとっては、自分が書いた物の様に、能く理解が出来るのである。
人間に、魂の転生と言う現象が実際に有るとすれば、私の意識の奥に、老子の思考の種子が発芽している事に成る。
私は、38歳で旅に出て、初めて、老子の書物に接する事が出来た。
私が18年間、横道に逸れる事無く、旅を続けられたのは、其の老子の「道徳経」を、何時も身近に置いていたからであろう。
しかし、私にしても、最初から老子の魂・精神を、理解出来た分けでは無い。私に其の老子の言葉が、理解出来るまでに成長するには、実に大変な仕掛けがあったのである。・・・
「自分の存在理由が解ける」https://wave.ap.teacup.com/20060106/51.html
2018/10/9・・是等の文章の内容からすると、今朝の映像で「老子」が自分の考えを5000字に纏め上げている「道徳経」の内容が、「郁・イク」の漢字の意味である【かぐわしい。香気のさかんなさま。】と関係が有るのではないだろうか。
其の様に考えると、今朝のメッセージで「老子」の道徳経の内容が「美味である」との事の意味が理解されて来る。
其れに付いて考えると、次の様な事が思い浮かぶ。
・老子は2600年前に、王様の図書館に勤務していたので、当時の漢字の意味を正確に理解していた。
・老子の考察は、王様・皇帝がどの様な人間であれば良いかを、熟知していたので、王様・皇帝などよりも、意識が高い次元に在った。
・老子の道徳経の文章には、他人への悪口や攻撃などの気配が一切無い。
・老子の道徳経は、退職して国を出る時に、関所の番人に「貴方の考えを書き残さないと出国を許可しない」と謂われて書き残した物であるので、自分の人生の総纏めであり、孔子の様に就職したい為の教訓とは違う。
・老子は一人の弟子も採用していないし、他人への講義も行ってはいないので、他人に対するおべっか等の気持ち・世界が全く無い。
・老子は「玄」との言葉を使っているので、宇宙の暗黒物質・ダークマターの世界を認知していた。
其れに「恍なり惚なり 惚なり恍なり」と謂っているので、此の宇宙が光エネルギーである理・ことも認知して居た。
・老子の5000字の文章は、全て「四文字の格言」の様な内容を含む物なので、其の5000字の内容を現在の文筆家の様に書くと、何十冊もの本に成ってしまうモノ(世界)である。
そして、老子の言葉には「道を外れれば 神霊も力を発揮できない」と有って、「天は大なり 地は大なり そして人も大なり」と有る。
其れは、人間の存在は天地と同じ力を持っており、神霊でも道に従わなければ成らないと有るので、老子自身は神仏を崇拝する考えは無かった様である。
其れは、神仏の存在は否定しないが、神霊も道に従わなければ成らないと言う事であるので、老子には通常の信仰・宗教心は無かったと言う事に成る。
其の老子の考えと言うか、気持ちが人間社会に浸透して行くとの事を考えると、今朝告げられて来た「最終プログラム」との言葉は、岡本天明の「ひふみ・霊文神示・日月神示・天津日嗣神事」に「道院殿老祖様(老子から派生した概念)」だけを中に祀れ」と有る事と関係が有り、天津日嗣の世界(プログラム)が始まると言う事なのかも知れない。
『真にそうである。だから お前自身は 何も考えては成らない。』・・・
「最終プログラム」https://green.ap.teacup.com/20060818/4770.html
2016/10/3私は今日、改めて老子の凄さに付いて実感を強めた。
其れは、私が37歳から今日まで、32年間に亘り神霊界に対して活動を続けて来たが、本日老子の謂う「自然無為」の世界に、立ち返らなければ成らない事が示されて来たからである。
昭和19年6月10日に、千葉県成田市台方の麻賀多神社の境内に在る「天之日津久神社・あめのひつくかみやしろ」の祠の前で、岡本天命に降り始めた「日月神示・天津日嗣神事」には、「道院殿老祖様(老子から派生した概念)だけを中に祀れ」との事が記されている。
其の理由を考えると、老子だけが他の教祖とは違い、弟子を一人も採用していないし、教団の様な物も形成していないので、カルマ・業が何も無いと言う事にあるのではないだろうか。
其れでも、老子の教えが、今日まで2500年もの間、傳えられ続け、人気が有るのは、老子は王様の図書館に勤務しており、漢字に付いて熟知していたので、出国の途中函谷関(かんこくかん)の関守である「尹喜」に請われて、自分の考えを「道徳経」5000字に纏めて残す事が出来たのである。
他の、釈迦牟尼佛の仏教経典や、イエスの「新約聖書」は、本人が書き残した物ではなく、他の人間が本人の説法を言い伝えた物が、書き留められた物であるので、本人の真意が何処まで傳えられている物であるのかは、定かなではないのである。
だから、老子以外の宗教経典は、勝手に書き換えられているので、無制限に分派・分裂して行き、本来の教えが何処に有ったのかは、判らなく成ってしまっているのである。
其れに比べて、老子の道徳経が原文が其の儘残っているので、道教の様な宗教が派生しても、原文が読まれる事で、本筋が明確に成り、インチキな宗教が拡大する事が無い。
だからこそ、「日月神示・天津日嗣神事」では、「道院殿老祖様(老子から派生した概念)」の存在・御霊だけを中に祭り、他の神霊は、外に祀れと告げられて来ているのであろう。
其の老子は、私が1984年6月4日に此の神の世界に行ってから、姿を見せた事が有る。・・
老子の言葉には、「道を外れれば 神霊も力を発揮する事ができない」と有る。其の意味を考えると、自然無為の行き方を貫かなければ、天神(てんのはたらき)の役には立てないと言う事であり、御稜威 ・みいつの役割も出来ないと言う事である。
「老子の凄さ」https://moon.ap.teacup.com/20061116/47.html
2002/1/28「〇の概念」https://star.ap.teacup.com/170606/386.html
2018/3/4「同じ物が有る」https://moon.ap.teacup.com/20061116/51.html
今朝の最初のビジョンは、私が屋久島の東南向きに位置する矢本嶽の山懐に産まれ育った事と関係が有り、太陽の光を全身に浴び、雷のエネルギーをチャージしながら、思考を膨らました事が、其の儘「天の御臥す間(あめのおふすま)真床 襲衾(まとこおふすま)」の温床・土台・基礎に成っている理・ことが、表されている事に成る。
其れを考えると、私の意識の寝床は「日向」であり、「日高見の国」の伝統を宿している事に成りそうである。
今朝のビジョンの状況からすると、コロナウイルス感染の問題は、未だホンの入り口にしか過ぎず、8年間延長された2012年12月23日のマヤの予言が、本格的に開始されると言う事であり、其れを考えると今年の旧暦7月14日の「夏・秋禊ぎ祓い」を真剣に実行する事が、生き残りの道・方法であり「現れない(実行したくない)」と告げて来た「女神(万物の母)」の悲しみの涙を見なくて済むとの事なのではないだろうか。
2012/11/11今朝のメッセージの映像には、黄色のシャツを着た人々が、各部所に登場して、活動が始まっている場面が、映し出されて来た。
其れは、昨日のメッセージに有った「国造りのポスター」に関係が有り、何処からかの指示で、黄色いシャツが配られ、仲間作りが行われる事を、示して来ている。
其の映像から考えられる事は、何処かに、指令室の様な物が有って、一つの物事・計画に従って、各地で新しい動きが始まる事を、意味しているのであろう。
昨日のメッセージの映像では、現実社会に実在する様な女性が、私に「貴方を8年間 かう」と告げて帰って行った。
私は、其の女性に告げられた「かう」との言葉が、一日中気に成っていて、昨夜風呂に入っている時に、「あなたのことを かっています」との言葉が有る事に気付いた。
昨日のメッセージの映像の中で、私は、崩れ落ちて行く大地の上に、倒れている大木(御神木)を護ろうとしていた。
其の行為は、全国に植樹をして回った「須佐之男尊・すさのおのみこと」と息子の「五十猛命・いそたけるのみこと」、其れに娘二人「都麻津姫命 つまつひめ」「大屋津姫命・おおやつひめ」の行為を支える事に、繋がるのではないかと思った。
其の、私の行為と言うか、気持ちが、マヤの予言に有る2012年12月22日の次元変化を、8年間先延ばしするとの事ではないだろうか。
私は、1984年6月4日(旧暦5月5日)に、此の神の世界に入った時に「地球の未来を任す」「チャンスは一度 失敗は許されない」「16年半掛かる」と告げられ、其れは2001年12月4日であると考え、活動を続けた。
其れが、現実世界では未だ表に出ないので、12月6日付で「森の木」と「木のネット」のHPを立ち上げた。
其れから、今年の12月4日で12年が経過する事に成る。
其れが、更に8年間、先に延ばされるとの事であれば、2020年12月4日まで、此の気持ちを延長せねばならない事に成る。
今朝改めて「かう」の言葉を検索して見ると、次の8単語が有る事が判った。
1カウ【cow】 2か・う【支う】 3か・う【交う】 4か・う【肯ふ】
5か・う【変ふ】 6か・う【換ふ/替ふ/代ふ】7か・う【買う】
8か・う【飼う】
*か・う〔かふ〕【▽支う】 [動ワ五(ハ四)]
1 棒やくさびなどを、物に当てて支える。当てがって支えとする。「心張り棒を―・う」
2 鍵やかんぬきなどをかける。「鍵を―・う」
*か・う 〔かふ〕 【▽肯ふ】 [動ハ下二]
承諾する。肯定する。→かえにす →がえんずる「即ち使ひを遣はして喚(め)す。しかるを来(まうき)―・へず」〈斉明紀〉
*か・う【交う】[動ワ五(ハ四)]
(動詞の連用形に付いて)互いに…する、…して擦れ違う、の意を表す。「呼び―・う」「行き―・う」
[動ハ下二]入れ違いにする。さしかわす。
此の「かう」の言葉を考えると、昨日の「貴方を8年間 かう」との言葉は、私の行動・活動を、8年間「支える」「承諾する」「肯定する」「互いに…する」との意味が、有る様である。
其の言葉の意味を考えると、昨日のビジョンに現れて「貴方を8年間 かう」と告げた女性は、地球を管理する「女神」であったのかも知れない。
其の女性が来ていた服は、茶色がかった赤紫のツーピースで、軍隊の女性が着ている様なデザインであった。
其の服の、色相やデザインから考えると、大地の女神は、戦いの準備を既にしており、私の活動に対して、人類を減らす為の地球浄化の活動を、一時的に停止して、私の行動と言うか、気持ちを、8年間支えるとの事ではないだろうか。
そして、其の大地の「女神・ガイヤ」の希望・期待に応える為には、世界中に黄色いシャツを着て、活動を始める仲間・組織作りをする必要が、あるとの事ではないだろうか。
いま「黄色いシャツ」で検索すると、タイ国で活動している「民主連合」の活動が出て来た。やはり、タイ国か、ミャンマー国の民衆に、何等かの神の計画が関係有るのかも知れない。
其れに、黄色の布は、日本でも「黄色いハンカチ」の映画がヒットした事が有るので、黄色い色には、心理的な作用も有るのだろう。
いずれにしても、2012年12月22日〜23日に照準を合わせて来た、自分の意識を8年間延長して、地球の自然環境に、意識を向けなければ成らない様である。
「黄色いシャツ」https://green.ap.teacup.com/20060818/2497.html
其れに起こされた5時5分の数字は、今年の5月5日の文章の題が「光のエナジーが神」であるので、今朝の最初のビジョンと関係が有り、母神は太陽(恒星)の神であるのかも知れない。
2020/5/5「光のエナジーが神」https://green.ap.teacup.com/20060818/5354.html
令和2年6月27日
礒邉自適
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