音楽を楽しむ、ということは、「生活にゆとりがある」という証拠である…と、先日述べた(まぁ中には自分のように、貧乏しながら何とか食いつないでいる…という人もおられるだろうが)。
そのような音楽感の一つとして自分は、
『音楽に於ける練磨というものは自分の精神の練磨であり、それにかなりの割合で重要とされるものは、一種の精神論的要素である』
と、言を現わにしたい。
何が言いたいのか、恐らく自分が読み返しても意味不明ともなるので、かみ砕いてみたい。
音楽を高めるに際し、
『よりよい音楽を』
『心のこもった音楽を』
などという言葉が、この音楽界には広く使われている。
感情的には分からないでもない言葉であるが、しかし、少し考えれば思い付く事がある…
すなわち、良い音楽とは?(自分はこれは、人を楽しませることが出来るもの、と考えてみた)心のこもった音とは?
ある楽団の合わせの最中に、指揮者先生が
『その音はもっと心をこめて!!』
とおっしゃった時にすかさず
『先生!心をこめる、とはどうしたらいいのでしょうか?』
と言ったときの指揮者先生の怪訝な顔は忘れられない(だが周りの奏者の軽い頷きを自分は見逃さなかった!)。
音楽の向上(考えればこの言葉もおかしなものだが)には、幾分か…いや、かなりの割合の精神論が付き纏うのだ(例えそれが一般論理的に通ずる事のない事柄だとしても!)。
少々脱線する…これは音楽の表現力の深さ(既述済、過去のお勧め記事参照の事)故でもあろうが、それを考慮、加味したとしても余りある『指揮者の状況判断力、及び具体的事柄の説明能力の無さ』を、自分は(もちろん自分自身も含め)示唆したい。
…話を本筋に戻し…だからどうしたか。
精神論を語るには、それなりの精神感、及び精神力を必須とする。
紙の上の理論しか知らぬ未熟者、若しくは浅い経験と勘にのみ頼る狼藉者に、そのような高尚な言葉を吐く資格は無い、つまり、音楽(に限りはしないが)をせんとする者、中でも高いレベルを欲する者は、特に練磨の感を必要と感ずるべきだ、というのだ。
これは先述の自論、
『音楽に於ける練磨は自身の精神の練磨と等しい』
というものを現す(後述した事柄を先に論述した訳である)。
『音楽に選民制は無い』
誰にでも等しく、その感動を与え、感激を起こさせてくれる絶対母性を持つ、というのは前々から言っている持論だが、もう一つ、
『音楽それ自身は不動である』
練磨鍛練無しに音楽を表現せんとする不届き者に対して現わにする、絶対父性的厳格さも持ち合わせている、と述べて、自分も含めた多くの音楽家、中でも表現に従事せんとする人々に示唆すると共に、自らに対しての戒めとしてここに表現したい。
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