経験に勝る知識は無い、という考えは、一般世論共通のものであり、自分も賛同するものである。
そのようにして身につけた知識は、まさに『修得』であり、消えて無くなることも消耗することも無いからであろう。
しかし、その今の世論は先の例とは対称的に、『経験以外の事柄で得られた知識の軽視』が顕著であるように思われる。
また、以前にも申し上げたが、『音楽には国境も差別も無いが学歴に於ける差別は存在する』という事柄にも、自分にはそれと同様の嫌悪感を抱く。
重述になるが、自分の場合、後者のそれは、実体験から得られた悲しい事実である。
(重ねて申し上げる事から、この事柄が以下に危険で、今後の音楽社会の円満化に於いて危急に改善を要するかを感じてもらいたい!)
ある時、好意で招かれた演奏会の後の談話で(自分はその際、人間関係に於いて必要最低限の自己紹介しかしなかった。自己紹介で血液型や家族構成を述べる必要がないのと同じで、今までの経歴は何も述べずにいた)、ある奏者から『どこの大学出身ですか?』と聞かれ、『音楽大学ですか?どこも卒業していません』と答えを返した直後から、その(少なくともそれまでは好意的であった)奏者との交流は無くなった。
指揮者として同様に質問され『斎藤か朝比奈か』等の派閥質問をされ『無所属』と答えた時の、質問者の怪訝な顔は忘れられない。
酷いときは、指揮をほとんど独学にて学んだ、と口にでもしようものなら(少なくとも年長の、中でも頭の堅い奏者は)自分の言葉に耳を傾けなくなる。
経験と理論は違う。だがしかし、それぞれにそれぞれの重要性を占めており、何らかの形でしか双方、もしくは一方にしか携わることの出来ない音楽家は多い。
それを音楽世論は理解すべきである。
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