大体ホルンを、楽器、音楽をたゆまぬ研鑽と平行して学び続ける人というのは、概してよき人格者である事が多い。
これは音楽に限らずどんな事柄でも当て嵌まる事だろう。一つの事物に勤しもうとする心は、何事にも替え難い良き効果を人間にもたらす為、そうである人物、若しくはそうなろうとする人物は多い。
ところが、他の事柄に於いてもこれが当て嵌まるかどうかは自分には解りかねるが、音楽に於いて『音楽を探求するそぶりを見せ、それを他の欲求の糧とする』行為が横行している事に、自分は深い落胆と音楽意欲の減耗を感じる。
音楽を愛好し日々の糧としている自分は、例えばタクシーの運転手など、自分が誰か、どのような人物か知らぬ、しかしどういうわけか互いに会話の機会が生じてしまった、かつ、その他の嗜好を持つ人らに、その会話の中でしょっちゅう
『クラシック音楽がお好きなのですか?真面目な方なのですね』
と、言葉をかけられる。
『クラシック音楽を聴く=真面目な人間である』という、不確か、かつ非論理的な論理(矛盾)がここに存在している(そしてその中に『クラシック愛好家=非社交性の持主』の意味が込められている事を自分は見逃さない!)。
それは日本国に於ける近代器楽音楽情勢の形式化の長い暗黒時代の産物であるだろうが、その事については、今回は本論から外れるので記述を敢えて避ける。
問題は、その間違った(正の方向のみの)論理感を利用する為に音楽家を語る人物の存在と弊害である。
それはどういう事であるか。感づかれた方も居られるだろうが、次回に持ち越そう。
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