不幸は続くものだ、私はなかなかどうして運が無い。
自己の状態変化、物的損失、単なる運勢の劣悪化が酷い。
自分は常々プラス思考を自らの考えとしているが、どうにも酷い状態が続くと一気にマイナス思考にも落ち込もうというものだ。
思うに(なんの説明もしにくく、思考の範疇から外れることが遺憾であるが)自分はそういう星の下に生まれた人間、というやつではなかろうか。
まぁこんなことを考えても運勢が良くなるわけじゃない。
さっさとまた忙しい毎日に埋没してしまおう。
嫌な事も考えなくて済む。
大体人間には何もする気力が起きない場合、というものがある。
予定があるにも関わらず、家から出ることはおろか、蒲団からすら出づらい。
しかし、そんなことが理由にならない予定というものはいくらでも存在する。
仕事だったり人との約束であったり、時には歯医者の予約であったりする。
『もう何もしたくない!出来るはずがない!』
『…けど明日の会議は外せない…なんとか頑張るか。』というものだ。
しかるにおおよそ人には少なからずの甘えがあり、その感受は差異があるとしても、小さくはない。
自分はもう駄目だ、救いようがない、としても何か責任を負えばそんなことは気にしなくなる。
言ってしまえば人間生きていれば何でも出来るのである。
どうしようも無い、事実救いがない、望みが完全に絶たれたことを絶望という。
世間が何をもって絶望と具体的に定義づけるかは知らぬし自分の興味の対象ではない。ただ、自分の思う絶望の淵を、自分は今までに二度、味わった。
洒落にならない話(今でこそ笑い話だが)、人に詫びようと一回、自らの人生に絶望し一回、それぞれ死を決意した。
決意とは最終決定。詰まり揺るぎ無い。しかし自分は生きている。何故か?
決意が決意でなかった、としか言いようが無い。最終決定の後に、決定内容を変更するという横暴極まりない矛盾を自分は果たした末ここにいる。
人に愛され、人を愛し、人に何かを与えられ、人に何かを与え得る感動に知ったからだと、今では思っている。
分野を問わず、人間は自身にその能力が無いと感じても、実は有している、というものが多い。
所謂隠れた才能、であり他人のみぞ知る場合は一般に言う自己の盲点であり、周知されなければ暗黒の部分となり、どちらも場合によっては日の目を浴びる事は無い。
自分はこの二つに日の目を見させたい、と常々思う人間である。
盲点は言うに及ばず、暗黒点すらも自分は盲点、出来れば対象人物自身の知る所として明らめたい。
自分を知ること、それは実は難しい(重ねて盲点、である)。
無知の知、という言葉もやもすれば自己の探求のみにその視点が向けられるのではないか。
自分はそれを人に気付かせたい。自己の確信を促助したい。
何やらSFチックな話であるが、自分は因果律の存在を容認し、それは為手から操作されてしかるべきであると考えている。
自分の動作が人の行動を生み出すのであり、人の動作が自分の行動を生み出すのではない、ということだ。
よって自分は、人に何かをしてもらうのではなく、人に何かをしたい、と考えている。
それには、対象の人物の行動を期待している面がある、と告白せねばなるまい。
ただ、単純なギブアンドテイク、ではないと弁明しておく。自分から対象人物のギブは望む所であるが、自分へのテイクを望むのではない。新たな対象は誰でも良い。ベクトルは新たなベクトルを生み出す。
『人にされた嬉しいことは他の人にもしよう』
何やら道徳の授業のようだが、これは社会、いや世界の革新の重大なキーワードであると自分は確信する。
自分は絶望した。
だが全て人に救われた。
ならば人を絶望から救い出さねばなるまい。
マイナスからプラスへ、などと大それた事は言わない。
せめて、最低限でもマイナスから、ブラスマイナスゼロへ。
人に出来て何故自分に出来ぬか。
以上数点が自分の行動理念である。
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