暗い内容なので閲覧注意。
ごくごく短い間に生と死について、深い考察を重ねることがあった。
というのも、肉親ではないが、自分の知人の突然の他界、また自分の知人の子どもの誕生を実に短い間に目の当たりにしたからであり、それは実に重く、強く自分の思考のキャパシティを侵す。他事に頭を働かせない限り、常にその事ばかりを常々考えていた。
人間、死は絶対であり、だからこそ、平常な精神下では恐怖である。
何が恐ろしいかと言えば、死の向こう側の瞬間が全く予想出来ない事であるだろう。
今こうして毎日あくせくして時を過ごす自分、それは日常ではあるが、死は終末である。
死はよく睡眠に例えられるが、睡眠は目覚める。
酷く疲れた際にベッドに倒れ込み、気が付けば朝である事柄には、睡眠下の状態過程はすっぽり抜け落ちてしまっている点に着目せねばならない。
目覚めるからこそ睡眠は一瞬なのである。目覚めぬ睡眠である死は一体どのように自分に語りかけるのか。
死は無である。無であるからには感覚はおろか思考も無。寧ろそんな概念なども無い。
無とは何か?自分には想像もつかない。『無いもの』を認識することは不可能であるからだ。
『ここには何も無い』と言われても何が無いかは分からぬし、例えば『無色』は『色が無い』のであるが、それが原色であるのか何なのかは想像に難い。
原理哲学に於いてシェリーは『無は無限の想像の糧である』と言った。
『ここには何も無い』という状態は、物体がない、論理がない、感覚理念がないなど、様々な状態構想に対応出来るという。
しかし無である死はその構想感覚すら無なのであるからして、状態の予想が出来ない。
未知のものに恐れる気持ちは人間の理性の中でも非常に動物的であり、原始的である。それ故に避けられぬ。
しかして人は、その成長、老化に従い、その恐怖を減退させ、惑わせる術を身につける…いや、既に身につけている。
防衛本能というものがそれであり、人体危害に於ける反射のそれと同じく、死の接近感知により、人は死を恐れる感覚を忘れるのである。
生死をさ迷った…とまでは行かないが(そのさなかに自分に意識は無かったので)、自らの死の影を知る自分はそう考える。
人は指先を傷付ける程度の傷には痛みを感じるが、腹部を突かれる等の重傷を負った瞬間、痛みを感じずに、寧ろ快感を覚えるのだという。覚醒剤の数千倍の感度を持つ脳内麻薬の所業であり、危機に際し、分泌されるからだという。
自分も経験がある。
思うに人は死の恐怖を忘れる、いや、惑わす事を一生を費やして臨むのではないだろうか。
様々に考えてみたが、正直分からぬ。死んでみないことには。
しかし自分の人より鹿渡の知的好奇心をもってしても死への恐怖には敵わぬ。
まだ死ねぬ。死ぬにはこの世は自分の好奇心を満たす喜びと音楽が多すぎる。
…だがこの考えも失われるかも知れぬ死が自分は恐ろしい。
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