私は立派な音楽家などではない。
単なる演奏者…もっと言えば一山いくらの音楽家に過ぎないし、最近はその器ですらないのかとも思う。
今日自分はとんでもない事に気がついた。気がついてしまった。
自分は西洋音楽楽器演奏を高校から初めた。
正直に告白するが、恥ずかしい話、それまでの夢は指揮者だった。
家にたまたまあったクラシックの音楽(確か第九だった)に心を打たれ、CD相手に指揮の真似(所謂影振り)を毎日していた。
高校吹奏楽部の恩師のに心から(勿論指揮だけではなく、恩師そのものに)憧れ、その日に練習合奏した曲の音源を出来る限りどこからか手に入れ、真似をした。いつか指揮者として舞台に立つのが夢だった。
時を重ねて今、自分は一山いくらとも思えぬ単なる『使い勝手の良い』奏者になりつつある。
高校時代、技量の乏しかった自分は音楽大学の受験を人に知られる事を恥ずかしく思い、しなかった。
仮面浪人の末、派閥に巻き込まれたから、環境の相違などと難癖つけて、合格どころか最終試験そのものを蹴った。
勿論今は幸せを噛み締めているが、そのまま耐えていてもまた違った音楽の輝かしい未来が待っていたように思う。
自分は何を恐れて音楽よりもそれを優先したのか。
それは、高校時代のトラウマに外ならない。
こんなことを言ってしまっては今後の自分に影響があるやも知れぬが、それは事実にして真実。
自分は高校時代、それはもう下手くそで、ありもしない三軍奏者だとうそぶかれていた。
音楽を好きでいても実力が無ければそれは無意味、人に評価されねば意味が無い。
今はそうなどとは思っていないが、一時期抱いたその感情に際悩まされていると知った。
自分が指揮をする舞台はこれまでにも少なからずある。
その度にいかな賞賛を浴びようとも、どこかで物足りなさを感じる。
未だに高校の人物らには評価されない。演奏を聴いて云々以前に、評価に値しない。
何をそこまで気にする、と思われる方もあるだろう。
なるほど今では高校時代をともに過ごした仲間らよりも長く過ごした楽団、仲間が存在するし、今ではもうそれは形骸幻覚かもしれない。
しかし、私が初めて接した、誇りに思った、全精力を尽くした楽団はそこなのだ。
何より、最も愛した楽団なのだ。
理解されないだろう。
自分も理解出来ない。
過去は過去、今は今である。
しかして過去無くして自己は存在し得ない。
その葛藤が頭をもたげる。
指揮の本番をした。
完璧などとは言えない為慰めまじり、とは言え賞賛を浴びる。
それでも当時の仲間らからはそれは有り得ない。
いや、実際はあるのかもしれない。
しかしそれをそれとして受けとれぬ自分がここにいる。
何故だ?自分にも分からない。
自分は自分の為に音楽をしていたのではないか?
どうやら違ったらしい。
自分は人の為、人の賞賛を浴びる為に音楽をしていたのだ。
自分が情けなくて堪らない。
どうしようもなく、一人ごちて声を押し殺して泣く。
自分がもっとも忌み嫌う事をまさか自分がやっていたとは。
音楽は決してそれ自ら人には語りかけぬ。
多くのものを投げだし、捧げ、その苦しみに耐えた者のみに僅かな喜びを与える。
自分はそれすらも出来ていなかった。
幸明日は自分の愛する音楽の本場へまた赴ける。
今一度、自分の音楽を見直そう。
人の為に音楽をするのか、それもいいだろう。
しかし人にその喜びを伝える為には自分がまずはそれを知らねばならぬ。
好機である。
また新たな音楽に出会おう。

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