先日、病院に行ってきた。
毎度感じる事だが、待合室というか、お医者様の待ち時間を過ごす場所というものは、異様に時間の流れが遅く感じる。
不思議なもので、時間の流れは一定ではない、とする考えが存在する事を、なぜかしら、物理学の文献から知った。
基本相対性理論を表すその本には、あらすじに、
『相対性は、その理論を完全に理解しえる人は両手に満たないが、その性質は、この世の誰しもが感じ、合点がいくものである』
としてあった。
続けて、その理論の主たるアインシュタインの逸話が紹介されていた。このようなものである。
ある日、アインシュタインが公園を歩いているとかに一人の少年が現れ、彼はこう問い掛けられた。
『おじさんの作った相対性理論が、お父さんやお母さんがとても素晴らしいものだ、と言っていたけれど、どんなものなのかは教えてくれませんでした。一体どんなものなのか教えてくれませんか?』
アインシュタインはこう答えた。
『そうだなぁ…。例えば、君がとても熱いストーブの上に1分間腰掛けさせられたとしよう。君はその1分は早く過ぎて欲しいと思うだろう?でもなかなか過ぎていかない。じゃあ君が大好きな女の子と一時間遊んだ時を考えてみよう。過ぎてほしくないと思っても、時間は瞬く間に過ぎていく。つまらは、そういうことだよ。』
と、促したという。
公式か非公式か、相対性の性質全てを表すかどうかなどは、自分の焦点ではない。
自分以外にも、時間の過ぎる速度に違いが生じ、その事態を『個体的ではなく相対的な』事柄として捉えるという考えを持つ人物の存在に、自分は身震いした。
自分の感じた事象が、周りに反映されるだろうか。自分が短い、と思って時間を他の人がみな同様に短い、と考えるだろうか。
答は当然ノーである。人には個人の管轄による意識があり、それは他人の意識の影響を、微少はありこそすれ、多大には受けない。
それならば、自己の感じた短い時間はなんなのか。
秒針が刻む均等な間隔とは違う、『時間の隙間』は一体何であるのか。そしてそれは、何故他人に干渉しないのか。
時は全てに平等に与えられ、価値も等しい。しかして、その平等な価値が揺らぐこの事態は、他人と個人を著しく断列させる大きな要因ではないか。
とある少年漫画雑誌に『絶望先生』という漫画が掲載されている。
現在社会の歪みと不条理に『絶望した!』と、明快痛快に風刺を加えるコメディ漫画(!)であるが、そこにも今回の自分の内容と同じ事柄が描かれていた事を思い出した。
つまらない事と楽しい事をそれぞれ別の被験者に同時間経験させ、その差異をタイムスリップと称する実験。
あまりにつまらない事柄を経験させると、時間の経過の遅短がゼロを過ぎ、逆行するという仮説など、奇想天外な内容に驚かされる。
社会風刺、民族差異、言語のあやを巧みに見抜き、操るセンスに脱帽である。
思うに、いくら言葉と文章を交えたとしても、各々の感覚思考、意思思想をお互い確認することは出来ないし、そもそも完全に伝わること自体無いのかも知れない。
自分は音楽にその役目を担うと信じている人間である。言葉の限界を知りはしていないが、今の考えとして、音楽が勝ると考えている。
言語の限界があるのかどうかも分からないくせに音楽に頼るな、と言われたことがある。
しかし自分は、自分の能力が人より高いとは思っていない。
両者共に、優れた人間が一生をとしても頂きを覗けるかどうか…という分野である。
平凡な…いや、良くない意味で非凡な自分は、自分の近いところにあり、望む結果の得られる可能性が高いと思われる分野に一生を捧げるのみである。

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