帰宅後にも容赦なく起こる収集の為、著しく活動時間の増加が増える今日この頃。それでもぎりぎり一日五時間は寝られるので生活に支障は無し。
最近では何故か落ち着いたころの時間になると誰かしらに『この部分の書き方が分からない、助けて』などと言われ、時には『もう駄目だ』などと何もかもに絶望に蝕まれたかのような発言をされるものだから、ついつい行って会ってしまう。
計ったように行けない事もない時間、状態なのでつい行ってしまう。
呼ばれていないのに、自分が電話やメールよりも直接の会話に重要性をみているので自分から足を運ぶ。だからこの場合、体調を崩したりさても責任は自分。そこは間違ない。
今日はとある演奏家(私の中で、彼女以上の素質と技量を持った人を知らない)と、自信の演奏する協奏曲の共同作曲に半日近い時間を費やした。
その時思ったことだが、作曲、という音楽三大分野には、その他の二分野、即ち演奏、観賞のどちらかが他方より大きく影響する傾向が強いものではないだろうか。
三大分野は少なからず相互に作用してしかるべきものであるが、ことに作曲においては、個人個人の持つ、演奏家、観賞家、そのどちらかの所謂スタンスとでもいうべき事柄一方に頼る部分が多いと考えるのである。
演奏をする人間が観賞をする際に、例えば自分の演奏する楽器に耳を傾けがちになるように、全ての音楽家なその立場により、その他の分野への自発的な関わり方に影響を変化させるのだと自分は考える。
私なんぞは元々観賞家の立場から音楽の道を踏み出した人間。であるからして、演奏と作曲を仕事とするようになった今でも、『観賞家のスタンス』が抜け切らないように思う。
作曲は構成に於いて、主題回帰という手法のように、長い横の繋がりにより音楽に感慨を持たせる点に割合研鑽の度合いが高く設けられる。しかし、私はその瞬間瞬間の響き、また、直後しばらくの繋がりに重きを置いている。
音楽は境界を設けずに分け隔てなく感動を与えることに本意があるべきであり、恵まれた感性、若しくは相応の訓練を積んだ人間でなければ、長大な構成の喜びを理解できないことが明らかである以上、ある種の理解の容易さが必要であると思われる。
芸術作品としての構成を求めるにあたり、その考えは不適切であるが、私は芸術家ではない。音楽の率直な感動を多くの人に与えるエンターテイナーでありたい。しかるに、自分に芸術作品を作る意欲はない。この考えは音楽の本意に叶うものであると自分は確信をしている。
思うに多くの演奏側の人間は、一般世論、大衆の抜本的な興味の存在を無視し過ぎている。一握りの、理解せらる観衆のために、せざる大衆の興味期待を無下にしているというのだ。自らが音楽の力を強く伝達出来るのだと、自己を過大評価しているに過ぎないのである。それは音楽の本意とともに、人としてのスタンスに大きな誤りを抱いているのである。コンサートに於けるイニシアチブを卑屈に利用した、恥ずべき事柄である。
脱線を重ねてしまい、読みやすい長さにまとまらなかった。これはまた今後考察し、その考えを述べていきたい。

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