私がこうして堅い文章をしょっちゅう書くのも、ひとえに幼い頃の記憶に原因があるものと思います。
初めて読んだ芥川、続いて夏目、川端、坂口と数多くの文豪のほんの少しの英知に触れるだけで何とも形容しがたい、自らがいかに矮小で愚鈍な存在か、根本がしっかり出来あげられなかった未熟者でありますから、深い奈落へと叩き落とされれます。
ですが、その恐るべき感情の後には必ず自らを錬磨せんという意欲が沸いて来るのです。
私が現代小説よりも近代小説を望むのは、日本全体誰もがが必死で、かつ実直素直に過ごした古き良き時代を愛するからであります。
愛する日本、その活力があった時代。私が直接体感出来ずとも近しい人にその頃を直に聞き、間接的に体感出来る時代。私はその頃の日本を愛しています。
私の故郷沖縄の人間は必ずしも内地(日本元来の本土)を違う土地と思ってはいません。
沖縄には産業がありません。農業漁業で歴史を築いてきた場所です。
ですから若者は内地に憧れ、内地に移り住みます。しかし、内地の裕福さに勝る故郷の懐しさに焦がれ、あるいは内地の厳しい環境に耐え切れなくなり、また故郷に戻ってくる人間が多くいました。何十年、現代にもまだ残っているある意味の風習とも言えます。ですから内地は沖縄と決して離れていないのです。
私は幸か不幸か幼くして内地に移り住みました。人よりは故郷の記憶が少なく、今の場所での良い思い出を沢山得られました。
私は故郷に行きはしても、還りたいという意欲はありません。ですが私は故郷を愛しています。両親が、家族が過ごした土地を愛しています。つまりそれはこの国を愛しているということです。
脱線した話を元に戻しますと、私は今より国民の活力に溢れていた近代と呼ばれる時代を好むのです。
私自身が素直で実直でありたいと願うので、それを体言していた時代に惹かれるのです。
その中で特にに大きな魅力を私に感じさせた人物が太宰治です。
激動の時代の最中を過ごした彼の書く、人間の本質を素直に現した作品が、私に何とも形容しがたい感動を引き起こすのです。
この数日、彼の作品を一気に読みました。先程もまた一編を読みました。
彼は作品で、人の本質は理性と本能の葛藤の中にあると現していると思います。私もそう思います。
こうしたい、こうしなければならない、こうすると自分は良いが他者は嫌かもしれない、他者は良いかもしれないが自分は嫌だ。
また、自分が何をしたいのか、何をすれば良いのかが分からない。
そういった葛藤があるからこそ、人は人であることが出来る、私がそう思うように彼もそう思っているのかもしれません。
私はすぐに自分の憧れる人間に感化される人間です。
ですが、その後にまた冷静に考える能力を身に着けました。それが是なのか非なのか。
結果、私は感化された通り、過去の話をしたいと思います。
私は正直に申しまして、愛情に飢えた人間でありました。
人並みの、幸せに充分足りる程の愛情を与えられてきたと思いますが、私は貪欲なのでした。人がどうであれ自分が満足したいと思う、そんな矮小な人間でした。
かといって自分に魅力があるとも思っていなかったので、人に愛されたことの無いであろう人に愛を注ぎ、その喜びの代償として自分に愛情を求めようとしていました。
今思えばそれは愛情ではなかったのでしょう。
親が子に代償を求めないように、愛とは見返りの無いものであると考えられるからです。
その考えだと「無償の愛」という言葉が矛盾しますが、それは古代ギリシャの言葉、アガペー、エロスと、愛が細分化されていた時代のものでありましょうから、今では薄れた感覚として放置します。
代償を求める私の愛情は愛ではありませんでした。
代償を求めるからこそ不倫は相手に離婚を迫るのです。今の定義で、愛人は互いに過度に干渉しないものです。ですから不倫は愛ではなく恋、恋人なのです。
沢山の間違いの愛を注いだ中に、二人、私には一時の愛を感じた人がいました。
高校時代と留学時代、それは私に対しての愛情が一片足りとも無くとも想い続ける、私にとって不思議な感覚でした。
距離が離れていようとも想い、体に触れずとも想う不思議な感覚でした。
どう罵倒されても、私を拒否しても、それなら私が関わらなければ良い、勝手に想って彼女に二度と顔を合わせなければ良い。そう思えば幸せな時が流れていました。
しかし、ある時私は気付いたのです。その想いにいかほどの生産性があるのかと。
確かに大切な感情です、しかして苔の信念岩をも通すのは行動が伴う時のみ。この気持ちが滋養に溢れた肥料になりこそすれ、土がない。つまりは不毛なのです。
ならば私は過去を断ち切ろう、次の有益な未来を望もう、としたのです。
しかしそれでも夏の日差しが暑いと感じるように、ごくごく自然のようにそれらの想いは私を苦しめました。
彼女が私のように不毛な恋愛をしていること、私の悪評を広めていること、私との関係を無かったことにしていること、その度にどうしようもない気持ちに教われました。
しかし時がたつにつれ、それは過去のものとなりました。過去の記憶は思い出ではありますが、現在のものではありません。
長い時がかかりましたが、恐らく『過去にしよう!』という私の意思が無ければもっともっと長い時間を必要としたでしょう。
時と意思、それが思い出を過去にするために必要不可欠なのかもしれません。
今私はまたその時と似た気持ちを抱いています。
しかしそれは、相手がどうであれ構わない、というものから、彼女に幸せになってもらいたい、という気持ちに昇華しました。
相手に代償を求めない感情、これこそが真の愛情ではないのか、と思います。
人は一生を葛藤の中で過ごす生き物です。
今どうするか、これからどうしたらいいのか…
その考えを肯定するのは、希望的観測とはいえ自分が真に望む未来、自分がどれだけ誰かに尽くせるかという感情、意思でしょう。
私は自らを高めることに勤しみます。願わくばそれが誰かのために、その次に自分のためになるように。

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