優れたピアニストはピアノ曲に限らず、多くの音楽に造詣が深い。もちろんどの音楽家にも限らない。
とある学生ピアニストと知り合い、実に深い音楽観に感銘を受けた。彼女は特に交響曲に対しての関心が強く、自らが演奏する作曲家に交響曲が存在すれば必ずアナリーゼをし、その世界を深めていると言う。
丁度そこは学校であったこともあり、彼女は身近なピアニストを一人つれ、巧みに交響曲の連弾を聴かせてくれた。
交響曲の連弾譜は少なくなく、ベートーベンなどは自ら一作品として発表してすらいる。しかしコンサートピースとしては不向きなのか、実際に生で耳にする事は今日が初めてだった。
ピアニストという音楽家は、音楽を深く自ら感じることに非常に得であると言える。我々専門の奏者ではない人間よりもより緻密にその世界に入り込み、探索が出来るのである。
我々指揮者は音楽を作り上げることに際して並々ならぬ責任を負う。高度な自奏により音楽を感じることが出来ない分、確かな知識と経験、底知れぬ探求心を持って音楽を感じ取らなければならない。
ベートーベンの交響曲第五番について自分は長く考えている。その曲が、今年2008年12月22日に初演からちょうど200年を迎えるという節目の時期に今はあたり、その記念をもってして、自分はより深くこの曲について考える意思を持った。
そもそもこの曲はベートーベン個人に収まらず、後世の音楽家に多大な影響をもたらした曲として名高い。それは楽聖たるベートーベンの音楽の絶頂を感じさせる構成は言うに及ばず、ピッコロ、コントラファゴット、そしてトロンボーンという、現代の交響曲にはなくてはならない楽器を導入した点に大きな特徴が見られる。
背景としてよくピアノソナタ二十三番「熱情」と交響曲第六番「田園」の関係が語られる。
前者は曲の構成から顕著であるが、後者は単に初演日が同じ(※)、作曲が平行して行われていたという点にのみその関係性が語られていることがままあり、さほどの音楽的関連は個人的にあまりなく感じられる。この話はまた別に話す。今回は交響曲第五番の内訳について話したい。
※初演のプラグラムにおいて、二曲の交響曲は同じ演奏会で初演された。その当時、田園交響曲が先に演奏され、こちらが交響曲第五番と呼称されていたとする説もある。
第一楽章冒頭から提示される主題はテンポにおいて説が分かれる。テンポを例えば♪=52などのように数値化し、絶対音楽のカテゴリーを固めたのはベートーベンが初であり、その表記の解釈が現代と違う見方をする派閥があるのである。簡潔に言えば、表記の倍の長さの音価をとる見方が存在するのだ。その解釈の浸透具合は、一般人に「運命のメロディーは?」と尋ねると「ジャー、ジャー、ジャー、ジャーーーーーン」とかなり長めに歌う回答の多さからうかがえる。
冒頭五小節の二つのフェルマータ、それぞれの前に置かれた三つの連続する八分音符は、一度目に比べ、二度目を更に重たく、あるいは長めに奏するべきであると考える。
二つの三度音程の号令は長三度(ト‐変ホ)の開きから短三度(へ‐ニ)の開きに変化し、尚且つその短三度の開きを持つ二音は主調であるハ短調の平行調の属和音にあたるためその転調に時間を掛け自然に変化させるように奏さなければならないのである。
また、古典の例に漏れずアートゥキレーションの表記が現代に比べ少ないが、ならばこそ非常に緊張して挑まなければならない。
ベートーベンの交響曲を奏するにあたり、管楽器の扱いに注意を払わなければならない。60小節目アウフタクト、第二主題に移る直前のホルンの号令は304小節第二主題再現部において転調されファゴットにより現れる(ト‐ハ‐ニ‐下一点ト)が、このファゴットはホルンの代役であると考えることが正しいと思われる。指定された変ホ調のホルンでは演奏しきれないためのベートーベンの苦肉の策と私は考える。これに対してハ調のホルンによる演奏を考えなかったことからファゴットが正しいとする懐古原典主義の主張が存在するが、mutaに要する時間から考えると信憑性の薄い意見だといえる。
一楽章通して完全な二拍子により演奏される。第一主題の変形として奏されるフーガに強拍を見失う傾向が強いが、チェロバスの音形を見れば容易に感じることが出来る。
長くなったので一楽章で終わる。続きを書く機会があればまたいつか書きたい。

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