私と高校恩師には非常に深い縁があります
―以下母校恩師と私の話(数年前の記事から転載)―
恩師の教え
この時期になると、また母校の思い出を一つ、思い出します。
我が母校の吹奏楽部の部員は、特別な事情が無いかぎり、ほぼ学校生活の三年間と同じ期間を部員として過ごします。
多くの部のように、例えば運動部の場合だと夏の大会後で完全に引退、というのではなく、新年一月の定期演奏会をもって完全に引退、(卒部?)とするのです。
勿論その間に一時期引退として学業に専念する部員は多くおりますが、その定期演奏会の時期には復帰を果たし、演奏会に参加をします。
やはり、皆はこれが楽しみ。三年間を共にした仲間と共に巣立ちたい、という気分も大きいに違いありません。
ですが、僅かながら学業と音楽とを両立させんとする者もおりました。
自分はこちら側の人間でした。
しかし当時は実は逆の思い。むしろ定期演奏会の時期が訪れる前に完全に退こう、と考えておりました。
高校三年生の11月、全国大会という自分には身に余り過ぎる事象を経て、部が平生の落ち着きを取り戻そうというときに、自分は恩師に引退の時期を表明しました。
『じきにアンサンブルのコンテストがあります。結果に関係なく、そのコンテストを以って、この部を引退します。』と。
恩師は言葉を言い終えた自分から目を放すと、部室の椅子に座り腕を組んだまま目を軽く閉じ、
『そうか。』と一言口にしただけでした。
今まで何度も音楽と部の過酷さにくじけ、中途退部を申し出る度に、熱く音楽と人の在り方を説かれた事があったため、正直、拍子抜けの念は隠せませんでした。
しかし、その次の日に学校の廊下で偶然出合ったときに、いつもなら笑いかけてくれるだけの恩師はその時だけ、実に敬謙な面持ちで自分を呼び止めたのでした。
『音楽と学業の両立を考えてみろ。お前なら出来る。音楽に必要なのは…ここ、ハートだ。』
ありきたりな言葉?気恥ずかしいセリフ?そんなことは言ってほしくありません。自分はこの言葉によって自分の在り方を決め、生き方を学んだのです。
前身がうち震え、鳥肌は体中に。体の芯から肉体の節々までに衝撃が走りました。その後から出てくる涙。ただただ涙。
当時の自分は、自信というものを何一つ持ち合わせていなかった人間でありました。
その自分に自分が持つべき自信を与えてくれ、その後の生活のための活力を与えてくれたこの言葉、恩師には海よりも深い感謝の念を覚えます。
恩師は泣きじゃくる自分を見ると、いつもの語りかけてくれる時の笑顔となり
『じゃあまた部活でな』とだけ言い、歩いていきました。
昼の学校。学生服の、決して体格の貧相ではない暑苦しい男が一人泣きじゃくる姿は周りの人にとっては見るに耐えないものだったでしょう。
しかし、あの恩師の言葉と表情、その涙は今でも自分の中にあり、忘れることは今後も決してありません。
その後の自分は恩師の思惑を(恐らく)越え、誰よりも部に残りました。
定期演奏会が終わっても、完全に学業に専念させるため学校が三年生を自由登校と定めた期間も。
あまつさえ卒業式を終えても『今年度が終わるまではまだ高校に籍があるから!』とほざいて。
自由登校期間は特に凄まじく…朝練の時間に学校へ着き、朝練が終わり皆が授業に向かうときに一人いそいそと自転車をこいで近所の牛丼屋で遅めの朝食(勿論学生服のまま!)
帰宅後はひたすら楽器技術以外の音楽の鍛練…ひらたくいえば理論の学習。
夕方にまた楽器だけを目的に部へ向かう…という生活。今思うと凄まじいものです。
卒業してからも楽器の購入、そして時を重ね音楽の場の正式な確保まで実に年度ギリギリまで恩師に世話をしていただきました。おかげで自分はたいしたブランクもなく、今までやってこられているのです。
これは恩師にとって想像されていたことなのでしょうか…確証は無いですが、その時期でも恩師のお口添えにより多々のイベント、コンテストに参加させていただいたことに感謝の念を抱いています。
以上が若い頃の私の考えです。
もちろん私の感謝の気持ちは変わっていません。
恩師は音楽を教える音楽家の顔も持っていましたが、何より素晴らしい教育者です。
私はその恩師に教えを受けたことを本当に誇りに思い、感謝を致します。

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