この文面を見ている人には、音楽の世界を志す人が多い。
ここで正しい音楽論を挙げられれば、その効果は小さくないはずである
だが私自信の拙い音楽論では音楽という偉大な存在に貢献出来るとは思えない。
ここで、ある音楽研究家の挙げた『音楽心理学の研究』から解釈させていただいた文を連ねる。
所々に彼の見識に蛇足な自己の意見を加えているため区別のため『』をつける。『』内が自分が得た内容である。直接引用はしないので留意を。
『』が割合読みにくさを煽るが、それを気にしなければ一連の文章になる。この文で音楽家、演奏家の本質を改めて述べたい。
本来なら作曲家を述べるべきであるが、演奏家を初めに述べる。
「※」からが今の自分が付け加えた意見である。
『演奏。それは、表現の根底である第一次表現、作曲に次ぐ第二次表現法であり、その真髄は、楽譜に書かれた曲を、声帯、身体を含めた楽器の操作により具体的な音響を表現することとされる。
この、所謂演奏行為自体は時間として短いものであるが、非常に多くの研鑽、準備を必要とし、その技量自体の向上に限りが無いため、それは終生にわたり行われる。』
※趣味的音楽家を越え、職業的音楽家となるためには、以下の事柄の留意が必要であるとされる。
『・演奏能力習得
楽譜の音楽の再構築を本髄とする、演奏という表現は、楽譜から要求される音を発し、コントロール出来なければならない。
その基本的項目には以下の事柄が挙げられる。
一、ピッチのコントロール
ピッチとは、音の高さである。
つまり、演奏に於いて二つの意味があり、それ則ち音域の拡充と、正確な音程の操作である。
音を外さず、テクニカルなパッセージでも正確、長い音でもピッチの変動が無いことも含まれる。
二、強弱のコントロール
ダイナミクスレンジの拡充。また、ただ限界が広いだけでなく、細かな変化が可能になるべきである。
三、テンポのコントロール
緩急様々なテンポで自由に、そして安定して演奏出来ること。
四、音色のコントロール
明るい、暗い、鋭い、鈍いなど、様々に音色を変化させ演奏出来る事。
五、基本パッセージの習得
頻繁に表れる形式、例えばスケール、アルペジオ、和音としての発音、種々のタンギング・スラー・アートゥキレーション、さらにはトリルや前打音などの装飾、そして典型的な(舞曲などの)リズム形式などをレパートリー化出来ること。』
※以上である。
これは自分が常に口にする、
「全ての音域を強弱音程を完璧に、音色豊かに奏し、尚且つフレーズとして組立られれば、演奏出来ない楽譜はなくなる」という言葉をさらに充実させたものであるだろう。今の自分も大いに共感が出来る。
「演奏家」という括りでかこっていることからも分かるように、これは全ての「演奏家」に通ずる事柄である。
こんなことに「不変音律楽器の鍵盤楽器や打楽器奏者はピッチを変えられないではないか」と声を荒げる人間は心が狭い。ましてや私はその人物が打楽器奏者であるとは考えられない。
太鼓一つをとって、一音鳴らしてみると、そこには明らかにピッチが存在する。その楽器の持つ本来のピッチと相違が生じている場合、それを狂っていると言う。
太鼓一つでさえそうなのだから、ましてやティンパニなどは我々管楽器奏者の想像を絶する苦労が存在するのである。
最もピッチに敏感なのはトロンボーンでもバイオリンでもホルンでもなく、ティンパニではないか、と思わせられる程である。
余談であるが、私は今まで自分が出演、また、足を運んだ楽団の中で、ピッチが完璧なティンパニを聴いたことが殆どない。だが先日、やっととあるオーケストラでそれを聴いた。それだけで満足になる。
どこがその団体か、ということは問題ではない。ティンパニの難しさ、その影響力に興味を傾けることである。
脱線した話を本論に戻す。
『・曲の解釈と表現の工夫』
楽器技術が習得されれば演奏が出来る、というものではない。曲の解釈それに伴う表現の工夫をもってして、演奏という時間芸術が成る。
解釈は曲の構造理解と分析理解がその魂柱であり、作曲家への理解が、その解釈を助ける。さらにそれには作曲家の生きた国家、時代、思想も助けとなり、材料の多さが解釈の相違の理由の一つですらあると考える。
解釈が済んだ後に曲のフレーズごとの工夫が必要になるわけだが、これには先の技術習得とは別の、音楽的センスを必要とする。
私は、音楽のセンスは、自らが蓄えた様々な音楽の表現を昇華、若しくは組合せて新たな表現が確立せらるものであると考えるため、音楽に触れる事がセンスの練磨に繋がると考える。
『・レパートリー保持
演奏には完全学習が望まれる。
音楽の記憶には動作・楽譜・音の三つの水準があり、動作水準は動作習慣、楽譜と音の所謂認知水準では、楽譜と音のイメージが形成される。』
※これは、非常に学術的な見識である。彼の本質分野が伺える。
音のイメージが演奏に大きな影響を及ぼすところであることは、我々演奏家の周知の点であるが、そのイメージが、楽譜と音の記憶、つまり読譜と鑑賞(若しくは合奏理解)の量と質に寄るものであるとした彼の見識は興味深い。
また氏はこの項で、職業演奏家になるためには『いくつかのレパートリーを持たねばならない。レパートリーとは、何時でもどこでも練習なしに即座に完全に演奏できるものである』としている。
私にとり、これはモーツァルトの一番三番、シュトラウスの一楽章、サン・サーンスの演奏会用小作品になる。
『・音楽の練習過程の心理
音楽の練習過程は、典型的な学習過程でもある。学習過程の最も充実した研究が成されていることで知られている学問は教育心理学である。よって、その必要条件がここに適用出来る。
第一段階…学習目標の決定
すなわち、演奏楽曲の正しい理解と進むべき道程の決定である。確固たる道程が成されていなければ、間違った方向への習慣が形成され、修正に労力を要するか、最悪の場合修正が不可能になる。
第二段階…反復練習の繰返
繰返をもってして、学習は完全学習になる。そしてそれを定着させるにも、また反復が必要である。レパートリーの習得にも大きく影響する。
反復により、演奏は無意識的に行われるようになり、動作が無意識になることにより、自己表現に意識を運ぶ事が出来るようになる。その意識が充分でない限り、演奏は機械的なものとなる。』
※反論の余地など無いだろう。
『・練習の方法
総括すると、分習、のち全習、が望ましいとされる。
また、連続しての長時間の練習、分散させての数多い短時間の練習の関係に於いても、同様である。
それぞれ、両者のどちらが有利かは、年齢、難易度、進度により、また、幼子、初心者、そして複雑な曲であればあるほど練習を細かく、数回に渡り行うべきである。
また、楽器操作のみの反論練習ではなく、楽器を離し、聴覚イメージによるリハーサルで曲のイメージを形成することにも比重がかかる。その点に於いて見出だされる弱点は、自己のパフォーマンス部位である。見逃されがちであるが、熟考されたい。』
『・あがり
舞台恐怖とも言われ、脈拍増加・呼吸切迫・発汗・咽喉乾燥・頻尿などの、演奏の邪魔をする神経症的緊張である。
結論からいって、緊張を抑制することは出来ない。
しかし、自律訓練により、あがりを無くすことは出来る。』
※具体的防止策が当時書かれていないので書き加えるが、そもそもの発端は、演奏に自信がない不安状態、演奏舞台の規模の大きさなどの期待興奮の反応である。
つまり、意識下でコントロールを可能にする自律訓練を行うのである。
ピアノの蓋を開けるところから練習を始めたり、本番と同じ状態で練習を行うこともあがりの防止策の一つになる。
わざと厚着をし、息苦しい状態、つまりあがっている状態を自分で作り出して練習を行うなどの、防止策でない「克服策」の試案を忘れてはならない。
『・読譜
ピアノ奏者について書かれており、全ての演奏家に分かりやすいとは言えないので要約するが、読んだ音符と演奏する音符には多少のズレが起こる。音を出した瞬間と音符を目にした瞬間が同時ではないだろう。
平均的な奏者が一度に楽譜に目をやる時間は約0.3秒、その間にメロディーは約3.1、ハーモニーは約1.5の数だけ読まれる。もちろんこれは予想外の音符の発生により、少なくなる。
このズレはテンポ、複雑さ、調性、読譜力により影響されるが、自己のズレの認識が演奏家には必要である。』
『・演奏表現
演奏は二次表現、つまり楽譜の音響化であるが、楽譜そのままの機械的音響化ではなく、芸術的逸脱が必要であり、それは偶然ではない一貫性が必要である。
その個性は、テンポや強弱、楽譜の解釈に表れるとされる。
ベートーベンの運命の冒頭がその顕著な例である。
また、興味をそそる実験であるが、同じpの箇所でも、fの後とppの後では、それぞれ平均8デシベルの違いがあり、文脈性の存在を顕著に知らしめている。
声楽家のビブラート、ピアニストのペダリング、管楽器奏者の音色変化も個性の存在するポイントとして知られている。』
※演奏家の留意点をつらずらと述べた。これはどの分野の奏者にも関わることであり、プロアマすら問わない。
これはとある高名な教師の言葉である。
アマチュアという語が出たが、本来アマチュアとはラテン語のアモーレ(amore愛する)から来ている語であり、言わば「愛好家」と訳されてしかるべき言葉である。
アマチュアと名乗る人物には、その対象を愛する、という自負が必要なのではないか。
好きこそものの上手なれ。しかして、下手の横好きとならぬ為の探究心を持たねばならないのではないか。
私は愛する音楽の為にこの身を捧げる決意を改めた。

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