人によっては実に失礼(とも受けとれそう)な行為を受けた。
ある仕事の最中…そこでは自分は合奏指導を承っていた…ホルンのパートに向かい、あるパッセージについて二、三の助言と要求を発した。
合奏終了、その後に先生と談話をしていた時に、ある奏者から言葉が発せられた。
『先生(自分は教員ではないので先生と呼ばれたくは無い、だが皆はいくら言ってもこう呼ぶ)はあの時〜〜と言いました。しかしあのフレーズはなかなかどうして難しいものです。
「先生はそのパッセージを演奏出来るのですか?」』
この言葉の真意は三通り考えられる。
則ち
『奏者は手本として演奏を聞きたかったのだが、言葉足らずであった』
『奏者は唯単に、自分が演奏したらどのような表現をするかの好奇心を抱いた』
そして個人的にまいってしまう、
『奏者は自分の技量を疑った』
この三つである。
真意を読み取ろうとはせずに自分は奏者の目の前でそれを奏した。
その奏者は納得した様子でその場を後にした。
これは人によっては、本人に対する侮辱と取られかねないので、おおよそタブーであると言って間違いがないだろう。
しかし自分が強く示唆したいのは、相手に対する面ではなく、その発言をする本人に対する害がその言葉に存在する事である。
聖書によれば、イエスは修行中、悪魔の誘惑と戦い、
『お前が神の子なら崖から飛び降りろ、きっと神が奇跡の力で助けてくれるだろう?』
の問いにただ一言、
『神を試してはならない』
と強く言い放ったという。
これが強く今回の件に関係する。
則ちこのイエスの発言は
『自らの信仰の対象への試験的感情は、猜疑心、擬碎の心をと同様であり、それはいつしか必ず不信感へと変わり、信仰心を減退させてしまう』と暗喩しているのだろう。
本件に関しては、「信仰」を「信頼」という言葉に置き換えれば理解が得られやすいだろう。
信頼とはそういうものだ。
人をうたぐってはならない。
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