ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト。
音楽に明るくない人ですら、その名は今でも燦然と輝き、その曲は天才の名を欲しいままにしている。
宮廷音楽家という、仕える立場の音楽家であり、同時に、何よりも音楽を愛した。
いや、音楽に愛されてすらいた彼の音楽を語るには、私の経験も度量も器量も、何もかも全てが足らなさすぎる。
余談だが、モーツァルトは音楽に於いては神に近しい存在であるが、人間としてはとんでもない人間だった事は徐々に周知となりつつある。
性格気質、性癖その他に、いかなファンでも眉をしかめるようなエピソードがいくらでもある。
思うに、これは『健全な気質に上質な音楽が宿る』という学校音楽の考えの最も解りやすい反論と成り得るのではないか。
音楽と向かい合うはその本人の音楽に対する心だけ。
清廉潔白な人物から聡明な音楽も生まれはするが、多少のジョークと遊び心、黒さあっての興味感心感動感銘もあるのではないか。
音楽の評価に人間性はさほど影響するべきではない。
モーツァルトの書いたホルンの曲としては、四つの協奏曲、協奏輪舞曲、そしてホルン五重奏曲が有名であり、特にホルンのソロを求めた場合、石を投げればモーツァルトに当たる、というくらい有名ですらある。
四つの協奏曲には、面白い逸話があるものがある。
モーツァルトがホルンの協奏曲を書いた事に関して、どうしても外せない人物がいる。
その名をロイトゲープと良い、チーズ売りからホルン奏者になった、という面白い経歴の持ち主である。
彼らは無二の朋友であり、互いにジョークを好んだ。
お互いの音楽性を認めながら、悪態もつけばひどいジョークも言う。
しかし、二人は音楽で深く繋がっていたという。
諸説あるが、ホルン協奏曲二番から三番まではロイトゲープの為に書かれたとされ、それはロイトゲープが下吹き(一番、三番は割合高い音域は使用されない)であるという事実、一番のみが二長調、他が変ホ長調でありタイプの違いが見られる事柄、二番の冒頭に書かれた『馬鹿、阿保、間抜け、駄馬(ロバ)のロイトゲープに捧げる』という端書き(これからも二人の面白い関係がうかがえる。)。更に四番に至っては様々な色のインクを使い、実にカラフルな楽譜を世に遺している。
楽譜を読み進めていくと、
『あぁ…もっと頑張れ…いいぞ、その調子…なんという調子っぱずれ…ほらもう一回…意気込んで…そろそろ終わり…ふぅやっと終わり』という端書きが残っている。
何とも奇妙な関係だ。
ホルン協奏曲は、その作曲年代に於いて一番から四番までがつけられているが、数年前、音楽学者ケッヒェルの特定したその番号を覆す意見が出された。
正しい番号は、二番→三番→一番→四番だと言うのだ。
そしてこれはもはや定説となっているが、一番の二楽章ロンドは、モーツァルトの弟子による作品であるとされている。
モチーフから発見されたモーツァルト原典の演奏を聴いたが、まさにモーツァルト。
だが言われなければ世界のどの学者もモーツァルトの作品でない、と分からなかったものだから、とかく音楽は適当なものである。
一番には、本来二楽章となるべきアダージョ、アンダンテが存在しない。
これは不可思議とされていたが、断片(492b)がそのアンダンテとする考えもある。
また、協奏輪舞曲は本来三・五番とも言える協奏曲であり、その全編は断片(472b)を一楽章とするものとされ、ペーター・ダムによって補筆されている(ダムは特にその説には触れていない)。
もう一つ、ホルン協奏曲断片がモーツァルトの作品が残っており、これはモーツァルト円熟期の作であるとされ、完成さえされていれば、最も偉大な協奏曲になっただろう、とさえ言われている。
ホルン五重奏曲は、これもまたロイトゲープの為に作曲されたという説があり、一本のバイオリン、チェロ、ホルン。そして二本のビオラという編成は、モーツァルトが中音域を大事にしたか、ホルンの音域を酌んだかが読み取れる。
また一番ビオラをモーツァルト自身が演奏したことがある、という説も残っているらしいが、これは定かではない。
次回はモーツァルト移行のホルンの在り方について書く。
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