非常に興味深い言葉を目にした。
『知らなければ、見ても見えない』
道を歩いていて、一名の桜の木を目にし、綺麗だと思っていると、すれ違う二人組が
『ヤマザクラが綺麗だね、ソメイヨシノも咲いているよ』と言っていたそうだ。
どれも同じ桜であったと思っていたが、それには厳密な違いがあり、その違いは、目を凝らさなければそれを知る人にしか見えないものであるのだ、と言う。
それは音楽に置き換えれば
『知らなければ聞いても聴こえない』
と、言ったところか。
音楽に関しては、意識せずしてはそれまで。意識せども聴き取れぬ部分があるのだろう。
これは、自分が理屈から音楽を楽しもうとする理由を非常に的確に表してくれた。
知ればこその発見があり、喜びがある。それらをのちに応用出来れば最高ではないか。
自分はホルンを奏してはいるが、何も楽器を愛しているのではない、音楽を愛しているのだ。
紙の上の楽譜でも楽しむ事は出来る。
しかして自分は演奏家であるので、それは単なる児戯にも等しい行為に成り兼ねない事もある。
自分は人に音楽の喜びを伝える音楽家を目指している。
自分には演奏の才能は人一倍無いので、これから演奏をせんとする奏者に助言は出来ても、それより上の行動は出来ないと音楽大学へ進む時に悟ったため、それは自分にとって音楽の喜びを伝える微力な手段の一つでしかないと思ってもいる。
だから私は字面をただひたすら広げ、語りかける。
受け取るか否かは相手次第だが、その相手の出現を期待し続ける。
私にはそれしか出来ない。だがそれなら出来る。
これからも素晴らしい音楽の世界に浸りつつ、その喜びを伝えようと尽力し続けよう。
話は変わるが、以前、合奏練習中にスコアを読みつつ演奏していたところ、指揮者先生に
『スコアを見るのは私の仕事です。』と窘められた。
その時ばかりはなにくそ、と眉をしかめたものだが、今ではその気持ちはよく分かる。
奏者には奏者の領分、責任というものがあり、指揮者にも同様、しかしてスケールの違うそれがある。
『互いに互いの責任を果たそう。領分を侵入を見逃し、責任を背負わせる事は出来ない』という優しい言葉であったのだと思う。
今では自分はスコアではなく耳を頼りにし、調和の指示を指揮者に仰ぐようになった。
例え以前指揮者として触れ合った作品でも、その時は奏者としての立場で接するようにしている。
自分にはそれが適切であるように思う。
ブログランキングに登録しています
クリックをお願い致します
人気blogランキングへ

0