人の生き死にというものは誰でも必ず考えることがあるものだ。
身近な人の他界を経験してから、またはある時寝る前にふと自分の死に際を初めて考えて恐ろしくなり眠れなくなったりしたことからそれに対する考察が始まる。
ある人は恐ろしさのあまり考えることを拒絶し、ある人は突き詰めて輪廻転生人の業の輪を生み出し、またある人は考えるにいたり興味が一般的でない勇気を生み出し実践する。
しかし思うに人は自我の、自己の終焉という強い恐怖である、死というものばかりに捕らわれているのではないだろうか。おかしな言葉になるが、死を生み出すべき最大の要因は生である。生まれることなきにして死ぬことあたわず。
論理的に考えるならば、結果ではなく要因、即ち開始、そして経過を順に追うべきである。
命とはなんであるかという哲学的な問答は専門家にまかせるとして、一般的な知能しかないわしは人の命は その固体が持つ意識と考える。なら脳死はどうなるとかいう問掛けはまた今度にしたい。
命、即ち意識というものは単細胞だろうが存在するという考えを聞いた。粘菌が迷路を解き、アメーバが何かに接触すれば捕食対象と考え体勢をとるその本能といえる行為が意識であるというのだ。
ならばわしらは精子のころから意識がある。即ち命を持っているわけであり、本来の誕生日というのは父親の器官の内にて定められるものであるかもしれない。
しかしてわしらにはその記憶がない。誕生日だと一般的に定められても、生まれたとされた時の自分というものは自分のことながら分からない。
わしはこれを忘れただけだ。と考える。先天的なものは無意識の彼方に存在するということだ。無意識の中に過去の意識が存在するというのは語弊を生むだろうが無知なわしには適当な言葉が思い付かない。
人は何故生まれたのだろうか、という問いはなんの生産性もない無意味なものだと考える。
そこに山がある。なぜあるのだろう。そんなものはマグマとプレートの関係だとかいうものによる。
何故自分は生まれたのだろうか。そんなものは父と母が出会ったからである。分かりきったことだ。
だがここからが人の考えの千差万別なところ。生まれた人は何をすべきなのか。
ある人は生み出した父母先祖に報いるべきだという。ある人は種の保存をのぞむべきだという。またある人は命あるものすべてに報いるべきだという。
一番嫌いなのがその答えを見つけるために生きているだとかいう答えだ。格好を取り繕って答えを先延ばしにしているのではないかと勘ぐってしまう。または何も考えていないかだ。
否定しようともわしが勝手にたかだか数十年だとかいう浅い論理で考えているだけなので信憑性はない。
この生き方に悩んだ人の代表は、自殺した人の中にいると考える。
また今度書く

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