これはフィクションである。
沢田はたかをくくっていた。
“今回もまた黙秘で貫けばええやろ。あとはこの手の件では百戦錬磨の弁護士、三宅勝久くんに弁護依頼すればいい”
しかしそんな考えは「101」と書かれた部屋の前に立たされることになっていっぺんに吹き飛んだ。
“もしやここがあの‥”
思わず息をのんだ。
ぼう然と立ち尽くしていると、留置場係の警官から中に入るよう促された。部屋には、窓が一つもなく、時計もなかった。室内は机から蛍光灯まですべてが白一色に統一され、部屋の照明は尋常ではない明るさだった。まるでカメラのストロボの閃光を浴びているようなのだ。
すでに留置場の暗さに目が慣れていた沢田は、目がくらんだ。うつむき加減に足を一歩一歩踏み出すと、さらに奇妙なことに気付いた。自分の靴音がまったくしないのだ。まるでそれは室内の壁六面すべてに音が吸い込まれていくような感じだった。おかしいな、と思い、今度は軽く咳払いをしてみるが、無音だった。背中になんともいえない悪寒が走った。
眼の前には机があった。部屋の奥側のパイプイスに座るようさきほどの警官から指示された。席につくと、やはりここでも普段、イスにこしかけるときにでるきしみ音が生じなかった。渡り廊下を歩いているときには聞こえていたZAKIの歌声ももう届かない。
“これから一体、何が始まるというのだ”
珍しく不安にかられている沢田にさらに衝撃が走った。間もなくして101に現れたのが、長く馴染んだ顔だったからだ。彼女は、五十という年齢(とし)の割りには少女のような可憐な笑顔を時折りみせる女性(ひと)だった。いつも感じる甘いバニラの香りはしなかった。
“あ、あんどう‥さん?”
「共謀罪に反対する表現者たちの会」のメンバーで、沢田が西村と共に絶大な信頼をおいていた、安藤裕子の姿がそこにあった。その背後にさらにもう一人、同会のメンバーだった篠原隆史の顔があった。二人は真っ黒な制服を身にまとっていた。二人はすぐに胸元からサングラスを取り出し、顔にかけた。
沢田が驚いたようにしていると、安藤はこれまでに見せたことのない、血の通った人間とは思えないような無機質な表情をした。
「驚いた?わたしたちは警視庁本庁公安部の刑事なんだよ。お前の行動は逐一、調べさせてもらったよ。警察がこれまで九回逮捕し、なぜ九件とも検察官にあんたの身柄を送らなかったかわかるか?お前に社会的ダメージを与えながらシャバで泳がせ、『共謀罪に反対する表現者たちの会』のメンバーたちを一網打尽する機を伺っていたからなんだよ。
沢田の頭は混乱し始めた。
安藤とは学生時代から運動を通じ、付き合いがあった。妻・美子とも親しく、デモの後などはよく三人で呑みながら運動論を語り合った。沢田が警察のヤラセで公務執行妨害罪で逮捕された時も、パトカーに押しやられるその背後で、安藤は警察に対し抗議の声をあげ続けた。共に「破防法」、「組対法」、そして近年では「共謀罪反対」の横断幕を掲げ、国会前で連日、座り込みもした。
さらに安藤は、冷酷な言葉沢田につきつけた。
「ああ、そうそう。あんたが目をかけていた寺澤も逮捕されたよ。今頃、小松刑事に相当しぼられてるだろうねえ〜。武藤も組織的威力業務妨害、強要の共謀の疑いで逮捕されたよ。会の件でも自白を始めているから、沢田さんさあ、あんた、別件の共謀罪でまた逮捕されるね。時間の問題だ。罪状がいくつになるか楽しみだねえ〜。武藤がさ、お前のせいで人生台無しだってさ。ふははははははははは」
さきほど目配せした武藤の優しげな顔が忘れられなかった。
続けて篠原刑事が言った。
「沢田さん、ぼく悪いことしちゃったな。あなたの交友関係洗いざらい調べて、みなさんと親しくなってね、だいぶ多くの方々にぼくの協力者になってもらったんです。あ、そうそう西村さんもその一人なんですけどね」
篠原といえば、週刊「マグナム」に何度も共謀罪に反対する記事を書き続けていた雑誌の敏腕編集者のはずだった。酒の席ではその博識ぶりを披露し、片手で30まで数え、女性陣をうならせた。
黙秘を貫こうとする沢田の口元が思わず、開きそうになった。
“篠原さん、本当に?そしてあの西村さんまでが‥???嘘だ、嘘だ”
篠原はさらに続けた。
「あなたが関わる運動団体、ぜんぶ壊滅させるのにね、これから共謀罪でみ〜んな逮捕します。証拠はすべてそろえました」
一呼吸おいて、その口調が一変した。
「てめえらなあ、わが国が戦争をして一儲けしようとするこの時期に、共謀罪反対だとか戦争反対だとか差別をなくせとか、邪魔なんだよ!けったくそ悪い。ちっ(唾を床に吐き捨てる)。てめえらが共同編集したブックレット「逮捕状 あなたが共謀罪で逮捕される日」、あれも国の危険思想指定図書特Aの指定を受けたからな」
沢田は不思議だった。さきほどの自分の咳払いの音や自分が動作するのに伴って出される音は部屋の中に吸い込まれていくのに、彼らの声は自分の耳にちゃんと届いていたからだ。
“なぜだ?なぜなんだ!?ここはどこだ。ここは‥これは夢か?俺は夢を見ているだけ?”
沢田は心の中でつぶやいていた。
それから連日、朝から晩まで101号での取調べが安藤、篠原刑事によって続けられた。妻、美子や、美子が気転をきかせて頼んだ三宅弁護士との面会はかなわなかった。
沢田にもはや日にちや時間の感覚もなければ、自分がこの世に存在しているということすら不確かなものとなっていた。
唯一の確かな感覚として耳に残っているものといえば、最後に耳にしたZAKIの歌だけだった。それだけが沢田を支えた。
だが、さらに数日後、沢田は黙秘の誓いを自ら破り、ZAKIが作詞作曲した「永遠の旅人」(
http://www.zaki8.com/serv/←ここで無料で聞けます)を一人事のように歌いはじめた。
しかし、その声もやはり部屋の中に吸い込まれていく。
すべての人間が信じられなくなっていた。自分自信の心ももはや信じられなかった。
「うわっ。わああああああああ、俺は生きているんだ。俺は生きている生きている生きている〜!!!!」
獣のような叫び声をあげた。だが、やはりその声は部屋の中に吸い込まれていく。
その声を聞くものはもはやこの世には誰もいなかった。刑事二人ははなから沢田の言葉など聞く気はなかった。そのため、沢田に自分たちの言葉しか届かないよう、特殊な防音システムを取調べ室に施していた。
逮捕されてから20日目にして、沢田の心はついに壊れた。沢田はその3日後、検察官に送られるが、そこで簡易鑑定を受け、刑事責任能力なしとみなされ不起訴となる。これで10回目の釈放となった(つづく)。

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