腰痛がMAXしんどくなったので、仕事を抜け出して、鍼灸院に行って、鍼を打ってもらい、按摩をしてもらいました。オレです。
自分ひとりでは、乳か、腹の肉くらいしか揉めませんが、もう何年も揉み解したいと思ってた背中の筋肉を揉み解してもらいました。
すっげー気持ちEeeeeーー!!
まだ痛みは残っていますが、腰が幾分軽くなった感じです。
すっきりしました。
こんなことならもっと早く通院すべきやった。
おかげで会社に戻っても、ボーっと眠くなってしまったので、結局ハヤオツでした。
さて、オレは、何かと”研究”という言葉を使っていますが、これけっこうどういう立場で言ってるのかは、重要なことです。
参与観察という言葉があります。
観察者自体が、その研究対象に深く携わっている状態を言います。
観察対象自体を深く理解するために有効なのですが、観察結果が主観的になるという欠点があります。
武術の研究というのは、やはりどうしても西洋科学ではまだ解明できていない要素が多すぎて、何かと簡単には測定できません。
そのため結局、武術を体験してみるということしか、本質を理解することができないのですが、それがまた年月がかかったりします。
多くの武術研究家の方は、様々な武術門派に入門し、それら門派間の相対的な相違点を見付けることで、格闘技術の普遍性を解こうとしています。
しかし、どう考えても、ちょっとやっただけでは、本質を理解することは出来ないですし、深くやればやるほどあまり多くの武術を経験できません。
よって結果的に、結論が、上っ面なものになるか、主観的にならざるを得ないような気がします。
酷いときには、自分よがりな結論に至ってしまうこともあります。
同じことが、企業においても言えるわけで、自分たちの技術やサービスは、多くのユーザに受け入れられたいと開発者や企画者は思うのですが、果たしてそれが客観的に観て、ユーザに喜びを与えることができているかどうかは、計り知れません。
それで結局は、ブランドイメージ、社会道義的イメージが勝者を作ることになるのかもしれないと思うこの頃です。
計測できない要素というのを如何に客観的に評価するのかは、研究者としての大きな壁であると同時に醍醐味でもありますな。

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