昭和33年1月26日の夕方5時、徳島地方気象台は強風警報を発令しました。
しかし乗船の準備が終わった紀阿連絡船(後の南海フェリー)は、167名の乗客を乗せて小松島港を5時30分に出港したのです。
海上が危険な状況であることを船長は知っていたと思いますがその判断が甘く、徳島県にとっては史上最大の海難事故が起きることになります。
強風に流された南海丸は航路を北に外れ、淡路島まで流されてしまいます。
そして18時28分に危険を連絡した南海丸は、その後通信が途絶えて行方不明になります。
当日は風速約20メートル、波の高さ5メートルと、とても航行出来る状況ではありませんでした。
小松島海上保安部や近くを航行していた船が救助に駆け付けますが船は発見できず、2日後に淡路の沼島近海に沈没している南海丸を発見します。
乗員と乗客167名が亡くなるという、悲惨な事故が起きてしまいました。
その要因としては、南海丸は31年3月に竣工した494トン444名定員の当時としては新造船だったため、
「新造船にお客様を乗せてあげたい」
「新型船だから大丈夫だろう」
と乗員に気の緩みがあったのかもしれません。
また、青函連絡船や宇高連絡船の全盛期でもあり、欠航した場合には評判が落ちる事を考えたと思われます。
当時、高知と徳島から関西方面へは南海フェリーが一般的で、高知発小松島港行きの急行「よしの川」も昭和41年から走ります。
その頃には、私も母に連れられて実家の近くの踏切に行き、客車に手を振ったかもしれません。
その後半世紀が過ぎても、私は今だに列車に手を振っています。
さて南海フェリーの話に戻りますが、もちろん現在は安全を十分に確認して航行している事は言うまでもありません。
そして、2年前に竣工した新造船の「フェリーあい」は、南海丸の5.5倍の2825トンなのに、乗客定員は南海丸より少ない424名です。
南海フェリーが徳島県に与える経済効果は計り知れず、私も例年なら毎年2〜3回は往復で利用します。
難波まで3時間の高速バスは座席も狭く、トイレに行ったり足も伸ばせません。
しかし難波まで4時間の南海フェリーだと空いていれば寝転がっても平気だし、Wi-Fiやコンセントも完備しているので便利です。
しかも高速バスは3100円なのに、フェリーは窓口で「好きっぷ」を購入すれば徳島港から難波でも高野山でも2200円です。
また、結願したお遍路さんも南海フェリーで高野山の参拝に行かれる為、その都度ご紹介していて、道しるべにとっては欠かせない存在になっています。
そのためハッキリ断言しますが、南海フェリーが廃止になると、その時は道しるべも廃業します。
コロナ禍で最近は乗っていませんが、収束はもうすぐなので、その時には久しぶりに船旅を楽しもうと思っています。
「えっ、鉄道だけじゃなくて船舶もマニアだったって?」
「そうです、動く鉄なら何でも好きなオヤジなんです」