古い話になるが、選挙関係の一連の事後報道番組を見ていたら、何党がどうこうとか誰がオカシイとか言う以前に、批評とか批判のルールについて考えさせられた。
どの世界にも共通する事だと思うし、特にブログ文化、書き込み文化なるものが定着してからはなおさらだろう。
そもそも人の話をよく聞かない、読まない。曲解する。
誤解を前提に話が進んで、自分の都合の良いように引水していく。
相手の「論への批判」と「相手への批判」を混同している。つまり主張に異議があった場合に、相手の主張に対してではなくて、その人の存在や人格をも含めて否定する。
論争なり、意見なりが百出した後で、自分はさも大局を見てます、客観的な立場ですよと言わんばかりに「後乗せ批評」をする。これは偉そうに見えてお得。ブロガー程度の責任でやるならいいけれど、プロが記事でこれをやるのはねえ。
自分の経験やデータを絶対視する。経験なんて単に「経験した」という事実があるだけで、そこに大した意味や普遍性は持たないと思う。またデータなんてあくまでも現状。前にも書いたけれど、その現状は過程を切り取ったに過ぎない。そこからどこへ向かうかを予測することが大事だろう。今が大丈夫な状況だから今後も大丈夫だなんていうのは甘いと思う。
あとはレッテル貼り。つくづく楽なことしていると思う。自分が非難したい意見の人に、「この人は○○だから」というキャッチをつけて、世間に対して勝手にその人のイメージ付けをしてしまう。そうすれば自分にとって都合のよい展開がしやすくなりますからね。
競馬の世界にもこういうのはきっといるでしょうね。自分もそうならないように注意しよう(笑)。まあこういう風に謙虚に書く人ほど、実は自信満々という鼻持ちならない人なんですけどね(苦笑)。
ここまで書いてきたことと直接関係あるわけではないが、競馬関係での新聞や雑誌を読んで近いことを感じたのは、現在は収束しつつあるが、チョット前の外国人馬主問題やムーンの移籍問題についての論調。
まあ、この事態を危惧した論に対しては、完全に国際化の抵抗勢力として否定するというパターンが多いですね。
私の場合は、ずっと条件付きの開放を考えている立場だが、それでもかなりの部分で危惧は抱いているので、いわゆる「抵抗勢力」に属しているというレッテルを貼られてるんでしょうな。
別に悲観論だという意見があっても全然いいと思っているし、私も前から書いているように、「何かがすぐに劇的に変わる」とは思っていない。しかし自論を主張するためにこちらの意見を完全否定する態度はフェアではないでしょう。論についての考えを戦わせるならともかく、反対の意見を唱える人を否定するやり方というのは、認め難い。
社台が倒産寸前の時代だった昭和40年代末期の状況から、ここまで大成していったマジックの過程や、ダーレーオーストラリアのオリバーテイスト氏のコメント、またモハメドの南米における購買戦略を見れば、それほど悲観論ではないとも思うのだが・・・。ここでは詳しくは書かないけれど、恐れのあることには最初から防御策も同時に考えておくべきだということは、やはり強調しておきたい。悲観論だというレッテル貼りは、しょせん楽観論と言い返されたら、ベクトルは逆でも地平が同じ。止揚したらまるで鏡に映したようなものだと思う。
抽象的な記事で申し訳ないですが。

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