競馬予想TVの本番中、私が愚にもつかない駄弁を垂れ流していた頃に、三沢光晴が戦死してしまった。フジテレビからタクシーを使って東京駅へ向かう時は、たいていお台場にあるノアの道場が入った倉庫の前を通るコース。この日も、まさかそんなことが起きているとは知らずに、同じ建物を見やりつつ帰ってきた。
このところ本当に訃報が多い。やはり天候不順、特にここ数日の高い湿度は、持病を抱えている人間には堪える(三沢も試合前から体調不良を訴えていたらしい)ということだろう。なんとテッド田辺レフェリーも、14日の試合後に持病の心臓発作で倒れてこの世を去っていた。ここ数年にわたり、全てにおいて受難のプロレス界にとって、追い討ちをかけられた厳しい状況である。
さて三沢光晴。自分と1歳しか違わない人間の死は、それが誰であれ心に何か挟まったような気がするし、今回はその死に方の壮絶さを含めて衝撃的である。また競馬以上に斜陽に歯止めが掛からない業界において、団体の長としての心労はいかばかりだったかと慮れば、なおさら哀悼の念を禁じえない。
ニュースで見た、緊急措置を施している光景の上方に映っていた、ファンが掲げたものらしき(誰かレスラーのニックネームだろうか)「死神」という垂れ幕の文字が皮肉である。
ただ私にとっては、先月の清志郎と違って、三沢は会ったこともない人だし、そもそも全日四天王時代のプロレス自体をほとんど見ていない。仕事が一番忙しい時期と重なっていて、とてもテレビを見る余裕はなかったのだ。(当時の1週間のテレビ視聴時間は、凝縮しても2時間なかったと思う。)
それでも、ごくたまに、夜中に事務所に戻り、徹夜で原稿を書いたり選曲をしたりしながら、点けっ放しのテレビから流れてくる中継を目にする機会があったが、意外と戦いぶりの記憶が薄い。私にとってのプロレスは1968年に始まって、馬場が第一線を退いてきた85年辺りまでで終わっているからだ。だから私と同年代の三沢や川田が中心となった「リアリティを追求するプロレス」には、目を見張ることはあっても、夢中になることはなかった。昔から見ていたプロレスとの隔たりが、あまりにも大きかったからかもしれない。
そんなわけで当時は週プロ、週ゴン、東スポの活字を通してしかプロレスに接しなくなっていたのだが、グラビア写真、インタビュー記事からも、三沢という人が信頼するに足る人間だったことは窺えた。後年、バラエティやトーク番組でその姿を目にするようになってからも、そのたたずまいには好感を持っていた。嫌われる隙がないというか、おそらく悪く言う人はいないだろうというタイプに見えた。
また、私は冬木弘道の大ファンだった(レスリング内容は若手時代しか知らない。理不尽大王と呼ばれた振る舞いと、彼の極めて常識人たる、数々の発言内容とのギャップに惹かれていた)のだが、あの滅多に人を褒めない冬木が手放しで絶賛していたことからも、三沢の度量のほどが窺える。
ただ、私の記憶違いでなければ、以前目にしたインタビューで三沢は「レスラーがリングの上で死ぬのは仕方ない」というような趣旨の発言をしていたはずだ。韜晦を含んだニュアンスだったのかもしれないが、ただやはり人間、死んだらお終いである。家族にとっても、また遺された同業者にとってもたまらない。死を恐れない覚悟は決して賞賛されるべきのものではないだろう。
特にプロレスの場合は、騎手や漁師などにつきまとう不可抗力の危険ではなく、自分や相手の未熟、健康管理の甘さの方が主要因となってそうした災禍が起こるものであるだけに・・・。この発言だけが唯一の瑕疵として、今も心に残っている。
全く次元の違う話になるが、三沢は慢性の首のケガを抱えていて、カイロプラティクスの専門家だけでなく、付き人に首を牽引してもらうことが毎日のようにあったと聞いている(そのシーンを何かのドキュメントか写真だかで見たこともある)。素人が首を牽引するなんて行為を、毎日積み重ねていたことのダメージはなかったのかと、死因を見てふとそんなことを考えてしまった。
4日前には引退したいというコメントを、取材で発していたそうだが、そもそも毎日首を引っ張らなければならないくらいの疲労や歪みの蓄積が、今回の事故の遠因になっていたことは確かだろう。もちろん、動員を考えれば休みたくても休めない状況だったことは言うまでもないのだが・・・。
さぞかし無念であったことだろう。壮絶な戦死であり、こんな犠牲者をもう出してはならないと強く思う。
そしてテッド田辺。以前、ラジオ番組でグレートサスケに生電話インタビューをした時に、ブッキングの窓口となってくれたのが氏だった。ご冥福をお祈りします。

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