チャーリー・パーカー作と云われてきた〈Donna Lee〉だが、マイルス・デイヴィスが自伝に於いて、自分の作だが印刷ミスでパーカー作と表記されてしまった、と語っているらしい。帝王にとってパーカーから盗みたい程の大仕事とも思えないので、きっと事実なんだろう。
このスピーディなテーマ部をスウィング感を保って吹ききるのは管楽器奏者にとっても難事に違いないが、弦楽器にとっては鬼門とさえ云える。弦楽器に苦手な音の並びの連続で、指がもつれまくる。いやそれ以前に何故か、覚えられない。
サックス吹きでもある田中啓文さんにそう云ったら、「いや覚えられんてことはないと思うんやけど」と軽く去なされた。でも弦楽器奏者の多くは賛同してくれるだろう、我々に〈ドナ・リー〉は覚えにくいという意見に。
弦楽器に決定的に欠如しているのはブレス(息継ぎ)の感覚である。「ここは溜めて」と命じられたとき弦楽器は音を伸ばすが、管楽器は息を吸う。一塊の音列、の感覚が、管と弦とでは根本的に異なる事をこれは意味する。
きっと〈ドナ・リー〉のテーマは、極端なほど管楽器に特化しているんだろう。すると弦楽器奏者にとっては、「聴いているあいだは理解しているつもりなのに、弾き始めると訳がわからん。ここはどこ?」という現象が起きる。
逆に、弦楽器のエクササイズには最適であるとも云える。芸事にしろスポーツにしろ、苦手が見つかったなら幸いなのだ。じゃあそこを重点的に訓練し得意にしてしまえば、得意な面ばかりとなろう。
我田引水のようで恐縮だが、僕の小説で個性と目されるのは、概ね元々苦手だった部分だ。批評への寛容を心掛けてはいるが、ここを逆様に評価されるとさすがに腹が立つ。自分が好んできたモチーフのパッチワークで「これが自分の個性です」だなんて、泥棒に過ぎない。それを恥じ入るからこそ、未踏の地を求めてきた結果に過ぎない。
フレットレス・エレキベース奏者ジャコ・パストリアスのデビュー盤は、よりによって〈ドナ・リー〉で幕を開ける。伴奏はドン・アライアスのパーカッションのみ。和声を示す伴奏が無いうえ、当時のジャコは音程がいくぶん甘く、ソロでは原曲を解体しまくって、とどめは後半の不思議な転調。難解極まりない。何十年も聴き続けてきた僕が、未だ途中で展開を見失う。テーマが頭に叩き込まれていない人には、何処が頭かさえ分からないに違いない。
アルバムを売ろうと思ったなら、別の選択が幾らでもあった筈だ。例えば二曲目の〈Come On, Come Over〉が幕開けだったなら、天才ベーシストがものしたソウル・フュージョンの名盤として、何倍も売れたような気がする。
しかしジャコは、未来への挑戦状とも云える〈ドナ・リー〉を一曲目に選んだ。
初めて聴いた時の衝撃からかれこれ三十年を経て、やっとギターでなら同等の速度で弾けるようになったが、ソロ部の意図は未だに分からん。コードがBb7のところでどーんと開放のEが出てきて、出鱈目? と疑い、あ、裏コードのE7を意識していたのかと気づく。かと思えば次の音ではもう辻褄が合わない。
時限爆弾でも抱えているみたいに、未だに驚き続けている。

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