日頃、もう老人だよ、と周囲に連発しつつ、オヤジバンドという言葉がどうも好きになれない自分が不思議だったのだが、最近、理由に気付いた。
「久々なんで劣化には目をつむってください」「本業では頑張っていますから」といった言訳が、余程のこと僕は嫌いなのだ。
オヤジバンドという詰まらない造語は、どうもその種の響きを含んでいる。今ならブームだから大丈夫、といった甘えも。
無関係に、ただ上手くなりたくて必死にやってきた我々からすれば、まるで後ろから殴られたようなもの。僕自身、これ迄の人生に於いて明らかに、今が歌もギターも他の楽器もいちばん上手い。だって練習してるんだもん。五十代、六十代の僕は、より遙かに上手いだろう。
ステファン・グラッペリは、七十代、八十代でも進化し続けた。北斎は九十にならんとする最晩年、あと十年あれば画を極められると悔やんだ。それぞ芸の道である。
逆にね、はっきり考えちゃっていいですか。プロでもアマチュアでも、若い頃より下手になっている奴は、リハビリが済むまで人前では演奏するな。あ、テレパシーです。
真面目な話、音数が減っているとかテンポが緩いとかは別に構わないから、年輩のミュージシャンにはどこかしら、若い頃より進化していてほしいのである。楽器の値段以外で。
僕なんぞも楽器店のエレキ壁の前に立っていると、見た目がそれなりなんで(立派という意味ではない)、「若い頃は買えなかったでしょ?」ってな調子に、どえらく高いギブソンやフェンダーを薦められたりする。七十万とか。
おい七十万だぞ。
そういう、なんて云うんでしょう、「男の一流品」ビジネスというか「充実した第二の人生」ビジネスというか――。
いざ自分がその鴨になりかけると、実に情けない気分に陥る。「どうせ時間を無駄にしてきたんでしょう? せめてその一部を金で取り返しましょうよ」とでも云われているような気がしてくる。
別にさ、そんな「今の俺に相応しい逸品」を探している訳じゃないのだ。ただ楽器が好きで眺めていたのに。
以前ジャンク品として二万円くらいで買い、外れと思い放置してあったフェンダーメキシコのTelecaster Deluxeを久々に弾いてみたら、経年変化の所為かネックの状態が良好で、そのうえ軽く、悪くなかった。
いつかスティアが壊れた時の為、また同じくらいの時間を掛けて、実験と改造を繰り返すかもしれない。他にも一万五千円くらいだったOvationのエレキだのヤマハのSGだのがごろごろしているから、どれが優先されるかは分からないが。
ともかく僕が使うのはそんな楽器で充分。きっと、なんとかカスタムショップ製のギターを買う日は永遠に来ない。
関係あるような無いような話だが、僕は未だに大学ノートを使っている。小説の試し書きも装訂イメージもコード進行も新聞記事のスクラップも他人の電話番号も、ぜんぶそこ。舞台に持って出るのも同じノート。
つまり無くしたらおおごとなのだが、表紙にでかでかと津原泰水と書いてあるし、中身はびっしりと万年筆書きなので、たまに何処かに置き忘れても必ず返ってくる。使いきったら表紙に何年迄と記して、棚に放り込んでおく。記憶を遡るのも簡単。便利なもんである。
大判のファイロファクスを使ってみた事もあるのだが、僕には煩雑なだけだった。大学ノートが良い。
使っている百枚綴りの頁が乏しくなってきたのでLOFT某店に出向き、広大なシステム手帖コーナーを尻目に「大学ノートは何処ですか」と訊くと、コクヨのノートが並んだ場所に導かれた。いや、これは違う。大学ノートではない。紙が全く違う。
昔乍らのTSやツバメのノートの紙は万年筆が引っ掛からないし裏写りしない。コクヨはボールペンノートだから寧ろ逆の特性だ。
「ツバメノートは無いんですか」と訊いたら、若ければ宝塚の入団試験に受かったであろう長身の美人店員は、「はあ?」と介護疲れしたような表情で発し、上司を呼びにいった。結局、無かった。
カスタムショップ製のギターと似た、需給の擦れ違いがここにある。年季の入ったユーザーと、今だからこその商品を提供したい店側との、いわば善意の行き違い。その後も似たような経験を繰り返して、結局、ネット通販で買う事に決めた。本当は確固たる需要を示す為にも、店頭で買いたかった。
ちなみにボールペンが嫌いな訳ではない。これまた大手文具店で挫折を重ねたのだが、僕がいちばん好きなのはBICのオレンジ色の軸、線が1.0mmの奴である。最初の慣らしの後は書き易く、なにより必要な時に見つけ易い。うちにはこれが、あちこちにごろごろしている。
後日、百円ショップでまとめ売りされているのに気付いた。ペン先の素材が変わっているが、書き味は往時と変わらないようだ。

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