厚川昌男氏のお通夜に足をはこぶ。御周知のとおりアナグラムの泡坂妻夫名義で、比類なく精緻、且つ大胆な文業を成された方だが、奇術界に於いてもその名を冠した新人賞が存在する程の功労者、また御本業は呉服に家紋を入れる紋章上絵師だった。小説以外では厚川昌夫のお名前であり、お弔いも同様だった。僕にとっては泡坂妻夫さんなのでそう表記するけれど。
出版業界の集まりでお見掛けする事は珍しくなかった。言葉を交わせたのは一度である。同じ物書きとはいえ格が違いすぎる。あるパーティの晩、ホテルのロビィで編輯者と『綺譚集』の打合せをしていて、はっと、近くの椅子に坐っておられるのに気付いた。人混みにお疲れの風情で、ぽつんと独りで居られた。迷った挙句、編輯者を待たせて席を立ち、「泡坂先生」と声をかけた。緊張していたのでよく憶えていないが、粗雑な自己紹介をし、貴方を目標にしている、といった事を述べた。なんだか吃驚したような顔をなさった。「お恥ずかしい代物ですが自著をお送りしても宜しいですか」と訊いた。「はい」と仰有るので、今も、――にある御住所ですか、届きますか、と訊いた。僕は推理作家協会を(会費未納で)除名になっており、作家連の近年の情報に疎い。「はい、届きます」と仰有った。「とつぜん失礼致しました」と頭をさげて元の席に戻った。
自著のうちミステリ色の強いものを見繕ってお送りした。お読みになったかどうかは分からない。繙かれなくとも、帯の煽り文句で「またエピゴーネンか」と苦笑なさっただろう。その懺悔の為にお送りしたのだから、それでいい。
昨年、『幻影城の時代』という本を朋友の本多くんが監修した御縁で、台湾在住の元編輯長、島崎博さんをお迎えする会に出席した。泡坂さんは全くお変わりなく見えた。二次会のテーブルをまわってコインの手品を披露なさった。僕は突っ立ったままその手許を見つめていた。
泡坂妻夫のいない世界に不慣れな僕は、訃報は聞かなかった事にし、昨日迄の世界に踏み留まろうかとすら考えた。なのに勝手に体調が悪くなる。じっさい翌日は寝込んでいた。通夜の日も目が覚めきらないようだった。数年ぶりに皆川博子氏に電話を掛けた。対談の際、なんらかの出版だか受賞だかの小宴に泡坂さんと中井英夫氏が来て、泡坂さんは手品を披露してくださった、中井さんは胸に挿していた薔薇の花を渡してくださった、と嬉しそうに話されていたのが、印象ぶかかったので。
「がっかりだよう。矢川(澄子)さんのときも久世(光彦)さんのときもだったけど、本当にがっかりだよう」「私はもう遠出する体力も気力もないから(葬儀は失礼する)」と仰有る。女性の年齢を記すのは躊躇われるが、単純に計算すれば皆川さんも今年八十。そうは見えないので若く見積もる癖がついていた。体調の話となり、あべこべに此方を心配されてしまい、「皆さんに御迷惑をおかけしましたが、今は元気です。凄く元気なんです」と答える。
礼服は嫌いなので父親の古い背広に袖を通す。だらだらと、漸く池袋の斎場へ辿り着くと、受付の灯りが落とされているばかりか、通夜そのものが終わりかけていた。田舎の、翌朝まで続く通夜に慣れているもので、なにか、すっかり勘違いをしていた。受付に居残っていた人が「御遺族に」と話しかけてきて、精進落しの場へと案内してくれた。美女が座敷から飛び出してきて「娘です」と御挨拶をくださり、最期の御様子を教えてくださった。突然死に近く、殆ど苦しまれなかったというので、僅か乍ら安堵する。息子さんも近づいてこられ、「最後まで吃驚させてどうするんだ、って云ってるんです」と笑顔をつくられる。死を大袈裟に語りがちな眷族とは違う、健全で前向きな職人一家の姿を垣間見た。
御厚意で、お棺の中を覗かせていただいた。僕の父がそうだったから分かるのだが、不意に亡くなった人特有の、居眠りのような表情だった。初めて泡坂さんのお顔をまじまじと見つめた。実に綺麗な方である。紋付きを着ておられ、泡坂さん御自身の家紋を初めて意識した。木瓜(もっこう)だったかそれに近い物だったか、状況が状況なので観察しえなかったが、二組の松葉で囲まれていたのは憶えている。そういえば屋号は松葉屋だった。
泡坂妻夫は1975年、幻影城新人賞佳作の「DL2号機事件」によって産声をあげた。改めて計算してみると齢四十二、なんと現在の僕とさして変わらぬ年齢での、遅咲きデビューである。ちなみに皆川博子が小説現代新人賞を受賞したのは1973年。四十四で、誕生日がどうのという話を取っ払えば、今の僕の歳だ。
アルバイトの延長ではあったが、僕が最初の少女小説を出したのは二十四の時。そこから二十もの馬齢を重ねて、スクラップ寸前の現在に至る。僕の、この今の地点から、作家十人ぶんもの仕事を成してこられた御両者を想うに、その静かで確固たる焔に、ただただ、頭が下がる。
その情念。その勇気。
泡坂妻夫のいない世界に僕は慣れていないので、今はひたすら感傷的だ。視界に色彩感が無い程だ。お通夜の翌日、本多くんの写真展で演奏をし、それなりの拍手とお捻りを賜ったが、なんとなく上の空で、記憶の前後関係が曖昧である。そちらにこそ喪服で行こうかと思い、奇術師厚川昌夫なら、どんな時にも舞台では楽屋裏を感じさせなかったろうと思い直し、いつもの恰好で出掛けた次第だが、あれこれと忘れ物だらけだった。

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