二代目の、黒いチベタンテリアが家に居る。柴犬程度の犬だが長毛なのでより大きく見える。犬のサイズ定義は様々ながら、小さめの中型犬、としておくのが妥当だろう。小型犬だと称して人に預けようとでもしたなら、現物を見て仰天されるに違いない。
僕は自動車を持たない。犬と遠出するとなると、専用のキャリーバッグに入れて電車かタクシーで移動する他ない。中型犬でそういう真似をする人は少ないのか、世の犬バッグはどれも小さい。ホームセンターで売られていたうち最も大きな物を買ったが、満一歳の現在は、四肢を縮め踞ってもらうかたちである。尤も犬というのは狭い場所を好む動物、また狭い内で器用に動く動物でもある。幅三十センチのそんなバッグの中でも、じたばたと辛うじて方向転換する。
一昨日、電車の中で大きな悲鳴をあげた。チベタンテリアは感情表現にあまり声帯を使わない。一週間二週間、声を聞かないのはざらだ。余程の事態だと思いファスナーを開けて手を入れたら、指を噛まれた。ギター弾きの指を噛むなこら。よっぽど恐怖している。
プラットフォームで「どうした」と問うも、また無口に戻ってしまった。少なくとも何か我慢している様子である。
目的地でバッグから出るよう促したら、右の後肢を浮かせていた。なにか刺さったのかと足先を掴むと、また悲鳴をあげた。素人ながら股関節脱臼かもしれない察した。ほぼ成犬のサイズまで成長していながら、ときどき後肢を後ろに伸ばして伏せているので、その辺に異状がなければいいがと危惧していた。
掛り付けの獣医に電話すると「あまり痛がるようなら連れてきてください」という返事だった。食欲はあるし、肢を後方に引っ張られないかぎり声はあげないので、翌日まで待った。捻挫に過ぎず、勝手に治ってくれればいいという思いもあった。
「散歩に出るか」と問い掛けると、ちゃんと玄関で待機する。しかし外に出ても基本的に右後肢以外の三本で歩いている。時々こちらを見上げて何かを訴える。医院に連れていくしかない。このまま歩いていくのは無理だろう。
いったん家に戻って、日常の足にしている原付バイクを出す。一種のスクーターだが座席前方に燃料タンクが鎮座しており、うちの犬はこの上に巧みに乗る。乗せられているだけではなくて、ちゃんとタンクを跨いで、前肢でハンドルの根元にしがみつき、バランスをとり続けるのだ。もちろん落下しない工夫もしているが、あんがい自分で運転しているような意識でいるという気がする。
交通法上は問題かもしれない。しかし僕がチベタンテリアがバイクに乗れるというのを発見したのは、先代を大急ぎで医院に運ばねばならなかった時なのだ。はじめ自分の身に縛りつけて運んでいた。しかし、もがかれると却って危ない。「乗って」もらったほうがましではないかと思い付き、跨らせたら、本当に乗った。ただし初回は昂奮の為か恐怖の為か、タンクが小便で濡れた。
だから二代目には、いざという時のため、自動車のいない通りで練習させてあった。
ちゃんと跨ってくれた。ずっと疼痛はあるのだろうが、苦しんでいる気配はない。助かった。
やはり股関節脱臼だった。麻酔で眠らせて右後肢を引くと、簡単に正しい位置に納まった。獣医師の表情が曇る。簡単に納まったという事は、また簡単に外れるという事だと説明された。実際、麻酔から覚めかけたところで再びレントゲンを撮ると、また外れていた。
もう一度入れて、患部を押さえつけたまま肢を縮めさせ、厳重にテーピングする。今夜はうちで預かると仰有るので、独りで帰った。それが昨日。
僕は家で仕事をしているから、動物を飼えば二十四時間べったりとなる。このドアは閉めておく、与えられた玩具と誤解されないようここに物は置かない、料理の一部は味付け以前に取り分けておいて餌に混ぜる、といった習慣が身に染みついているので、犬が居なくても無意識にそれをやってしまう。朝起きれば、まず姿を探してしまう。
午後、迎えに行った。確認のレントゲン。残念乍ら、骨はまた外れていた。正常な位置に戻して、あとは安静にしていれば――という人間の脱臼とは、訳が違うのだと痛感する。脱臼という、人の場合は一時的状態を現す言葉が、事の本質を見えにくくしている。今は認めざるをえない。うちの黒犬は股関節形成不全(股異形成)であった。遺伝性の畸形だ。
股関節のジョイントが、元々合っていない。だから自力で外してしまった。先代に比べ歩き疲れによって座り込み易い傾向を、単にあちらが我慢強かったのだと考えていたが、そうではなく「ずっと痛かったのだ」と今は推察している。
飼主としての選択肢を示される。放っておく、というのも飼主の権利であり、もしそう宣言されても致し方ないという諦観が獣医師の口調ににじむ。積極的な治療としては、補綴(ほてつ)術、ピンニング、そして大腿骨頭(だいたいこっとう)切除の三種を示された。補綴術は、関節にピアノ線等の軸を通し留めてしまう方法。ピンニングは骨盤に嵌っている大腿骨の突起(大腿骨頭)が抜けないよう、押さえピンを骨盤に仕込む方法。話の順序が狂うが、帰宅後ウェブで調べていて、股関節を人工物に全置換する方法もあると知った。しかし股異形成は主に大型犬に見られる症状であり、うちの犬サイズのジョイントが製造販売されているとは思えない。仮に入手できても手術費ともども目玉の飛び出る値段であろう。
これら人工物の内蔵法には、大きく二つの問題点があるようだ。一つは感染症の危険。そして耐用年数の問題。補綴術の軸が最も折れ易く、医師曰く「間もなく折れなかった例を知らない」とまで。押さえピンも、なにかの拍子に曲がったりアンカーが抜けてしまえば、今度はもっと厄介な脱臼へと至る。ピンニングを得意とする他の医師に連絡をとってくださったが、その程度の体重(見た目に反して十一キロしかない)の犬は骨盤が薄く、施術が困難であるとして、大腿骨頭切除を勧められた。
股関節脱臼が激痛を伴うのは、外れたジョイントボール(大腿骨頭)が、本来触れ得ない部位と擦れ合うからだ。大腿骨頭を切ってしまえば、痛みは消える。いかにも消極的な治療だが、うちの犬の場合、体重の軽さが有利にはたらく。消えた股関節を補うため、肉体は繊維性の偽関節を形成する。それと周囲の筋肉が体重を支える。走れるようになる、と云われた。
テーピングされたままの犬を、いったん引き取って帰宅。そんな状態でもバイクのタンクに上手く乗ってくれた。左後肢をシートまで伸ばしてなんとかバランスをとっている。
ずれたテープが尾を押さえ、その尾が肛門を押さえ気味だったので、排便に不便だろうと思い、先刻、貼り付いた毛と一緒に切り裂いて除いた。玉子焼きに押し込んで食わせた鎮痛剤の効果で、とろんと、物憂く踞っている。
週明け、僕は獣医に、彼の大腿骨頭の切除を頼むのだろう。同じ症状に見舞われている犬の飼主たちの、少しでも参考になればと思い、こうして詳細を記録している。

6