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2010/5/22

Rothschild-22  会議は踊る  ロスチャイルド
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正面、右を向かれているのがメッテルニヒ宰相の子孫であるメッテルニヒ公爵
ウィーンで、小生も招待された夕食会に於いて


ナポレオンがロシア遠征で大敗し、退位した後、フランスではルイ18世が即位し、1814年にブルボン王朝が復活し、1814-1815年にかけて、オーストリアのメッテルニヒ首相兼外相が議長を務め、ナポレオン後のヨーロッパ秩序再建と領土分割を検討するウィーン会議が開催。  

しかしながら、各国の利害が対立し進行せず、「 会議は踊る、されど進まず 」 と評されます。  ところが、1815年3月にナポレオンがエルバ島を脱出した報せを聞き、危機感を抱いた各国の妥協が成立し、1815年6月9日にウィーン議定書が締結されました。




1815年6月18日、ナポレオンがワーテルローの戦いで敗北し、旧勢力によるヨーロッパ支配体制が復活すると、1818年10月〜11月にベルギー国境に近いドイツのアーヘンで戦争賠償金の分配を決めるアーヘン列国会議が開催。

ワーテルローの戦いでは、イギリスのウェリントン将軍に多大な支援を行ったロスチャイルド一族に思わぬ災難がふりかかります。

それはキリスト教主義の復活でもあり、老舗の金融業者が旧体制と組んで、新興のユダヤ人金融業者であるロスチャイルド家を排除しようと画策を始めたのです。   

フランスに復活したブルボン家のシャルル10世は、起債や戦争賠償を巡る金融業務を、ロンドンのベアリング兄弟など、古くからの名門銀行家に委託して、新興のロスチャイルド家を完全に無視しました。


ウィーン会議と同じく、日夜社交パーティに明け暮れていたアーヘン会議ですが、突然の異変の報せに静まり返りました。

それは、ヨーロッパ各地でフランス公債が暴落し、各国代表がパニックに陥ったのです。 肝心のフランスの財政が破綻しては、賠償金を取り立てるどころか、各国の国家財政の見通しすら立たなくなるからです。

フランス公債暴落の原因は、ロスチャイルドが各市場でフランス公債を買い込み、一挙に売りに出たからであり、フランス公債だけでなく、他の公債もくらつきはじめました。

これだけの相場を動かせるのは、莫大な財産を持つロスチャイルドをおいて他にはなく、各国首脳と銀行家達はゆやく事態の重大さに気づき、オーストリア宰相メッテルニヒはアーヘンに来ていたサロモン・ロスチャイルドとカール・ロスチャイルドをパーティに招きいれ、商談を持ちかけたところ、公債市場は次第に落ち着きをとり戻しました。

こうしてヨーロッパ経済は、破局を回避するとともに、新興の成り上がり者として抹殺されようとしたユダヤ人のロスチャイルド家は逆襲に成功し、ユダヤ人でありながら、神聖同盟の銀行という不動の地位を築きます。

一族の間では、この会議こそが天下分け目の戦いの場であったと、語り継がれる事になりました。


アーヘン会議後、ロスチャイルド一族は、メッテルニヒに個人的に深く食い込み、このためハプスブルグ家のオーストリア帝国は、1822年、一族の5人兄弟はもとより、兄弟の嫡出子孫にまで男爵とする布告を出し、貴族の紋章も許されました。

中央に赤い盾を刻み、5人兄弟の結束を象徴する5本の矢を握る図柄をあしらったロスチャイルド家の紋章が定められたのは、この時でありました。







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