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2010/9/20

Rothschild-101  杉原千畝  ロスチャイルド
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杉原千畝記念館
〒505-0301  岐阜県加茂郡八百津町八百津1071


杉原千畝(すぎはらちうね)は、第二次世界大戦中に、日本と同盟関係にあった、ナチスドイツから迫害を受けていたユダヤ人が、シベリア-日本経由で、アメリカやパレスチナに亡命できるようビザを発給し、6000人ものユダヤ人を救った外交官です。


1940年(昭和15年)7月27日の朝、バルト海沿岸の小国リトアニアの日本領事館に勤務していた杉原は、いつもと違って外がやけに騒がしいのに気がつきました。 


1939年9月、ナチスドイツとソ連の密約により、両軍が同時にポーランドに攻め込み、ポーランドを東西に2分割し、


1940年5月にはナチス親衛隊(SS)全国指導者のハインリヒ・ヒムラーの命を受け、ドイツ国防軍が接収したポーランド軍兵営の建物を利用し「アウシュビッツ第一強制収容所」が開所され、迫害を逃れるために、多くのユダヤ人がリトアニアに逃れてきていたのでした。


アウシュヴィッツ  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/690.html
アドルフ・ヒトラー  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/689.html



何故、リトアニアかといえば、オランダ、フランスもナチスドイツに破れており、ナチスから逃れるには、シベリア-日本経由の道しか残されていなかったからであります。

そして、ナチスにパスポートまで奪われたユダヤ人もおり、彼らとしては何とかリトアニアの日本領事館で、日本行きのビザを発給してもらう他なかったのであります。




しかしながら、ドイツと同盟関係にある日本の立場としては、これを認めるわけにはゆきません。 

杉原はユダヤ人たちから、ポーランドでのユダヤ人迫害の話を聞き、苦悩の末ビザを発給することに決めました。

領事の権限では、これほど多くの人々にビザを発給できませんから、何度も日本政府に暗号電報で許可を求めましたが、厳格な要求を満たしている限り発給できるとするだけで、OKの返事は返ってきません。

8月3日には、ソ連がドイツとの密約どおり、リトアニアを併合し、日本領事館に8月中の退去命令を出し、日本の外務省からも 「早く撤収せよ」 との指示があり、杉原はこの一ケ月間で一人でも多くのビザを発給することを決意します。


自分の身の安全、また将来を捨ててでも、人間としてこの理不尽な迫害にあっている多くのユダヤ人を助けることに決めたのです。


そして、毎日300枚のビザを書き続け、万年筆は折れ、ペン先にインクをつけて書き続けました。 そして一日が終わると、疲労で倒れこむ杉原の腕を、妻がマッサージし、また次の日から一日中書くという毎日が続きました。

ソ連から退去命令が何度もでて、ついに8月28日に領事館を閉鎖し、撤去しなければならなくなりましたが、杉原は自分の泊まるホテルの情報を張り紙し、ユダヤ人たちは杉原のホテルに押し寄せ、ありあわせの紙でビザを書き続けました。

9月1日の早朝、撤去期限が過ぎ、ベルリン行きの列車に乗り込みましたが、窓から身を乗り出して、杉原はビザを書き続けました。  


ついに汽車が走り出し、


「 許してください、私にはもう書けない。 みなさんのご無事を祈っています。 」

と杉原が言うと、ユダヤの人々は深々と頭を下げ、


「 スギハラ、私たちはあなたを忘れません。 もう一度あなたに会いたい 」

と、杉原の姿が見えなくなるまで、見送ってくれました。



ビザをもらったユダヤ人たちは、数百人ごとの集団となって、数週間をかけてシベリアを横断し、ウラジオストクの日本総領事は、手厚くユダヤ人たちを、日本郵船のハルビン丸で、日本に送りとどけました。

1940年(昭和15年)10月6日から1941年6月までの10ケ月間で、1万5千人のユダヤ人がハルビン丸で日本に渡ったことが記録されています。  敦賀から神戸に向かった心身ともに傷ついたユダヤの人々を、神戸のユダヤ人協会、キリスト教会、赤十字などの日本人たちが暖かい援助の手を差しのべました。

後に、多くのユダヤの人々が、 「 日本人は優しかった 」 と言ってくれています。

そして、ユダヤ人たちは、神戸と横浜から、アメリカやパレスチナ(今日のイスラエル)
に渡ってゆく事ができたのです。


「 杉原千畝が日本政府の命令に背いて、ビザを発給した 」 と 流布する人達がいますが、それは大嘘です。 



当時の日本政府の国是は、 「 人種平等 」 であり、ナチスドイツから度重なるユダヤ人排斥を要求されますが、それには一度も迎合しておらず、当時日本海軍管轄下であった上海では27000人を超えるユダヤ難民が保護され滞在しており、ドイツ外相からも非難されています。

ただ、同盟関係があった以上、表立って杉原領事にビザ発給の許可を出すわけにはいかなかったので、あえてあいまいにするために返事をせず、厳格な要求を満たしている限り発給できるとし、

現実は外務省ネットワークで、リトアニア、ウラジアストク、敦賀、神戸に手を回しており、ユダヤ人たちを何のトラブルもなく移送させていたのです。

もし、日本政府の方針が杉原領事を非難するものであったなら、ウラジアストク、敦賀、神戸など、いずれの場所からでも追い返すことは出来ていたのです。



またしても、お馬鹿な日本人が、日本政府の方針に反して・・・の流布を流し、誰もがそう思っていたのですが、調査の結果それが間違いであることが明確となり、ホロコーストの杉原領事の記念プレートから、 「本国の命に反し」 という文言が削除された事実があります。



その後、杉原はリトアニア退去後、ドイツの首都ベルリンを訪れた後、1940年にチェコスロヴァキアの在プラハ日本総領事館、1941年に東プロイセンの在ケーニヒスベルク総領事館、その後1946年(昭和21年)までルーマニアのブカレスト公使館などヨーロッパ各地を転々とし、各職を歴任。

第二次世界大戦の終結後、在ブカレスト公使館で家族と共にソ連に身柄を拘束され、1年間の収容所生活を送っています。


1947年(昭和22年)に日本に帰国するも、占領軍総司令部から各省の職員を減らすようにという命令が出て、杉原にもその矢はあたり、外務省を退職。

その後、イスラエルの大使館から電話があったのが、1968年(昭和43年)8月の事で、杉原に救われた一人、ニシュリという男が参事官として在日大使館に勤務していました。


ユダヤ人達は28年間も杉原を探していて、ようやく見つける事ができたのです。


ニシュリは、杉原に会うと、一枚のぼろぼろになった紙を見せました。 杉原からもらったビザであります。  そして杉原の手をかたく握って、涙を流しました。


翌1969年(昭和44年)、杉原は招待杉原は招待されてイスラエルを訪問。 出迎えてくれたのはバルハフティック宗教大臣、領事館でユダヤ人代表として杉原に交渉した人物であります。

バルハフティック大臣は、杉原をエルサレム郊外にあるヤド・バシェムという記念館に案内しました。  これは、ホロ・コーストの犠牲者を追悼するとともに、ユダヤ人を救った外国人を讃えるための記念館で、杉原はそこに記念樹を植え、勲章を受け取りました。

その記念館には、 「記憶せよ、忘るるなかれ」 という言葉が刻まれています。

1985年(昭和60年)1月、杉原はイスラエル政府から 「 諸国民の中の正義の人賞 」
を、日本人としては初めて授けられ、すでに病床にあった杉原の代わりに、夫人と長男がイスラエル大使館での授賞式に参加しました。


そして杉原は病床のまま、翌昭和1986年(昭和61)7月31日に心臓病で死去。 


彼が残した言葉は、純朴な人らしく

「 私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれないが、人間としては当然のこと。 私には彼らを見殺しにすることはできなかった。  」  

                                           杉原千畝 享年86歳






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杉原千畝


A JAPANESE HOLOCAUST RESCUER
http://www.youtube.com/watch?v=KA_xNVtRsjo






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