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2011/7/1

邪馬台国と卑弥呼-121 魏志倭人伝 まとめ   邪馬台国と卑弥呼


魏志倭人伝全文のまとめです。



魏志倭人伝全文-1  倭人について  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1423.html  
魏志倭人伝全文-2  邪馬台国への行路
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1424.html
魏志倭人伝全文-3  女王国の境界
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1425.html
魏志倭人伝全文-4  黥(いれずみ) 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1426.html
魏志倭人伝全文-5  風俗・髪形・衣服
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1427.html
魏志倭人伝全文-6  存在しない動物
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1428.html
魏志倭人伝全文-7  兵器 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1429.html
魏志倭人伝全文-8  儋耳・朱崖との類似
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1430.html
魏志倭人伝全文-9  居所・飲食・化粧
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1431.html
魏志倭人伝全文-10  葬儀 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1432.html
魏志倭人伝全文-11  持衰
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1433.html
魏志倭人伝全文-12  鉱産物 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1434.html
魏志倭人伝全文-13  植物  
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魏志倭人伝全文-14  動物
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魏志倭人伝全文-15  ト占 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1439.html
魏志倭人伝全文-16  集会・立ち振る舞い 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1440.html
魏志倭人伝全文-17  寿命
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魏志倭人伝全文-18  婚姻形態 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1442.html
魏志倭人伝全文-19  一大率
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1443.html
魏志倭人伝全文-20  下戸と大人
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魏志倭人伝全文-21  倭国大乱 
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魏志倭人伝全文-22  女王国周辺
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1446.html
魏志倭人伝全文-23  女王国周辺 景初二(三)年の朝献 
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魏志倭人伝全文-24  魏の皇帝の詔書  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1448.html
魏志倭人伝全文-25  正始元年の郡使来倭
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1449.html
魏志倭人伝全文-26  正始四年の上献
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1450.html
魏志倭人伝全文-27  正始六年難升米に黄憧
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1451.html
魏志倭人伝全文-28  卑弥呼と卑弥弓呼との不和
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1452.html
魏志倭人伝全文-29  卑弥呼の死
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1453.html
魏志倭人伝全文-30  女王台与
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1454.html
魏志倭人伝全文-31  台与の朝献
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1455.html




(1)倭人について  

倭人は帯方郡の東南で、大きい海の中にいる。 山や島によって国やまちをつくっている。もとは、百余国からなっていて、漢の時代に朝見してきた国もあった。いま使者や通訳が通ってくるところは三十国である。帯方郡から倭に行くには、海岸に沿って船で行き、韓の国を通過する。 南に向かったり、東に向かったりしながら、その北岸の狗邪韓国に到着するが、そこまでが七千余里である。 ここで、始めて海を渡るがその距離千余里で對馬国 (対馬国) に到達する。 その国の大官はヒコ (卑狗) といい、副をヒナモリ (卑奴母離) という。  人々が住んでいるのは、絶島であり、広さはおよそ四百余里四方である。 土地は山がちで険しく、深林が多い。 道路は鳥や鹿のけもの道のようである。 千余戸ある。 良い耕地は無く、海産物を食べて自活してる。  船に乗って南や北に行って米穀を買い入れている。 さらに、南に向かって海を渡るがその距離は千余理である。 その海を渤海と呼んでいる。そうすれば、一大国 (一支国=いきこく=壱岐?) に到達する。 官はここでもまた、ヒコ (卑狗=彦?)といい、副をヒナモリ (卑奴母離) という。 広さはおよそ三百里四方である。 竹や木の林が多い。 三千家ばかりある。 耕地が少しあるが、耕作しても食べるのには不足する。  ここもまた、北や南に行って交易をしている。 さらに海を渡って千里余りで、末盧国 (マツロ国=現在の松浦半島?)に到着する。 四千余戸ある。 山と海にはさまれて暮らしている。 草木が盛んに茂っており、歩いているときに前に行く人を見ることができない。 魚や鰒 (あわび)を捕らえるのが好きである。 水が深くても浅くても関わり無く、みな潜ってそれを採る。


(2)邪馬台国への行路

東南に向かって陸路を五百里行けば、伊都国 (現在の福岡県糸島市) に到着する。 官を官はニキ (爾支)といい、副をシマコ・ヒココ (泄謨觚・柄渠觚=島子、妹子・彦子、日矛?)という。 人家は千余戸ある。 この国には代々国王がいて、みな女王国に統属している。ここは帯方郡からの使者が倭国と往来する時には、常に駐まるところである。 東南に百里すすむと奴国 (那の津、博多)に到着する。 官はシマコ (兇馬觚)といい、副はヒタモリ (卑奴母離)という。  二万余戸あり。東に百里すすんでフビ国 (不弥国=宇美町?) に到着する。 官をタマ (多模) といい、副はヒナモリ (卑奴母離)という。 千余家 (=魏略では戸萬余)である。 南に向かって水路を二十日行けば、投馬国に到着する。 官はミミ (弥弥)、副はミミナリ (弥弥那利) という。五万余戸の人家がある。南に進んで邪馬台国に達する。 ここは女王が都するところで、水路を十日行けば到着する。 もし陸路をとるなら一月かかる。 邪馬台国の官にイキマ (伊支馬) があり、次をミマト (弥馬升)、次をミマワキ (弥馬獲支)、次をナカテ (奴佳テ)といい、七万余戸の人家がある。 女王国より北にある国々については、その戸数やそこに行く道里をだいたい記載できるが、その他の周囲の国々は遠絶であるため、戸数や道里の詳細を知ることができない。


(3)女王国の境界

つぎに斯馬国 (しまこく) がある。つぎに已百支国 (いわきこく) がある。つぎに伊邪国 (いやこく) がある。つぎに都支国 (ときこく) がある。つぎに弥奴国 (みなこく) がある。つぎに好古都国 (をかだこく) がある。つぎに不呼国 (ふここく) がある。つぎに姐奴国 (さなこく) がある。つぎに対蘇国 (とすこく) がある。つぎに蘇奴国 (さがなこく) がある。つぎに呼邑国 (おぎこく) がある。つぎに華奴蘇奴国 (かなさきなこく) がある。つぎに鬼国 (きこく) がある。つぎに為吾国 (いごこく) がある。つぎに鬼奴国 (きなこく) がある。つぎに邪馬国 (やまこく) がある。つぎに躬臣国 (くじこく) がある。つぎに巴利国 (はりこく) がある。つぎに支惟国 (きくこく) がある。つぎに烏奴国 (あなこく) がある。つぎに奴国 (なこく) がある。これは、女王の境界のつきるところである。 その南に狗奴国 (くなこく) がある。 男子を王としている。 その官に狗古智卑狗 (菊池彦か?) がある。 女王に属していない。(帯方)郡から女王国にいたるのに一万二千余里ある。


(4)黥(いれずみ) 


男子は、大 (人も、身分の高い人も、またはおとなも) 小 (人も、身分の低い人も、またはこどもも) なく、みな面に黥をし、身に文をして (からだの表面に絵もようを描いて) いる。 昔から、その使者が中国にやってくるとき、みな大夫と自称している。 夏 (中国古代の王朝) の后 (王) 少康 (夏六代の王) の子は、会稽 (いまの浙江省から江蘇省にかけて会稽郡があった)(の地) に封ぜられたとき、 (人々は) 髪をきり身に文をし、もって蚊竜の害を避けた。 いま、倭の水人 (海人) は、好んで海に入って魚や蛤を採っている。 その時に、いれずみをして大魚や水禽を避けるのである。 その後、 (いれずみを) しだいに飾りとしている。 諸国では、身体にいれずみをするのに、それぞれ差異がある。 あるものは大きく、あるものは小さく、その尊卑にもそれぞれの差がある。 その (倭国への) 行路の里数を計算すると、(倭国は) まさに会稽 (郡) の東冶 (県、福建省福州付近) の東にあたることになる。


(5)風俗・髪形・衣服

その風俗は、淫(みだら)でない。 男子は、みなかぶりものをつけず、木緜(ゆう:膽こうぞの皮の繊維を糸状にしたものとみられる)を頭にまいている。 衣服は横幅衣で、ただ結んで連続させているだけで、ほとんど縫っていない。 婦人は、髪を結っているが、露出させている。 衣は夜具の布のようで、その中央に穴をあけ、そこから頭を出して着る。


(6)存在しない動物

禾稲(いね)や紵麻(からむし。イラクサ科の多年草。くきの皮から繊維をとり、糸をつくる)を植え、蚕のまゆを集めて織り、細い麻糸・絹織物・綿織物を作っている。 その地には、牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)がいない。
→ 当時、日本には牛も馬もいた事は確かですから、伝聞は間違っています。


(7)兵器

武器には、矛・楯・木弓を用いる。 木弓は下を短くし、上を長めにする。 竹の矢がらに、鉄の鏃 (やじり )、あるいは骨の鏃 (やじり) を用いる。


(8)儋耳・朱崖との類似

(産物や風俗の)有無するところ、儋耳(たんじ:郡の名。いまの広東省県の西北)・朱崖(しゅがい:郡の名。いまの広東省瓊山県の東南。この二つの郡は、ともにいまの海南島にある)とおなじである。


(9)居所・飲食・化粧

倭の地は温暖で、冬も夏も・生野菜を食する。 みな徒跣(はだし)である。 部屋はあるが、父母兄弟は寝所を別にしている。 朱丹(赤い顔料)をその身体に塗っている。 中国で粉(おしろい)を用いているようなものである。  飲食には、竹や木製の高杯(たかつき)を用い、手で食べる。


(10)葬儀

死んだときには、 (葬るのに) 棺はあるが、槨 (そとばこ) はない。 土を積み上げて塚を作る。 死んだ当初に、十余日間、もがりをする。 その時には、肉を食べない。 喪主は大声で泣き、他の人たちは、行って歌い舞い、飲酒する。 葬り終わると、家中総出で、水中に行って洗い清め、それは (中国における) 練沐 (ねりぎぬをきての水ごり) のようにする。


(11)持衰

海を渡って中国に行く場合には、いつも一人の人に、髪をとかず、しらみをしりぞけず、衣服が垢で汚れるままにし、肉を食べず、婦人を近づけず、喪に服している人のようにしておく。 それを持衰 ( じさい :衰は、粗末な喪服 ) と呼ぶ。 もし行く者が安全であれば、持衰に正口 (奴婢) や財宝を贈る。 もし病気になったり、暴風の害にあうことがあったならば、すぐにそれを殺そうとする。 その持衰が謹まなかった為と思うからである。


(12)鉱産物

( 倭国は ) 真珠と青玉 ( =ひすい? ) を産出する。その山には、丹 ( あかつち ) がある。


(13)植物  

その木には、・ ( おそらくは、たぶのき )・杼 ( こなら、または、とち )・豫樟 ( くすのき )・( ぼけ、あるいは、くさぼけ )・櫪 ( くぬぎ )・投 ( 東洋史学者の那珂通世氏は「投」を「被」の誤りとし、「杉」とする。苅住昇氏は、 「かや」とする。あるいは「松」の誤りか )・橿 ( かし。苅住昇氏は、「いちいがし」とする )・烏号 ( やまぐわ。 苅住昇氏は、「はりぐわ」に近い「かかつがゆ」とする )・楓香 ( かえで )がある。 その竹には、・篠 ( しの。 めだけ、ささの類 )・やだけ・桃支 ( がずらだけ。 苅住昇氏は、「しゅろか」とする )がある。 ・薑 ( しょうが )・橘 ( たちばな。 または、こみかん )
・椒 ( さんしょう )・みょうががあるが、賞味することをしらない。


(14)動物 

猴 ( おおざる )・黒雉 ( きじ ) がいる。
→猿は手長猿、猴 は日本猿の事。 黒雉は白雉と同じく南方産として知られる。


(15)ト占

その習俗では、行事や往来する際に、何かあれば、その度に骨を焼いて占トを行って、吉凶を判断し、あらかじめ、その結果を伝える。 その言葉は、 ( 中国の ) 命亀の法と同じである。  ひびを視て、兆候を占うのである。


(16)集会・立ち振る舞い

集会や立ち振る舞いのときには、父子男女の区別はない。 人々は本性として酒が好きである。 【 魏略には次のようにある。 その人々は、正月や季節を知らず、ただ春の耕作や秋の収穫を目安にして年紀にしている。 】 首長や尊敬すべき人に会えば、ただ拍手するだけで、跪いて拝礼するかわりにしている。
→ 神社での拍手に通ずるものがあるように思います。
→ 米と酒と鳥と貝
  http://homepage2.nifty.com/amanokuni/sake-tori-kai.htm 


(17)寿命

その人々は長寿で、百歳のことも、また八十・九十歳になることもある。  



(18)婚姻形態

その習俗では、国の大人(首長)たちはみな四・五人の妻を持つ。  下戸(一般の民)でもニ・三人の妻を持つものがいる。 婦人は淫せず嫉妬することもない。 盗みをせず、訴訟も少ない。 法を犯すものがいると、軽い場合にはその妻子を没収し ( て奴婢とし ) 、重い場合にはその家族や一族全員の家・家柄を滅ぼし、親族にまで罪を及ぼす。
尊卑にはそれぞれ序列があり、たがいによく服従する。


(19)一大率

租税や賦を徴収し、それを納めておく倉庫がある。 国々には市があり、そこにとれるものやとれないものを交易している。 大倭にそれを監督させている。 女王国より以北には、特に一大率 ( ひとりの身分の高い統率者 ) を置いて、諸国を検察させている。 諸国は諸国はこれを畏れ憚っている。 一大率は、いつも伊都国を治所にしている。 国の中で、中国の刺史のような役割をしている。 王が使者を京都 ( 魏の都洛陽 )・帯方郡・諸韓国に派遣したり、または郡から倭国に使者が派遣されたときに、いつも港に出向いて捜査し、文書を ( 魏・帯方郡・諸韓国など )に伝送したり、賜り物を女王のもとに届けるのに間違いがない ( 不足やくいちがいがない )ようにした。


(20)下戸と大人

下戸が、大人 ( 身分の高い人 ) と道路で会ったときは、後ずさりして逡巡 ( ためら ) いながら草 ( 叢 ) の中に入る。 言葉を伝えたらり、説明するときには、うずくまったり、ひざまづいたりして、両手は地面について、恭敬の意を示す。 答えるときには、 「 噫 ( あい ) 」 という。 中国で、 「 然諾 」 ( わかりました ) というのと同じである。


(21)倭国大乱

その国も、もとは男子を王としていた。  そうした状態が七、八十年続いた後、倭国が乱れ、お互いに攻撃しあうようになり、何年か過ぎた。 そこで ( 諸国 ) は共同して一人の女子を立てて王にした。 その名は卑弥呼 ( ひめみこの音を写したとみられる ) という。 鬼道を祀る事をなりわいとし、人々を惑わせる能力があった。 既に大きく年をとっていたが、夫はいなかった。 ただ弟がいて、国を治めるのを助けた。 王になってから、 ( 卑弥呼に ) 会った者はほとんどいなかった。 侍女千人をはべらせていた。 男子はただ一人だけいて、飲食物を運んだり、言葉を伝えたりするために、居処に出入りすることがあった。 宮室・楼観は、城壁や木柵で厳重にしており、常に武器をもって守る者がいた。


(22)女王国周辺

女王国の東には、海を渡って千余里行くと、また国があった。 それらもみな、倭の種族であった。 また侏儒 ( こびと ) の国が、その南にあり、人々の身長は三・四尺である。 女王国から四千余里離れたところにある。 さらには東南には裸国 ( はだかの人の国 ) ・黒歯国 ( お歯黒の人の国 ) があり、船で航行すると一年で到達する事が出来る。 倭の地を詳しく調べ、たずねれば、大海の中に離れた洲島にあり、離れたり連なったりしている。  ぐるっと回れば、およそ五千里ほどである。


(23)女王国周辺 景初二(三)年の朝献

景初 ( 魏の明帝の年号 ) ニ ( 三 ) 年 ( 238年であるが、じっさいは景初3年、239年の誤りとみられる )六月、倭の女王は、太夫の難升米 ( なしめ ) らを帯方郡に派遣し、天子のもとに行って朝貢したいと要請した。 太守 ( ここでは帯方郡の長官 ) の劉夏は、役人を派遣し、京都 ( 洛陽 ) まで送らせた。


(24)魏の皇帝の詔書

その年の十二月、詔書をもって、倭の女王に報じて曰く、「  親魏倭王 ( しんぎわおう ) 卑弥呼に制詔 ( みことのり ) する。 帯方 ( 郡 ) の太守劉夏は、使者を派遣し、汝の大夫難升米 ( なしめ )・次使都市牛利 ( としごり ) をおくり、汝が献ずるところの男生口 ( どれい ) 四人・女生口六人・班布二匹二丈をもたらしてきた。 汝の住んでいるところは、はるかに遠いところにも関わらず、使者を派遣して朝貢してきたのは、まさに汝の忠孝を示すものである。 我れは、はなはだ汝を哀れむ ( いつくしむ )。 今、汝を親魏倭王となし、金印紫綬 ( むらさきのくみひも ) を仮り与えよう。 それを封印して、帯方太守に託し、汝に仮授する。 種族の人たちを案じて、孝順につとめるようにせよ。 汝の贈ってきた難升米・ ( 都市 ) 牛利は、遠くを旅してきて途中におおいに苦労した。 今、難升米を率善中郎将 ( 宮城護衛の武官の長 )とし、牛利を率善校尉 ( 軍事や皇帝の護衛をつかさどる官 ) として、銀印青綬を仮授し、 ( 魏の天子が ) 引見してねぎらい、下賜品を与えた上で、送らせよう。 いま、絳地 ( あつぎぬ )の交竜錦 ( 二頭の竜を配した錦の織物 ) 五匹・絳地の粟 ( すうぞくけい:ちぢみ毛織物 )十張・絳 ( せんこう:あかね色のつむぎ ) 五十匹・紺青( 紺青色の織物 ) 五十匹を汝が献上した貢物に対する下賜品として与えよう。 さらに、汝には特別に、紺地句文錦 ( くもんきん:紺色の地に区ぎりもようのついた錦の織物 ) 三匹・細班華 ( さいはんかけい:こまかい花もようを斑らにあらわした毛織物 ) 五張・白絹 ( もようのない白い絹織物 ) 五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹 ( 黄赤色をしており、顔料として用いる ) おのおの五十斤を下賜しよう。 みな装封して、難升米・牛利に 託そう。 還り着いたならば、記録して受け取り、すべてを汝の国の人々に示し、中国が、汝をあわれんでいるのを知らしめよ。
そのために、 ( われは ) 鄭重に汝に好い品物を賜う ( 与える ) のである。 」


(25)正始元年の郡使来倭

正始元年 ( 240 ) には、 ( 帯方郡の ) 太守の弓遵が、建中校尉 ( 武官の名称 ) の梯儁 ( ていしゅん ) らを派遣し、詔書・印綬を捧げもって倭国に到着し、倭王に授与し、
あわせて詔書をもたらして、金・帛 ( しろぎぬ ) ・錦・ ( 毛織物 ) ・刀・鏡・采物 ( 色どりの美しいもの ) を下賜たまわった。 そこで倭王は、使者を送り、上表して、詔に感謝した。
→ 正始 = 魏の斉王芳の年号


(26)正始四年の上献

その四年 ( 正始四、243 )、倭王は、また使の大夫の伊声耆 ( いしぎ ) ・掖邪狗 ( ややこ ) など八人をつかわし、生口・倭錦・絳青 ( こうせいけん:あかとあおのまじった絹織物 ) ・緜衣 ( 綿いれ ) ・帛布 ( しろぎぬ ) ・丹・木 ( もくふ:ゆづか、弓柄で、弓の中央の手にとるところ ) ・短弓と矢を上献した。 掖邪狗などは、壱く ( いっせいに ) 、率善中郎将の印授を受け取った。


(27)正始六年難升米に黄憧

其の六年 ( 正始六、245 ) 、詔して倭の難升米に黄幢 ( 黄色いはた。高官の象徴 ) を下賜し、 ( 帯方 ) 郡に託して ( ことづけして ) 仮授させた。


(28)卑弥呼と卑弥弓呼との不和 

その八年 ( 正始八、247 )、 ( 帯方郡の ) 太守王斤頁 ( おうき ) が、着任した。
倭の女王、卑弥呼は狗奴国の男王卑弥弓呼は、以前から不和であった。 倭国では、載斯 ( さし ) ・烏越 ( あお ) などを帯方郡に派遣し、互いに攻撃しあっている状況を説明した。 そこで、帯方郡は、塞曹掾史の張政らを派遣し、詔書・黄憧を持参して、難升米に授与するとともに、檄 ( 諭告する文書 ) をつくって、 ( 攻めあうことのないよう) 告諭させた。
→卑弥弓呼は、卑弓弥呼の誤りで、ヒコミコ( =彦命 )とする説が有力。  卑弥呼はヒメミコ? ( =媛命 )
→塞曹はあまり 「みられない役職であるが、「塞 ( とりで ) 」 に関わる辺境防衛の役職 と推測される。


(29)卑弥呼の死

卑弥呼が死んだ。 そこで、大きな塚をつくった。 直径が百余歩あった。 奴婢百余人が殉葬された。
→ 一歩は144cm、すなわち百歩は144m。 径百余歩とは、直径が150mほどある事を示す。 箸墓古墳の後円部第一段の直径は156m。


(30)女王台与

あらためて男王を立てたが、国内の人々が服従しなかった。 たがいに殺しあう事が続いた。 その時、殺されたものが千人余りいた。 そこで、卑弥呼の宗女の年が十三になる 壹與 ( 台与 ) を立てて王としたところ、国中がようやく治まった。


(31)台与の朝献

張政らは激文を発し、台与に告諭を与えた。 それにこたえて、台与は倭の大夫率善中郎将掖邪狗ら二十人を派遣し、張政等が帰国するのを送らせた。 ついで掖邪狗らは洛陽に行き、男女の奴隷三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢ぎものとした。
→ 白珠は真珠、青大勾珠は青いガラス玉もしくは勾玉、異文雑錦は異なったいろいろな彩色をもつまだら文様の錦の織物。


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