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2011/11/27

邪馬台国と卑弥呼-173  箸墓伝説   邪馬台国と卑弥呼
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三輪山と大神神社

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能 「三輪」


崇神紀十年の条に、孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)は大物主神の妻となるが、大物主の本体が蛇であることを知って驚き、倒れこみ、箸が陰部に刺さって死んだという、箸墓伝説が記されています。

箸墓古墳は、彼女の墓と伝わっており、従来は箸墓古墳の築造年代は3世紀末〜4世紀初頭とされ、卑弥呼の時代と合わないとされていましたが、最近、年輪年代学や放射性炭素年代測定による科学的年代推定により、卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半である事が分かり、卑弥呼の墓の最有力とされています。

また、この箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160メートルであり、「魏志倭人伝」の「卑弥呼死去 卑弥呼以死 大作冢 徑百余歩」と言う記述とも一致。



「漢書」地理誌によれば、紀元前1世紀頃の日本は「分かれて百余国を為す」とし、「後漢所」東夷伝には2世紀後半に「倭国大乱」があったと記されており、

実際に、「吉野ヶ里」遺跡にも見られるような環濠集落や、瀬戸内地方に高地性集落があり、防衛を意図した集落が発見されています。



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吉野ヶ里 遺跡
佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵に、およそ50ヘクタールにわたって遺構が残る、弥生時代の大規模な環濠集落跡



3世紀初頭に突然、箸墓古墳を初め、纒向に巨大な前方後円墳が出現し環濠集落や高地性集落は姿を消します。 戦争の途中では、悠長にこのような巨大古墳をつくる余裕はなかったと思われますので、3世紀初頭に大和朝廷のさきがけとなる邪馬台国が現れたのは、従来の歴史観と矛盾するものではありません。



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箸墓古墳 奈良県桜井市箸中
ヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)の墓として宮内庁管理
全長282m、後円部径157m、高さ22m、前方部幅125m、高さ13m



中国の史書では、邪馬台国は卑弥呼が治める女王国であり、倭国連合の都があったとされており、連合国家をまとめる手法として、女性シャーマンを使うのは、古代ギリシア時代から知られています。 

これは、男性権力者達の意見は、何を言ってもても反対勢力がいるので、既に優秀な官僚、もしくは権力者が既に答えをもっていても、恍惚状態の女性シャーマンに、どちらにもとれる神のお告げを言わせ、解読と称して、神のお告げとして決定させてゆくものです。


邪馬台国と卑弥呼-78  デルフォイの神託と卑弥呼
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1331.html


しかしながら、日本国の正史である日本書紀に、箸が陰部に刺さって死んだという、箸墓伝説は、あまりにも品がなく、戴けたものではありません。

私の意見は、これは超一流の文学的表現で、本当に起こった事実を、何がしかの理由で、直接、記紀神話に記す事ができなかったものであると思います。


具体的にいえば、天皇家の倭迹迹日百襲媛命は、三輪山に鎮座する出雲系の大物主神と政略結婚を行い、連合国家をまとめようとしたが、出雲系勢力が強すぎ、連合国家に支障をきたすことになったため、倭迹迹日百襲媛命は自ら箸で陰部を刺し、出雲系勢力の赤ちゃんを堕胎、そのときに死に至ってしまったと解釈できないでしょうか。


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