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2008/7/6

フリーメーソン-122  日本とフリーメーソン-6  フリーメーソン

坂本龍馬は、幕末混乱期に彗星のごとく現れ、犬猿の仲であった長州藩と薩摩藩を同盟関係に導き、商社の亀山社中(後の海援隊)を設立し、欧米製の武器を維新軍に提供し、明治維新を成功させた功労者でありますが、その背後には常にフリーメーソンのグラバーの影がつきまとっていました。

脱藩浪人の身分であった坂本龍馬が、何故に徳川、また長州、薩摩の大名クラスと、話をする事が出来たのか? さらに、脱藩浪人の身分の龍馬に、仲良くしなさいと言われて、薩長の大名が、 「 はいそうですか 」 となるほど、江戸時代の封建制度は甘くありません。

それは、徳川、薩長ともにヨーロッパからの武器を求めていて、坂本龍馬がその武器を扱う商社の亀山社中(後の海援隊)から、彼らに武器を売っていたからであり、その背後にはイギリス政府、ロスチャイルド、ジャーディン・マセソン商会、グラバー商会がありました。

それでは、何故グラバーは直接薩長と武器取引をしなかったのか? それは、ダミー会社として、坂本龍馬の亀山社中(後の海援隊)を使う必要があったからで、彼が暗殺された背景にも、この武器取引に関してのトラブルがあったからなのです。 これについては、今から説明してゆきたいと思います。

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2008/7/5

フリーメーソン-121  日本とフリーメーソン-5  フリーメーソン

幕府の大老井伊直弼・老中間部詮勝らが、その施策「日米修好通商条約への調印および徳川家茂の将軍職継承」への反対派を大弾圧した事件を 「安政の大獄」 といいますが、1858-1859年に起こった事件で、「安政の大獄」は、井伊直弼が1860年3月の桜田門外の変で暗殺された事により収束します。  

ちょうどその頃、スコットランド生まれの一青年トーマス・グラバーが、長崎にやってきました。  グラバーは、19歳の時にビジネスチャンスを求めて上海に行き、ジャーディン・マセソン商会に入社、そして幕末の動乱の日本に興味を持ち、1859年(安政6年)9月19日に長崎に到着、21歳の時でありました。

このグラバーは、スコットランド系のフリーメーソンでありましたが、この若い青年が、日本を大きく変えて行く事になります。

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2008/7/5

フリーメーソン-120  日本とフリーメーソン-4  フリーメーソン

1853年(嘉永6年)7月8日、旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて、東インド艦隊司令長官で、筋金入りのフリーメーソンである、マシュー・ペリーが、フィルモア大統領の親書を携え、浦賀沖に来航し、開港を迫りました。


フリーメーソン-27  黒船襲来
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/619.html


彼が所属していたロッジは、ニューヨークの 「ホーランドNo.8」 であります。  フリーメーソンにとっては、定期的な儀式は欠かすことが出来ないため、英米の軍艦にはロッジがつくられており、いうまでもなく、黒船にもロッジがありました。

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2008/7/5

フリーメーソン-119  日本とフリーメーソン-3  フリーメーソン

1840年、イギリスが阿片戦争で中国を侵略した時、阿片ビジネスで、その中心的な役割を果たしたのが、ロスチャイルドと縁戚関係にある、フリーメーソンのサッスーン財閥と、ジャーディン・マセソン商会であります。 そして、今日イギリス最大の銀行であるHSBC(香港上海銀行)は、この阿片ビジネスで莫大な富を得たフリーメーソンの彼らや、ロスチャイルドののお金を取り扱う金融機関が必要となり、英国王室の後ろ盾により、王立直轄植民地協会によって設立されたものであります。


フリーメーソン-29  サッスーン財閥
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/621.html
フリーメーソン-30  ジャーディン・マセソン商会
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/622.html
フリーメーソン-3  香港上海銀行
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/593.html
フリーメーソン-2  中国進出
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/592.html


日本の明治維新は、このジャーディン・マセソン商会の上海支店から、グラバー商会を通じて、さらに坂本龍馬の亀山社中(後の海援隊)を通して、薩長が武器を購入して、成し遂げられたものです。  尊皇攘夷で、外人を成敗しろ、と言っていた維新軍が、維新成立後に、何故欧米に擦り寄ったか、この事実一つとってみても分かるわけです。

明治維新のヒーローたちは、尊皇攘夷ではなく、当時フリーメーソンであった欧米人達と接触し、彼らに背後から操られていたのです。 何故、上海で欧米製の武器が取引されていたかと言えば、アメリカの南北戦争が1865年に終わり、その武器が在庫となり、武器商人達も困っていたため、それらの武器が上海に流れ込んでいたのです。 そして、1868年に徳川幕府と明治新政府が衝突する戊辰戦争が勃発したのです。


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2008/7/4

フリーメーソン-118  日本とフリーメーソン-2  フリーメーソン

日本の江戸時代、フリーメーソンがイギリスからフランスに伝わった後、急速にヨーロッパ諸国に、ロッジが拡がってゆきました。  

ドイツに最初のロッジが創設されたのは1737年で、ハンブルグ、マンハイム、ライプツィッヒ、フランクフルトに拡がってゆきましたが、ドイツに伝わったときのフリーメーソンの理解は既にフランスに伝わった後だったので、ほぼ啓蒙主義と同義のものと考えられています。

当時、ドイツ啓蒙専制君主のフリードリッヒ2世(大王)が1783年にブラウンシュバイクでフリーメーソンに加入し、彼は1744年にグランドロッジ 「3つの地球」 を創設しています。


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2008/7/2

フリーメーソン-117  日本とフリーメーソン-1  フリーメーソン

記録上の最初のフリ-メーソンは、オックスフォード大学にアシュモール博物館を寄贈した17世紀の古代文化史家エリアス・アシュモールで、彼は1646年10月16日の日記に、ランカシャーのウェリントンで、フリーメーソンに加入した事を記しています。

イギリスの近代フリーメーソンの歴史は、1717年に始まり、当時の代表的な新聞 「タトラー」 が1709年6月に、独自の合図と符丁で相手を確かめるフリーメーソンについて、言及しています。

当時のフリーメーソンの活動は、共通の趣味・関心をもつ男性が、社交・娯楽・飲食を目的として、居酒屋に集まるクラブのようなものでした。 1717年6月24日(聖ヨハネの日)にロンドンにあった四つの居酒屋(ロッジ)が統合し、グランドロッジを結成しました。 この時、統合された居酒屋は、「アップル・トゥリー」、「クラウン」、「ラマー・アンド・グレイブズ」、「グース・アンド・グリドリアン」で、初代グランド・マスターに選ばれたのは、アンソニー・セイヤーであります。

そして、この団体はまたたく間にヨーロッパ中に広がり、フランスでは1725年にパリで初めてのロッジが設立され、1773年にはグランドロッジの廃止とグラントリアン(大東社)の創設が決定されました。

グラントリアン(大東社)の創設は、イギリスのフリーメーソンからの独立を目指したもので、イギリスのグランドロッジが、神の存在と魂の不滅製を前提としていたのに対し、グラントリアンはその前提を否定し、急進的な無神論結社となってゆきました。

オリアン(東)は太陽の昇方向としての「光」を意味し、「フランスを導く偉大な光」という期待をこめて名づけられたものです。

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2008/7/1

フリーメーソン-116  東久邇宮 稔彦王 殿下  フリーメーソン
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東久邇宮 稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)殿下 (1887-1990)


東久邇宮殿下は、第43代内閣総理大臣(在任:1945年8月17日-1945年10月9日)で、最初で最後の、皇族内閣を組閣した人物です。

この背景には、日本の降伏に納得しない陸軍の武装を解き、ポツダム宣言に基づく終戦にともなう手続を円滑に進めるためには、皇族であり陸軍大将でもある東久邇宮がふさわしいと考えられたためで、昭和天皇もこれを了承したのです。

フリーメーソンのマッカーサー司令官は、日本にフリーメーソンを普及させるために、先ずは皇族、日本の指導者、そして天皇陛下をフリーメーソンにする野望を持っていました。  そして、英国のフリーメーソンであった宮中の松平恒雄伯爵(宮内大臣、衆院議長、元駐英大使)と幣原喜重郎男爵(元首相、元駐英大使)に接触し、東久邇宮殿下をフリーメーソンにする事に成功しました。


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