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2008/12/31

エラスムス  国際政治・金融・企業
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デジデリウス・エラスムス ( Desiderius Erasmus, 1467 - 1536 )


ご存知、ネーデルランド(オランダ)のロッテルダム出身の神学者・人文学者のエラスムスは、ギリシア語新約聖書の編纂を成し遂げた事で有名ですが、「キリストの哲学」(Philosophia Christi) という言葉にあらわされるエラスムスの思想は、当時、聖職者と信者の間の格差が広がり、知識重視とに走っていた当時の神学に対し、聖書を本来の姿に近づけ、聖書を学んでキリストを知り、キリストにならうというものでした。



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2008/12/28

フィンセント・ファン・ゴッホ  国際政治・金融・企業
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Vincent van Gogh ( 1853 - 1890 )


17世紀はオランダの黄金時代でありましたが、イギリスとフランスの嫉妬を買い、彼らとの長い戦争により、徐々に国力は衰えてゆきました。  ゴッホ家も、17世紀には一族から大蔵大臣を輩出しましたが、18世紀になると国家の衰退にあわせるかのようにゴッホ家も力が無くなり、彫金職人や牧師になる人が多くなってゆきます。 ゴッホの祖父に、同じ名前のフィンセント(1789-1874)というすぐれた聖職者がおり、一般には狂人とされているゴッホですが、実は彼は祖父の影響を大きく受けた敬虔なキリスト教徒で、その生き様は意外に思われるかもしれませんが、限りなくイエスキリストに近いものがあります。  

ゴッホの父は 「優男(やさおとこ)の牧師さん」 とからかわれるハンサムな人で、結婚後に最初にもうけた子供に祖父にあやかるようにと、フィンセントと名づけました。 キレイな顔をしたいい赤ちゃんでしたが、1852年に生まれてすぐに亡くなり、初めての子供であったということからも、両親の心から離れることはありませんでした。 その翌年に生まれたのが画家のゴッホで、両親の期待をこめられた同じ名前がつけられました。

画家ゴッホは母親似で醜く、母親は死児を思い比べて、画家ゴッホを疎んじ、画家ゴッホは墓の中にいる理想化されたフィンセントと比較され、現実にいるフィンセントはおよそ反対のつまらぬ人間であると自分自身思わざるを得なかったと、甥のV・W・ファン・ゴッホ博士も認めています。

死児に対する母親自身の罪悪感は、次に生まれてきた子供に転化され、次に生まれた子供フィンセントは、生まれながらに罪を背負った者となりました。 心が美しく純粋なフィンセントは、幼心につぎのような事を学びました。 

「 死んでいることは愛されいつくしまれることを意味し、一方、生きていることは顧みられないことを意味する 」

画家ゴッホは正規の教育を受けさせてもらえず、画家になろうと決意し、実行するのは27歳になってからでありました。 信じられないかも知れませんが、後に天才と賞賛されるゴッホは、ベルギーの王立美術学校に通っていたとき、あまりに純真でストレートな彼の絵は理解されるどころか、馬鹿扱いを受け、わずか一ケ月で落第させられてしまいます。 いうまでもなく彼は早々と美術学校を去る事になります。

あまりに美しく純真な心を持つフィンセントゴッホは、聖職者の家系からも俗人とは考え方が全く異なっており、イエスキリストと聖書の影響、また自分と同じ名前を持ち両親に愛されつづける亡兄へのコンプレックスが複雑に絡み合い、いっそう俗世間から遊離しますが、彼の場合は厭世や悲観的なものでなく聖書的といってもよく、聖職者のように毅然とした彼の画はよりいっそう純粋化し、力強さを増し、荘厳さまでも感じられる宗教的なものに昇華していったのです。

フィンセント・ファン・ゴッホは、イエス・キリストと同じように、生前評価されない不遇ではあるものの、後に何百年たっても世界の人々に愛される存在となってゆきました。



オランダ vs イギリス  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/830.html


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2008/12/27

オランダ vs イギリス  国際政治・金融・企業
世界で初めて 「株式会社」 を発明し、世界の富をわしづかみにするオランダに対し、イギリスは大きな劣等感と嫉妬を抱くようになります。 当時のイギリスは、まだ大海軍も大商船隊ももっておらず、東インド会社をつくったものの、オランダの東インド会社に比べて、マーケッティング力もなく無能集団に等しく、売上/利益ともに圧倒的な差をつけられ、艦船の保有量もオランダに比べてうんと少なく、完全な後進国であったのです。 また、海外との貿易で国際化したオランダに対し、イギリスでは泥臭い郷土愛が芽生え始め、エリザベス1世の時代から、金銀財宝を積んだスペイン船を襲撃する海賊行為を国家が認め、この無法ともいえる野蛮さを武器に、スペイン無敵艦隊を破ったイギリスは腕力には自信を持ち始めていた為、ともかくイギリスでは 「 オランダをやっつけてしまえ 」 という理不尽な土着感情が爆発してしまいました。

エリザベス1世
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/820.html
スペイン無敵艦隊の敗北 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/823.html
オランダ東インド会社
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/826.html

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2008/12/24

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Pontifical Musical Chorus of the Sistine Chapel of Vatican
http://www.vatican.va/news_services/liturgy/cap-mus-sistina/documents/index_inni_en.htm#Easter
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2008/12/23

フリーメーソンのオランダ商館長  国際政治・金融・企業
1779年〜1784年の間に3度来日し、長崎のオランダ商館長を務めた、親日派のオランダ人のイサーク・ティチング(Issac Titsingh)から、当時の日本人は多くの事を学びました。  イサーク・ティチングは日本に初めてやってきたフリーメーソンであります。


フリーメーソン-154 フリーメーソンとは何か-29 (初めてのフリーメーソン来日)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/748.html#readmore
フリーメーソンとは何か  まとめ  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/770.html#readmore
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2008/12/22

オランダの企業  国際政治・金融・企業
オランダ東インド会社という、世界で初めての株式会社を発明したヨーロッパの小国に過ぎなかったオランダは、世界の富をわしづかみにするような力を持ち始めました。

現在でも、わずか1600万人ほどしかいない人口の割りに、世界に冠たるオランダの企業が多くあります。
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2008/12/20

オランダ東インド会社  国際政治・金融・企業
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オランダ東インド会社 アムステルダム本社


オランダ東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie)は、1602年3月20日にオランダで設立された世界で初めての株式会社です。 その頭文字をVOCを組み合わせた社章はあらゆる場所や器物にも刻印されました。  1598年にロッテルダムを出航し、1600年に奇跡的に日本に漂着したデ・リーフデ号のウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステンが徳川家康の目にとまり、日本とオランダの貿易が始まった事から、オランダ東インド会社は早々と日本を市場として取り入れることに成功し、さい先の良いスタートを切ることが出来ました。 発足したばかりのオランダ東インド会社の日本駐在員になったのが、ヤン・ヨーステンで、東京駅八重洲口の八重洲は、彼の屋敷があったところで、彼の名前がなまってつけられたものであります。

デ・リーフデ号 (慈愛号)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/825.html#readmore

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2008/12/13

デ・リーフデ号 (慈愛号)  国際政治・金融・企業
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デ・リーフデ号とオランダ人と長崎出島

日本とオランダの交流は、1600年4月19日、豊後(現在の大分県)臼杵湾にオランダ船デ・リーフデ号が漂着したことに始まり、オランダは、鎖国時代に長崎の出島で通商を許可された唯一のヨーロッパの国として、日本と世界をつなぐ架け橋となり、日本は医学や工学など、様々なヨーロッパの最先端技術や文化を学び、また日本が世界に紹介されました。


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2008/12/8

ピグリム ファーザーズ  国際政治・金融・企業
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The Mayflower (メイフラワー号)


16世紀のヨーロッパは宗教改革の時代で、新旧の教徒が激しくもみあい、イングランドではヘンリー8世がローマカトリックと縁を切り、オランダはスペインから独立し、カトリックからの自由を得ることになりました。  新教徒 (プロテスタント) と言っても、初期の頃は教義の面で新旧があいまいであった為、カトリックからもプロテスタントからも評判はかんばしくありませんでした。 「もっと、純粋化 (ピューリファイ) して、はっきりせんかい!」  と叫んだ人々が清教徒 (ピューリタン) と呼ばれ、イングランド国教会に絶望しきった人々は、これと縁切りするということで分離派 (セパラティス) と呼ばれ、清教徒のなかでも、教義に対して厳しい人たちでありました。


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2008/12/7

スペイン無敵艦隊の敗北  国際政治・金融・企業
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アルマダの海戦


エリザベス1世が即位した頃は、イングランドは借金地獄に陥っており、王室の領地まで切り売りしなければならない有様でした。  そこで、エリザベス1世は、他国の財産を横取りしても許されるという滅茶苦茶な免許(私掠免許)を海賊達に与え、金銀財宝を積んだスペイン船を襲撃・略奪させ、その利益の一部を王室に納めさせていました。  これが後に、イギリスの海外侵略の原動力となり、大英帝国の基礎を築きあげることになります。

この時、私掠免許を貰って活躍した有名な海賊がドレーク船長で、彼がスペイン船から略奪した戦利品の額は、イングランドの国家予算に匹敵するものでありました。 

アルマダの海戦は、1588年にスペイン無敵艦隊と、イギリス艦隊の間で起こった武力衝突ですが、この原因はスペインが植民地から自国に物資を移送する途中で、何度も英国の海賊に襲われたため、イングランドの女王エリザベス1世に海賊船を取り締まるよう申し入れましたが、上述の如く、エリザベス1世は聞き入れるどころか海賊行為に加担していた事、またスペインを支配下においていたハプスブルグ家の覇権を、イギリス・オランダ・フランスなどが手を組み、崩そうとしていた事、さらにはカトリックvsプロテスタントの宗教戦争の一面もあります。


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